2021年8月31日火曜日

  昨日の100メートル義足の決勝戦で、NHKテレビは白人三選手のことをやたら持ち上げていたが、コスタリカのシェルマンイシドロ・ギティギティさんが銀メダルを取った。
 ところでネットでこの人のことを調べようと思ったら、日本語検索ではほとんど情報がなかった。朝日新聞デジタルにかろうじて国と生年月日と年齢と性別だけが記されていた。
 ギティギティさんは2017年にバイク事故で左足を失ったことと、2019年にピアスの合併症のために使用した薬のせいで薬物疑惑が持たれたことが、Olympics.comで唯一得られた情報だった。まだ若い伸び盛りの選手だから、事故がなければオリンピックの方に出場してかもしれない。
 テレビは一部のピックアップした選手の挫折から栄光へのドラマを語ったくれるが、こういうドラマってパラリンピックの場合、出場全選手にあるものなのではないか。
 さて、今日のパラリンピックだが、まずはブラインドサッカー日本・中国戦で、残念ながら今日もなかなかシュートに至らなかった。ブラジル戦ほどワンサイドではないが、四人で密集して守ってボールを奪っても攻め手がない。しかもワントップで攻めてたから、中国側が四人引いて取り囲んでしまうと何もできない。
 中国側はツートップで来ているから、一人が囲まれてもフォローできる。四人で大きな四角形を作るというのは、基本的なフォーメーションなのだろう。
 ただ、この大きな四角形というシステムも、基本的にロングパスが通りにくいため、あまりうまく機能してるとも言えない。多分近い距離の音は360度良く聞こえても、遠くの音は近くの音にかき消されて聞き取りにくいのだろう。前線へのロングパスは結局運良く誰かいればという感じのものになっている。
 いっそのこと四人でボールを取り囲んで攻め上がってはどうかなんて思ってしまう。「シャンペンシャワー」という漫画に「秘技かごめかごめ」というのがあったが。前線へのロングパスがそんな状態なら、カウンターはそんなに怖くないんではないか。
 そのあとまたボッチャを見た。杉村さんとスロバキアのメジークさんの対戦だったが、ファーストエンドで杉村さんが大量点を取ってしまったので、メジークさんを応援してた。最後は勝ちが確定しているということで杉村さんの二投を残して終了した。コールドゲームということだろう。
 ゴールボールの男子準々決勝の中国戦。ひょっとして中国を舐めてたかな。グループBは全チーム2勝2敗でどこが来てもそんなに弱い所はない。川嶋を温存できる試合ではなかった。それに中国のエースストライカーの楊がいるのと反対の右中間にばかり球を投げて、楊に楽をさせてしまった。
 後半になって宮食の高いバウンドのボールが決まって四点返したが、時すでにお寿司だった。
 準々決勝第二試合、ウクライナ対アメリカ。ウクライナは今日は普通に横になってのディフェンスでスピードボールを警戒したか。前半はウクライナのペースだったが、後半のアメリカの追い上げ、そして延長戦開始早々の逆転サドンデスと、見ごたえのある試合だった。
 第三試合はベルギーとリトアニア。前半はゲンリク・パブリウキアネツの剛球が冴えていた。モントビダスと交互に投げるくらいでちょうどいい。後半は選手を変えながらの逃げ切りモードで、最後の方に出てきたパジャラウスカスは高いバウンドの球を投げる。パブリウキアネツと組ませたい。
 第四試合のブラジル・トルコ戦は、これも面白い試合だった。ブラジルのソウサとモレノの両方ともループシュートのような高いバウンドボールを打てるし緩急自在で投げられる。それとブラジルの強固な守備で前半はトルコを寄せ付けなかった。
 後半に出てきたトルコのグンドードゥは面白い選手なんだか困った選手なんだか。とにかくちょっと抜いたような強烈なドライブ回転のボールは、ブラジルのディフェンスも完全にタイミングを外されてたが、ただ、あの加速するボールはほんの少し強く投げるとロングボールになって逆に失点につながる。今回も四得点三失点で微妙。
 まあ、とにかくアメリカとリトアニアに勝った日本はすごい。それが何でという一日だった。

 話は変わるが、どうやらコロナワクチンの異物騒ぎは、ワクチンの容器の蓋についているゴム片だったようだ。ワクチンの容器の蓋のそのゴム部分に注射針を差し込んでワクチンを吸い上げて接種するわけだから、針を刺す時にゴムの一部が入り込むこともあるし、製造時や保存中にわずかな破片が落ちることもある。
 同様の容器を使っているものはファイザーであれアストラゼネカであれ、あるいは新型コロナ以外のワクチンであれどれでも起きうることだ。それで今まで問題が起きてないのだから、心配することは何もない。
 逆に言えばどこでもそれは見つかりうる。反ワクチン派がこれからも異物が見つかるたびに鬼の首を取ったような顔をすると思うが、相手にしない方が良い。
 世間がオリパラで盛り上がる裏で、反オリンピック闘争敗北の屈辱に打ち震えている連中が、国のワクチン接種の早さを恨んでいる。

 あと、「つぶつぶと」の巻「松茸や(知)」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 『笈日記』の九月九日の次は「難波部 前後日記」に続く。

  「去年元禄の秋九月九日奈良
   より難波津にわたる。生玉の辺
   より日を暮して
 菊に出て奈良と難波は宵月夜   翁」

 「菊に出て」の句は『梟日記』の日田の獨有亭のところでも触れたが、「菊に奈良を出て、難波は宵月夜」とひっくり返せばわかりやすい。「影略互見の句法」だという。「精選版 日本国語大辞典「影略」の解説」には、

 「① 漢詩文を鑑賞するときに使う語。ある表現をとった語句を、その順序を逆にして味わってみること。えいりゃく。影略互見。
  ※土井本周易抄(1477)四「言有レ物有レ恒ぞ。行有レ恒有レ物ぞ。影略してみたがよいぞ」
  ② 書かれた部分によって、暗示される語句を省略すること。えいりゃく。影略互見。
  ※史記抄(1477)一九「奉生送死之具也とは、〈略〉生れてから死るまで受用する物なりと云心を、其間をば影略したぞ」

とあり、この場合は①の意味になる。
 生玉は今の大阪市天王寺区生玉町の辺りで、生國魂神社がある。
 この日芭蕉は駕籠で旅立ったが、途中暗峠(くらがりとうげ)で大阪に入る時はどうしても自分で歩いて入りたいということで駕籠を下りたことが、土芳の『三冊子』に記されている。結果的にこれが自分の足で歩いた最後の区間になった。
 この日は大阪高津宮の洒堂亭に行ったという。高津宮と生國魂神社はせいぜい三百メートルくらいの距離で、生玉の辺と言っても間違いではない。
 この夜のことであろう。芭蕉が無理を押して歩いたというのに、空気の読めない洒堂が先に高鼾をかいて寝てしまい、

   又、酒堂が予が枕もとにていびきをかき候を
 床に来て鼾に入るやきりぎりす  芭蕉

の句を詠んでいる。この句は『三冊子』では、

 猪の床にも入るやきりぎりす   芭蕉

の形になっている。

  「今宵は十三夜の月をかけてすみよしの市に
   詣けるに昼のほどより雨ふりて吟行しづ
   かならず。殊に暮々は悪寒になやみ申
   されしがその日もわづらはしとてかい
   くれ帰りける也。次の夜はいと心地よし
   とて畦止亭に行て前夜の月の名残
   をつぐなふ。住吉の市に立てといへる
   前書ありて
 枡買て分別かはる月見哉     翁」

 これも『梟日記』の日田の所で触れたが、住吉詣でに行って雨に降られてしまったため、せっかく良くなりかけた病状がまた悪化し、それで十三夜の興行が飛んでしまったことを詫びての句だった。
 升を買ったことで、病気なんだから無理をしてはいけないという分別を一緒に買ってきたことで、十三夜の月見が十四夜の月見に「替った」という「かはる」は二重の意味に掛けて用いられている。

2021年8月30日月曜日

 今日のパラリンピックネット観戦はまずはゴールボール時々ボッチャという感じで始めた。
 ウクライナの男子のディフェンスは横にならない構えだが、左側のボールは手を前についたまま体全体を左に振り、右に来たボールは普通に手を右に向けて横になっていた。これを一歩進めて、前に手をついたまま左右に足を振る鞍馬型ディフェンスとかできないだろうか。
 エジプト女子は最初のスタイルに戻っていた。被り物も含めて。後半三分以上戦えて、まずまずだったのではないかと思う。
 リトアニアの男子は今日はパブリウキアネツとモントビダスが交互に投げていた。アメリカ相手に大量点でコールド勝ち。
 ブラインドサッカーのことで、伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(ニ〇一五、光文社新書)にちょっとだけブラインドサッカーの記述があった。そこにはプレーヤーはドリブルをするとき、できるだけボールを体から離さないようにすることが書いてあって、確かにそうだなと思った。
 ボールを体からあまり離そうとしないため、ボールを奪うのに、しばしば三人で取り囲む場面が見られた。また、あまり前後の視界が関係ないせいか、真正面から奪いに行く場面もある。
 今日の日本・ブラジル戦は、ブラジル選手のキープ力が高すぎて、三人で囲んでもなかなかボールが奪えず、簡単にサイトチェンジされてしまっていた。結局ブラジルは左右二人だけで攻め続けて、後ろに二人残っているうえに、日本は四人全員で守っているからカウンターも出来ずに終わった感じだった。

 支考の『笈日記』の続きになるが、九月九日で伊賀部の日付のある部分は終わる。正確には奈良にいたから大和国だが。

  「九月九日
 菊の香や奈良には古き佛達    翁
 霜をかぬ三笠のかげや神の菊   支考
 錢百のちかひが出來たならの菊  惟然
   幾年斗先にや侍らんこの宮古の
   西大寺に詣して
 青葉して御目の雫拭ばや     翁
  中比元禄巳の冬
   大佛榮興をよろこびて
 初雪やいつ大佛の柱立      仝」

 「菊の香や」の句はほとんど説明の必要もあるまい。重陽の節句だから菊の香で、奈良には古いお寺が多いから古い仏像もたくさんある。
 元禄七年九月十日付の杉風宛書簡にもう一句、

 菊の香や奈良は幾世の男ぶり   芭蕉

の句がある。例によって二句作って支考に選ばせたか。杉風には両方とも送り、「いまだ句体定めがたく候」とある。杉風にも選ばせるつもりだったか。「古き佛」と素直に言い下すのと、仏像の顔が良いということからちょっとひねって「幾世の男ぶり」としてみたか。
 「古き佛」の句は一見凡庸そうだが、重陽、晩秋、老い、の連想に「古き」が利いて、いわゆる「さび色」が現れている。
 支考の句、

 霜をかぬ三笠のかげや神の菊   支考

は神祇の句で、三笠山を御神体とする春日山の「春日」を隠しながら、春日だから霜置かぬとし、その「日」の影(=光)に太陽のように目出度く咲く菊を据える。

 錢百のちかひが出來たならの菊  惟然

の句の銭百はそのまんま銭百文ということでいいのだろう。百文というと賽銭としては微妙な値段で、その程度の願掛けをしたということか。大きな野心もなく、かといってせこくもなくという所で、、奈良の重陽の祈りとする。

   幾年斗先にや侍らんこの宮古の
   西大寺に詣して
 青葉して御目の雫拭ばや     芭蕉

 この句は貞享五年の『笈の小文』の旅の時の句で、『笈の小文』には上五が「若葉して」になっている。そこには、

 招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して、
 若葉して御めの雫ぬぐはばや」

となっている。お寺の名前も西大寺ではなく唐招提寺になっている。
 単純に支考『笈日記』の方が初案だとすることもできる。だとすると、前書きからこの句は西大寺で詠まれてことになる。となると「御目の雫拭ばや」は鑑真和尚の目でないなら、一体なんで目をぬぐったのかとなってしまう。
 それに、元禄七年の芭蕉の亡くなる直前にこの形だったとしてら、芭蕉はいつ『笈の小文』の形に書き直したのだろうか。
 一番考えられるのは、支考がかなり前にこの句を芭蕉から聞いて記憶していたもので、芭蕉の死後『笈の小文』を執筆する際に思い出して書き加えたが、寺の名前に記憶違いがあったということだ。招提寺・西大寺、似てなくもない。

   大佛榮興をよろこびて
 初雪やいつ大佛の柱立      芭蕉

 この句は許六の『俳諧問答』にも、

 「これ大仏建立ハ、今めかしきやうなれ共、此ふるき事万里の相違あり。初雪に扨々よき取合物、初の字のつよミ、名人の骨髄也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.185)

とある。そのときに書いたのと重複するが、元禄三年正月十七日付の万菊丸宛書簡に、

   南都
 雪悲しいつ大仏の瓦ふき

の句があり、こちらが初案と思われる。
 奈良女子大学大学院人間文化研究科のホームページによると、永禄十年(一五六七年)の三好・松永の兵火で多くの建造物が焼失し、大仏も原型を留めないほどに溶け崩けてしまったが、その後少しづつ復旧作業が進められていったという。江戸時代に入ると、

 「貞享元年(1684)公慶が大仏の修理のために勧進を始めたことから、東大寺の復興事業が本格的にスタートしました。これは江戸や上方などの都市部で大仏縁起の講談と宝物の拝観を行う、「出開帳」(でがいちょう)の方式を用いたキャンペーンでした。この方法は、大仏の現世利益・霊験を期待する民衆の信仰心をつかみ、多額の喜捨を集めて大仏修理の費用をまかなうことができました。その翌年には大仏修復事始の儀式が営まれ、東大寺勧進所として龍松院が建てられています。
 大仏修理の計画が具体化していくにつれ、奈良の町では大仏講という組織が編成され、勧進帳が作成されるなど、大仏復興への気運が地元でも盛り上がりました。そして貞享3年(1686)には大仏の修理が始まり、そのわずか5年後の元禄4年(1691)には大仏の修理は完了し、その翌年には大仏開眼供養が盛大に営まれました。このとき、奈良は空前の賑わいをみせたといわれています。」(奈良女子大学大学院人間文化研究科のホームページ「東大寺の歴史」3、江戸時代の東大寺)

とあり、芭蕉が訪れた元禄二年冬には大仏本体は修理の真っ最中で、大仏殿はまだ手付かずだったようだ。
 大仏修復の真っ最中の句で、その意味では流行の題材の句だが、大仏の有難さそのものは古くからある題材で、大仏殿の荒れたるを悲しむ心情を雪に託している。
 ただ、この『笈日記』では「大佛榮興をよろこびて」という前書きになっている。大仏修理が元禄四年に終わってしい、翌五年に開眼供養まで行われてしまったので、この前書きになってしまったようだ。この前書きだと「いつ大佛の柱立」は、「いつ行われたのだろうか、いつの間に終わっている」という意味になる。

2021年8月29日日曜日

 パラリンピックはかっこいい障害者がたくさん登場するので、障害者がかっこいいというイメージを作ることができる。これは大事だと思う。黒人だってブラックミュージックがなかったらだいぶイメージが違ってたと思う。かっこいいという所でみんなの心を引き付けて、もっと知りたいと思う所で、背後に抱えている問題にも意識が行くようになる。
 まあそういうわけで今日のネット観戦だが、朝はまずトライアスロンから。あのハンドサイクルってかっこいいね。昨日はタンデムだったが。日本の道路で走れるのかな。
 ゴールボール男子の日本・ブラジル戦はブラジルのループシュートにやられたね。あの高いバウンドのボールは、ブラジルのディフェンスは起きあっがって正面で受けて前へ落そうとするが、寝たままでは対応できない。ストレートに球威があるから、なかなか起き上がるのに勇気がいるんだろうな。
 ゴールボールの女子の方はエジプトにコールド勝ちだが、エジプトはこれまでもすべてコールド負け。最初のトルコ戦では体を横にしない真正面に構えるスタイルで、前一人に後ろに二人で真ん中寄りの三角形を作る陣形で守っていたが、トルコの早いボールにも高いバウンドのボールにも対応できてなかった。アメリカ戦では体を横にしないで構えるのはそのままだが、横に広がって並ぶスタイルに修正してきたが、やはり通用しなかった。多分それで、完全に自信を失ってたのだろう。前の二試合に比べても動きが悪かった。
 早い球に対応するには横になって構えて、低いボールはそのまま伏せて壁を作り、バウンドの高い速度が遅いボールの時は起き上がる、というのが多分今のセオリーなのだろう。
 目が見えないというだけで、目が見える人が誰でもやっているビデオを見て研究するということができないから、それだけで技術や戦術の伝達の難しさというのもあるのだろう。
 今日はブラインドサッカーも見たが、見えてるんじゃないかと思うくらい普通にサッカーをやっていた。まあ、どっちかというとフットサルに近い感じはするが。見えているといえば、逆にどの選手も当たり前のように360度見えているのかもしれない。見える人がやりがちな後ろからのファウルとかあまり意味がなく、戦術やフォーメーションは独特なものがありそうだ。
 ゴールボールは見える人にもすぐにその面白さが分かるが、ブラインドサッカーは見える人のサッカーの常識と大きく異なるため、わりと上級者向けなのかもしれない。
 コロナの方も27日の時点での実効再生産数が全国で1.06、東京は0.92で、どうやら目出度く釈迦三尊の別れになりそうだ。死者数も七月十五日に一万五千人を越えて、未だ一万六千人に至らない。日本の大衆はまた勝ったんだ。
 気になるのはモデルナワクチンの異物の正体がいつまでたっても公表されず、ネットに怪しげなデマが飛び交っていることだ。

 さて、九月四日の「松茸や(知)」の巻を読み終えたところで、翌五日に「行秋や」の句の句会があり、その翌日九月六日に「松風に」の五十韻興行があったが、これは以前に読んで「鈴呂屋書庫」にアップしてある。
 なお、この九月三日から七日までの間に、

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

の句を発句とする、芭蕉、惟然、支考の三吟歌仙が興行されている。あるいは五日の「行秋や」の時だったのかもしれない。七日だったのかもしれない。
 そして九月八日、芭蕉と支考は大阪へ向けて旅立つ。支考の『笈日記』を読んでみよう。

  「九月八日
   難波津の旅行この日にさだまる事は奈良の旧都の
   重陽をかけんとなり。人々のおくりむかへいとむつかしとて
   朝霧をこめて旅立出るに、阿叟のこのかみもおくりミ
   給ひてかねて引わかれたる身の此後ハあはじあはじと
   こそあきらめつるにたがひにおとろへ行程は別も
   あさましうおぼゆるとて供せられつるもの共に介
   抱の事などかへすがへすたのみて背影の見ゆる
   かぎりはゐ給ひぬ。」

 旅立つ時から重陽を奈良で迎えようという意図があったようだ。これは伊賀で重陽を迎えると、またそれを盛大に祝わなくてはならないため、衰弱のひどい芭蕉翁の負担になるという配慮だったのかもしれない。
 芭蕉の兄は半左衛門で時折手紙のやり取りもあって、六通の半左衛門宛書簡が今日残されている。
 同行者に芭蕉の介護を託しているが、この時の同行者は『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、1994、角川書店)によると、支考、惟然、実家の又右衛門、二郎兵衛らとなっている。このことがあったため、支考は最後まで介護要員を買って出てたのかもしれない。
 支考は芭蕉と最後の旅にかなり長く同行しているし、『続猿蓑』の編纂にも関わったということは、芭蕉の支考への信頼はゆるぎないもので、多分に後継の意識もあったのだろう。芭蕉が不易流行説から脱却し、「軽み」へ向けて手法を変えていった時、その発端は支考との出会いにあったのかもしれない。
 芭蕉が曾良から学んだ不易流行説は、不易を知る際に古典の学習を重視していた。それに対し、不易は古典に限らずあらゆるものから学べるという発想の転換は、支考の頓悟にあったのかもしれない。これによって蕉風は出典にこだわらない自由な発想による、初期衝動を重視したものへと変わっていった。

  「その日はかならず奈良までといそ
   ぎて笠置より河舟にのりて錢司といふ所を
   過るに山の腰すべて蜜柑の畑なり。されば先の
   夜ならん
 山はみな蜜柑の色の黄になりて  翁
   と承し句はまさしく此所にこそ候へと申ければ
   あはれ吾腸を見せけるよとて阿叟も見つつわらひ
   申されし。是は老杜が詩に青は峯巒の
   過たるをおしみ黄は橘柚の来るを見るとい
   へる和漢の風情さらに殊ならればかさぎの峯は
   誠におしむべき秋の名残なり。」

 伊賀から奈良への道は通常は笠置街道になる。今の「旧大和街道」と呼ばれる道で伊賀城下を西に向かい、仇討で有名な鍵屋の辻を通り、木津川を渡り、島ヶ原、月ヶ瀬口、大河原など今の関西本線に近いルートを経て木津川沿いの笠置に出る。笠置からは通常は陸路の笠置街道で東大寺の裏に出る。
 ここでは急ぐということで笠置から船に乗って木津川を下って、木津から奈良街道を行くルートを選んだのだろう。その途中に銭司がある。『笈日記』には「デス」とルビがあるが、今は「ぜず」と呼ばれている。
 その銭司聖天光明山聖法院のホームページには、

