それでは「朝顔や」の巻の続き。
十二句目。
子ども皆貧乏神と名をよびて
絵馬をかくる年越の宮 魯可
絵馬はここでは「ゑうま」と読む。子供から貧乏神だと呼ばれるので、年末の厄払いに絵馬を懸ける。
今は正月に初詣に行くが、これは明治以降のことで、江戸時代は大晦日に大祓(おほはらへ)に行った。水無月の大祓は今も残っているが、年末は初詣に取って代わられていった。
十三句目。
絵馬をかくる年越の宮
ぎしぎしと雪ふむ道の薄明リ 沾圃
大祓に行く道を雪道とした。
十四句目。
ぎしぎしと雪ふむ道の薄明リ
見世をたたきてめばる出する 史邦
「めばり出(ださ)する」は「目張(めっぱ)を回(まわ)す」のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「目張を回す」の解説」に、
「目をまわすほど忙しくする。多忙である。
※雑俳・川柳評万句合‐宝暦一一(1761)智三「舟おさにめつばまわせる鱗形」
とある。大晦日といえば決算で、借金の取り立てに忙しい。
十五句目。
見世をたたきてめばる出する
鉄棒を戸塚の宿の伝馬触 魯可
鉄棒はここでは「かなぼう」と読む。
伝馬(てんま)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「伝馬」の解説」に、
「徳川家康は1601年(慶長6)に公用の書札、荷物の逓送のため東海道各宿に伝馬制度を設定した。徳川家康は「伝馬之調」の印判、ついで駒牽(こまひき)朱印、1607年から「伝馬無相違(そういなく) 可出(いだすべき)者也」の9字を3行にして縦に二分した朱印を使用し、この御朱印のほかに御証文による場合もある。伝馬役には馬役と歩行(かち)役(人足役)とがあり、東海道およびその他の五街道にもおのおの規定ができた。
伝馬は使用される際には無賃か、御定(おさだめ)賃銭のため、宿には代償として各種の保護が与えられたが、一部民間物資の輸送も営業として認めた。伝馬制度は前述のとおり公用のためのものであったから、一般物資の輸送は街道では後回しにされた。武士の場合でも幕臣が優先されている。民間の運送業者、たとえば中馬(ちゅうま)などが成立して伝馬以外の手段が私用にあたった。1872年(明治5)に各街道の伝馬所、助郷(すけごう)が廃止された。[藤村潤一郎]」
とある。
公用の荷物に馬を使うので用意するよう触れて廻る。戸塚宿は東海道で早朝に日本橋を出るとちょうど八里くらいで、ここで一泊する人が多かった。
十六句目。
鉄棒を戸塚の宿の伝馬触
腹疫病のはやりしづまる 芭蕉
腹疫病は腹に来る伝染病だが、痢病だろうか。今の赤痢のことで、コトバンクの「世界大百科事典内の痢病の言及」に、
「… 日本では奈良時代から記録されており,平安時代の《医心方》にも記述され,歴史を通してたびたび流行を繰り返していた。のちには〈痢病〉あるいは〈あかはら〉などとも呼ばれ,江戸時代の医家たちは,その伝染の迅速性に言及している。明治以後も流行を重ね,1893,94年には全国的な大流行となり,両年とも15万人以上の患者,4万人前後の死者を数えた。…」
とある。
赤痢が流行っているので、伝馬なども移動制限になったのか、流行が去ると一斉に動き出す。
十七句目。
腹疫病のはやりしづまる
すんずりと苗代めぐむ花の色 沾圃
「すんずり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「すんずり」の解説」に、
「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる) 涼しくすがすがしいさま、気分のせいせいするさまを表わす語。
※俳諧・崑山集(1651)六「すんずりと結べばなほるやま井哉〈貞徳〉」
とある。「めぐむ」は芽ぐむで芽を出すこと。
疫病の流行も去り、すがすがしい気分で苗代の苗を育て、桜の花も咲く。
十八句目。
すんずりと苗代めぐむ花の色
光かすまぬ伊勢の有明 魯可
前句を伊勢神宮の御田植の苗としたのだろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「伊勢の御田植」の解説」に、
「三重県伊勢市の皇大(こうたい)神宮(内宮(ないくう))、および別宮(べつぐう)の志摩の伊雑宮(いざわのみや)の神田(みとしろ)の田植行事。内宮では明治に入って中絶したが大正末に復活して5月中旬(日は不定)、伊雑宮では6月24日に行う。内宮の延暦(えんりゃく)23年(804)の儀式帳には田植の記述がなく、建久(けんきゅう)3年(1192)の儀式帳に出てくるので、平安中期ごろから行われたようである。この田植行事は田楽(でんがく)を採用したもので、まず早苗(さなえ)を祀(まつ)って早乙女(さおとめ)に渡し、笛、摺簓(すりささら)、腰鼓(こしつづみ)、大小鼓で囃(はや)し、田植唄(うた)を歌って植えるものであった。伊雑宮では鳥刺舞(とりさしまい)も入っている。しかし、現在では田楽の技芸は不完全である。なお内宮と同一の御田植が、近くの猿田彦(さるたひこ)神社で5月5日に行われている。[新井恒易]」
とある。
有明の月は霞んでも伊勢神宮の御光は霞まない。
二表、十九句目。
光かすまぬ伊勢の有明
春風に吹しほらかすけさ衣 史邦
伊勢神宮の光の前には仏道の袈裟衣も萎れて見える。
二十句目。
春風に吹しほらかすけさ衣
質にながるる百両の家 沾圃
前句を百両の家を質に入れて流してしまった僧とする。
二十一句目。
質にながるる百両の家
色わるく痩たる顔も化粧して 魯可
没落した金持ちの令嬢か。もっとも昔は武士も化粧したという。大河ドラマ『真田丸』の北条氏政の顔も浮かんでくる。
二十二句目。
色わるく痩たる顔も化粧して
薫じ渡りし白無垢の夜着 史邦
老いた遊女だろうか。
二十三句目。
薫じ渡りし白無垢の夜着
穢土厭離打さそはるる鐘の声 芭蕉
前句を死に装束として無常へと展開する。
穢土厭離(えんりゑど)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「厭離穢土」の解説」に、
「苦悩多い穢 (けが) れたこの娑婆世界を厭 (いと) い離れたいと願うこと。「おんりえど」とも読む。欣求浄土の対句で,両者を合せて厭穢欣浄 (えんねごんじょう) ともいわれる。安楽な世界である極楽浄土に生れることを切望することから,浄土願生 (じょうどがんしょう) 思想の根本として,浄土教思想の根底となった。日本では平安時代末期から鎌倉時代にかけて世情の不安に伴ってこの思想が一般に普及された。」
とある。
二十四句目。
穢土厭離打さそはるる鐘の声
弁当ほどくもとの居屋敷 魯可
「居屋敷」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「居屋敷」の解説」に、
「〘名〙 町家で、主人の常に居住する邸宅。また、大名の上屋敷。〔東寺百合文書‐を・元亨三年(1323)一一月二〇日・行吉名宛行状案〕
※南蛮寺物語(1638頃)「此ゐやしきの内に母親をおきけるが」
とある。
立派な居屋敷はお釈迦様の四門出遊のパロディーになる。四門から外出しようとしたが穢土厭離の思いを起こして家に戻り、外で食べる予定だった弁当を食う。
0 件のコメント:
コメントを投稿