パラリンピックのネット観戦の方は今日もゴールボールメインで、時折車いすテニスや車いすラグビーを見た。
車いすテニスはあの車いすからの高さだと上からの強い打ち込みができないせいか、とにかくラリーが長い。
車いすラグビーはボールを奪うのが困難なため、ボールが両方のゴールを行ったり来たりして、どうやって勝負をつけるのかと思った。パスミスかファウルがない限り勝負がつかないのでは。多分様々な障害の人たちが楽しく遊ぶという所から生まれたものなのだろう。
ゴールボールの日本女子は今一つパワーに欠け、結局追いつかれてしまった。男子の方はなかなかボールの切れが良かった。
低いバウンドのボールはドライブ回転で、高いバウンドのボールは逆の回転が付けられているのか。あと、ライン際のボールは内側へ巻くようにシュート回転かスライダー回転を付けられているのか。ブラジル女子のやってた又の間から投げるボールは両手持ちだから無回転になるのか。
ボールの回転が分かるような模様を付けておいてくれれば、視覚のある者としてはありがたいんだが。
道は卑俗なものの中にもあるというのは、明瞭ではないけど、日常性の中にも道は潜んでいるということで、それを見つけ出すことでいわゆる市隠というものも成り立つ。
ところでハイデッガーの『存在と時間』で展開した現存在分析だと、日常的・平均的なものが「非本来性」と大雑把に規定されてしまっていて、日常の中にも本来性への超越の可能性が潜んでいることを見落としてしまう。
多分和辻がハイデッガーを読んだ時に感じた違和感もそれだったのだろう。ただ、和辻はこの問題に深く立ち入らずに、本来性と非本来性を逆転させるだけで終わってしまった。そればかりでなく、戦後の実存主義の影響を受けた日本の民俗学は、超越性を日常的・平均的なものに対して「非日常」と規定してしまった。いわゆる「ハレとケ」の二元論をそこにあてはめてしまっている。
これによって日本の知識人は、我々が日常的に楽しんでいる様々なエンターテイメントやスポーツを、日常と反する非日常に追いやってしまったのではないか。スポーツの熱狂があたかも一年に一度の祭りの熱狂と同じに解され、それらは日常を追認するための儀式であるかのように扱っている。日常と密着した、日常を変えるエネルギーとしては認識されていない。
スポーツはしばしば哲学者とは違う形であるが「光の体験」をもたらす。生涯スポーツから抜けられなくなった人達は、少なからずその祝福を受けているのではないかと思う。それはカズのような有名アスリートに限ったことではなく、プロにはなれなくても生涯アマチュアでプレーし続ける人たちはいくらでもいる。スポーツがもたらした光は、そうしていつでも街の片隅で生き続けている。
日常と非日常は明確に分けられるものではないし、同じように日常的・平均的なものの中でも現存在の本来性は混在している。スポーツも芸術も常に日常の中に取り込まれていて、それがいわゆる革命のような非日常的な手段ではなく、日々の生存の取引の場の中で社会変革をもたらしている。
それでは「松茸や(知)」の巻の続き。
十三句目。
風になりたる八専の雨
いそがしき体にも見えず木薬屋 望翠
木薬屋は『校本芭蕉全集 第五巻』中村注に生薬屋と同じとあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「生薬屋」の解説」に、
「〘名〙 生薬を売る店。転じて、薬を商う店。
※浮世草子・本朝二十不孝(1686)一「三所四所さられ長持の(はげ)たるを昔のごとく塗直して木薬屋に送りけるに」
とある。
雨風で訪れる人もなく、八専で商売も忌むとなれば、薬屋が忙しいはずもない。
十四句目。
いそがしき体にも見えず木薬屋
三年立ど嫁が子のなき 芭蕉
ネット上の齋藤絵美さんの『漢方医人列伝 「香月牛山」』によると、
「不妊症に用いる処方については、現在も使われているものとしては六味丸・八味丸に関する記述があり、「六味、八味の地黄丸この二方に加減したる方、中花より本朝にいたり甚だ多し」と書かれています。」
とあるように、不妊症の薬は一応当時もあったようだ。腎気丸で腎虚の薬のようだ。
まあ、薬は効いてなかったのだろう。
十五句目。
三年立ど嫁が子のなき
鶏の白きは人にとらせけり 卓袋
『校本芭蕉全集 第五巻』中村注に、
「『白い鶏を千飼へば其家より后(きさき)出づ』という俗説がある。」
とある。『平家物語』「山門御幸」の信隆の鶏が出典であろう。
『源平盛衰記』巻第三十二「四宮御位の事」には、
「白鶏ヲ千羽飼ヌレバ。必其家ニ王孫出来御座ト云事ヲ聞テ。白-鶏ヲ千羽ト志メ飼給ケル程ニ。後ニハ子ヲ生孫ヲ儲テ四-五千羽モ有ケリ」
とある。
こちらの方がこの句には合っている。
白い鶏を人にやってしまったために、自分には子供ができない。
十六句目。
鶏の白きは人にとらせけり
彫みもはてぬ佛あかづく 荻子
「彫み」は「きざみ」。「あかづく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「垢付」の解説」に、
「〘自カ五(四)〙 (「あかづく」とも) 垢がついてよごれる。垢じみる。
※万葉(8C後)一五・三六六七「わが旅は久しくあらしこの吾が着(け)る妹が衣の阿可都久(アカヅク)見れば」
とある。
古い用例なのでこれでいいのかどうかはわからない。「あかつき」がコトバンクの同じ解説に、
「② 近世、高貴の人が臣下、またはその他に下賜した衣服の称。普通、紋付である。」