 「銭司聖天は、その名の如く「金銭を司る聖天様」をお祀りしております。この銭司(ぜず)という地名は、慶雲5年(708年)武蔵国から銅が産出し、これによって年号が和銅と改められ、日本最初の広域流通通貨である「和同開珎」が鋳造されました。当時、都として栄えていた奈良にも近く木津川の水運の利用等もあり、この地に鋳銭司(ちゅうせんし)、今の造幣局が設けられ貨幣を鋳造していたため、現在の銭司と呼ばれるようになりました。」

とある。今は富本銭に最古の座を奪われたが、かつては日本最古と言われていた「和同開珎」鋳造の地だった。ここは古くからミカンの産地でもあった。ネット上の乾幸次さんの「山城盆地南部における明治期の商業的農業」には、

 「『雍州府志』にみえる山城盆地南部での特産蔬菜の産地をみると,蕪著・薙萄(大根) が御牧に,芹菜が宇治に,牛芳が八幡などの木津川下流付近に産し,さらに京都都心より約30~32kmの木津川上流の狛に茄子・越瓜・角豆・生姜,鐵司(銭司)に橘(ミカン)が産し,いずれも「売京師」と記載されている。」

とある。『雍州府志』はウィキペディアに「天和2年(1682年)から貞享3年(1686年)に記された。」とある。
 当時の蜜柑の一大産地で、京に供給してたようだ。そのため山の中腹が一面のミカン畑になっていた。
 そこで思い出したのが「松風に」の五十韻興行の二十七句目、

    一里の渡し腹のすきたる
 山はみな蜜柑の色の黄になりて  芭蕉

の句だった。普通に読むと、腹が減ったから黄葉した山が蜜柑のように見える、という意味に取れるので、支考も多分そういう句だと思ってたのだろう。それを支考は朝日の色に取り成して、

   山はみな蜜柑の色の黄になりて
 日なれてかかる畑の朝霜     支考

と続けていた。
 それがこのミカン畑の景色だった。あの句はここの景色のことだったんだと言うと、芭蕉はバレたかって感じだった。
 この年の春の、

 八九間空で雨降る柳かな     芭蕉

の句も、実は奈良東大寺の近くにある柳がモデルになっていたみたいに、芭蕉は銭司のミカン畑の景色を思い出しながら、「山はみな」の句を付けたが、有名な場所ではなかったし、特にここの景色を特定して詠む意図はなかったのだろう。
 ただ、これを知ってしまうと、支考はこれは杜甫の「放船」に通じるものではないかと思う。

   放船    杜甫
 送客蒼溪縣 山寒雨不開
 直愁騎馬滑 故作泛舟回
 青惜峰巒過 黃知橘柚來
 江流大自在 坐穩興悠哉
 (蒼溪縣へ客を送ったが、山は寒くて雨は止まない。
 馬だと滑ると思って、あえて船を浮かべて廻し、
 山の青を惜しみながら峰巒を過ぎれば、蜜柑の黄色が見えてくる。
 川の流れは悠然と山をぬって行き、ただ座っているだけでも飽くことを知らない。)

 木津川の川下りの景色は、確かにぴったりだろう。まあ、本物の中国とはスケールが違うとは思うが。なお、蒼溪縣は四川省にある。

  「船をあがりて
   一二里がほどに日をくらしてさる沢のほとり
   に宿をさだむるにはい入て宵のほどをまどろ
   む。されば曲翠子の大和路の行にいざなふべきよし
   しゐて申されしがかかる衰老のむつかしさを
   旅にてしり給はぬゆへなるべし。さみづからも口おし
   きやうに申されしがまして今年ハ殊の外に
   よはりたまへり。その夜はすぐれて月もあきら
   かに鹿も声々にみだれてあはれなれば月の
   三更なる比かの池のほとりに吟行す。
 ひいと啼尻声かなし夜の鹿    翁
 鹿の音の糸引きはえて月夜哉   支考」

 木津で船から降りて奈良街道を南に一里半くらいで猿沢の池の辺りに到着する。「日をくらして」というから、早く着くためというよりは、芭蕉の体調を考えてのことだったのだろう。陸路の部分も駕籠に乗ったと思われる。
 曲翠は曲水と同じで膳所の人。大和路の旅を計画していたが、結局果たされることはなかった。
 奈良では半月よりももう少し膨らんだ九日の月が出ていて、鹿の声が聞こえてくる。今の奈良公園の鹿で、春日大社の創建の際に建御雷命(たけみかづちのみこと)が鹿島神宮から神獣である白鹿に乗ってきたとされていることから、ここでは古代から鹿が保護されてきて今に至っている。

 びいと啼く尻声悲し夜の鹿    芭蕉

の句は実際に声を聞けば、本当にビイーと言っているというところで面白さが分かる。鹿は古来妻訪う鹿の哀れを本意にしていて、「びい」という擬音で読者に「あるある」と思わせる句だ。
 「尻声」は長く尾を引く声のことだが、連想で鹿の尻が浮かんでくるところにも面白さがある。

 鹿の音の糸引きはえて月夜哉   支考

 鹿の尻声を糸を引くような声、と言いなおし、「悲し」を「はえて」と美しさの方に重点を置いて月を添える。ほとんど芭蕉の句のバリエーションと言っていいだろう。
 支考にしてみれば、この景色の一瞬の美しさが、一種の純粋経験としての輝きに持っていきたかったのだろう。
 「糸引き」は一つの取り囃しだが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「糸引」の解説」に、

 「① 糸を引き伸ばすこと。また、糸を引き伸ばしたような状態になること。
  ② =いととり(糸取)①
  ※永録帳(古事類苑・産業一七)「信州濃州之糸挽共同道仕、奥州へ罷下り」
  ③ 糸を引いてするくじ引き。
  ※内裏式(833)十六日踏歌式「但糸引榛揩群臣踏歌竝停レ之」
  ④ 他の人を巧みにあやつり、行動させること。また、そのあやつる人。
  ※歌舞伎・彩入御伽草(おつま八郎兵衛)(1808)序幕「これにゃア、くっついて、糸引きをする奴がゐるな」
  ⑤ 仏などを合掌して拝むときに、その指先から糸のようなものが現われるという俗信。」

とある。この⑤の意味を含ませたのかもしれない。

2021年8月28日土曜日

 今日のパラリンピックのネット観戦は、朝のトライアスロンに始まり、いつものゴールボールと、あとボッチャを見た。仕事の合間にコーヒーを賭けてやってた投げ銭を思い出したが、それよりははるかに複雑なゲームだ。手が使えなくても、あの素麺流しみたいなのでもできるというのがいいね。
 ゴールボールの女子は、今日は最後まで堅実な守りと、最後の時間稼ぎまで含めて逃げ切った。
 男子の方はリトアニアのパブリウキアネツはなかなかの剛腕投手だったが、速球一筋なので日本のディフェンスもタイミングが合っていた。日本は野球出身者が多いせいか、緩急の使い分けが上手い。圧勝だった。

 阿波踊りの歌詞に思想があるかどうかという所で、日本語の場合注意しなくてはいけないのは、「思想」という言葉がしばしば「社会主義思想」と同義で用いられるということだ。
 「思想がある」「思想的」「思想は要らない」とかいう時は、社会主義思想(あるいは共産主義思想)などと同義として判断した方が良い時もある。
 学術的には「仏教思想」だとか「儒教思想」だとかいうふうにも用いるが、日常語として「思想」と言った場合は主に社会主義思想を指すと考えた方が良い。
 芸能人の発言でしばしば政治的発言をすべきでないということが言われる時も、「政治的=社会主義的」と判断した方が良い。
 簡単な話、左翼は社会主義思想以外を思想として認めてないからだ。思想の自由と言った場合は社会主義的主張の自由のみを指す。そのため世間一般でも「思想=社会主義(共産主義)」というイメージで用いられている。

 それでは「松茸や(知)」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   愛宕の燈籠ならぶ番小屋
 酔ほれて枕にしたる駕籠の縁   猿雖

 酔っ払って道端で駕籠を枕にして眠っている。駕籠というのは夜は道端に置きっぱなしにしてたのだろうか。今でいう路上駐車みたいだが。
 二十六句目。

   酔ほれて枕にしたる駕籠の縁
 花ぎつしりと付し水仙      雪芝

 酔っ払って寝ているのは良いが、水仙の花の季節は真冬で凍死するぞ。
 二十七句目。

   花ぎつしりと付し水仙
 味噌売の宵間宵間に音信て    文代

 味噌売は金山寺味噌などの嘗め味噌売りであろう。酒の肴なので宵にやって来る。昔は発酵が安定する低温の冬に作られることが多かったのだろう。水仙の季節になる。
 二十八句目。

   味噌売の宵間宵間に音信て
 木綿を藍につきこみにけり    卓袋

 藍染液も秋に出来上がり、晩秋から冬の作業になる。
 二十九句目。

   木綿を藍につきこみにけり
 有明に本家の籾を磨じまひ    惟然。

 季節を晩秋として有明の月を出す。収穫した新米の籾を磨る。
 三十句目。

   有明に本家の籾を磨じまひ
 茄子畠にみゆる露じも      荻子

 茄子は夏野菜だが、「秋茄子は嫁に食わすな」と言うように、秋の茄子も美味い。その茄子も晩秋になると露が氷って霜になること、そろそろ終わりになる。
 二裏、三十一句目。

   茄子畠にみゆる露じも
 此秋は蝮のはれを煩ひて     芭蕉

 「蝮のはれ」は山口県医師会のホームページの「マムシに咬まれたら」(宇部市医師会外科医会)に、

 「症状としては、噛まれた直後から数分後に焼けるような激しい痛みがあります。通常傷口は2個でたまに1個のこともあります。咬まれた部分が腫れて紫色になってきます。腫れは体の中心部に向かって広がります。皮下出血、水泡形成、リンパ節の腫れも認めます。重症例では、筋壊死を起こし、吐気、頭痛、発熱、めまい、意識混濁、視力低下、痺れ、血圧低下、急性腎不全による乏尿、血尿を認めます。通常、受傷翌日まで症状は進展し、3日間程度で症状は改善していきますが、完全に局所の腫脹、こわばり、しびれなどが完治するまで1カ月ぐらいかかります。ただし、いったん重症化すると腎不全となり死に至ることもあります。」

とある。かなり危険な状態だが、紫の腫れを茄子に見立てて笑うしかない。
 三十二句目。

   此秋は蝮のはれを煩ひて
 僧と俗との坐のわかるなり    望翠

 遠回しな言い方だが「生死を分かつ」ということだろう。
 三十三句目。

   僧と俗との坐のわかるなり
 呵るほどよふ焚付ぬ竈の下    雪芝

 「よふ焚付ぬ」は「よう焚き付かない」ということか。「よう~ない」という言い回しは口語的に今でもある。全く焚き付かないということ。強調の「よく」と一緒くたになっているところもある。「よう言わんわ」「よう言うわ」は似ているけど違う。
 焚き付けは慣れればなんてことないのだろうけど、キャンプの初心者など、今でも苦労する。昔だったらチャッカマンはおろかマッチもなくて、火打石で焚き付けたから、今以上に習熟を要する。
 もたもたしていてなかなか火が付かないと、𠮟りつけられたりもしたのだろう。叱られると余計手が震えたりして着かなくなる。そのうち切れて、灰を顔にぶちまけられたりしそうだ。
 お寺での僧と俗との上下関係はそういうもんだったのだろう。
 三十四句目。

   呵るほどよふ焚付ぬ竈の下
 芝切入て馬屋葺ける       支考

 芝は焚き付けに使う柴のことだろう。柴の方が湿ってたのか、焚き付けに仕えないので馬屋の屋根を葺くのに使う。
 三十五句目。

   芝切入て馬屋葺ける
 花寒き片岨山のいたみ咲     猿雖

 桜の季節には寒の戻りがあり、今日でも「花冷え」と言う。片岨山は一方が崖の山で、荒々しい崖の裏側で、桜の花も申し訳なさそうに咲いている。
 挙句。

   花寒き片岨山のいたみ咲
 春の日南に昼のしたため     文代

 日南は「ひなた」。「したため」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「認」の解説」に、

 「〘他マ下一〙 したた・む 〘他マ下二〙
  ① 整理する。処理する。処置する。かたづける。また、管理する。
  ※延宝版宇津保(970‐999頃)蔵開中「ふばこには、唐の色紙を二つに折りて、葉(えふ)したためて」
  ※宇治拾遺(1221頃)九「国の政をしたためおこなひ給あひだ」
  ② ととのえる。用意する。準備する。特に、食事の支度をする。料理をする。
  ※落窪(10C後)四「まかり下るべき程いと近し。したたむべき事共のいと多かるを」
  ※古今著聞集(1254)一八「侍ども寄りあひて、大鴈を食はんとて、したためける所へ」
  ③ 食事をする。食べる。
  ※宇治拾遺(1221頃)一「かくて夜明にければ、物食ひしたためて、出てゆくを」
  ※義経記(室町中か)五「菓子ども引き寄せて、思ふ様にしたためて、居たる所に」
  ④ 煮るの意の女房詞。
  ※御湯殿上日記‐明応九年(1500)四月二九日「またはくよりかまほこ、はまあふり、ことやうしたためておひらもまいる」
  ⑤ 書きしるす。
  ※讚岐典侍(1108頃)下「よみし経をよくしたためてとらせんと仰られて」
  ※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)市振「あすは古郷に返す文したためて」

とある。
 「昼のしたため」は昼食の準備であろう。寒いから日向で食べる。

2021年8月27日金曜日

 パラリンピックのネット観戦の方は今日もゴールボールメインで、時折車いすテニスや車いすラグビーを見た。
 車いすテニスはあの車いすからの高さだと上からの強い打ち込みができないせいか、とにかくラリーが長い。
 車いすラグビーはボールを奪うのが困難なため、ボールが両方のゴールを行ったり来たりして、どうやって勝負をつけるのかと思った。パスミスかファウルがない限り勝負がつかないのでは。多分様々な障害の人たちが楽しく遊ぶという所から生まれたものなのだろう。
 ゴールボールの日本女子は今一つパワーに欠け、結局追いつかれてしまった。男子の方はなかなかボールの切れが良かった。
 低いバウンドのボールはドライブ回転で、高いバウンドのボールは逆の回転が付けられているのか。あと、ライン際のボールは内側へ巻くようにシュート回転かスライダー回転を付けられているのか。ブラジル女子のやってた又の間から投げるボールは両手持ちだから無回転になるのか。
 ボールの回転が分かるような模様を付けておいてくれれば、視覚のある者としてはありがたいんだが。

 道は卑俗なものの中にもあるというのは、明瞭ではないけど、日常性の中にも道は潜んでいるということで、それを見つけ出すことでいわゆる市隠というものも成り立つ。
 ところでハイデッガーの『存在と時間』で展開した現存在分析だと、日常的・平均的なものが「非本来性」と大雑把に規定されてしまっていて、日常の中にも本来性への超越の可能性が潜んでいることを見落としてしまう。
 多分和辻がハイデッガーを読んだ時に感じた違和感もそれだったのだろう。ただ、和辻はこの問題に深く立ち入らずに、本来性と非本来性を逆転させるだけで終わってしまった。そればかりでなく、戦後の実存主義の影響を受けた日本の民俗学は、超越性を日常的・平均的なものに対して「非日常」と規定してしまった。いわゆる「ハレとケ」の二元論をそこにあてはめてしまっている。
 これによって日本の知識人は、我々が日常的に楽しんでいる様々なエンターテイメントやスポーツを、日常と反する非日常に追いやってしまったのではないか。スポーツの熱狂があたかも一年に一度の祭りの熱狂と同じに解され、それらは日常を追認するための儀式であるかのように扱っている。日常と密着した、日常を変えるエネルギーとしては認識されていない。
 スポーツはしばしば哲学者とは違う形であるが「光の体験」をもたらす。生涯スポーツから抜けられなくなった人達は、少なからずその祝福を受けているのではないかと思う。それはカズのような有名アスリートに限ったことではなく、プロにはなれなくても生涯アマチュアでプレーし続ける人たちはいくらでもいる。スポーツがもたらした光は、そうしていつでも街の片隅で生き続けている。
 日常と非日常は明確に分けられるものではないし、同じように日常的・平均的なものの中でも現存在の本来性は混在している。スポーツも芸術も常に日常の中に取り込まれていて、それがいわゆる革命のような非日常的な手段ではなく、日々の生存の取引の場の中で社会変革をもたらしている。

 それでは「松茸や(知)」の巻の続き。

 十三句目。

   風になりたる八専の雨
 いそがしき体にも見えず木薬屋  望翠

 木薬屋は『校本芭蕉全集 第五巻』中村注に生薬屋と同じとあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「生薬屋」の解説」に、

 「〘名〙 生薬を売る店。転じて、薬を商う店。
  ※浮世草子・本朝二十不孝(1686)一「三所四所さられ長持の(はげ)たるを昔のごとく塗直して木薬屋に送りけるに」

とある。
 雨風で訪れる人もなく、八専で商売も忌むとなれば、薬屋が忙しいはずもない。
 十四句目。

   いそがしき体にも見えず木薬屋
 三年立ど嫁が子のなき      芭蕉

 ネット上の齋藤絵美さんの『漢方医人列伝 「香月牛山」』によると、

 「不妊症に用いる処方については、現在も使われているものとしては六味丸・八味丸に関する記述があり、「六味、八味の地黄丸この二方に加減したる方、中花より本朝にいたり甚だ多し」と書かれています。」

とあるように、不妊症の薬は一応当時もあったようだ。腎気丸で腎虚の薬のようだ。
 まあ、薬は効いてなかったのだろう。
 十五句目。

   三年立ど嫁が子のなき
 鶏の白きは人にとらせけり    卓袋

 『校本芭蕉全集 第五巻』中村注に、

 「『白い鶏を千飼へば其家より后(きさき)出づ』という俗説がある。」

とある。『平家物語』「山門御幸」の信隆の鶏が出典であろう。
 『源平盛衰記』巻第三十二「四宮御位の事」には、

 「白鶏ヲ千羽飼ヌレバ。必其家ニ王孫出来御座ト云事ヲ聞テ。白-鶏ヲ千羽ト志メ飼給ケル程ニ。後ニハ子ヲ生孫ヲ儲テ四-五千羽モ有ケリ」

とある。
 こちらの方がこの句には合っている。
 白い鶏を人にやってしまったために、自分には子供ができない。
 十六句目。

   鶏の白きは人にとらせけり
 彫みもはてぬ佛あかづく     荻子

 「彫み」は「きざみ」。「あかづく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「垢付」の解説」に、

 「〘自カ五(四)〙 (「あかづく」とも) 垢がついてよごれる。垢じみる。
  ※万葉(8C後)一五・三六六七「わが旅は久しくあらしこの吾が着(け)る妹が衣の阿可都久(アカヅク)見れば」

とある。
 古い用例なのでこれでいいのかどうかはわからない。「あかつき」がコトバンクの同じ解説に、

 「② 近世、高貴の人が臣下、またはその他に下賜した衣服の称。普通、紋付である。」

という意味がある。これは「手垢のついたものを与える」という意味で下賜されたものということだとすると、前句の「とらせけり」を下賜と見て、鶏と一緒に未完成の仏像が下賜されたけど、これをどうすればいいのか、という意味かもしれない。
 道楽で仏像を彫っている主君が失敗作を家臣にやるというのは、いかにもありそうなことだ。
 十七句目。

   彫みもはてぬ佛あかづく
 はつ花の垣に古竹結わたし    惟然

 とりあえず仏像が下賜されたので、桜の咲き始める頃、垣根に古竹を結って、その辺りに仏像を祭る。
 十八句目。

   はつ花の垣に古竹結わたし
 道はかどらぬ月の朧さ      文代

 初花の垣の辺りまでやって来たが、月が朧で暗いため道がよくわからない。
 十九句目。

   道はかどらぬ月の朧さ
 ばらばらと雉子に小鳥のおどされて 卓袋

 キジがくると小鳥が一斉に逃げて行く。まだ夕暮れの頃であろう。
 二十句目。

   ばらばらと雉子に小鳥のおどされて
 鹿が谷へも豆腐屋は行      支考

 鹿ケ谷というと『平家物語』の鹿ケ谷の陰謀を思い浮かべる人も多いだろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「鹿ヶ谷事件」の解説」に、

