今日は都筑のせせらぎ公園と大塚・歳勝土遺跡公園の古民家に展示された飾り雛を見に行った。
去年は開成町の古民家瀬戸屋敷のつるし雛を見に行ったが、今年は近場で。
さすがに開成町のには及ばないが、それでも古民家に飾られて雛人形とつるし雛は季節を感じさせてくれた。
ミツマタやサンシュユの花が咲いていた。コブシや雪柳も一部咲き始めていた。
ひな祭りというと、
けふあるともてはやしけり雛(ひひな)迄
月のくれまで汲む桃の酒 宗房
というまだ伊賀にいた頃の若き芭蕉の句も思い浮かぶ。かつては仙人の食べる不老不死の桃の実にあやかって、桃を浸した酒を飲んだのだろう。
今日は桃の酒ではなく、センター北でクラフトビールを飲んで帰った。
それでは子規論の続き。
明治十八年頃から盛んに俳句を作り続けてきた子規は、明治二十五年頃になると、行き詰まりを感じるようになる。もっとも子規が貞門や化政調を真似ていたのはごく初期の段階で、この頃は蕪村などの天明調の模倣を行なっていた。この頃の子規の句はというと、
山々は萌黄浅黄やほととぎす
猿ひきを猿のなぶるや秋のくれ
雲助の睾丸黒き榾火哉
谷底に樵夫の動く桜かな
白牡丹ある夜の月に崩れけり
乞食の葬礼見たり秋の暮
神に灯を上げて戻れば鹿の声
汽車道の一すぢ長し冬木立
といったものだった。こうした句がいいか悪いかは人それぞれ意見の分かれる所であろう。むしろ問題なのは、子規自身、蕪村の思い描いていた小国寡民の桃源郷や天道思想にどの程度共鳴していたかである。いわば、樵夫の住む山奥で桜を見る生活を本当に子規自身求めていたのだろうか。鹿の声に天地自然の神妙な声を聞きたかったのだろうか。もしそれが心底表現したかった世界だったなら、何の問題もなかったはずである。
しかし、たとえば子規は明治二十二年の『道徳の標準』という文章で、
「余は固よりスケプチックなり。余は道徳の標準(絶対的の)を見出すまでは到底総てに疑を存せざるを得ず、しかし余は進んでその標準を発見せんと企つる者故、その時までは今のままに曖昧にくらすつもりなり。余らの如く疑の中に世を送るよりは、むしろ半分は感情をまじへても何か一つの主義を信じたる方が幸福多きやもはかられねど、余はどうしても信ずることが出来ぬなり。」
と言っている。旧制高校時代に自由民権運動に熱中し、当時としては先端を行く西洋の学問を身につけた子規が、蕪村の描き出す甘い夢の世界に没頭できるはずがなかった。むしろよ拠り所とする精神文化を見失ってしまったことが、子規以後長い間我が国の知識人を悩ませていた問題だったとすれば、いくら天明調を忠実に再現しても共鳴する人もなければ、自分自身後でふり返ってもやはり「こんなはずではなかった」ということになる。
子規はあまりに近代化・西洋化の思想に感化されすぎていた。同時代でも旧派の師匠たちは、まだこうした古い時代との間に感覚的な連続性を保持していたかもしれない。
もちろん江戸時代といっても二百五十年以上も続いたため、初期と末期ではかなり長い時間の経過があり、生活も大きく変わったし、清の時代の中国文化の流入もオランダからの西洋文化の流入もあり、特に十八世紀の後半ぐらいから世界観も大きく変わっていった。幕末の頃には既に蕉門の俳諧はもとより蕪村などの明和・天明の俳諧も理解が困難になっていたのではないかと思われる。まして、彼らとて開国や明治維新によって生じた生活の変化の影響を受けなかったはずはなかろう。
明治初期の月並調というのは、既に旧派の俳諧そのものが芭蕉や蕪村の時代と遠く隔たり、その本来の精神を再現することが困難になった中で、発展の方向性を見失っていたことによるのではないかと思われる。
これに対して子規の場合、それがよかったか悪かったかは別としても西洋化という明確な方向性を持っていた。古池の句をスペンサーのminor imageで解釈しようとしたのもその一端だったし、最初は蕉門の権威に反発してそのアンチテーゼとして蕪村を持ち上げてみたものの、蕪村にも近代性を見出すのは困難だったのは確かだろう。
俳諧の精神の喪失というのは、たとえばかつて芭蕉の時代に多くの人が共有できた隠喩の世界、つまり花といえば単なる植物の花ではなく花の心を表し、月といっても単なる天体現象ではなくて付きの心を持っていた。その隠喩の世界を共有することで「夷狄を出で、鳥獣を離れて」という意識を共有できた。
月花に限らず、四季折々の花鳥風月は単なる自然現象ではなくそれ自体がメタファーの体系であり、それは生活の中に溶け込み、コード化されていた。月を見ても心は月にあらず、月という現象(色相)を超えて空を見つめていた。そして、その精神世界の共有こそが本意本情と呼ばれるものだった。
