2021年8月17日火曜日

 ワクチン接種回数は昨日の時点で111,050,989回、一回での接種した人は49.7%になった。
 日本はワクチンの絶対数が不足しているわけではない。横浜も決して褒められた状況でもないが、ただ場所をえり好みしなければワクチンを打つ機会は十分にある。日本には十分なワクチンがあって、三回目のブースター分まで確保できたという。日本にワクチンが不足しているというのはデマだ。
 七月のワクチン不足と言われたものは、自治体がワクチンの接種回数の入力を怠り、ワクチンが余っていると判断されたから起きたもので、それに加えて、二回目の接種を優先させたために65歳未満の一回目接種が遅れたためだ。国はワクチンを確保したが、一部自治体がその速度に対応できなかったというのが真相だ。
 ただ、気をつけよう。秋の衆議院選挙で左翼政権が誕生するようなことがあれば、アメリカの方からワクチンを止められる可能性がある。隣の国をよく見て参考にすると良い。
 俳諧の方では元禄五年春の「両の手に」の巻をアップした。真偽の疑いのある一巻だが、思いのほか完成度が高く、一応こう書いておいた。

 「印象からすると、蕉門らしさは十分感じられるし、かなり完成度の高い一巻なのだが、其角と嵐雪が何となくそのキャラではないように思える。ただ、それは軽みの風を指導した結果かもしれない。
 あるいは芭蕉が原型をとどめぬほど改作してしまい、実質独吟になってしまったのかもしれない。其角嵐雪がプライドを傷つけられた形になり、長いこと埋もれていたという推測もできる。」

 それでは「帷子は」の巻の続き。

 十三句目。

   秋入どきの筋気いたがる
 塩濱にふりつづきたる宵の月    史邦

 塩濱は塩田のことで、江戸の近くでは行徳も塩の産地となった。月の灯りに白い塩が浮かび上がって、さながら雪のような光景は、

 衣手はさむくもあらねど月影を
     たまらぬ秋の雪とこそ見れ
              紀貫之(後撰集)

の歌を思わせる。前句を塩田の労働者とする。
 十四句目。

   塩濱にふりつづきたる宵の月
 無住になりし寺のいさかひ     芭蕉

 これはよくわからない。『校本芭蕉全集 第五巻』の宮本注は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)を引用して、

 「寺はそのあたり(前句)にて住持なくなりて後は、下司法師どもがおのがじじにいさかひある体也。」

とある。
 十五句目。

   無住になりし寺のいさかひ
 持なしの新剃刀もさびくさり    岱水

 無住になった寺には、かつての住職の使っていた新しかった剃刀も放置され、そのまま錆びてしまったいる。前句は、いさかいがあって無住になったという意味になる。
 十六句目。

   持なしの新剃刀もさびくさり
 土たく家のくさききるもの     史邦

 乞食坊主のなれの果てだろう。竃もなく土の上で直に焚火をし、臭い匂いのする着物を着ている。
 十七句目。

   土たく家のくさききるもの
 花に寐む一畳あをき表がへ     芭蕉

 花の下で全財産はたいて畳一畳を敷き、「願わくば花の下にて春死なん」ということか。
 十八句目。

   花に寐む一畳あをき表がへ
 小姓の口の遠き三月        岱水

 前句を畳の上で寝ることを願うとし、暇になった小姓を付ける。
 二表、十九句目。

   小姓の口の遠き三月
 竹橋の内よりかすむ鼠穴      史邦

 竹橋は江戸城内郭(うちぐるわ)門の一つで、ウィキペディアに、

 「竹橋の名は、竹を編んで渡した橋だったからとも、また後北条家の家臣・在竹四郎が近在に居住しており「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われる。
 「別本慶長江戸図」には『御内方通行橋』と記してあり、主として大奥への通路に用いられたようである。」

とある。
 竹橋は江戸城の小姓の出入り口でもあったか。部屋の鼠穴を見ながら、竹橋から出入りしていた頃を思い出す。
 二十句目。

   竹橋の内よりかすむ鼠穴
 馬の糞かく役もいそがし      芭蕉

 竹橋は馬も通るので、馬の糞を片付ける人もいる。
 二十一句目。

   馬の糞かく役もいそがし
 夕ぐれに洗澤賃をなげ込で     岱水

 馬の糞を掻く人は服の洗濯が欠かせない。仕事が終わったらその日着たものをすぐに洗濯に出す。
 二十二句目。

   夕ぐれに洗澤賃をなげ込で
 とはぬもわろしばばの吊      史邦

 「吊」は「とぶらひ」で弔の間違いと思われる。
 富山県クリーニング生活衛生同業組合のホームページによると、

 「室町時代(1338~1573年)に、染物屋である紺屋が営業としてはじめたものである。 顧客は、公卿や幕府に仕える武家やあった。
 副業から専業になるのは、江戸時代の元禄(1668~1704年)から、享保(1716~1736)にかけてであり、江戸で洗濯屋が、京都では、紺屋から独立した洗い物屋が出現する。」

とあり、紺屋が関西では穢多と関連付けられていたため、洗濯屋にも賤民のイメージがあった。
 元禄三年暮の「半日は」の巻十三句目に、

   右も左も荊蕀咲けり
 洗濯にやとはれありく賤が業   乙州

の句がある。
 同ホームページはその洗濯屋の様子として、

 「江戸時代の洗濯屋は洗濯女が2人1組になって、顧客の家へ出かけ灰汁を使った洗濯で木綿を主とする衣料の洗濯をしている。」

とある。
 洗濯屋に婆の弔いのことを聞くのは、婆の葬儀に関係していたからかもしれない。
 二十三句目。

   とはぬもわろしばばの吊
 椀かりに来れど折ふしゑびす講  芭蕉

 恵比寿講は商人たちが商売繁盛を願い、御馳走を食べてお祝いする。椀のがくさん必要なときだが、そこに婆の葬儀が重なってしまう。
 二十四句目。

   椀かりに来れど折ふしゑびす講
 此あたたかさ明日はしぐれむ   岱水

 恵比寿講は旧暦十月で時雨の季節だ。暖かい日と寒い日が交互に来たりする。昼の暖まった湿った空気が夕暮れの雨を生むか。

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