 「1177年(治承1)5月、後白河院(ごしらかわいん)の近臣藤原成親(なりちか)・成経(なりつね)父子、藤原師光(もろみつ)(西光(さいこう))、法勝寺執行(ほっしょうじしぎょう)の俊寛(しゅんかん)、摂津(せっつ)源氏多田行綱(ゆきつな)らが、俊寛の京都・東山鹿ヶ谷山荘において平氏追討の謀議をした事件。その内容は、近づく祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)に乗じて六波羅(ろくはら)屋敷を攻撃し、一挙に平氏滅亡を図ろうとするものであった。しかし、事は多田行綱の密告によって事前に平清盛(きよもり)に発覚し、西光の白状により関係者は次々に捕らえられ処罰された。西光は死罪、成親は備中(びっちゅう)国(岡山県)に、俊寛・成経らは九州の南の果ての孤島鬼界ヶ島(きかいがしま)に配流された。この事件の主謀者がとくに一家の縁者(成親は平重盛(しげもり)の婿、成経は教盛(のりもり)の婿)であったことは、平氏にとってきわめて衝撃であった。以後、院と清盛との関係はますます悪化していった。[山口隼正]」

とある。前句のキジに脅される小鳥のイメージに重なる。
 鹿ケ谷というと近くにある南禅寺門前の湯豆腐が有名だった。
 二十一句目。

   鹿が谷へも豆腐屋は行
 年切の小さい顔に角を入     猿雖

 年切(ねんきり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「年切・年限」の解説」に、

 「〘名〙 年季奉公のこと。また、その契約を結んだ人。特に、半季の短期契約の奉公人に対して二年以上の年季を限った奉公人。最長年季は一〇年がふつう。
  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)六「摺箔やの年切(ねんキリ)の弟子など」

とある。半元服の丁稚奉公であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「半元服」の解説」に、

 「〘名〙 (「はんげんぶく」とも) 江戸時代、本元服に対して略式の元服をいう。男子の場合、武家は小鬢をそらず、町人は額のすみをそり、前髪を大きくわけ結ぶ。女子は眉毛をそらず鉄漿(かね)もつけず、ただ髪だけ丸まげに結ったり、また、眉毛をそって鉄漿をつけなかったり、鉄漿をつけて眉毛をそらなかったりなどしたもの。
  ※浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)長町「半元服さしゃってから、お果なされた文大夫様」

 「角(すみ)を入(いれ)」は半元服の額の隅を剃ることをいう。今の剃り込みに似ている。剃り込みの場合も「剃りを入れる」と言う。
 二十二句目。

   年切の小さい顔に角を入
 水風呂の湯のうめ加減よき    荻子

 半元服の奉公人は風呂焚きが得意。
 二十三句目。

   水風呂の湯のうめ加減よき
 二三本竹切たればかんがりと   支考

 「かんがり」は「がんがり」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「がんがり」の解説」に、

 「〘副〙 (「と」を伴って用いることもある)
  ① 物の隙間のあるさま、あいているさまを表わす語。
  ※雑俳・すがたなぞ(1703)「口をがんがりがんがり・にくみやった兄に七分の遺言状」
  ② うす明るいさま、また、ほのぼのと空が明るくなるさまを表わす語。
  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)六「夜ははやがんがりと明にけり」
  ③ ものがはっきりみえるさまを表わす語。
  ※俳諧・毛吹草(1638)六「がんがりとはねまでみゆる月夜哉〈一正〉」

とある。
 湯加減もよく、二三本竹を切ったから眺めもいい。
 二十四句目。

   二三本竹切たればかんがりと
 愛宕の燈籠ならぶ番小屋     芭蕉

 愛宕燈籠は京都の愛宕神社の燈籠で、秋葉灯籠などと同様、信仰の盛んな地域では至る所に見られる。愛宕灯籠も秋葉灯籠も火難除けという点では共通している。地域の当番の人が火を灯している。
 番小屋は町や村に設けられた番太郎の小屋で、愛宕灯籠の並ぶ番小屋は、京の街の見慣れた風景だったのだろう。
 前句は番太郎が、地域を見張りやすいように竹を二三本切った、とする。

2021年8月26日木曜日

 パラリンピックの方は今日もゴールボール時々車いすバスケで、ゴールボール女子のトルコはやはり強い。
 ゴールボールは戦術的にかなり多彩で、いろいろな可能性を持ったスポーツなのではないかと思う。見かけはサッカーのPK戦に近いけど、ボールの投げ分けという点では野球の要素もある。
 日本の男子を見ていると、バレーボールのようなフェイント系の技に突き進んでいるような感じだが、トルコは役割分担があるのかな。
 野球と違うのは一人が複数の球種を投げなくていいということで、一人は速いボールを得意として、一人が大きなバウンドボールを得意としてれば、同じ位置で別の人が投げればいいという発想なのかもしれない。人が入れ替わったのが見えないからだ。
 試合時間が短いのは興行には物足りないかもしれないが、テレビやネットでの観戦ではちょうどいい長さだし、メジャーになる可能性が十分ある。
 夕方からパラ馬術を見たがグレード2と言うと重い方なのに、普通の馬術と何が違うのかよくわからない。
 モデルナワクチンに異物混入というニュースがあったが、どの会場でどのような異物が発見されたのかという情報が一切ない。大分遅れて「金属片か」と「か」が付いた曖昧な報道がなされている。こういう曖昧な情報に感情的なコメントをして、いたずらに不安を煽るようなのが最近多すぎる。
 昔のマスコミはパニックが起きないように正確な情報をと言っていたが、今はパニックを起こさせようとしているみたいだ。まあ、日本の国民は賢いからパニックは起きないけどね。
 あと、鈴呂屋書庫に元禄五年冬の「月代を」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは次は元禄七年九月三日の伊賀に到着した支考と文代(斗従)が、その翌日誰かから届けられた松茸を見て、芭蕉の旧作を元に巻かれた歌仙を読んでいこうと思う。
 発句は、

 松茸やしらぬ木の葉のへばりつき 芭蕉

で、元禄四年秋の句で元禄五年刊尚白編の『忘梅』に収録されている。
 松茸は枯葉や松の落葉などに埋もれていて、採ってきたばかりの松茸には枯葉がくっついていることがある。店で売っている松茸はそういうものをきれいに取り除いてあるが、昔は松茸あるあるだったのだろう。
 届けられたばかりの松茸を芭蕉が支考と一緒に見ながら、木の葉のついているのを見つけて、三年前のこの句を思い出したのだろう。『続猿蓑』には「へばりつく」の形で収録されている。「松茸にしらぬ木の葉のへばりつくや」の倒置だから、文法的には「へばりつく」の方が良い。
 脇は文代(斗従)が付ける。

   松茸やしらぬ木の葉のへばりつき
 秋の日和は霜でかたまる     文代

 前句の季節に日和で応じるのは、『ひさご』の元禄三年春の、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 西日のどかによき天気なり    珍碩

元禄五年春の、

   鶯や餅に糞する縁の先
 日も真すぐに昼のあたたか    支考

に通じる無難な応じ方だ。
 晩秋なので、霜の降りる日が常態化しましたね、と応じる。
 第三。

   秋の日和は霜でかたまる
 宵の月河原の道を中程に     支考

 秋の句二句続いたので、そのまま月へと展開する。
 前句の「霜でかたまる」を霜が降りて道が固まるとし、夕暮れの風に吹きすさぶ河原の道とする。
 四句目。

   宵の月河原の道を中程に
 ことしはきけて里の売家     雪芝

 「きけて」がよくわからない。『校本芭蕉全集 第五巻』中村注にある『一葉集』の「きけハ」が正しいのかもしれない。河原の道の中程に家があったが、聞く所によると今年は売りに出されている。
 五句目。

   ことしはきけて里の売家
 四五人で万事をしまふ能大夫   猿雖

 能大夫は能のシテの尊称で、ジャパナレッジの「改訂新版・世界大百科事典」には、

 「能大夫は観世,金春,宝生,金剛の四座家元を指し,ひいてはシテを勤める者をも大夫と呼んだ。ただし江戸時代に新しく成立した喜多流では,家元を称して大夫とは言わない。」

とある。能がほぼ四座家元の支配下にあることから「四五人で万事をしまふ」としたか。その能大夫が里の家を売りに出す。
 六句目。

   四五人で万事をしまふ能大夫
 いきりし駒に鞍を置かね     望翠

 能大夫も馬には不慣れだったか。
 初裏、七句目。

   いきりし駒に鞍を置かね
 けさの雪この頃よりもたつぷりと 惟然

 馬の不機嫌を大雪のせいだとする。
 八句目。

   けさの雪この頃よりもたつぷりと
 屏風畳で膳すゆるなり      卓袋

 屏風を畳んで、外の雪景色を見ながら食事をするということか。
 九句目。

   屏風畳で膳すゆるなり
 段々に上刕米の取さばき     文代

 刕は州の異字体で、上州米、つまり今の群馬県の米のことをいう。
 上野国はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「上野国」の解説」に、

 「近世に入ると上野国は江戸城北辺の守りとして、井伊(いい)(高崎)、榊原(さかきばら)(館林)、酒井(前橋)など譜代(ふだい)の重臣が配備された。徳川家康が新田一族(徳川氏)の後裔(こうえい)と称したことから、太田に大光院(義重の菩提(ぼだい)寺)を開き、世良田(せらた)(新田郡尾島町)の長楽寺(開山栄西(えいさい))を復興した。藩はその後変転して幕末には前橋(17万石)、高崎(8万2000石)など9藩となったが、大半は譜代小藩で、それに天領、旗本領が交錯していた。元禄(げんろく)期(1688~1704)の総石高は約60万石。生業は畑作が主で、とくに養蚕業は古い伝統をもち、桐生(きりゅう)のほか伊勢崎(いせさき)、藤岡の絹織物が有名であった。安政(あんせい)の開港(1854)後は輸出生糸が空前の活況を呈した。そのほか煙草(たばこ)、麻、硫黄(いおう)、砥石(といし)などが特産であった。」

とある。譜代小藩が多く、畑作や養蚕が主で、あまり米どころのイメージはない。それだけに中小の米問屋に付け入る隙があったということか。屏風を所有できるくらいにそこそこ豊かな生活をする。
 十句目。

   段々に上刕米の取さばき
 わか手の衆はそりのあはざる   支考

 小藩の多い地域はばらばらで、団結力がないということか。
 十一句目。

   わが手の衆はそりのあはざる
 鼠ゆく蒲団のうへの気味わるく  雪芝

 鼠が蒲団の上をちょろちょろしているような屋敷では、若い者も心が荒んでいて、互いに仲が悪い。
 十二句目。

   鼠ゆく蒲団のうへの気味わるく
 風になりたる八専の雨      猿雖

 八専はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「八専」の解説」に、

 「〘名〙 壬子(みずのえね)の日から癸亥(みずのとい)の日までの一二日間のうち丑(うし)・辰(たつ)・午(うま)・戌(いぬ)の四日を間日(まび)として除いた残りの八日をいう。この八日は、壬子(水水)・甲寅(木木)・乙卯(木木)・丁巳(火火)・己未(土土)・庚申(金金)・辛酉(金金)・癸亥(水水)で、上の十干と下の十二支の五行が合う。一年に六回あり、この期間は雨が多いといわれる。また、嫁取り、造作、売買などを忌む。八専日。専日。
  ※左経記‐長元五年(1032)六月一〇日「而十三日以後八専也、雖レ然事已無レ止、若八専旱損彌可レ盛云」

とある。『炭俵』の「早苗舟」の巻八十八句目に、

   気にかかる朔日しまの精進箸
 うんぢ果たる八専の空      利牛

の句がある。
 雨が多く憂鬱な時期に、風も吹けば鼠も出る。いい所がない。

2021年8月25日水曜日

 昨日は開会式を見た。ピアノが良い音立ててたね。あと、布袋さんが出てきた時、画面左側にいた人のギターが何気に凄い。若冲のデコトラ、もう少し写してほしかった。
 さて、今日から競技開始ということで、ゴールボール時々車いすバスケという感じで見た。ゴールボールはなかなか面白かった。日本の男子の多彩な戦術は、多分すぐ真似されるだろうな。女子の方はトルコの高いバウンドの変化球に対応しきれなかったか。
 車いすバスケは今日見たのは女子の方だが、あまり背丈は関係なさそうだ。体重はあった方が良いのかな。素早さと防御力の兼ね合いなのか。日本は前半はどうなるかと思ったが、終わってみたら圧勝だった。
 昨日は「踊らにゃ損損」なんて言ったが、阿波踊りのこの歌詞は高校の時の倫社の先生が、「ここには思想がない」と言ってたのをふと思い出した。
 今見るとそんなことはないと思う。

 「踊る阿呆に見る阿呆」

 これは要するにソクラテスの「無知を知る」ということで、人間はすべてのことを知ることはできないし、知った気になってはいけないという戒めに留まらず、近代のカントの理性批判にも通じるもので、二十世紀の「哲学の終わり」もまた、絶対的な真理のないことを証明した。
 人間の知は基本的に不確実なもので、科学と言えども真理の近似値にすぎない。つまり人間は程度の差こそあれみんな無知であり、要するのみんなどこかで馬鹿なんだ。我が国の神道も天地自然の陰陽不測を知り、身を慎むことを説いている。
 踊る人も完全ではないし、見ている人も完全ではない。みんなどこかで馬鹿なんだ。「踊る阿呆に見る阿呆」はそんな深遠な哲理を含んだ言葉だったんだ。
 なら、

 「同じ阿保なら踊らにゃ損損」

はどうかというと、「踊る」という言葉は「遊ぶ」ということと同義ではないかと思う。
 それは不完全な条理に執着することなく、習慣となった先入見や固定観念を越えて自由になるということだ。ハイデッガーは「真理の本質は自由である」と言うし、「哲学とはもっぱら超越である」とも言う。何にも囚われなくなったとき、そこにあるのは遊びであり踊りだ。それは我が国では「風雅の誠」と言ってもいい。
 自らの知の限界を知り、自由の境地に遊ぶ。これが人間としての最大の「徳」であり、「徳は得也」だ。この徳を得ないなら、それは「損(そこなう)」としか言いようがない。
 そういうわけで阿波踊りの歌詞には思想がある。証明終わり。吉沢先生元気かな。
 こういうことを書くと故事付けだという人もいるかもしれないが、どんな卑俗なものの中にも道はある。それを見つけられるかどうかはその人次第って話だ。
 あと、最近ADEという言葉をよく聞くが、一応日本医療研究開発機構のホームページを見たら、大阪大学の荒瀬尚教授のグループの研究のことが載っていたが、

 「新型コロナウイルスに感染すると中和抗体ばかりでなく、感染を増強する抗体が産生されることが判明した。さらに、感染増強抗体が産生されると、中和抗体の作用が減弱することが判明した。」

とはあったが、ここにはワクチンが感染増強抗体を産出するとは書いてなかった。
 またbiorxivの記事はmRNAベースのワクチンが「一部のBNT162b2免疫血清は中和活性を失い感染性を高めました。」というもので、あくまで不十分さを指摘するもののように思える。アンジェスのDNAワクチンはそこに対応できるのかな?

 それでは「つぶつぶと」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   あほうつかへば皆つかはれる
 宵の口入みだれたる道具市    九節

 「馬鹿と鋏は使いよう」ということで、宵の口の混雑する道具市で鋏を選ぶ。どれを買っても馬鹿が使えれば使える。
 二十六句目。

   宵の口入みだれたる道具市
 茶の呑ごろのぬるき小薬鑵    惟然

 道具市でも茶を飲めるところがあるのだろう。薬缶が置いてあって、煮だした茶が置いてあるが、ちょうど良く冷めている。この飲み頃温度というのが、後の煎茶に受け継がれてゆくのだろう。
 二十七句目。

   茶の呑ごろのぬるき小薬鑵
 間あれば又見たくなる絵のもやう 猿雖

 「間」はここでは「ひま」と読む。
 「もやう」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「模様」の解説」に、

 「① 模範。てほん。
  ※筑波問答(1357‐72頃)「連歌は本よりいにしへのもやうさだまれる事なければ」 〔琵琶記‐宦邸憂思〕
  ② 外に現われるかたちやありさま。また、推移するようす。ふぜい。
  ※風姿花伝(1400‐02頃)二「面をも、同じ人と申しながら、もやうの変りたらんを着て、一体(いってい)異様したるやうに、風体を持つべし」
  ※浮雲(1887‐89)〈二葉亭四迷〉三「授業の模様、旧生徒の噂」 〔杜荀鶴‐長安道中有作詩〕
  ③ しぐさ。身ぶり。所作(しょさ)。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※随筆・驢鞍橋(1660)下「若衆に茶のたてやうを教ゆべしと、自ら茶をたつる模様をなして」
  ④ (━する) 仕組むこと。趣向。計画。
  ※浮世草子・新吉原常々草(1689)下「何事も前からこしらへたる事よろしからず、其時にいたりてもやうするこそおかしけれ」
  ⑤ 織物、染物、工芸品などにほどこした絵や図案。また、ものの表面にあらわれた図柄。紋様。
  ※蔭凉軒日録‐寛正五年(1464)七月一九日「被レ求二于大唐之諸器一、其模様図而被レ渡二于両居座妙増都聞并紹本都寺及能副寺一也」
  ⑥ (━する) 色や図柄をつけること。
  ※最暗黒之東京(1893)〈松原岩五郎〉一七「新の柿及び新の栗が半ば黄色に色を摸様(モエウ)し」
  ⑦ 囲碁で、相当の規模を持った勢力圏をいう。大規模のものを大模様、ある程度地域化したものを地模様という。
  ⑧ 天気。空模様。
  ※稲熱病(1939)〈岩倉政治〉四「百姓は空相手ぢゃ。模様さまさいよければ、こんなこたないわい」
  ⑨ 名詞の下に付けて、それらしい様子、振舞い、雰囲気であるさまを表わす。「色もよう」「雪もよう」など。
  ※歌舞伎・幼稚子敵討(1753)三「『是を牡丹花の香炉と見咎(みとがめ)られたりや、モウ汝(うぬ)を』トかかる。立廻りもやふ有」

とある。今日ではもっぱら⑤や⑧の意味で用いられるが、ここでは①か②であろう。③④は絵に用いるものではなさそうだ。
 当時は一般に絵を学ぶというと、師匠の手本やたまたま見る機会に恵まれた良い絵を見ながら、それをコピーするところから始めるものだ。
 飲み頃の茶をふるまってくれる家にはなかなかいい絵が飾ってあって、それを何度も見たいというものだろう。
 二十八句目。

   間あれば又見たくなる絵のもやう
 ともに年寄逢坂の杉       芭蕉

 逢坂の関の杉は和歌に詠まれている。

 逢坂の杉間の月のなかりせば
     いくきの駒といかで知らまし
              大江 匡房(詞花集)
 鶯の鳴けどもいまだ降る雪に
     杉の葉しろきあふさかの関
              後鳥羽院(新古今集)

 ただ、逢坂の関は絵巻などには描かれるが、画題になることはあまりない。逢坂の杉の老木を描いた絵があったら見てみたいものだ。
 二十九句目。

   ともに年寄逢坂の杉
 有明にしばしへだてて馬と籠   卓袋

 明方の逢坂の関を馬で越える者と、やや間をおいて駕籠で越える者がいる。二人の関係はよくわからないが、どちらも年を取っている。
 三十句目。

   有明にしばしへだてて馬と籠
 露時雨より頭痛やみたり     九節

 群発頭痛ではないかと思う。はっきりしたことはよくわからないが、体内時計が関係していると言われていて、夜中や明け方に多いという。
 明け方の旅で、辺りが明るくなり、辺りにびっしりと露の降りているのが分かる時刻になると頭痛が引いて行く。さながら時雨のような頭痛だ。
 露時雨は雨ではないが、明け方に露がびっしりと降りて時雨が降ったようになることをいう。
 二裏、三十一句目。

   露時雨より頭痛やみたり
 引たてて留守にして置く萩の門  土芳

 「引たてて」も多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「引立」の解説」に、

 「〘他タ下一〙 ひきた・つ 〘他タ下二〙
  ① 横になっている物や人を引っ張って立つようにする。引き起こす。
  ※蜻蛉(974頃)上「生糸(すずし)のいとを長うむすびて、一つむすびては、ゆひゆひして、ひきたてたれば」
  ② 戸、障子などを、引き出してたてる。引いて閉じる。
  ※落窪(10C後)二「やり戸あけたりとておとどさいなむとて、ひきたてて、錠(ぢゃう)ささんとすれば」
  ③ 引いてきた車などを、とめる。車をとどめる。
  ※宇津保(970‐999頃)蔵開下「車ひきたててみる」
  ④ 馬などを、引いて連れ出す。引いて連れて行く。
  ※延喜式(927)祝詞「高天の原に耳(みみ)振立(ふりたて)て聞く物と、馬牽立(ひきたて)て」
  ⑤ いっしょに連れて行く。いっしょに行くようにせきたてる。また、無理に連れて行く。連行する。
  ※源氏(1001‐14頃)夕霧「やがてこの人をひきたてて、推し量りに入り給ふ」
  ⑥ 人や、ある方面の事柄を、重んじて特に挙げ用いる。特に目をかける。ひいきにする。
  ※古今著聞集(1254)一「重代稽古のものなりけれども、引たつる人もなかりけるに」
  ⑦ 勢いがよくなるようにする。気分・気力の勢いをよくする。気を奮い立たせる。
  ※新撰六帖(1244頃)六「杣山のあさ木の柱ふし繁みひきたつべくもなき我が身哉〈藤原家良〉」
  ⑧ 一段とみごとに見えるようにする。特に目立つようにする。きわだたせる。
  ※俳諧・七番日記‐文化七年(1810)九月「夕顔に引立らるる後架哉」
  ⑨ 注意を集中する。特に、聞き耳を立てる。
  ※うもれ木(1892)〈樋口一葉〉八「引(ヒ)き立(タ)つる耳に一と言二た言、怪しや夢か意外の事ども」

