パラリンピックの方は今日もゴールボール時々車いすバスケで、ゴールボール女子のトルコはやはり強い。
ゴールボールは戦術的にかなり多彩で、いろいろな可能性を持ったスポーツなのではないかと思う。見かけはサッカーのPK戦に近いけど、ボールの投げ分けという点では野球の要素もある。
日本の男子を見ていると、バレーボールのようなフェイント系の技に突き進んでいるような感じだが、トルコは役割分担があるのかな。
野球と違うのは一人が複数の球種を投げなくていいということで、一人は速いボールを得意として、一人が大きなバウンドボールを得意としてれば、同じ位置で別の人が投げればいいという発想なのかもしれない。人が入れ替わったのが見えないからだ。
試合時間が短いのは興行には物足りないかもしれないが、テレビやネットでの観戦ではちょうどいい長さだし、メジャーになる可能性が十分ある。
夕方からパラ馬術を見たがグレード2と言うと重い方なのに、普通の馬術と何が違うのかよくわからない。
モデルナワクチンに異物混入というニュースがあったが、どの会場でどのような異物が発見されたのかという情報が一切ない。大分遅れて「金属片か」と「か」が付いた曖昧な報道がなされている。こういう曖昧な情報に感情的なコメントをして、いたずらに不安を煽るようなのが最近多すぎる。
昔のマスコミはパニックが起きないように正確な情報をと言っていたが、今はパニックを起こさせようとしているみたいだ。まあ、日本の国民は賢いからパニックは起きないけどね。
あと、鈴呂屋書庫に元禄五年冬の「月代を」の巻をアップしたのでよろしく。
それでは次は元禄七年九月三日の伊賀に到着した支考と文代(斗従)が、その翌日誰かから届けられた松茸を見て、芭蕉の旧作を元に巻かれた歌仙を読んでいこうと思う。
発句は、
松茸やしらぬ木の葉のへばりつき 芭蕉
で、元禄四年秋の句で元禄五年刊尚白編の『忘梅』に収録されている。
松茸は枯葉や松の落葉などに埋もれていて、採ってきたばかりの松茸には枯葉がくっついていることがある。店で売っている松茸はそういうものをきれいに取り除いてあるが、昔は松茸あるあるだったのだろう。
届けられたばかりの松茸を芭蕉が支考と一緒に見ながら、木の葉のついているのを見つけて、三年前のこの句を思い出したのだろう。『続猿蓑』には「へばりつく」の形で収録されている。「松茸にしらぬ木の葉のへばりつくや」の倒置だから、文法的には「へばりつく」の方が良い。
脇は文代(斗従)が付ける。
松茸やしらぬ木の葉のへばりつき
秋の日和は霜でかたまる 文代
前句の季節に日和で応じるのは、『ひさご』の元禄三年春の、
木のもとに汁も膾も桜かな
西日のどかによき天気なり 珍碩
元禄五年春の、
鶯や餅に糞する縁の先
日も真すぐに昼のあたたか 支考
に通じる無難な応じ方だ。
晩秋なので、霜の降りる日が常態化しましたね、と応じる。
第三。
秋の日和は霜でかたまる
宵の月河原の道を中程に 支考
秋の句二句続いたので、そのまま月へと展開する。
前句の「霜でかたまる」を霜が降りて道が固まるとし、夕暮れの風に吹きすさぶ河原の道とする。
四句目。
宵の月河原の道を中程に
ことしはきけて里の売家 雪芝
「きけて」がよくわからない。『校本芭蕉全集 第五巻』中村注にある『一葉集』の「きけハ」が正しいのかもしれない。河原の道の中程に家があったが、聞く所によると今年は売りに出されている。
五句目。
ことしはきけて里の売家
四五人で万事をしまふ能大夫 猿雖
能大夫は能のシテの尊称で、ジャパナレッジの「改訂新版・世界大百科事典」には、