という意味がある。これは「手垢のついたものを与える」という意味で下賜されたものということだとすると、前句の「とらせけり」を下賜と見て、鶏と一緒に未完成の仏像が下賜されたけど、これをどうすればいいのか、という意味かもしれない。
道楽で仏像を彫っている主君が失敗作を家臣にやるというのは、いかにもありそうなことだ。
十七句目。
彫みもはてぬ佛あかづく
はつ花の垣に古竹結わたし 惟然
とりあえず仏像が下賜されたので、桜の咲き始める頃、垣根に古竹を結って、その辺りに仏像を祭る。
十八句目。
はつ花の垣に古竹結わたし
道はかどらぬ月の朧さ 文代
初花の垣の辺りまでやって来たが、月が朧で暗いため道がよくわからない。
十九句目。
道はかどらぬ月の朧さ
ばらばらと雉子に小鳥のおどされて 卓袋
キジがくると小鳥が一斉に逃げて行く。まだ夕暮れの頃であろう。
二十句目。
ばらばらと雉子に小鳥のおどされて
鹿が谷へも豆腐屋は行 支考
鹿ケ谷というと『平家物語』の鹿ケ谷の陰謀を思い浮かべる人も多いだろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「鹿ヶ谷事件」の解説」に、
「1177年(治承1)5月、後白河院(ごしらかわいん)の近臣藤原成親(なりちか)・成経(なりつね)父子、藤原師光(もろみつ)(西光(さいこう))、法勝寺執行(ほっしょうじしぎょう)の俊寛(しゅんかん)、摂津(せっつ)源氏多田行綱(ゆきつな)らが、俊寛の京都・東山鹿ヶ谷山荘において平氏追討の謀議をした事件。その内容は、近づく祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)に乗じて六波羅(ろくはら)屋敷を攻撃し、一挙に平氏滅亡を図ろうとするものであった。しかし、事は多田行綱の密告によって事前に平清盛(きよもり)に発覚し、西光の白状により関係者は次々に捕らえられ処罰された。西光は死罪、成親は備中(びっちゅう)国(岡山県)に、俊寛・成経らは九州の南の果ての孤島鬼界ヶ島(きかいがしま)に配流された。この事件の主謀者がとくに一家の縁者(成親は平重盛(しげもり)の婿、成経は教盛(のりもり)の婿)であったことは、平氏にとってきわめて衝撃であった。以後、院と清盛との関係はますます悪化していった。[山口隼正]」
とある。前句のキジに脅される小鳥のイメージに重なる。
鹿ケ谷というと近くにある南禅寺門前の湯豆腐が有名だった。
二十一句目。
鹿が谷へも豆腐屋は行
年切の小さい顔に角を入 猿雖
年切(ねんきり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「年切・年限」の解説」に、
「〘名〙 年季奉公のこと。また、その契約を結んだ人。特に、半季の短期契約の奉公人に対して二年以上の年季を限った奉公人。最長年季は一〇年がふつう。
※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)六「摺箔やの年切(ねんキリ)の弟子など」
とある。半元服の丁稚奉公であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「半元服」の解説」に、
「〘名〙 (「はんげんぶく」とも) 江戸時代、本元服に対して略式の元服をいう。男子の場合、武家は小鬢をそらず、町人は額のすみをそり、前髪を大きくわけ結ぶ。女子は眉毛をそらず鉄漿(かね)もつけず、ただ髪だけ丸まげに結ったり、また、眉毛をそって鉄漿をつけなかったり、鉄漿をつけて眉毛をそらなかったりなどしたもの。
※浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)長町「半元服さしゃってから、お果なされた文大夫様」
「角(すみ)を入(いれ)」は半元服の額の隅を剃ることをいう。今の剃り込みに似ている。剃り込みの場合も「剃りを入れる」と言う。
二十二句目。
年切の小さい顔に角を入
水風呂の湯のうめ加減よき 荻子
半元服の奉公人は風呂焚きが得意。
二十三句目。
水風呂の湯のうめ加減よき
二三本竹切たればかんがりと 支考
「かんがり」は「がんがり」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「がんがり」の解説」に、
「〘副〙 (「と」を伴って用いることもある)
① 物の隙間のあるさま、あいているさまを表わす語。
※雑俳・すがたなぞ(1703)「口をがんがりがんがり・にくみやった兄に七分の遺言状」
② うす明るいさま、また、ほのぼのと空が明るくなるさまを表わす語。
※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)六「夜ははやがんがりと明にけり」
③ ものがはっきりみえるさまを表わす語。
※俳諧・毛吹草(1638)六「がんがりとはねまでみゆる月夜哉〈一正〉」
とある。
湯加減もよく、二三本竹を切ったから眺めもいい。
二十四句目。
二三本竹切たればかんがりと
愛宕の燈籠ならぶ番小屋 芭蕉
愛宕燈籠は京都の愛宕神社の燈籠で、秋葉灯籠などと同様、信仰の盛んな地域では至る所に見られる。愛宕灯籠も秋葉灯籠も火難除けという点では共通している。地域の当番の人が火を灯している。
番小屋は町や村に設けられた番太郎の小屋で、愛宕灯籠の並ぶ番小屋は、京の街の見慣れた風景だったのだろう。
前句は番太郎が、地域を見張りやすいように竹を二三本切った、とする。
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