とある。この場合は「留守にして置く」が居留守を使う意味なので、②の意味で「萩の門」の戸を引いて閉じて置くという意味になる。
 頭痛がひどいので人に会いたくなかったのだろう。前句を「頭痛止みたり」ではなく「頭痛病」としたか。
 三十二句目。

   引たてて留守にして置く萩の門
 ひとりたまかにはこぶふる竹   雪芝

 「たまか」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「たまか」の解説」に、

 「① まめやかなさま。物事を緻密に処理するさま。実直。忠実。誠実。
  ※天理本狂言・忠喜(室町末‐近世初)「人の身に、はものをあつる事じゃ、たまかに、心をしづめて、それと云」
  ② 倹約で、ひかえめなさま。
  ※俳諧・西鶴大矢数(1681)第二九「たまか成遠里おのこかしこまり」
  ※滑稽本・六阿彌陀詣(1811‐13)二「とかく女中はものごと質素(タマカ)にするがよい」
  ③ こまかくてめんどうなさま。
  ※浮世草子・風流曲三味線(1706)二「びいどろの徳利の中へ和久(わく)を入れるたまかな細工などして」

とある。
 門を閉じるだけでなく、古竹で竹垣を作って、外から入れないようにする、ということか。
 三十三句目。

   ひとりたまかにはこぶふる竹
 ふらふらときせる〇付る貝のから 猿雖

 〇は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に、他の本に「きせるに」とあることを示している。「に」が入ると見ていいだろう。
 煙管の雁首と吸い口の間の「羅宇」と呼ばれる管の部分は竹でできているものが多かった。ウィキペディアには、

 「雁首、火皿、吸い口については耐久性を持たせるためにその多くが金属製であり、羅宇については、高級品では黒檀なども見受けられるが、圧倒的に竹が多いようである。」

とある。前句を煙管を作る職人としたか。
 煙管に付ける貝の殻は螺鈿に用いるのだろうか。竹と一緒に貝殻の袋をぶら下げて運び込む。
 三十四句目。

   ふらふらときせる〇付る貝のから
 いくつくさめのつづく朝風    惟然

 「くさめ」はくしゃみのこと。貝の殻ふらふらと定まらないのを、くしゃみが止まらないからだとする。
 三十五句目。

   いくつくさめのつづく朝風
 ざはざはと花の‥‥大手に    望翠

 ここも判読できない箇所があったようだ。大手にを「おほてに」と読むと下五が一文字足りない。
 いずれにせよ、これだけでは意味不明。
 挙句。

   ざはざはと花の‥‥大手に
 柳にまじる土手の若松      卓袋

 桜に柳は「柳桜をこきまぜて」の縁。春の錦に若松を添えて、一巻は目出度く終わる。

2021年8月24日火曜日

 今日はこのあとパラリンピックの開会式がある。さすがにパヨもパラは叩けない。障害者団体の反発にあうからね。マスコミもオリンピックの時とは違い、よいしょしまくっている。
 まあ、とにかく楽しみだ。俄で何が悪い、踊らにゃ損損、という感じで盛り上がろう。
 あと、「松茸や(都)」の巻と元禄五年冬の「口切に」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは「つぶつぶと」の巻の続き。

 十三句目。

   鱸釣なり鎌倉の浦
 大鳥のわたりて田にも畑にも   芭蕉

 渡り鳥で大鳥といえば、鶴や白鳥のことだろう。田にも畑にもやって来る。
 スズキの旬は夏だというが、この時期は沖の方にいることが多く、河口でのシーバス釣りの季節は秋から初冬の産卵前が良いという。渡鳥の飛来する季節でもある。
 十四句目。

   大鳥のわたりて田にも畑にも
 蕎麦粉を震ふ帷子の裾      卓袋

 渡り鳥の飛来の頃は秋蕎麦の収穫の頃になる。新蕎麦を打つと、帷子の裾に粉がつく。
 秋蕎麦は花が咲くのも遅く、この後九月三日に支考が伊賀にやって来た時に芭蕉は、

 蕎麥はまだ花でもてなす山路かな 芭蕉

の句を詠んでいる。
 十五句目。

   蕎麦粉を震ふ帷子の裾
 立ながら文書て置く見せの端   猿雖

 主人が蕎麦粉を篩う作業で忙しそうなので、手紙を持ってきたけどそっと置いて帰る。
 十六句目。

   立ながら文書て置く見せの端
 銭持手にて祖母の泣るる     芭蕉

 放蕩者の孫が金の無心に来たのだろう。祖母ももうこれ以上出せないと銭を手に持って、泣きながら差し出す。さすがに思う所があったのか、手紙を書いて店の端に置いて行く。
 十七句目。

   銭持手にて祖母の泣るる
 まん丸に花の木陰の一かまへ   土芳

 「一かまへ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「一構」の解説」に、

 「① 一つの建造物。特に、独立して一軒建っている家。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※武蔵野(1887)〈山田美妙〉中「崖下にある一構(ヒトカマヘ)の第宅(やしき)は」
  ② 一つのむれ。一群。
  ※浮世草子・好色五人女(1686)五「一かまへの森のうちにきれいなる殿作りありて」

とある。花の下に円形の建物というのはよくわからないので、まん丸に取り囲むような一群ということか。円形に人垣ができるというと、大道芸か何かで、祖母が感激して投げ銭をしたということか。
 十八句目。

   まん丸に花の木陰の一かまへ
 どこやら寒き北の春風      猿雖

 前句の「まん丸」を春の北風が丸く渦を巻いて、花の下でつむじ風になったとしたか。
 二表、十九句目。

   どこやら寒き北の春風
 旅籠屋に雲雀が啼ば出立焚    雪芝

 「出立(でたち)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「出立」の解説」に、

 「で‐たち【出立】
  〘名〙
  ① 旅立ち。門出(かどで)。出発。いでたち。しゅったつ。
  ※羅葡日辞書(1595)「Viáticum〈略〉Detachini(デタチニ) クワスル メシ」
  ② 旅立ちする際の食事。宿を出る際の食事。いでたち。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※浮世草子・好色一代男(1682)二「手枕さだかならず目覚めて、出立(デタチ)焼(たく)女に」
  ③ はじまり。発端。第一歩。また、出始め。
  ※蓮如御文章(1461‐98)二「その信心といふはなにの用ぞといふに〈略〉凡夫が、たやすく彌陀の浄土へまいりなんずるための出立(でたち)なり」
  ※交隣須知(18C中か)二「犢 タケノコノ デタチハ キナウシノ コノ ツノノ ヨフニゴザル」
  ④ 身なり。服装。扮装(ふんそう)。いでたち。
  ※史記抄(1477)一一「冠雄━いったう人のせぬてたちぞ」
  ※咄本・当世手打笑(1681)五「或時、女出立(デタチ)をして、夜あくるまでおどり、くたびれて部やに入」
  ⑤ 葬礼の出棺。でたて。

とある、この場合は②になる。朝の雲雀が鳴きだす頃には朝飯が炊き上がる。
 二十句目。

   旅籠屋に雲雀が啼ば出立焚
 ならひのわるき子を誉る僧    卓袋

 旅に出る僧は、これまで教えていた物覚えの悪い子供ともお別れで、この日は褒めている。
 二十一句目。

   ならひのわるき子を誉る僧
 冬枯の九年母おしむ霜覆ひ    芭蕉

 九年母(くねんぼ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「九年母」の解説」に、

 「① (「くねんぽ」とも) ミカン科の常緑小高木。インドシナ原産で、古く中国を経て渡来し、栽培される。幹は高さ三~五メートルになり、ミカンに似てやや大きく、長さ一〇センチメートルほどの楕円形の葉を互生する。初夏、枝先に芳香のある白色の五弁花を開く。果実は径六センチメートルぐらいの球形で、秋に熟して橙色になる。表皮は厚く種子が多いが甘味があり生食される。漢名は橘で、香橙は誤用。香橘(こうきつ)。くねぶ。くねんぶ。くねぼ。《季・秋‐冬》」

とある。
 前句の「子」の縁で「母」の字の入った九年母を付ける。「ならいのわるき」から「冬枯」も特に関連があるわけではないが、響きで展開する。
 冬枯れの九年母を惜しむように、習いの悪い子も褒める。
 二十二句目。

   冬枯の九年母おしむ霜覆ひ
 たまたますれば居風呂の漏    雪芝

 たまたま九年母に霜覆いをしていたら、風呂桶が漏っているのに気付く。
 二十三句目。

   たまたますれば居風呂の漏
 持鑓の一間所にはいりかね    望翠

 「一間所(いっけんどこ)」は「ひとまどころ」のことでコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「一間所」の解説」に、

 「〘名〙 一柱間を仕切った室。転じて一室。ひとま。
  ※曾我物語(南北朝頃)三「かれらを一まどころに呼びければ」

とある。鑓が長すぎて入れず、鑓がたまたま風呂桶に擦ってしまい漏れてしまった。
 二十四句目。

   持鑓の一間所にはいりかね
 あほうつかへば皆つかはれる   土芳

 「馬鹿と鋏は使いよう」という諺があるが、阿呆をうまく使うことができれば、誰でもうまく使える。前句の槍持ちをその阿呆とした。

2021年8月23日月曜日

 横浜市長選は小此木さんが石破グループで福田さんが麻生派で、つまり自民党の主流派は候補者を立てずに自由投票とした。最初から勝ちに行く気がなかったと見るのが良いだろう。事実上菅降ろしに同意したということだ。
 この自民党の主流派が九月の総裁選にどう動くのか。何か隠し玉はあるのか。それとも次の衆議院選挙に負けることで、党内の勢力図を入れ替える(反主流派潰し)という手に出るのか。いずれにせよ、アベノミクスの栄光を早く捨てられるかどうかが鍵だ。
 多分左翼とマス護美がいまだに安倍と菅の藁人形を叩いてるうちに、水面下で動いていると思う。ただ、それが九月に間に合わなければ、一度野に下るという選択もあるかもしれない。
 山中さんはワクチンの効果についてはよくわかっている人だから、そっちの方は大丈夫だろうけど、全員PCR検査とか、陽性者全員隔離とかしようとして医療現場を混乱させる恐れはある。あまり頑張らずに適当にやってほしい。
 ワクチンと言えばインドでDNAワクチンが承認され、台湾では組換えタンパク質ワクチンが承認された。DNAワクチンは日本ではアンジェスが開発中で、組換えタンパク質ワクチンは武田ノヴァヴァックスや塩野義製薬が手掛けている。国産ワクチンの承認は来年くらいにはあるのか。
 多少遅くなっても世界は二百億回分のワクチンを待っている。頑張れ。

 それでは元禄七年秋の俳諧の続きで、「松茸や(都)」の巻の翌日の八月二十四日の「つぶつぶと」の巻を読んでみようと思う。
 発句は、

 つぶつぶと掃木をもるる榎実哉  望翠

 エノキの実は直径五ミリくらいの丸いつぶつぶとした実で、これが落ちると小さくて、竹箒のような荒い庭掃き箒だと漏れてしまう。
 脇。

   つぶつぶと掃木をもるる榎実哉
 竹のはづれを初あらし吹     惟然

 竹は掃木の縁で、ここでは庭掃除の背景となる竹林であろう。竹林のはずれの庭では初秋の台風風が吹く。
 第三。

   竹のはづれを初あらし吹
 朝月に鶏さきへ尾をふりて    土芳

 初嵐の庭には鶏がいる。鶏というと朝なので、朝の月を添える。

季語は「月」で秋、天象。「鶏」は鳥類。
 四句目。

   朝月に鶏さきへ尾をふりて
 すればするほど豆腐売レ切    雪芝

 「すればするほど」は豆腐作りをすればするほどで、朝の豆腐はよく売れる。
 五句目。

   すればするほど豆腐売レ切
 大八の通りかねたる狭小路    猿雖

 大八車の入れないような小さな路地に売に行ったほうが、豆腐はよく売れる。
 六句目。

   大八の通りかねたる狭小路
 師走の顔に編笠も着ず      芭蕉

 狭すぎて編笠も引っかかってしまうような狭小路ということか。体を横にして通らなくてはなるまい。
 七句目。

   師走の顔に編笠も着ず
 痩ながら水仙ひらく川おもて   卓袋

 痩せた乞食僧か。川表は堤防の皮の方の斜面で、僧はそれを見ながら川の水仙を見て歩く。師走だというのに笠もなくて寒そうだ。
 八句目。

   痩ながら水仙ひらく川おもて
 野中へ牛を綱ほどきやる     九節

 前句の痩せた人物を牧童とし、牛を放牧する。
 九句目。

   野中へ牛を綱ほどきやる
 嫁入の来て賑かな門まはり    雪芝

 前句を婚資の牛としたか。
 十句目。

   嫁入の来て賑かな門まはり
 杖と草履を預りて置       望翠

 結婚式に来た人の杖と草履を門の所で預かる。
 十一句目。

   杖と草履を預りて置
 一くらい気色立たる月夜影    惟然

 「気色立(けしきだつ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「気色立」の解説」に、

 「〘自タ五(四)〙 (「だつ」は接尾語)
  ① きざしがみえる。発現のけはいが見える。
  ※源氏(1001‐14頃)賢木「初時雨いつしかとけしきだつに」
  ※徒然草(1331頃)一九「やや春ふかく霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ」
  ② 懐妊、出産の徴候をみせる。
  ※栄花(1028‐92頃)様々のよろこび「かかる程に、この左京大夫殿の御上、けしきだちて悩しうおぼしたれば」
  ③ 心のうちを顔色やそぶりに示す。意中を表わす。
  ※源氏(1001‐14頃)明石「宮この人もたたなるよりは言ひしにたがふと思さむも心恥かしう思さるれば、けしきたち給ふことなし」
  ④ 気どる。改まった様子をみせる。様子ぶる。
  ※能因本枕(10C終)一〇四「題出して女房に歌よませ給へば皆けしきたちゆるがしいだすに」
  ⑤ 物音や話し声がして活気づく。
  ※すみだ川(1909)〈永井荷風〉六「夢中になって声をかける見物人のみならず場中一体が気色立(ケシキダ)つ」

とある。
 「一(ひと)くらい」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「各別・格別」の解説」に、

 「浄瑠璃・平家女護島(1719)四「互に心おく女中、廿三四の色ざかり、町の風とは一位(ひとくらゐ)、顔も姿も各別(カクベツ)に」

という用例がある。
 いつもよりも改まった感じのする月影、あるいは月見の席ということか。杖と草履を預けて身なりを正す。
 十二句目。

   一くらい気色立たる月夜影
 鱸釣なり鎌倉の浦        猿雖

 格式の高い月見の宴には松江鱸魚が欲しいということで、鎌倉に鱸(すずき)を釣りに行く。実際は松江鱸魚はヤマノカミのことだという。同じスズキ目ではある。

2021年8月22日日曜日

 今日は旧暦七月十五日。旧盆で満月だ。
 日本のコロナ感染者の実効再生産数は八月二十一日の時点で1.25で、ピークだった八月一日の1.79から八月十六日の1.13まで下がり、再び上昇して横ばい状態にある。七月に1.37になって一度下がっているから、このまま三尊天井(Head and Shoulders Top)になってくれればいいが。
 コロナ対策も理想ならあれこれ言えるが、結局は人材不足が一番の問題ではないかと思う。全員PCR検査をすればいいと言われても誰がするのか、野戦病院を作れと言っても医者はどこから集めるのか。すべては開業医を守るために医学部を制限し、医者の数が増えないようにしてきた、日本医師会と行政の問題が根底にあるのではないかと思う。
 外国人医師が診察できないなんて国も珍しいのではないかと思う。東日本大震災の時も国境なき医師団が入れなかった。
 ワクチン接種の混乱も、接種の担い手が医師法上、医師、保健師、看護師に限られていることにも原因がある。
 今回はもう手遅れとしても、将来を考えるのなら医療行政全般の改革と、緊急事の私権制限の法制化は必要だ。それをためらう政治家だったら誰がなっても一緒だ。与党だろうが野党だろうが基本的に何もできない。
 まあ、それはともかくとして、「帷子は」の巻「残る蚊に」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは時を戻そう。「松茸や(都)」を読んでみようと思う。八月二十三日猿雖亭での、支考到着前の興行で、十六句のみが残されている。
 発句は。

 松茸や都に近き山の形リ     素牛

で、素牛は惟然の別号。
 この時にも誰かに松茸を貰って芭蕉以下連衆そろって召し上がったか。その松茸の興で興行を始める。
 松茸を見ていると都の近くにある山の形を思い出しますという句で、如意ヶ嶽(大文字山)のことか。
 脇。

   松茸や都に近き山の形リ
 雨の繩手のしるき秋風      土芳

 繩手は田畑の中の一本道で、京だと久我繩手か。都へ向かって歩いてゆく。
 元禄五年春の「両の手に」の巻二十九句目に、

   江湖披露の田舎六尺
 とつぷりと夜に入月の鳥羽繩手  芭蕉

の句がある。
 第三。

   雨の繩手のしるき秋風
 面白咄聞間に月暮て       猿雖

 「面白」は「おもしろし」と読む。
 月も暮れて雨になると繩手は真っ暗で、秋風の音が淋しい。こういう時でも何か面白い話をしていれば、あっという間に着いてしまう。
 四句目。

   面白咄聞間に月暮て
 まだいり手なき次の居風呂    芭蕉

 話があまりに面白いもんだから、風呂が沸いているのに誰も入ろうとしない。昔の風呂は誰かが薪をくべ続けないと火が消えてしまい、簡単に追い焚きなんてできない。
 五句目。

   まだいり手なき次の居風呂
 はこばする道具そろそろ置直し  土芳

 風呂に入りたくないのか、運んできた道具を時間稼ぎをするかのようにゆっくり置きなおす。
 六句目。

   はこばする道具そろそろ置直し
 日のさし込にすずめ来て鳴    素牛

 朝起きて、面倒くさそうにこれから運び出す道具を整理していると、日も高くなりスズメが鳴きだす。
 初裏、七句目。

   日のさし込にすずめ来て鳴
 冬はじめ熟柿をつつむすぐりわら 芭蕉

 「すぐりわら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「選藁」の解説」に、

 「〘名〙 よくえらび整えたわら。すぐれわら。
  ※大乗院寺社雑事記‐文明一二年(1480)七月晦日「今日早旦手水屋色々送物〈略〉すくりわら三把、杉原一帖」

とある。
 稲刈の後の田んぼには落ちた稲を求めて雀が集まってくる。そのころ人は熟した柿をきれいな藁で包む。
 「俺たちの百姓どっとこむ」というサイトには、

 「大きくて重い美濃柿は吊しても自重が重くて蔕と実が離れて落下してしまいます。そこで年配のおじいちゃんおばあちゃんに智恵を拝借したところ、この地域では昔、この美濃柿を藁にお(藁を集めて重ねて保管すること)の中に入れて保存して渋を抜いていたとのことでした。また、つとといって藁に挟んでおいたとのことでした。」

とある。
 八句目。

   冬はじめ熟柿をつつむすぐりわら
 置て廻しいせのおはらひ     猿雖

 「いせのおはらひ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「伊勢の御祓い」の解説」に、

 「伊勢神宮発行のお守りやお札。神札。
  ※御湯殿上日記‐明応七年(1498)四月一三日「いよとのいせの御はらゑのはこ」

とある。
 御祓いは箱に入れて配布される。コトバンクの「デジタル大辞泉「御祓箱」の解説」に、

 「1 (御祓箱)中世から近世にかけて、御師(おし)が、毎年諸国の信者に配って歩いた、伊勢神宮の厄よけの大麻を納めた小箱。はらえばこ。」

とある。
 九句目。

   置て廻しいせのおはらひ
 〇ひさしさへならで古風の家作リ 素牛

 最初の〇は良い句に与えられる点か。字数はあっているので、伏字ではないだろう。
 古い時代の民家は壁が多くて窓や障子の個所が少なく、藁ぶきの軒が大きく張り出しているため、庇を必要としなかったのだろう。
 前句の伊勢から古い時代の匂いで庇のない古民家を付ける。
 十句目。