しかし、時代が変わると共有していたはずの世界はすっかり形骸化し、いつの間にか生活とかけ離れたものとなっていった。明治の近代化はそれまでの伝統的な世界を危機に落とし入れ、それが風流の道全体の衰退を運命付けていた。
子規が思いついたのは、こうした古いメタファーを新しい理想のもとに再編することではなかった。むしろメタファーそのものを消去し、単純に物理的世界の描写に向かうことだった。写生説はこれまでの一切の花鳥風月に託された伝統的メタファーを切り捨てることから始まった。
ここに旧派と子規の俳句革新とは決定的に違う方向に進むことになった。もしこの頃に旧派の中に西洋の哲学を学びつつも伝統的な価値観と融合させてゆくだけの力のある者がいたなら、旧派と新派の断絶は生じなかったかもしれない。しかし残念ながら旧派からの真の改革者は現れなかった。
明治二十五年頃、子規は小説『月の都』を書き上げている。この小説は幸田露伴に酷評され、すぐには日の目を見ることはなく、後に発表された時もさして評判にはならなかった。また、このころ子規は新体詩の創作も試みているし、さらに俳句を十二ヶ月並べて一組とした連作も盛んに作っている。その一方で、俳句の十七文字の組み合わせには数限りがあって、良い組み合わせはもうとっくに出つくし、明治の終わり頃には、もう新しい句は一句も生まれないのではないかと考えるようになっていた。おそらく、この頃はまだ、月並の原因が俳句の形式にあると考え、そのため他の形式を実験しようとしていたのであろう。
明治二十七年は、日清戦争の始まった年だった。このころ子規は一つの転機をむかえたようだ。子規は清国にいた弟子の瓢亭に「小生の哲学はわずかに半紙三枚なり」と言って、次のような手紙を送っている。
(一)我あり (命名)我を主観と名く。
(命名)主観ありとするものを自覚と名く。
そして、「此我と云ふは言ふに言はれぬものなり世間の我といふ意味と思ふ可らず。」と説明している。
「我」が世間の我ではない以上、単に世間の中の一人として自分を自覚することを言うのではない。主観自身が自らを「あり」とすることであり、世間の我よりも大きな超越的主観の自己限定でなくてはならない。この事は、明治二十九年の『松蘿玉液』の次の文で、より詳しく書かれている。
「宇宙はわれにあり、方丈の中に八万四千の大衆を容れて息の出来ぬほど窮屈にもあらず。まだ八万由旬の蓮台も仏もはひるべき余地あり。さりとて入れ物が大きくなりたるにはあらではひる物が小さくなりたらんかし。一たびわが頭脳中に縮めたる宇宙の頭脳の外に投げ出せば宇宙はふたたび無量際にまでひろがりぬ。さてやわが頭脳を取りてこの宇宙に置けばこれはまた頭脳の小ささよ。おもしろきものは相対なり煩悩なり、つまらぬものは絶対なり悟りなり。
出てみれば春の風吹く戸口かな」
世間でいう自我は単に小さな頭脳に宇宙を縮め、矮小化して詰め込んでいるにすぎず、絶対だとか悟りだとかいうのも、こうした小さな頭脳の産物にすぎない。そして、こうしたものの相対性を知る自我が大なる自我ということになる。先の「我あり」が、こうした様々な思想信条や宇宙自然に対する様々な解釈を相対化する「我」の自覚であり、このことは俳句から思想性や自然を象徴として用いるための様々な技法を排除する子規の写生説へとそのまま結びつくのである。
『芭蕉雑談』の中の古池の句の解釈は、半紙三枚の哲学の直後に書かれたものであり、「夢の醒めたるが如く」「破顔微笑を漏らしぬ」という表現は、芭蕉が古池の句を詠んだ時の心境というよりは、写生説の着想を得た子規の心境ではなかったかと思われる。『芭蕉雑談』の以下の文章も「蕉風」ではなく、写生説そのものである。
「妄想を絶ち名利を斥け、可否に関せず巧拙を顧みず、心を虚にし懐を平にし、佳句を得んと執着することなくして佳句を得べし‥‥略‥‥而して彼の雀はちうちう鴉はかあかあ柳は緑花は紅というもの禅家の真理にして却て蕉風の骨髄なり。古池の句は実に其ありの儘を詠ぜり、否ありのままが句とならん。」
自然に情を託すのではなく、一切の情を相対化することによって、言葉から象徴機能奪い去り、単なる対象を指示するだけの言葉が残る。これによって確かに形骸化した古めかしいメタファーは一掃されることになる。しかし、子規はこれを歴史的な一過程として理解していたわけではなかった。過去の月並なメタファーの一掃は、写生説として普遍化されると同時に、人々の生活の中で不断に作られつつある新しいメタファーをいつまでも破壊し続けるという宿命を負うことになる。
これは近代俳句に限らず、日本の近代文学の宿命でもあった。彼らは不断に日本を破壊し続けるしかなかった。
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