「能大夫は観世,金春,宝生,金剛の四座家元を指し,ひいてはシテを勤める者をも大夫と呼んだ。ただし江戸時代に新しく成立した喜多流では,家元を称して大夫とは言わない。」
とある。能がほぼ四座家元の支配下にあることから「四五人で万事をしまふ」としたか。その能大夫が里の家を売りに出す。
六句目。
四五人で万事をしまふ能大夫
いきりし駒に鞍を置かね 望翠
能大夫も馬には不慣れだったか。
初裏、七句目。
いきりし駒に鞍を置かね
けさの雪この頃よりもたつぷりと 惟然
馬の不機嫌を大雪のせいだとする。
八句目。
けさの雪この頃よりもたつぷりと
屏風畳で膳すゆるなり 卓袋
屏風を畳んで、外の雪景色を見ながら食事をするということか。
九句目。
屏風畳で膳すゆるなり
段々に上刕米の取さばき 文代
刕は州の異字体で、上州米、つまり今の群馬県の米のことをいう。
上野国はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「上野国」の解説」に、
「近世に入ると上野国は江戸城北辺の守りとして、井伊(いい)(高崎)、榊原(さかきばら)(館林)、酒井(前橋)など譜代(ふだい)の重臣が配備された。徳川家康が新田一族(徳川氏)の後裔(こうえい)と称したことから、太田に大光院(義重の菩提(ぼだい)寺)を開き、世良田(せらた)(新田郡尾島町)の長楽寺(開山栄西(えいさい))を復興した。藩はその後変転して幕末には前橋(17万石)、高崎(8万2000石)など9藩となったが、大半は譜代小藩で、それに天領、旗本領が交錯していた。元禄(げんろく)期(1688~1704)の総石高は約60万石。生業は畑作が主で、とくに養蚕業は古い伝統をもち、桐生(きりゅう)のほか伊勢崎(いせさき)、藤岡の絹織物が有名であった。安政(あんせい)の開港(1854)後は輸出生糸が空前の活況を呈した。そのほか煙草(たばこ)、麻、硫黄(いおう)、砥石(といし)などが特産であった。」
とある。譜代小藩が多く、畑作や養蚕が主で、あまり米どころのイメージはない。それだけに中小の米問屋に付け入る隙があったということか。屏風を所有できるくらいにそこそこ豊かな生活をする。
十句目。
段々に上刕米の取さばき
わか手の衆はそりのあはざる 支考
小藩の多い地域はばらばらで、団結力がないということか。
十一句目。
わが手の衆はそりのあはざる
鼠ゆく蒲団のうへの気味わるく 雪芝
鼠が蒲団の上をちょろちょろしているような屋敷では、若い者も心が荒んでいて、互いに仲が悪い。
十二句目。
鼠ゆく蒲団のうへの気味わるく
風になりたる八専の雨 猿雖
八専はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「八専」の解説」に、
「〘名〙 壬子(みずのえね)の日から癸亥(みずのとい)の日までの一二日間のうち丑(うし)・辰(たつ)・午(うま)・戌(いぬ)の四日を間日(まび)として除いた残りの八日をいう。この八日は、壬子(水水)・甲寅(木木)・乙卯(木木)・丁巳(火火)・己未(土土)・庚申(金金)・辛酉(金金)・癸亥(水水)で、上の十干と下の十二支の五行が合う。一年に六回あり、この期間は雨が多いといわれる。また、嫁取り、造作、売買などを忌む。八専日。専日。
※左経記‐長元五年(1032)六月一〇日「而十三日以後八専也、雖レ然事已無レ止、若八専旱損彌可レ盛云」
とある。『炭俵』の「早苗舟」の巻八十八句目に、
気にかかる朔日しまの精進箸
うんぢ果たる八専の空 利牛
の句がある。
雨が多く憂鬱な時期に、風も吹けば鼠も出る。いい所がない。
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