   ひさしさへならで古風の家作リ
 内儀出て来る酒のとれ際     土芳

 古民家では昔ながらの酒造りが行われていて、そこの内儀が酒の出来たのを知らせてくれる。
 十一句目。

   内儀出て来る酒のとれ際
 敷付けて又も痛る頭はげ     猿雖

 「敷付けて」がよくわからない。板のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「敷・鋪」の解説」に、

 「③ 木材を薄く平らにしたもの。板。
  ※咄本・私可多咄(1671)二「昔さる所へ、史記をかし給へといひ付てつかはしければ、物の見事なる板を大男あまたにもたせて来りけるほどに、是は何事ぞといへば、しきと仰られたるほどに、しきは板の事なれば是をかりて参りたといふた」

とある。敷板のことか。はげ頭を痛めるなら、下に敷く板ではなく梁か何かのように思えるが。床が高くなって頭を打つということか。
 十二句目。

   敷付けて又も痛る頭はげ
 今宵は冷る浅茅生の番      芭蕉

 この場合は何か敷物を敷いて、浅茅生の上で寝転がる、ということだろう。
 十三句目。

   今宵は冷る浅茅生の番
 有明に唱来る音の一返し     土芳

 「唱来る」はルビがないが、「しゃうくる」だろうか。「唱(しゃう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「唱」の解説」に、

 「しょう シャウ【唱】
  〘名〙
  ① 詩歌。歌曲。〔謝霊運‐苦寒行〕
  ② うたうこと。よみあげること。となえること。

とある。
 「一返(ひとかへ)し」は「一返り」のことか。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①一度。一わたり。
  出典源氏物語 竹河
  「今ひとかへり折り返しうたふを」
  [訳] 今一度折り返し歌うのを。
  ②いっそう。ひとしお。
  出典狭衣物語 四
  「今ひとかへり悲しさの数そふ心地(ここち)し給(たま)ひて」
  [訳] 今いっそう悲しさのふえる気持ちにおなりになって。」

とある。
 何やら謡いながら来る人がいたと思ったら、浅茅生の番人だった。
 十四句目。

   有明に唱来る音の一返し
 みするほどなきはぜ籠の内    素牛

 見せるほどでもない、というのは大漁でもなければ坊主でもない微妙なところだ。前句をハゼ釣りの人とした。
 十五句目。

   みするほどなきはぜ籠の内
 弓はててばらばら帰る丸の外   芭蕉

 矢場から帰る人を城攻めに失敗した人に見立てて、城外を意味する「丸の外」としたか。さながらたいした釣果もなく帰るハゼ釣りの人のようだ。
 矢場はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「(1)古くは弓術の練習場をさし、この意味では弓場(ゆば)、的場(まとば)ともいう。武家では長さ弓杖(きゅうじょう)33丈(約76メートル)、幅は同じく1丈(約2.3メートル)と決められ、射場には(あずち)を築き、これに的をかける。矢場は城内や屋敷内、または人家の少ない郊外に設けられた。
 (2)江戸時代には、矢場は料金をとって楊弓(ようきゅう)(遊戯用小弓)を射させた遊戯場をさす。これは江戸での呼び名で、京坂では一般に楊弓場といった。楊弓は古くから行われ、主として公家(くげ)の遊戯であったが、江戸時代に民間に広がり、日常の娯楽として流行をみた。寛政(かんせい)(1789~1801)のころには寺社の境内や盛り場に矢場が出現、矢場女(矢取女)という矢を拾う女を置いて人気をよんだ。間口(まぐち)1、2間のとっつきの畳の間(ま)から7間(けん)半(約13.5メートル)先の的を射る。的のほか品物を糸でつり下げ、景品を出したが、矢取女のほうを目当ての客が多かった。的場の裏にある小部屋が接客場所となり、矢場とは単なる表看板で、私娼(ししょう)の性格が濃厚になった。1842年(天保13)幕府はこれを禁止したが、ひそかに営業は続けられ、明治20年代まで存続した。のちに、矢場の遊戯場の面は鉄砲射的に、私娼的性格は銘酒屋に移行したものもある。」

とある。元禄の頃には既に広まりつつあり、しばしば俳諧のネタになっている。
 十六句目。

   弓はててばらばら帰る丸の外
 縄を引ぱる壁の上ぬり      猿雖

 矢場のほうは儲かって、壁を塗りなおして立派になって行く。
 ここで中断されたのか、それとも懐紙が残ってないだけなのかはわからないが、とりあえずこの巻はここで終わる。

2021年8月21日土曜日

 生存競争は人間の場合、排除される前に排除しろという戦いになる。密告や讒言で他人を悪人に仕立て上げることで、自分だけ助かろうとする。裁かれる前に裁け、ということだ。ポルポト時代のカンボジアの虐殺もそうやって起きた。今のネット上も直接殺しはしないものの、それに近い。
 真の多様性とは「許す心だ」。多少の過ちを赦す心が多様性を生み出す。失敗が成功の元と言うように、失言は正論の元だ。人は失敗し、試行錯誤を繰り返すことで誠に至る。
 恐怖に負けてしまえば恐怖の奴隷だ。回避するためなら靴の底でも舐める。コロナでも戦争でも同じだ。
 そういうわけで、恐怖が支配する社会ではなく、笑いが支配する社会を作ろう。

 元禄七年の秋の俳諧を読んだところで、その前後の元禄八年刊支考編の『笈日記』「伊賀部」を見てみようと思う。

  「去年元禄七年後のさみだれに武江より旧里
   にわたりて洛の桃花坊にあそび湖の木そ塚に
   納凉して文月のはじめふたゝび伊賀に歸て
   したしき人々の魂など祭りて九月の始又難波
   津の方に旅だつ。この秋此別ありとしらばたの
   むべくなすべき㕝もおほかるべきに
   七月十五日
 家はみな杖にしら髪の墓まいり  翁」(笈日記)

 「後のさみだれ」は閏五月の五月雨ということか。芭蕉は東海道の島田で大井川の川止めにあっている。
 洛の桃花坊は京都長者町の去来亭のこと。この辺りは昔の京の条坊制で桃花坊と呼ばれていた。
 芭蕉は閏五月二十二日に膳所から京都移り、そこで落柿舎乱吟「柳小折」の巻を興行する。この時に支考も同座している。その後も「葉がくれを」の巻、「牛流す」の巻に同座している。この時興行は落柿舎で行われているが、実際には桃花坊去来亭に滞在していて、落柿舎に通っていたのかもしれない。距離にして一里半というところか。
 六月十五日に京都から膳所に移る。この時に支考も同行している。そして、翌十六日に曲翠亭での納涼の宴があり、支考が『今宵賦』を記し、そのあと「夏の夜や」の巻が興行される。
 このあと大津本間丹野亭での「ひらひらと」の巻、大津木節庵での「秋ちかき」の巻に同座し、『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、1994、角川書店)によれば七月五日に再び京都桃花坊の去来亭へ行き、七月中旬に伊賀上野に帰ったという。この時芭蕉と支考は別行動で、支考は伊勢へ戻ったようだ。
 九月に奈良を経て難波に旅立つまで、芭蕉は故郷の伊賀で過ごすことになる。

   七月十五日
 家はみな杖にしら髪の墓まいり  芭蕉

 この句は『三冊子』を読んだ時にも触れたが、元禄八年刊路通編の『芭蕉翁行状記』には、

 一家皆白髪に杖や墓参      芭蕉

とあり、元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』には、

   甲戌の夏大津に侍しをこの
   かみのもとより消息せられけれ
   ば旧里に帰りて盆會をいとなむとて
 家はみな杖にしら髪の墓参    芭蕉

とある。
 芭蕉も老いたが、郷里の親族も皆年を取っていて、思うこともいろいろあったことだろう。

  「八月十五日
 今宵誰よし野の月も十六里
   名月の佳章は三句侍りけるに外の二章は評を
   くはへて後猿蓑に入集す。爰には記し
   侍らず。今宵の前後にや有けむ猿雖亭
   にあそぶとて、
 あれあれて末は海行野分哉    猿雖
   鶴の頭をあぐる粟の穂    翁」(笈日記)

 今宵誰よし野の月も十六里    芭蕉

の句は今宵も誰か吉野で月を見ているのだろうか、ここから十六里もある、というもので、芭蕉が杜国(万菊丸)と吉野の花見に行ったことなどを思い出したのだろう。その花を俤にして、今宵の名月を詠むことで、花と月とを同居させている。
 外の二章というのは、

 名月に麓の霧や田のくもり    芭蕉
 名月の花かと見えて棉畠     同

で、この二句については2021年3月15日の鈴呂屋俳話に記している。ともに月と花との困難な同居をテーマとしている。
 「あれあれて」の巻は七月二十八日の猿雖亭での興行の句で、台風の通り過ぎた後だったのだろう。野分の去った後の垂れる粟の穂に、頭を挙げる鶴(コウノトリ)を配している。

  「九月二日
   支考はいせの國より斗従をいざなひて伊賀の山中
   におもむく。是は難波津の抖擻の後かならず
   伊勢にもむかへむと也。三日の夜かしこにいたる
   草庵のもうけもいとゞこゝろさびて
 蕎麥はまだ花でもてなす山路哉  翁
 松茸やしらぬ木の葉のへばり付  仝
   この松茸をその夜の巻頭に乞うけて一哥仙侍り
   爰に記さず。次の夜なにがしが亭に會して
 松茸や宮古にちかき山の形    惟然
 松風に新酒を澄す山路かな      支考
   此句は山路を夜寒にすべきよしにてその會
   みちて歸るとて集などに出すべくばもとの
   山路しかるべしといへり。いかなるさかひにか申されけむ
 行秋や手をひろげたる栗のいが  翁」(笈日記)

 ここで支考が伊勢から斗従を連れて伊賀で再び芭蕉と合流する。
 斗従は文代ともいう。
 抖擻(とそう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「抖擻・斗藪」の解説」に、

 「〘名〙 (dhūta 頭陀の訳) 仏語。
  ① 身心を修錬して衣食住に対する欲望をはらいのけること。また、その修行。これに一二種を数える。とすう。頭陀(ずだ)。
  ※性霊集‐三(835頃)中寿感興詩「斗藪之客、遂爾忘帰」
  ※源平盛衰記(14C前)一八「角(かく)て抖擻(トソウ)修業の後再(ふたたび)高雄の辺に居住して」
  ② ふりはらうこと。特に、雑念をうちはらって心を一つにすること。一つのことに集中して他のことを思わないこと。
  ※卍庵仮名法語(18C中か)「参禅は、刹那も油断あるべからず、出息入息、精神を抖擻(トソウ)し、前歩後歩」

とある。
 大阪での洒堂と之道の仲を仲裁した後ということだろう。
 九月三日の夜に支考と斗従は伊賀に着き、

 松茸やしらぬ木の葉のへばり付  芭蕉

という芭蕉が三年前に詠んだ発句を立句とした歌仙興行が行われ、斗従が脇を付けている。

   松茸やしらぬ木の葉のへばり付
 秋の日和は霜でかたまる     文代

 蕎麦の句は『続猿蓑』に、

   いせの斗從に山家をとはれて
 蕎麥はまだ花でもてなす山路かな 芭蕉

という前書きで収録されている。夏蒔きの蕎麦も山奥となればさらに遅く、旧暦九月にようやく花が咲き、食べるのはもっと後のことになる。抖擻(洒堂と之道の仲を仲裁)の後には蕎麦を食べようということだったか。
 もう一句の、

 松茸や宮古にちかき山の形    惟然

の方は、猿雖自筆懐紙に「戌八月廿三日猿雖亭」とあり、十六句が残っている。惟然、土芳、猿雖、芭蕉の四吟で、支考の参加はない。
 その一方で「戌九月四日會猿雖亭」という前書きで、

 松風に新酒をすます夜寒哉    支考

を発句とする五十韻が残されている。支考の記憶に混乱があったと思われる。
 なお、ネット上の玉城司さんの「『芭蕉翁追善之日記』と『笈日記」をめぐって『続猿蓑』編集の一端に及ぶ」に昭和初年に発見された『芭蕉翁追善之日記』との異同が記されている。これによつと、『芭蕉翁追善之日記』には、「蕎麦はまだ」の句の後が、

 其夜は殊の外につかれて、宵より臥す。次の日何某*の方より、松茸を一籠饋りけるに、支考も斗従も珍しくてならべ見けるに、
 松茸やしらぬ木の葉のへばり付  翁
 此松茸を今宵の巻頭に乞うけて、一歌仙満ぬ。爰にしるさず。五日の夜なにがしの亭に会あ
り。
 行秋や手をひろげたる栗のいが  翁
 此こゝろは伊賀の人々のかたくとゞむれば、忍びてこの境を出んに、後にはおもひ合すべきよ
し申されしが、永きわかれとはぬしだにもいのり給はじを、六日は猿雖亭に饗せられて、
 松風に新酒をすます山路かな   支考
 此句は山路を夜寒にすべきよし申されしに、其会みちて帰るとて、集などに出すべくは、もと
の山路しかるべしといへり。いかなるゆへにか申されけんしらず。」

になっている。これが元の記憶だったと思われる。
 三日に伊賀に着いた支考と斗従はその日は疲れて眠り、翌四日に何某から松茸の差し入れがあり、そこで芭蕉の旧作を聞いたのであろう。それを立句にしてこの夜歌仙興行が行われる。この歌仙には惟然も同座していて、おそらく八月二十三日の「松茸や(宮古)」の巻の時から滞在していた。
 何某が誰かはわからないが、猿雖以外だとすれば雪芝か。「松茸や(知)」の巻で芭蕉、斗従(文代)、支考のあと四句目を付けている。
 五日の何某亭の会では「行秋や」の句では興業は行われず、この時に同時に惟然の「松茸や(宮古)」の発句とともにこの時の興行の様子を詳しく聞かされたことから、この日に興行があったかのような偽記憶が作られてしまったのだろう。
 『笈日記』の方では、「行秋や」の句をいつ聞いたか記憶が曖昧になり、最後に付け加えることになった。
 そして六日に猿雖亭で「松風に」の巻の五十韻興行が行われた。支考、惟然が同座しているが、斗従(文代)は参加していない。
 「松風に」の句の改作については『三冊子』を読んだときに書いて、重複することになるが、記しておこう。

 「この句は元禄七年九月四日伊賀の猿雖亭での七吟五十韻興行の発句で、その時の発句は、

 松風に新酒をすます夜寒哉    支考

だった。興行の前に芭蕉にこの句を見せたところ「夜寒」にした方がいいと言われて、この形で興行を行ったが、帰り道で集に入れる場合は「山路」で言い、という話だった。
 この時の新酒は「あらばしり」と呼ばれるもので、「新酒をすます」というのは醪(もろみ)の入った袋を吊り下げて、搾り出す過程と思われる。こうして出来たあらしぼりは若干白濁しているが、どぶろくに較べれば雲泥の差の澄んだ酒になる。
 新酒を用意してくれた亭主猿雖への感謝という意味では、このような夜寒の季節に新酒はありがたいの方がふさわしかった。
 山路だと旅体になる。山路を行くうちに新酒も濾過され、宿に着く頃には美味しい新酒が飲めるという意味になる。おそらく猿雖亭に行くまでの道でできた句であろう。
 興行の際の立句と書物に乗せる際の発句との違いといえよう。」

 実際は九月六日の興行だったのではなかったか。

 行秋や手をひろげたる栗のいが  芭蕉

 この句は興行には用いられなかった。栗は熟してくるといがが開いてくる。それを握っていた手が開くのに喩えたもので、明白な寓意はない。
 ただ、

 手をはなつ中におちけり朧月   去来

の句が『去来抄』「先師評」にあるところから、「握っていた手をひろげる=手を放つ」というところで別れを暗示していたのかもしれない。

2021年8月20日金曜日

 ワクチンの副反応は打った方の腕が痛いだけでたいしたことはなかった。これで体の中に進化が起きて、「告、コロナ耐性の獲得に成功しました」ってなればいいな。
 輝井永澄さんの『空手バカ異世界』を有料で読んだが、「空手バカ一代」(原作:梶原一騎・作画:つのだじろう)のパロディーかと思ったら、なかなか本格的な異世界物のストーリー展開だった。
 チートで得た力ではいくら強大なものであっても世界は救えない。世界を救うには一人一人が自分の持てる力で、あきらめることなく自ら切り開かなくてはならないというテーマは、今のアフガニスタンにも当てはまるのではないかと思う。米軍召喚なんてチートではあの国は救われなかった。
 大事なことはみんなラノベが教えてくれる。
 そういうわけで筆者の場合は「空手を信じろ」ではなく、「風流を信じろ」と言っておこう。

 それでは「残る蚊に」の巻の続き、三十句目まで。

 十六句目。

   秋風の雨ほろほろと川の上
 かち荷は舟を先あがる也     風麦

 前句の「川の上」から、雨の中を船が着いたとする。歩いて運べる小さな荷物をまず降ろし、それから馬に載せる大きな荷物を降ろす。
 十七句目。

   かち荷は舟を先あがる也
 美濃山はのこらず花の咲き揃ひ  芭蕉

 美濃山はどこの山なのか。美濃というと稲葉山が思い浮かぶが。京都八幡にも美濃山という地名がある。前句からすると川に近い水運の要衝であろう。
 十八句目。

   美濃山はのこらず花の咲き揃ひ
 とてもするなら春の順礼     苔蘇

 「とても」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「迚」の解説」に、

 「〘副〙 (「とてもかくても」の略)
  [一] 条件的に、どうしてもこうしてもある結果になる意を表わす。
  ① いかようにしても。とうてい。何にしても。どっちみち。どうせ。結局。しょせん。
  (イ) (打消を伴って) あれこれしても実現しない気持を表わす。
  ※平家(13C前)三「日本国に、平家の庄園ならぬ所やある。とてものがれざらむ物ゆへに」
  ※田舎教師(1909)〈田山花袋〉一一「とても東京に居ても勉強などは出来ない」
  (ロ) 結局は否定的・消極的な結果になる気持を表わす。諦めや投げやりの感じを伴いやすい。
  ※延慶本平家(1309‐10)五本「下へ落しても死むず。とても死(しな)ば敵の陣の前にてこそ死め」
  ※俳諧師(1908)〈高浜虚子〉四五「もうああ狂って来ては迚(トテ)も駄目だらうね」
  (ハ) 決意を伴っていう。どうあろうと。
  ※太平記(14C後)五「や殿矢田殿、我はとても手負たれば此にて打死せんずるぞ」
  (ニ) 否定的・消極的ではなく肯定的な内容を導く。
  ※歌謡・閑吟集(1518)「とてもおりゃらば、よひよりもおりゃらで、鳥がなく、そはばいく程あぢきなや」
  ※西洋道中膝栗毛(1870‐76)〈仮名垣魯文〉六「とてもねがふなアアら大きなことをねエエがヱ」
  ② 事柄が成立する前にさかのぼって考える気持を表わす。どうせもともと。
  ※三道(1423)「又、女物狂の風体、是は、とても物狂なれば、何とも風体を巧みて、音曲細やかに、立振舞に相応して、人体幽玄ならば」
  ③ あとの句に重みをかけていう。どうせ…だから(なら)いっそ。「の」を伴うことがある。
  ※風姿花伝(1400‐02頃)二「さりながら、とても物狂に(ことよ)せて、時によりて、何とも花やかに、出立つべし」

とある。近代には強調の言葉となり「とっても」ともいう。
 ここでは肯定的な内容を導くので「何はともあれ」くらいの意味か。
 花の季節なら吉野順礼だろう。芭蕉も『笈の小文』の旅の時は、伊賀で「さまざまの事おもひ出す桜哉」と詠んでから吉野の花見に出発した。山は桜が咲くのが遅いので、そのタイミングでちょうどよかったのだろう。
 二表、十九句目。

   とてもするなら春の順礼
 永き日の西になつたるきりめ縁  玄虎

 「きりめ縁」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切目縁」の解説」に、

 「〘名〙 板の張り方による縁の形式の一つ。縁板を敷居と直角方向に張った縁。濡縁(ぬれえん)にみられる。木口縁(こぐちえん)。⇔榑縁(くれえん)。
  ※政談(1727頃)二「家居には床・違棚・書院作り・長押造り・切目縁」

とある。
 春の穏やかな日もやがて西に傾いてゆく。それによって、南向きの縁側の切目に影ができるようになる。
 西へ行く日に世の無常を感じ、そうだ順礼に行こう。
 二十句目。

   永き日の西になつたるきりめ縁
 あはれにぬるる雨の白鷺     雪芝

 縁側が哀れに濡れると思わせて、濡れているのは白鷺だった。日が西に傾く頃、雨が降り出す。
 二十一句目。

   あはれにぬるる雨の白鷺
 のかれぬやよそからは来ぬ冬の来て 風麦

 冬は他所からやって来るのではなく、どこもかしこも一斉に冬になる。逃れることはできない。前句の白鷺の雨を時雨とする。
 二十二句目。

   のかれぬやよそからは来ぬ冬の来て
 柴焚くかげに遊ぶ夜すがら    土芳

 寒い冬は柴を焚いて暖を取りながら、遊んですごそう。
 二十三句目。

   柴焚くかげに遊ぶ夜すがら
 寒竹の杖のふしよむ老のわざ   玄虎

 寒竹(かんちく)はウィキペディアに、

 「カンチク(寒竹)は日本原産の竹の一種だが本来の自生地は不明である。種名の由来は晩秋から冬にかけてタケノコが出ることからであり、耐寒性がある訳ではない。
 稈は黄色または黒紫色で、普通2mほどであるが、時には5-6mになる。葉にはまれに白条がある。径数mmの細い竹だがその色は紫黒色で光沢があるので美しく、飾り窓や家具などに使われ、庭などに植えられて観賞されている。」

とある。
 柴を焚いて暖を取りながら、老人は寒竹の杖の節の数を数えている。
 二十四句目。

   寒竹の杖のふしよむ老のわざ
 しらぬ山路を馬にまかせて    玄虎

 杖を持っているということで旅の老人とし、旅体に転じる。
 「馬にまかせて」は地元の人に馬を借りて、馬が道を知っているから何もしなくても着くということ。
 『奥の細道』の「かさね」のところに、

 「那須の黒ばねと云ふ所に知る人あれば、是より野越えにかかりて直道(すぐみち)をゆかんとす。遥(はるか)に一村(いっそん)を見かけて行くに雨降り日暮るる。農夫の家に一夜(いちや)をかりて、明くれば又野中を行く。そこに野飼ひの馬あり。草刈るおのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情(なさけ)しらぬには非ず、『いかがすべきや、されども此の野は縦横(じゅうわう)にわかれて、うゐうゐ敷(しき)旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此の馬のとどまる所にて馬を返へし給へ』とかし侍りぬ。」

とある。馬はいつも通る道をちゃんと覚えているから、馬に任せて行けば道に迷うことはない。
 二十五句目。

   しらぬ山路を馬にまかせて
 暮るより寺を見かへる高灯籠   雪芝

 馬に任せて行くと日も暮れて、振り返ると寺の高灯籠が見える。
 二十六句目。

   暮るより寺を見かへる高灯籠
 すすきのかげにすへるはきだめ  芭蕉

 寺の入口の高灯籠の向こう側には、お寺のゴミ捨て場がある。お寺あるある。
 二十七句目。

   すすきのかげにすへるはきだめ
 むげなれや月にとはるる人も哉  土芳

 お寺に月見に集まってくる人もどこかみんな訳ありな連中で、掃き溜めのようだ。
 二十八句目。

   むげなれや月にとはるる人も哉
 琵琶のいはれを語る竹縁     風麦

 月見やってきた人にも、自分の自慢の琵琶の謂れを延々と語る。周りにいる人は、また始まったか、無碍なるや、と思う。
 二十九句目。

   琵琶のいはれを語る竹縁
 思ひきる跡よりなみだつきかけて 土芳

 琵琶法師の語る悲しい恋物語にみんな泪も尽きかけた頃、法師は物語の謂れを語り始める。
 三十句目。

   思ひきる跡よりなみだつきかけて
 にほひするかみしよぼくねて越  苔蘇

 「しょぼくねて」は「しょぼくれて」か。
 女の香しい髪もすっかり惨めな状態になって、失恋の悲しい時期を乗り越えて行く。

 恋の句が続いて盛り上がってきたところだが、残念ながら後の二裏六句を欠いている。

2021年8月19日木曜日

 今日ようやく一回目のワクチン接種に行った。ちょうど国全体でも50パーセントが少なくとも一回の接種を終えたところで、何とかその半分の方に入ることができた。
 アフガニスタンの問題が連日報道されているが、基本的に西洋社会の過干渉が問題をややこしくしているのではないかと思う。改革派の西洋依存がムスリム文化の独自の発展を妨げているのではないか。
 今のコロナが一般人対医者の戦いになっているというのは、医療体制のこれまで抱えていた問題がコロナによって表面化してしまった部分が大きいため、医者の側、特に日本医師会への不満があるからだ。
 コロナで重症化して、救急車は来たが受け入れる病院が見つからなくて盥回しになるというのが問題になっているが、実際はコロナと関係なく、救急車の盥回しはここ何十年、筆者の子どもの頃から問題になっていた。それが改善されてなかった付けが回って来たとも言える。

 あと、元禄五年秋から六年春の「苅かぶや」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 さて、秋の俳諧をまた続けていこう。
 元禄七年に飛んで、今回は「残る蚊に」の巻で、三十句のみ残っていて完全ではない。七月中旬からの伊賀滞在中と思われる。
 発句は、

 残る蚊に袷着て寄る夜寒哉    雪芝

になる。
 すっかり夜寒になり、こうして袷を着て集まっているのは興行の時の様子であろう。寒くなったのにまだ蚊がいて、秋の蚊はしつこくて嫌ですね、といったところだろう。
 脇は芭蕉が付ける。

   残る蚊に袷着て寄る夜寒哉
 餌畚ながらに見するさび鮎    芭蕉

 「餌畚(ゑふご)」は鷹匠の持ち歩く餌袋のことだが、釣の時の餌を入れる竹籠にも使う。「さび鮎」は秋の産卵期の鮎で「落ち鮎」ともいう。この時期の鮎は友釣りもできず、餌釣りも食いが悪いという。だからこの「さび鮎」は貴重なものだともいえよう。
 「寒いのに蚊がいるところですいません」「いえ、この時期の鮎は貴重です」といったところか。
 第三。

   餌畚ながらに見するさび鮎
 夕月の光る椿は実になりて    土芳

 椿は秋に実をつけ、圧搾絞りで油がとれる。さび鮎の季節を付ける。
 四句目。

   夕月の光る椿は実になりて
 薄かき色に咲ける鶏頭      風麦

 鶏頭は普通は赤いが、薄柿色の鶏頭が椿の実のなる傍らに咲いている。園芸品種として作られたものだろうか。
 五句目。

   薄かき色に咲ける鶏頭
 身をそばめ二人つれ行在郷道   玄虎

 在郷道はいわば街道を外れた田舎道ということだろう。旅は二人連れの場合が多いので、この場合も旅人だろう。ちょっと寄り道してゆくと鶏頭が咲いている。
 六句目。

   身をそばめ二人つれ行在郷道
 こぶちかけ置霜のあけぼの    苔蘇

 「こぶち」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「首打・機」の解説」に、

 「〘名〙 (「こうべうち(首打)」の変化した語) 野鳥や獣の首をうちはさんで捕えるわな。おし。おとし。こぶつ。〔俗語考(1841)〕」

とあり、「世界大百科事典内のコブチの言及」に、

 「これの小型で,棒を上下に置き,または籠を釣って小鳥が下にまいた餌をついばむと糸がはずれて首をはさむもの,または籠が落下して生捕りするものは,平安時代の絵にも描かれており,クブチあるいはコブチといって現在でも山村で行われる。」

とある。
 二人連れで来て仕かけておくなら、ある程度大型のものか。
 初裏、七句目。

   こぶちかけ置霜のあけぼの
 煤萱を目利のうちにかたづけて  芭蕉

 目利(めきき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「目利」の解説」に、

 「① 目が利くこと。視力がすぐれていること。方々に目をくばり見つけることが早いこと。目ざといこと。めかど。また、その人。
  ※名語記(1275)六「声をこそきくに、目きき、手きき、心ききのきき如何」
  ② 物の真贋(しんがん)・良否などを見わけること。鑑定。また、価値を判断する能力があること。めかど。また、その人。
  ※風姿花伝(1400‐02頃)一「これも、まことの花にはあらず。〈略〉。まことの目ききは、見分くべし」
  ※咄本・醒睡笑(1628)四「五分や三分長くとも、二尺三寸というてあらそひけるが、めききするうへにこそ、そのならひはあらんずれと」

とある。今はもっぱら②の意味で用いられるが、ここでは①の意味で、目の利く明るいうちにという意味だろう。
 煤萱は萱を刈った跡の屑か何かで、人の痕跡が残っていると動物に警戒されるから、それを前日の明るいうちに片づけておいて、明け方にコブチを仕掛ける。
 八句目。

   煤萱を目利のうちにかたづけて
 つりて貴き門の鰐口       雪芝

 鰐口は今でもお堂で参拝するときに、賽銭箱の上に紐が垂れていて、それを打ち鳴らす。神社は鈴で仏堂は鰐口を用いている。
 門の前の煤萱を綺麗に掃除してから鰐口を吊り下げる。
 九句目。

   つりて貴き門の鰐口
 大木の梢は枝のちぢむなり    風麦

 縮むは剪定されるということか。鰐口を吊って寺を新しくすれば、庭の木もきちんと剪定される。
 十句目。

   大木の梢は枝のちぢむなり
 野に麦をしてこかす俵物     土芳

 俵物(へうもの)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「俵物」の解説」に、

 「ひょう‐もの ヘウ‥【俵物】
  〘名〙 俵に入れたもの。また俵づめした穀類。俵子(ひょうす)。ひょうもつ。たわらもの。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)一「杉ばへの俵物(ヒャウモノ)、山もさながら動きて」

とある。
 野に麦を植えて畑にし、廻りの木の枝を切り払う。麦が取れれば麦俵が積み上がって、転げ落ちる程になる。
 十一句目。

   野に麦をしてこかす俵物
 山臥についなつて来て札賦る   苔蘇

 特になりたかったわけでもなく、成り行きで山伏になってしまったのだろう。麦農家のところへやってきてお札を配るが、俵をひっくり返したりしてへまをする。
 狂言『柿山伏』の連想を狙ったのかもしれない。
 十二句目。

   山臥についなつて来て札賦る
 一里行ても宿をとる旅      玄虎

 札配りが忙しくてなかなか先へ進めない。
 十三句目。

   一里行ても宿をとる旅
 掛物の布袋の顔に月指て     雪芝

 掛物は掛け軸のこと。書画骨董を求めての旅か。
 十四句目。

   掛物の布袋の顔に月指て
 百のやいとにきりぎりす啼    芭蕉

 前句を掛物の布袋さんのような風貌の、ということにしたか。でかくて重たい体はお灸の跡がたくさんあって、月見をすればコオロギが鳴く。
 十五句目。

   百のやいとにきりぎりす啼
 秋風の雨ほろほろと川の上    土芳

 百のやいとを老人として、人生の秋を感じさせるような秋の寂しげな景色を付ける。

2021年8月18日水曜日

 今日は朝は晴れていたが、昼に俄雨が降った。風が秋風でそれほど暑さを感じなかった。
 沖縄のうるま市の病院クラスターの情報がかなり混乱している。64人という死者の数は短期間に出たものではない。七月に入ってからの全沖縄の死者がそれくらいなので、ワクチン接種以前の感染者が多く含まれているのは間違いない。
 現在の沖縄では一日一人か二人くらいの死者しか出ていない。累計で246人。(八月十六日の時点)
 ワクチンが効いてないかのような悪意ある印象操作がこのごろ多すぎる。
 左翼の反ワクチン扇動。

 1,ワクチンは効かないし有害だから打つべきではない。
 2,ワクチンは効くが政府のワクチン接種は遅れている。
 3,政府がワクチン接種を急ぎ過ぎて現場で混乱が生じている。

 いわゆる鍋の論理。(3に関しては本当だと思うが。)

 あと、鈴呂屋書庫に「朝顔や」の巻「初茸や」の巻をアップしたのでよろしく。
 それでは「帷子は」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   此あたたかさ明日はしぐれむ
 夜あそびのふけて床とる坊主共  史邦

 さんざん遊び歩いたお坊さんたち。今は良いけど明日は怖い?
 二十六句目。

   夜あそびのふけて床とる坊主共
 百里そのまま船のきぬぎぬ    芭蕉

 船饅頭のことか。ウィキペディアに、

 「船饅頭(ふなまんじゅう)は、江戸時代に江戸の海辺で小舟で売春した私娼である。」

とあり、

 「『洞房語園』には、

 「いにし万治の頃か、一人のまんぢう、どらを打て、深川辺に落魄して船売女になじみ、己が名題をゆるしたり」

とある。
 寛保ころの流行歌にもあり(『後は昔物語』)、宝暦の『風流志道軒伝』には、

「舟饅頭に餡もなく、夜鷹に羽根はなけれども」

とある。」

とある。
 まあ、そのまま百里の彼方まで船で連れ去られるということはなかったと思うが。
 二十七句目。

   百里そのまま船のきぬぎぬ
 引割し土佐材木のかたおもひ   岱水

 土佐杉は船で上方や江戸に運ばれ、都市の造成に貢献してきた。
 船で運ばれてきた木材はやがて切断加工され、それぞれの消費地へと向かう。引き裂かれた材木は再び会うこともない。
 二十八句目。

   引割し土佐材木のかたおもひ
 よりもそはれぬ中は生かべ    史邦

 切断された二本の材木の間には生かべが立ちふさがる。「中」は間という意味と「仲」とに掛ける。
 「生かべ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「生壁」の解説」に、

 「① 塗りたてで、まだよく乾いていない壁。
  ※春日社記録‐中臣祐春記・弘安一〇年(1287)六月六日「移殿御壁近日塗之間、なまかべ也」
  ② 「なまかべいろ(生壁色)」の略。」

とある。
 二十九句目。

   よりもそはれぬ中は生かべ
 云たほど跡に金なき月のくれ   芭蕉

 お金がないとなると二人の仲も盤石ではない。生壁程度になる。
 三十句目。

   云たほど跡に金なき月のくれ
 もらふをまちて鴫ののつぺい   岱水

 のっぺい汁はウィキペディアに、

 「原型は、寺の宿坊で余り野菜の煮込みに葛粉でとろ味をつけた普茶料理「雲片」を、実だくさんの澄まし汁に工夫したものという。精進料理が原型だが、現在では鶏肉や魚を加えることもある。」

とある。当時でも鴫や鴨を用いていた。延宝六年の「さぞな都」の巻二十六句目に、

   鍋の尻入江の塩に気を付て
 のつぺいうしと鴨のなく覧    信徳

の句がある。
 金がないので鴫を貰ったらのっぺい汁を作ろうと、貰えるのを待っている。
 二裏、三十一句目。

   もらふをまちて鴫ののつぺい
 摺鉢にうへて色付唐がらし    史邦

 摺鉢で唐辛子をするのではなく、植木鉢にして唐辛子を植え、実ったらそれを薬味にし、鴫が貰えるのを待ってのっぺい汁にする。
 育つかどうかわからない唐辛子に、貰えるかどうかわからない鴫。楽観主義者に燃えている。
 三十二句目。

   摺鉢にうへて色付唐がらし
 障子かさぬる宿がえの船     芭蕉

 宿がえは引っ越しのこと。障子もみんな持って行き、庭の唐辛子も摺鉢に植えて持って行く。引っ越した後には何も残らない。
 三十三句目。

   障子かさぬる宿がえの船
 北南雪降雲のゆきわたり     岱水

 前句の「障子かさぬる」を雪除けのためとしたか。
 三十四句目。

   北南雪降雲のゆきわたり
 二夜三日の終るあかつき     史邦

 二晩三日にかけて雪が続いた後、ようやく雪が止み晴れる。辺りは大雪ですっかり景色が変わっていることだろう。
 三十五句目。

   二夜三日の終るあかつき
 考てよし野参のはなざかり    岱水

 吉野参りに行こうかどうか三日二晩悩みに悩んだが、やはり花盛りを見ると来て良かったという所だろう。「何々したあかつきには」というように、「あかつき」には「後で、結果」という意味がある。
 挙句。

   考てよし野参のはなざかり
 百姓やすむ苗代の隙       芭蕉

 百姓も苗代を作れば、田植までの間暇なので吉野へ花見に行く。

2021年8月17日火曜日

 ワクチン接種回数は昨日の時点で111,050,989回、一回での接種した人は49.7%になった。
 日本はワクチンの絶対数が不足しているわけではない。横浜も決して褒められた状況でもないが、ただ場所をえり好みしなければワクチンを打つ機会は十分にある。日本には十分なワクチンがあって、三回目のブースター分まで確保できたという。日本にワクチンが不足しているというのはデマだ。
 七月のワクチン不足と言われたものは、自治体がワクチンの接種回数の入力を怠り、ワクチンが余っていると判断されたから起きたもので、それに加えて、二回目の接種を優先させたために65歳未満の一回目接種が遅れたためだ。国はワクチンを確保したが、一部自治体がその速度に対応できなかったというのが真相だ。
 ただ、気をつけよう。秋の衆議院選挙で左翼政権が誕生するようなことがあれば、アメリカの方からワクチンを止められる可能性がある。隣の国をよく見て参考にすると良い。
 俳諧の方では元禄五年春の「両の手に」の巻をアップした。真偽の疑いのある一巻だが、思いのほか完成度が高く、一応こう書いておいた。

 「印象からすると、蕉門らしさは十分感じられるし、かなり完成度の高い一巻なのだが、其角と嵐雪が何となくそのキャラではないように思える。ただ、それは軽みの風を指導した結果かもしれない。
 あるいは芭蕉が原型をとどめぬほど改作してしまい、実質独吟になってしまったのかもしれない。其角嵐雪がプライドを傷つけられた形になり、長いこと埋もれていたという推測もできる。」

 それでは「帷子は」の巻の続き。

 十三句目。

   秋入どきの筋気いたがる
 塩濱にふりつづきたる宵の月    史邦

 塩濱は塩田のことで、江戸の近くでは行徳も塩の産地となった。月の灯りに白い塩が浮かび上がって、さながら雪のような光景は、

 衣手はさむくもあらねど月影を
     たまらぬ秋の雪とこそ見れ
              紀貫之(後撰集)

の歌を思わせる。前句を塩田の労働者とする。
 十四句目。

   塩濱にふりつづきたる宵の月
 無住になりし寺のいさかひ     芭蕉

 これはよくわからない。『校本芭蕉全集 第五巻』の宮本注は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)を引用して、

 「寺はそのあたり(前句)にて住持なくなりて後は、下司法師どもがおのがじじにいさかひある体也。」

とある。
 十五句目。

   無住になりし寺のいさかひ
 持なしの新剃刀もさびくさり    岱水

 無住になった寺には、かつての住職の使っていた新しかった剃刀も放置され、そのまま錆びてしまったいる。前句は、いさかいがあって無住になったという意味になる。
 十六句目。

   持なしの新剃刀もさびくさり
 土たく家のくさききるもの     史邦

 乞食坊主のなれの果てだろう。竃もなく土の上で直に焚火をし、臭い匂いのする着物を着ている。
 十七句目。

   土たく家のくさききるもの
 花に寐む一畳あをき表がへ     芭蕉

 花の下で全財産はたいて畳一畳を敷き、「願わくば花の下にて春死なん」ということか。
 十八句目。

   花に寐む一畳あをき表がへ
 小姓の口の遠き三月        岱水

 前句を畳の上で寝ることを願うとし、暇になった小姓を付ける。
 二表、十九句目。

   小姓の口の遠き三月
 竹橋の内よりかすむ鼠穴      史邦

 竹橋は江戸城内郭(うちぐるわ)門の一つで、ウィキペディアに、

 「竹橋の名は、竹を編んで渡した橋だったからとも、また後北条家の家臣・在竹四郎が近在に居住しており「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われる。
 「別本慶長江戸図」には『御内方通行橋』と記してあり、主として大奥への通路に用いられたようである。」

とある。
 竹橋は江戸城の小姓の出入り口でもあったか。部屋の鼠穴を見ながら、竹橋から出入りしていた頃を思い出す。
 二十句目。

   竹橋の内よりかすむ鼠穴
 馬の糞かく役もいそがし      芭蕉

 竹橋は馬も通るので、馬の糞を片付ける人もいる。
 二十一句目。

   馬の糞かく役もいそがし
 夕ぐれに洗澤賃をなげ込で     岱水

 馬の糞を掻く人は服の洗濯が欠かせない。仕事が終わったらその日着たものをすぐに洗濯に出す。
 二十二句目。

   夕ぐれに洗澤賃をなげ込で
 とはぬもわろしばばの吊      史邦

 「吊」は「とぶらひ」で弔の間違いと思われる。
 富山県クリーニング生活衛生同業組合のホームページによると、

 「室町時代(1338~1573年)に、染物屋である紺屋が営業としてはじめたものである。 顧客は、公卿や幕府に仕える武家やあった。
 副業から専業になるのは、江戸時代の元禄(1668~1704年)から、享保(1716~1736)にかけてであり、江戸で洗濯屋が、京都では、紺屋から独立した洗い物屋が出現する。」

とあり、紺屋が関西では穢多と関連付けられていたため、洗濯屋にも賤民のイメージがあった。
 元禄三年暮の「半日は」の巻十三句目に、

   右も左も荊蕀咲けり
 洗濯にやとはれありく賤が業   乙州

の句がある。
 同ホームページはその洗濯屋の様子として、

 「江戸時代の洗濯屋は洗濯女が2人1組になって、顧客の家へ出かけ灰汁を使った洗濯で木綿を主とする衣料の洗濯をしている。」

とある。
 洗濯屋に婆の弔いのことを聞くのは、婆の葬儀に関係していたからかもしれない。
 二十三句目。

   とはぬもわろしばばの吊
 椀かりに来れど折ふしゑびす講  芭蕉

 恵比寿講は商人たちが商売繁盛を願い、御馳走を食べてお祝いする。椀のがくさん必要なときだが、そこに婆の葬儀が重なってしまう。
 二十四句目。

   椀かりに来れど折ふしゑびす講
 此あたたかさ明日はしぐれむ   岱水

 恵比寿講は旧暦十月で時雨の季節だ。暖かい日と寒い日が交互に来たりする。昼の暖まった湿った空気が夕暮れの雨を生むか。

2021年8月16日月曜日

 今日も雨で西の方ではかなり被害が出ている。ドイツの映像との違いはやはり泥かな。土の質が違うんだろうな。
 カブール陥落、大統領亡命で、あらためて隣の国が心配になる。米軍が撤退したらあんなふうになるのかな。
 イスラム圏の問題はムスリムが考えなければいけないことで、結局一番問題なのは、民主主義や資本主義と調和できるようなムスリム社会のモデルが作れてないことだ。
 自分たちの社会モデルが思い描けないところで西洋の猿真似をしてもどうしても無理がある。結局は西洋と結びついた特権階級が利権を独占して腐敗する。そこにイスラム原理主義に付け込まれる。
 西洋だって既存のキリスト教の権威と戦って近代社会を作ったんだし、日本人だって王政復古は律令制の復活なんかではなかった。明治憲法の体制は良いに着け悪いにつけ伝統との戦いだった。それをせずにムスリムが近代化を果たすことはできない。
 あと、そういえば昨日のあのリストの中にウーマン村本さんも入れてあげないとね。Mr.mRNA。あんたらがいないと2ちゃんも淋しくなる。
 あと、鈴呂屋書庫に元禄五年春の「鶯や」の巻をアップしたのでよろしく。

 俳諧の方は引き続き元禄六年の秋で、史邦、芭蕉、岱水の三吟歌仙、「帷子は」の巻を読んでいこうと思う。芭蕉の閉関前の興行になる。
 発句は

   三吟
 帷子は日々にすさまじ鵙の聲   史邦

 帷子(かたびら)は夏の一重の着物で、秋になるとこれ一枚では寒くなってくる。
 モズは秋になると高鳴きをする。ウィキペディアには、

 「秋から11月頃にかけて「高鳴き」と呼ばれる激しい鳴き声を出して縄張り争いをする。縄張りを確保した個体は縄張りで単独で越冬する。」

とある。
 脇は芭蕉が付ける。

   帷子は日々にすさまじ鵙の声
 籾壹舛を稲のこき賃        芭蕉

 前句を稲刈りの頃とし、脱穀の作業をした人に籾一升の給与を出すとする。
 脱穀は元禄期に千歯こきが発明されたとはいえ、一般にはまだ普及してなかったのだろう。それ以前は竹製の箸のようなものを用いてたため、時間がかかった。脱穀を手伝うと脱穀したばかりの籾を一升分けてもらえたようだ。これが何割くらいなのかはよくわからない。
 第三。

   籾壹舛を稲のこき賃
 蓼の穂に醤のかびをかき分て    岱水

 醤(ひしほ)はコトバンクの「百科事典マイペディア「醤」の解説」に、

 「なめみその一種。味噌や醤油の祖型。炒(い)ってひき割ったダイズと水に浸した小麦で麹(こうじ)を作り,これに食塩水を入れ,さらに塩漬したナスなどを加えて仕込み,数ヵ月の熟成期間を経て食用。なお古くは魚鳥の肉の塩漬,塩辛も醤と称した。」

とある。穂蓼も蓼酢だけでなくひしほで和えて食べたりしたのだろう。
 時間がたつとひしほにカビが生えてきたりしたが、昔の人は気にせずにカビの所をよけて食っていた。
 脱穀が終わったというので、籾を入れてた升で穂蓼を肴に酒を飲む。
 四句目。

   蓼の穂に醤のかびをかき分て
 夜市に人のたかる夕月       史邦

 蓼の穂は酒の肴なので、夜市で売られていた人気商品でもあったのだろう。
 五句目。

   夜市に人のたかる夕月
 木刀の音きこへたる居あひ抜    芭蕉

 夜市で居合い抜きを披露する大道芸人であろう。真剣でやっているように見せても、どうも木刀のような音がする。
 六句目。

   木刀の音きこへたる居あひ抜
 二階ばしごのうすき裏板      岱水

 木刀の音かと思ったら二階へ上る梯子の裏板を蹴る音だった。
 初裏、七句目。

   二階ばしごのうすき裏板
 寒さふに薬の下をふき立て     史邦

 医者の家は二階へ上る梯子の所に無造作に薬が詰まれたりしてたのだろう。今でも階段を倉庫代わりに使っている店は多い。
 八句目。

   寒さふに薬の下をふき立て
 石丁なれば無縁寺の鐘       芭蕉

 石丁は石を割ったり加工したりする石丁場のことか。薬を飲ませていたがその甲斐もなく、墓石の準備になる。「無縁寺の鐘」が鳴るのは、どこから来たともしれぬ旅人の客死であろう。
 九句目。

   石丁なれば無縁寺の鐘
 手細工に雑箸ふときかんなくづ   岱水

 雑箸は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に、「粗末な箸の意か」とある。文脈では手細工で簡単に作った箸のように思われる。太い箸を鉋で仕上げる。石丁場で急に箸が必要になったかなにかだろう。
 十句目。

   手細工に雑箸ふときかんなくづ
 よびかへせどもまけぬ小がつを   史邦

 「小がつを」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小鰹」の解説」に、

 「〘名〙 魚「そうだがつお(宗太鰹)」の異名。《季・夏》 〔物類称呼(1775)〕」

とあり、「精選版 日本国語大辞典「宗太鰹・惣太鰹」の解説」には、

 「〘名〙 サバ科ソウダガツオ属のヒラソウダとマルソウダの二種の総称。全長四〇~六〇センチメートル。体形はカツオに似る。背方は青黒色で黒色の斜走帯が並ぶ。腹面は銀白色でカツオのような縞はない。マルソウダは体横断面が丸く、体の有鱗域が長く、その後端が第二背びれに達する。一方、ヒラソウダは体が側扁し、有鱗域は短く、第一背びれと第二背びれの中間で急に狭くなる。沿岸表層遊泳性。北海道以南世界中の暖海に分布。刺身、削り節として食する。宗太。《季・夏‐秋》 〔魚鑑(1831)〕」

とある。ただ、前句に「かんなくづ」とあるから鰹節のことかもしれない。
 鰹節はウィキペディアに、

 「江戸時代に、紀州印南浦(現和歌山県日高郡印南町)の角屋甚太郎という人物が燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(別名焙乾法)を考案。これにより現在の荒節に近いものが作られるようになり、焙乾法で作られた鰹節は熊野節(くまのぶし)として人気を呼んだ。さらに1674年(延宝2年)には角屋甚太郎によって土佐の宇佐浦に燻製法が伝えられた。
 大坂・江戸などの鰹節の消費地から遠い土佐ではカビの発生に悩まされたが、逆にカビを利用して乾燥させる方法が考案された。この改良土佐節は大坂や江戸までの長期輸送はもちろん、消費地での長期保存にも耐えることができたばかりか味もよいと評判を呼び、土佐節の全盛期を迎える。」

とある。このことによって関西のものだった鰹節が江戸にも広まることとなった。『炭俵』の「雪の松」の巻の八句目に、

   熊谷の堤きれたる秋の水
 箱こしらえて鰹節売る       野坡

の句がある。
 鰹売が一度離れていった客を呼び返す。値下げしてくれるのかと思ったが、全然負けてくれなかった。初鰹と違って生ものではないから、売る方も強気だったのだろう。
 前句は鉋で削った鰹節を粗末な箸で試食させているということにしたか。
 十一句目。

   よびかへせどもまけぬ小がつを
 肌さむき隣の朝茶のみ合て     芭蕉

 この時代は抹茶ではない煎じて飲む唐茶も急速に広まった。茶飲み話をしていると鰹節売がくるというのがこの時代の新しいあるあるだったのだろう。
 十二句目。

   肌さむき隣の朝茶のみ合て
 秋入どきの筋気いたがる      岱水

  「秋入(あきいり)」は「あきいれ」と同じであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「秋入」の解説」に、

 「① 秋の稲の刈り入れ。秋の収穫。
  ※集成本狂言・狐塚(室町末‐近世初)「これに秋入に日和さへよければ何も思ふ事はない」
  ② 大黒神に供えるため特に刈り残した六株の稲を主人が刈り取る行事。」

とある。「筋気(すぢけ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「筋気」の解説」に、

 「〘名〙 筋肉が痙攣(けいれん)して痛む病気。筋肉の痛み。こむらがえり。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※咄本・多和文庫本昨日は今日の物語(1614‐24頃)「此ほどすぢけにて物書く事がならぬ」

とある。収穫作業による疲労が原因であろう。

2021年8月15日日曜日

 今日も朝から雨。終戦記念日の今日はいつものように平和だった。鈴呂屋は平和に賛成します。
 そういえば「同調圧力」という言葉はコロナ前にはあまり聞かれなかった言葉だ。左翼の間で国のコロナ対策を妨害するために広められた言葉と言っていい。最初は自粛要請に対して用いられたが、いまはワクチン接種に対して用いられている。
 まあ、共産党の場合は「組織の圧力」で主体がはっきりしているから、あれは「同調圧力」とは言わないんだろうけど。
 ただ、ワクチンは妨害しない方が野党のためだと思う。ワクチン接種が進んだ高齢者や元から死亡率の低い若者は、早期の自粛解除を求めているから、今の政府や自治体に不満を持っている。こうした人たちの票が「何もできない」野党の方に流れる可能性があるからだ。
 今のコロナ対策は医者対一般人の戦いに変わってきている。
 二十代は八月十一日の時点で252,840人が感染しているが死者は10人。これで危機感を持てという方が難しい。
 八月十三日時点での実効再生産数は1.16。八月一日をピークに増加のペースは緩んでいる。
 メンタリストDaigoさんやひろゆきさん、小林よしのりさん、古市憲寿さん、その他の炎上の常連の人達って、本当の危険思想の組織の工作に対して、免疫を作るうえで必要な人なんじゃないかと思う。mRNAのようなもの。

 それでは「初茸や」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   嫁入するよりはや鳴子引
 袖ぬらす染帷子の盆過て     嵐蘭

 染帷子(そめかたびら)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「染帷子」の解説」に、

 「〘名〙 色や模様を染めた一重(ひとえ)の衣服。染めた帷子。《季・夏》
  ※舜旧記‐元和五年(1619)七月一日「長老へ曝帷一つ、森久右衛門染帷一つ遣也」

とある。
 綺麗に染め上げられた帷子はいい所の育ちだったのだろう。急に親に先立たれ、嫁いだ先は貧乏な家で鳴子引きをさせられる。
 二十六句目。

   袖ぬらす染帷子の盆過て
 月も侘しき醤油の粕       岱水

 醤油は「しゃういう」と伸ばして字数を合わせる。醤油は中京から関西を中心に広まり、この頃は江戸でも用いられるようになっていたのだろう。ただ、醤油は高くてその絞り粕を食べるあたりが侘しい。
 二十七句目。

   月も侘しき醤油の粕
 草赤き百石取の門がまへ     半落

 百石取は武士としてはそれほど裕福とは言えない。一石が一人の一年食える米の量だとはいえ、百石だから百人食えるわけではない。年貢を取られて実質は四十石で、その米を売って現金に換え、米以外の支出に当てなくてはならない。
 そういうわけで、見栄張って立派な門を立ててはいても、生い茂る雑草が秋には赤くなり、醤油の粕をすすって生活している。
 二十八句目。

   草赤き百石取の門がまへ
 公事に屓たる奈良の坊方     芭蕉

 屓は「まけ」と読む。お寺と神社は本地垂迹で共存していても、その境界はしばしば裁判沙汰になる。公事は訴訟のことで、負けて寺領を失った坊は門にも雑草が生い茂っている。
 二十九句目。

   公事に屓たる奈良の坊方
 傘をひろげもあへず俄雨     史邦

 俄雨なのですぐ止むということで、傘を差さずに坊方に雨宿りする。その坊方も公事に負けてみすぼらしい。互いに相哀れみ、

 世にふるもさらに時雨のやどり哉 宗祇

の心になる。
 三十句目。

   傘をひろげもあへず俄雨
 見る目もあつし牛の日覆     嵐蘭

 前句の俄雨を夕立のようなものとして、夏に転じる。牛舎に日除けがしてあっても見るからに暑そうだ。
 二裏、三十一句目。

   見る目もあつし牛の日覆
 出店へと又も隠居の出られて   半落

 出店はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「出店」の解説」に、

 「① 本店から分かれて、他所に出した店。支店。分店。でだな。
  ※俳諧・天満千句(1676)三「京江戸の外にて鹿の鳴はなけ〈未学〉 出見世本宅萩の下道〈宗恭〉」
  ② 路傍などに臨時に小屋掛けをした店。露店。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「光る灯心三筋四つ辻 小まものや出見せのめがねめさるべし〈重安〉」
  ③ 比喩的に、大もとのものから分かれ出たもの。本流に対する支流、幹に対する枝の類など。
  ※雑嚢(1914)〈桜井忠温〉二六「露軍の銃剣の尖(さき)は〈略〉。露西亜(ロシア)の出店(デミセ)━セルビアへ向いてゐる」

とある。この場合は①の方か。隠居したはずなのに、ついつい家業の商売に口を出したくなる。牛の日覆も暑苦しいが、御隠居がやってきて商売の事あれこれ指図されるのはもっと暑苦しい。
 三十二句目。

   出店へと又も隠居の出られて
 干物つきやる精進の朝      岱水

 精進の朝は精進日の朝で、先祖や身内の命日であろう。この日は肉食を忌む。
 出店の方でも精進日をちゃんと忘れず守っているかどうか気になるのだろう。
 三十三句目。

   干物つきやる精進の朝
 手拭のまぎれて夫を云つのり   芭蕉

 『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年刊)を引いている。

 「前句つねの所なれど、後句おのれが精進をもしらず、干物つけたるはその宿にはあらず、旅籠屋(ハタゴヤ)などの朝と見てつけたる也。さては手拭もゆふべの風呂よりまぎれたるをいひつのるさまに、若者どもの旅連なるべし」

 夕べの風呂場で手拭を誰かが自分のと間違えて持って行ってしまったのだろう。そのことを宿に文句を言って、「そんなことうちには責任ありませんよ」とか言われると、「それに精進日だというのに干物を出しやがって」といちゃもんつける。店の方としては「知るかよ」だろう。
 若者かどうかは知らないが、こういうクレーマーはいつの世にもいたのだろう。
 三十四句目。

   手拭のまぎれて夫を云つのり
 駄荷をかき込板敷の上      嵐蘭

 駄荷(だに)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「駄荷」の解説」に、

 「① 馬につけて送る荷物。
  ※浄瑠璃・十二段(1698頃)二「今宵の中だに共数多拵へて」
  ※俳諧・七柏集(1781)雪中庵興行「紅毛(おらんだ)わたる駄荷の朝駒〈風宜〉 捨物の鎗(やり)かけてある横かすみ〈古音〉」
  ② (①の誤用から) 肩に担ぐ荷物。
  ※読本・南総里見八犬伝(1814‐42)八「二裹(ふたつつみ)の担荷(ダニ)を見かへりて」

 手拭が見つからないが、その荷物の中に紛れているんではないかと、荷物の中身をひっくり返して調べさせる。迷惑なことだ。
 三十五句目。

   駄荷をかき込板敷の上
 人つづく毛利細川の花盛り    史邦

 毛利氏はウィキペディアによると、

 「秀吉の死後は天下奪取を図る徳川家康に対抗して石田三成と接近し、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に就くも吉川広家が東軍と内通した際に毛利氏は担ぎ上げられただけとの弁明により所領安堵の約定を得た。
 ところが、敗戦後に大坂城で押収された連判状に輝元の名があったことから家康は約束を反故にしたため、輝元は隠居し嫡男の秀就に家督を譲り、安芸国ほか山陽・山陰の112万石から周防国・長門国(長州藩)の2か国29万8千石に減封された。 このようにして毛利氏は、萩に新たな居城を造るとともに領内の再検地に着手し始め、慶長18年(1613年)に幕閣と協議したうえで36万9千石に高直しを行ない、この石高が長州藩の表高(支藩分与の際も変わらず)として公認された。」

とあるように、敗軍でありながらも江戸時代に生き永らえた。
 細川氏もウィキペディアに、

 「藤孝の長男・忠興(三斎)は、雑賀攻めで初陣し、信長の武将として実父とともに活躍。本能寺の変では妻・ガラシャの父である明智光秀に与しなかった。その後丹後北部の一色満信を滅ぼし、羽柴(豊臣)秀吉から丹後一国12万石の領有を認められ、羽柴姓を与えられた。藤孝(幽斎)は歌道の古今伝授の継承者、忠興は茶道の千利休の高弟として、文化面でも重きをなした。
 慶長5年(1600年)、忠興は徳川家康の会津征伐に従軍、その間に大坂で石田三成が家康打倒の兵を挙げるとガラシャは人質になることを拒んで自害した。幽斎と三男の幸隆は丹後田辺城で西軍15,000の軍勢を相手に2か月に及ぶ籠城戦を戦い、忠興は関ヶ原の戦いにおいて東軍の部将として活躍した。戦後、忠興は功により豊前小倉藩39万9千石(豊後杵築6万石を含む)を得るとともに、姓を羽柴から細川に戻した。」

とあり、やはり命脈を保っている。
 今は毛利氏も細川氏も立派な屋敷の広い縁に駄荷を広げて花見をしている。天下泰平でお目出度い。
 挙句。

   人つづく毛利細川の花盛り
 聲も賢なり雉子の勢い      半落

 キジのケンと鳴く声も「賢」と言っているかのようだ。賢い殿様がいて、長いこと徳川の平和が保たれている。その毛利氏のお膝元から討幕の炎が上がり、細川氏が戊辰戦争で薩長側に着いたのはまた別のお話になる。

2021年8月14日土曜日

 アフガニスタンからの米軍撤退は日本人も他人事と思わぬ方が良い。守られるに値する国になるよう努めなくてはならない。隣の国もそうだが。
 中国ワクチンを入れるという野党の発言がファイザーワクチンを遅らせたというAERAの記事もあった。守られるに値する国になるというのはそういうことでもある。
 メンタリストのDaiGoさんは猫の命の重さについて語ってくれたが、猫の命が大事だから生まれてこないようにするという考え方に何か意見してほしかった。猫を保護すると称して、猫の繁殖権を奪い、子孫を根絶やしにする運動って何か間違っていないか。
 あと、鈴呂屋書庫に元禄四年冬の「此里は」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは「初茸や」の巻の続き。

 十三句目。

   物書く内につらき足音
 月暮て雨の降やむ星明り     史邦

 夕暮れに三日月が出ていて、それから一雨通り過ぎると星明りになる。今日は来ないと思っていた男の足音がするが、招かざる客のようだ。
 十四句目。

   月暮て雨の降やむ星明り
 早稲の俵にほめくかり大豆    嵐蘭

 仲秋の月の頃ということで、早稲の収穫は終り俵に収まり、大豆はそろそろ実り始める。「ほめく」はこの場合熱を持つことではなく「穂めく」であろう。
 十五句目。

   早稲の俵にほめくかり大豆
 胸虫に又起らるる秋の風     岱水

 「胸虫(むねむし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「胸虫」の解説」に、

 「① 腹の虫。怒りの虫。
  ※雑俳・川柳評万句合‐宝暦一二(1762)桜二「むね虫がにわかにむっと仕り」
  ② 胃痙攣(いけいれん)のことか。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

とある。ただ、胸というからには、腹ではなく心臓などの循環器系の異常ではないかと思う。
 十六句目。

   胸虫に又起らるる秋の風
 ふごに赤子をゆする小坊主    史邦

 ふごはもっこのこと。赤ん坊を乗せるにはハンモックのようで良さそうだ。
 赤ん坊に胸虫がいるのか、夜鳴きがひどく、毎晩起こされてはあやすのが小坊主の役目になっている。
 十七句目。

   ふごに赤子をゆする小坊主
 花守の家と見えたる土手の下   半落

 花守は坊主がやることも多かったのだろう。花守の家には赤子を揺する小坊主の姿が見える。
 十八句目。

   花守の家と見えたる土手の下
 細き井溝をのぼる若鮎      芭蕉

 井溝(ゐみぞ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「井溝」の解説」に、

 「〘名〙 田や畑に水を注いでいる溝。〔色葉字類抄(1177‐81)〕」

とある。花守の家の辺りの情景を付ける。
 二表、十九句目。

   細き井溝をのぼる若鮎
 春風に太皷きこゆる旅芝居    嵐蘭

 田舎に突如芝居小屋が立つこともよくあることだったのだろう。六十年代の漫画にもそういうのがあったように思う。
 元禄二年伊賀での「霜に今」の巻三十三句目にも、

   幕をしぼれば皆はしをとる
 鶏のうたふも花の昼なれや    式之

の句がある。元禄四年の「うるはしき」の巻十二句目にも、

   田の中にいくつも鶴の打ならび
 芝居の札の米あつめけり     游刀

の句がある。田舎渡らいの旅芸人の芝居は、長いこと庶民の娯楽だったのだろう。
 二十句目。

   春風に太皷きこゆる旅芝居
 のみ口ならす伊丹もろはく    岱水

 もろはくは諸白でウィキペディアに、

 「諸白(もろはく) とは、日本酒の醸造において、麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名。
 または、その製法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のこと。」

とあり、

 「その起源は、平安時代に奈良の大寺院で製造されていた僧坊酒で、その造り方の流れを継ぐ奈良の酒屋の「南都諸白(なんともろはく)」は、まるで今日の純米大吟醸酒のように、もっとも高級な清酒の呼び名として長らく名声をほしいままにした。
 やがて室町時代以降は堺、天王寺、京都など近畿各地に、それぞれの地名を冠した「○○諸白」なる酒銘が多数誕生し、江戸時代に入ると上方から江戸表へ送る下り酒の諸白を「下り諸白」と称した。」

とある。南都諸白の製法の伊丹に伝わったものを伊丹諸白という。
 前句の旅芝居の一座が都にやってくると、伊丹諸白の旨さのとりこになってしまう。
 二十一句目。

   のみ口ならす伊丹もろはく
 琉球に野郎畳の表がへ      芭蕉

 野郎畳はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野郎畳」の解説」に、

 「〘名〙 縁(へり)をつけない畳。坊主縁(ぼうずべり)の畳。坊主畳。野郎縁。
  ※俳諧・陸奥鵆(1697)一「拾ふた銭にたをさるる酒〈素狄〉 真黒な冶郎畳の四畳半〈桃隣〉」

とある。琉球畳も同様に縁のない畳をいう。
 あるいは同じ畳を関東では野郎畳、関西では琉球畳と言ったか。
 関西に来て伊丹諸白を飲み慣れたから、部屋の野郎畳も琉球畳に畳替えした、って一緒やんけーーーっ。
 二十二句目。

   琉球に野郎畳の表がへ
 是非此際は上ンものやく     史邦

 「上ンものやく」がよくわからない。『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は「献上物をする役の意か」としている。
 「揚げン物焼く」かもしれない。前句が同じものでありながら関西では琉球畳、関東では野郎畳というネタだったから、同じ天ぷらでも関西では魚のすり身を素揚げし、関東では魚をそのまま小麦粉の衣を付けて揚げるという違いに展開したのかもしれない。関西式の天ぷらは今日では九州のつけ揚げ(さつま揚げ)や飫肥天と呼ばれるものとして残っている。
 二十三句目。

   是非此際は上ンものやく
 見知られて近付成し木曽の馬士  半落

 馬士は「まご」、馬子のこと。
 ここでは「上ンものやく」は献上する役ということで、木曽の駒牽(こまひき)のことであろう。
 『去来抄』「先師評」に、

 駒ひきの木曾やいづらん三日の月 去来

の句があり、八月十六日に朝廷に献上される馬が八月の三日頃出発したという句だが、ただ計算が合うというだけの句で芭蕉に酷評された。
 半落の句は木曽の馬子と知り合いになって、献上する役をやらされてしまった、という句になる。
 二十四句目。

   見知られて近付成し木曽の馬士
 嫁入するよりはや鳴子引     芭蕉

 「鳴子引(なるこひき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳴子引」の解説」に、

 「〘名〙 (「なるこびき」とも) 鳴子の綱を遠くから引いて鳴らし、田畑の害鳥を驚かし追うこと。また、その綱を引く人。《季・秋》
  ※仮名草子・尤双紙(1632)下「ひく物のしなじな〈略〉くびびき、つなびき、なるこ引(ビキ)」

とある。
 木曽の馬子の所に嫁に行ったら、最初にやらされた仕事が鳴子引きだった。

2021年8月13日金曜日

 今日は一日雨。関西の方はかなり降っているようだ。オリンピックは天に恵まれたが、甲子園は天に見放されたか。
 アニメの「ピーチボーイリバーサイド」を見てて思ったんだが、「差別は憎しみから来る」という発想は確かに素朴な発想として共感を得やすいんだと思う。心の問題にしてしまえば心で解決できる。何ともハッピーな話だ。
 なら、最初の憎しみはなぜ生じたのか。問題はそこだ。
 基本的に同一地域で二つのルールは共存できない。
 わかりやすい例えは車が道路のどちらを走るかで、日本では左が正義だがアメリカでは右が正義だ。同一地域でこの二つのルールは共存できない。
 社会の生活習慣のルールは道路交通法よりもはるかに複雑で、その全体を各自が意識することは不可能で、ほとんどの人はただ習慣として身に着けているにすぎない。それは言語のようなものだ。
 だから、ルールを統一しようとすれば、今まで生きてきて従っていた生活習慣を全部壊さねばならない。ルールの統一は同化政策であり、そこで異なるルールを身に着けていた人々は、幼稚園からのやり直しを迫られる。こんなことに耐えられるわけがない。憎しみはいつでもどこからでも生まれてくる。報復の連鎖を待つまでもない。
 棲み分けというのが今のところ唯一合理的な解決策なのは確かだ。同一地域で二つのルールが共存することがなければ、憎しみも生まれにくい。
 今の人権思想は同一地域にいくつもの複雑な異なるルールを共存させようとしている。例えていえばマジョリティー同士のいじめは自己責任だが、マイノリティーに対するいじめはいかなるものでも許されない、といったものだ。
 様々な異なるマイノリティーに対し、その都度特例を追加してゆくやり方をとっていて、社会のルールが限りなく煩雑化してしまう。凡人にはついてゆけない。それでも容赦なく法で裁かれれば、自ずとそこに憎しみが生じる。

 さて、それでは秋の俳諧をもう一つ。「朝顔や」の巻と同じ頃の「初茸や」の五吟歌仙を読んでいこうと思う。
 芭蕉と史邦に岱水、半落、嵐蘭を加えてのもので、芭蕉はこの巻と芭蕉・史邦・岱水の三吟歌仙「帷子は」の巻を巻いた後「閉関之説」を書いてしばらく休養に入り、八月には嵐蘭は鎌倉に月見に行き、そのまま帰らぬ人になった。この「初茸や」の巻は嵐蘭と芭蕉が同座する最後の興行となった。
 発句は、

 初茸やまだ日数経ぬ秋の露    芭蕉

で、初茸はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「初茸」の解説」に、

 「〘名〙 (「はったけ」「はつだけ」とも) 担子菌類ベニタケ科のキノコ。日本特産で、夏から秋にかけ、アカマツ林内地上に発生する。全体は淡赤褐色、傷つけると青藍色に変わるため、普通は所々がしみになっていることが多い。傘は径三~一五センチメートルで濃色の環状紋があり、初め扁平、のち縁はやや下に巻くが中央がくぼみ、漏斗状になる。柄は中空で、太いがもろい。広く食用とされる。和名は、秋の早い時期に採れるところからという。あいたけ。あおはち。あおはつ。《季・秋》 〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※俳諧・芭蕉庵小文庫(1696)秋「初茸やまだ日数へぬ秋の露〈芭蕉〉」

とある。秋の露が降りる頃になると、ほどなく初茸の季節になる。
 脇は岱水が付ける。岱水は『炭俵』の時代の江戸を代表する一人とも言えよう。

   初茸やまだ日数経ぬ秋の露
 青き薄ににごる谷川       岱水

 初茸の頃はまだ薄も青く、谷川は秋の雨で濁っている。
 第三。

   青き薄ににごる谷川
 野分より居むらの替地定りて   史邦

 「居むら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「居村」の解説」に、

 「① (飛び離れた所にある村の土地を出村(でむら)というのに対して) 本村所在の地のこと。
  ② もともと自分の住んでいる村。
  ※地方凡例録(1794)四「小作と云は自分所持の田畠を、居村他村たりとも他の百姓へ預け為レ作」」

とある。「替地(かへち)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「替地」の解説」に、

 「〘名〙 土地の交換、あるいはその土地。また領主が収用した土地、または領主に返還された土地の代地をいう。代替地。
  ※内閣文庫本建武以来追加‐応永二九年(1422)七月二六日「充二給替地一事」
  ※仮名草子・むさしあぶみ(1661)下「引料として家壱家(け)に付、金子七十料宛(づつ)給替地(カヘチ)にそへて下されけり」

とある。
 台風の水害で大きな被害の出た村が、河川改修によって移動を強いられることになったのだろう。前句の「にごる谷川」を台風の余波とする。
 四句目。

   野分より居むらの替地定りて
 さし込月に藍瓶のふた      半落

 半落はよくわからないが元禄十一年刊種文編の『俳諧猿舞師』には「亡人」とある。
 前句を藍染の村とする。
 藍瓶はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「藍瓶」の解説」に、

 「〘名〙 藍染めの藍汁を蓄え、藍染め作業をするかめ。紺屋(こうや)で用いる。あいつぼ。
  ※財政経済史料‐二・経済・工業・衣服・寛文八年(1668)一二月二六日「藍瓶壱つに付壱斗づつ雖下令二収納一来上」

とある。元禄三年春の「種芋や」の巻十六句目に、

   月暮て石屋根まくる風の音
 こぼれて青き藍瓶の露      土芳

の句もある。また、元禄五年冬の「洗足に」の巻二十三句目には、

   又まねかるる四国ゆかしき
 朝露に濡わたりたる藍の花    嵐蘭

の句もある。
 初夏に刈り取った蓼藍を瓶に入れて発酵させ、名月の頃には藍染液が出来上がる。発酵の際に水面にできる藍色の泡を「藍の花」という。
 差し込む月に本来なら藍の花が美しくきらめくものを、替地への引っ越しのため蓋がされてしまっている。
 五句目。

   さし込月に藍瓶のふた
 塩付て餅くふ程の草枕      嵐蘭

 嵐蘭も元禄十一年刊種文編の『俳諧猿舞師』には「亡人」とある。この興行の一か月後に亡くなり、芭蕉は「嵐蘭ノ誄」を記し許六編の『風俗文選』に収められている。
 前句を旅の景色として、藍染の家に泊まり、餅に塩をふっただけの質素な食事をとる。
 「洗足に」の巻の句といい、嵐蘭は阿波に行ったことがあったのだろうか。
 六句目。

   塩付て餅くふ程の草枕
 なでてこはばる革の引はだ    芭蕉

 「引はだ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蟇肌・引膚」の解説」に、

 「① 「ひきはだがわ(蟇肌革)」の略。
  ※文明本節用集(室町中)「皺皮 ヒキハダ」
  ② 調度・武具などの、蟇肌革を使って作ったもの。
  ※俳諧・桃青門弟独吟廿歌仙(1680)巖泉独吟「沖みればとろめんくもる夕月夜 雨ひきはたの露をうるほす」

 前句の旅人を牢人としたか。
 初裏、七句目。

   なでてこはばる革の引はだ
 年寄は土持ゆるす夕間暮     岱水

 「土持(つちもち)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「土持」の解説」に、

 「〘名〙 土木工事、建築などの際に、畚(もっこ)などで土を運ぶこと。また、その人。
※雲形本狂言・節分(室町末‐近世初)「津の国の中島に、中津川原をせきかねて、土持(ツチモチ)が持ちかねて、しいもちもせで」

とある。
 武家などは土木作業に駆り出されたりもする。年寄りはさすがに免除されたのだろう。
 この時代よりは後になるが宝暦の頃に木曽三川の改修工事に薩摩藩の武士が動員された。
 八句目。

   年寄は土持ゆるす夕間暮
 諏訪の落湯に洗ふ馬の背     史邦

 「諏訪の落湯」は上諏訪温泉のことか。ウィキペディアに、

 「建御名方神と喧嘩をした八坂刀売神が諏訪下社に移った時、化粧用の湯玉(湯を含ませた綿)を持ち運んだが、移動途中に湯がこぼれ、雫が落ちたところに湯が湧いた。これが上諏訪温泉の始まりというのである。やがて下社に着いた八坂刀売神が湯玉を置いたところ、地面から温泉が湧き出した。このことから下諏訪温泉は「綿の湯」とも呼ばれる。」

とある。
 土木工事で馬を使って土を運んでいたのだろう。年寄りは早い時間に解放されて、温泉で馬の背を流す。
 九句目。

   諏訪の落湯に洗ふ馬の背
 弁当の菜を只置く石の上     半落

 甲州街道の馬子の昼食風景だろう。天和三年の「夏馬の遅行」の巻の脇に、

   夏馬の遅行我を絵に見る心かな
 変手ぬるる瀧凋む瀧       麋塒

の句があるが、これも宿場で馬を替えた時に瀧で馬を洗う風景だと思われる。
 十句目。

   弁当の菜を只置く石の上
 やさしき色に咲るなでしこ    嵐蘭

 弁当の菜を置いた石の脇には撫子の花が咲いている。
 十一句目。

   やさしき色に咲るなでしこ
 四ツ折の蒲団に君が丸く寐て   芭蕉

 撫子から幼女のこととして、四つに折って小さくした蒲団の上に丸くなって寝ている様を付ける。
 「撫子」は本来は撫でて可愛がるような子供のことで、大人は「常夏」という。
 十二句目。

   四ツ折の蒲団に君が丸く寐て
 物書く内につらき足音      岱水

 母親であろう。つらい恋の思いを手紙に書いていると、その憎き男の足音がする。

2021年8月12日木曜日

 今日は朝から曇っていて、時折雨が降る。涼しくて秋が来たというのが実感できる。世間は今日からお盆休みに入るのだろう。オリンピックの去りにしあとはただ秋の風。
 「其にほひ」の巻の二十七句目、

   雪ふりこむでけふも鳴瀧
 にこにこと生死涅槃の夢覚て   支考

 この句が気になってしまったのは、支考もひょっとして光の体験があったのでは、ということだ。西田幾多郎の金沢の町の体験や、ハイデッガーのLichtungの比喩など、哲学にはまる人は多かれ少なかれ光の体験を持っているのではないかと思う。支考もその一人だったとしたら、生涯に渡る俳論へのこだわりは理解できる。筆者もその一人だから。
 正岡子規も明治二十七年ごろにそうした体験があったのではないかと思う。子規は清国にいた弟子の飄亭に「小生の哲学は僅に半紙三枚なり」と言い、

(1)我あり (命名)我を主観と名く。
       (命名)主観ありとするものを
       自覚と名く

と記し、その補足として「此我と云ふは言ふに言はれぬものなり世間の我といふ意味と思ふ可らず」と付け加えている。
 アダムの知恵のリンゴの実なんて生易しいものではない。哲学はドラッグだ。みんな光の奴隷だった。

 それでは「朝顔や」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   弁当ほどくもとの居屋敷
 うき事の佐渡十番を書立て    沾圃

 「佐渡十番」が不明。流罪になった世阿弥が佐渡で謡曲を十番書いたということか。特にそういう史実があるわけではないが。
 二十六句目。

   うき事の佐渡十番を書立て
 名古曽越行兼載の弟子      芭蕉

 名古曽は勿来の関で、場所は不明。北茨城といわき市の境に勿来の関があるが、本当にここだったかどうかは定かでない。磐城平藩の殿様が東北の様々な歌枕を領内に擬えて作った、その一つと思われる。
 連歌師の猪苗代兼載は会津の出身で陸奥に縁がある。ここでは本人ではなくその弟子が勿来の関を越えたとしている。あくまで作り話で、特に故事はないと思われる。
 前句を世阿弥のこととして、対句的に作る相対付けであろう。
 二十七句目。

   名古曽越行兼載の弟子
 かぢけたる紅葉は松の間々に   魯可

 「かぢける」は生気を失うこと。前句の勿来の関の風景とする。
 二十八句目。

   かぢけたる紅葉は松の間々に
 袂そぬらす宵の月蝕       沾圃

 この興行が七月何日のものかはわからないが、国立天文台の「日月食等データベース」によると、元禄六年(一六九三年)七月十七日に皆既月食があった。さっそくそれをネタにしたのかもしれない。
 月食で辺りは暗くなり、紅葉も色を失う。
 二十九句目。

   袂そぬらす宵の月蝕
 御しとねの上さへ風は身に入ミて 史邦

 「しとね」はコトバンクの「家とインテリアの用語がわかる辞典「茵」の解説」に、

 「敷物の一種。綿(わた)や筵(むしろ)の芯(しん)を畳表(たたみおもて)または絹織物で包み、縁をつけた座具。平安時代は、座る人の身分によって縁の材質や色が決められていた。また寝具として用いるものもあり、この場合は「褥」の字をあてることが多い。」

とある。
 ここでは寝具の褥であろう。月食で真っ暗になり、愛しい人も通ってこない。
 三十句目。

   御しとねの上さへ風は身に入ミて
 愛らしげにも這まはる児     魯可

 児(ちご)はここでは幼児のことであろう。褥で寝る貴婦人は子持ちだった。
 二裏、三十一句目。

   愛らしげにも這まはる児
 すすめとて直キに院家の廻ラるる 里圃

 前句の児(ちご)をお寺の稚児とする。やがて勧進のために院家を廻ることになる。
 院家(いんげ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「院家」の解説」に、

 「〘名〙 大寺に属する子院(しいん)で、門跡(もんぜき)に次ぐ格式や由緒を持つもの。また、貴族の子弟で、出家してこの子院の主となった人。院主(いんす)。
  ※太平記(14C後)三〇「山門園城の僧綱、三門跡の貫首、諸院家の僧綱、并に禅律の長老」

とある。
 三十二句目。

   すすめとて直キに院家の廻ラるる
 夏も小野には鶯がなく      乙州

 院家は小野にあり、山の中なのか、夏でも鶯がなく。
 小野はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小野」の解説」に、

 「[一] 京都市山科区南端の地名。中世には小野郷。真言宗善通寺派(もと小野派本山)随心院(小野門跡)、醍醐天皇妃藤原胤子の小野陵がある。
  ※拾遺(1005‐07頃か)雑秋・一一四四「み山木を朝な夕なにこりつめて寒さをこふるをのの炭焼〈曾禰好忠〉」
  [二] 京都市左京区八瀬、大原一帯の古名。小野朝臣当岑が居住し、惟喬(これたか)親王が閉居した所。
  ※伊勢物語(10C前)八三「睦月にをがみ奉らむとて、小野にまうでたるに、比叡の山の麓なれば、雪いと高し」
  [三] 滋賀県彦根市の地名。中世の鎌倉街道の宿駅で、上代には鳥籠(とこ)駅があった。小野小町の出生地と伝えられる。
  ※義経記(室町中か)二「をのの摺針(すりばり)打ち過ぎて、番場、醒井(さめがい)過ぎければ」
  [四] 兵庫県中南部、加古川中流域の地名。小野氏一万石の旧城下町。特産品に鎌、はさみ、そろばんなどがある。昭和二九年(一九五四)市制。」

とあり、いくつかある。
 三十三句目。

   夏も小野には鶯がなく
 雨ふればめつたに土の匂ひ出   沾圃

 田舎の方では雨が降れば土の匂いがする。
 三十四句目。

   雨ふればめつたに土の匂ひ出
 縄でからげし家ゆがみけり    里圃

 家を縄でぐるぐる巻きにすればゆがむ。崩れないようにということなのか。
 三十五句目。

   縄でからげし家ゆがみけり
 塩物に咽かはかする花ざかり   乙州

 前の縄で縛られた家の住人は、花盛りだというのに塩漬けの保存食ばかり食べていて喉が渇く。
 挙句。

   塩物に咽かはかする花ざかり
 奈良はやつぱり八重桜かな    沾圃

 奈良の人は塩辛いものを好んだのか。その奈良で花盛りといえば、

 いにしへの奈良の都の八重桜
     けふ九重ににほひぬるかな
              伊勢大輔(詞花集)

であろう。