2021年8月30日月曜日

 今日のパラリンピックネット観戦はまずはゴールボール時々ボッチャという感じで始めた。
 ウクライナの男子のディフェンスは横にならない構えだが、左側のボールは手を前についたまま体全体を左に振り、右に来たボールは普通に手を右に向けて横になっていた。これを一歩進めて、前に手をついたまま左右に足を振る鞍馬型ディフェンスとかできないだろうか。
 エジプト女子は最初のスタイルに戻っていた。被り物も含めて。後半三分以上戦えて、まずまずだったのではないかと思う。
 リトアニアの男子は今日はパブリウキアネツとモントビダスが交互に投げていた。アメリカ相手に大量点でコールド勝ち。
 ブラインドサッカーのことで、伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(ニ〇一五、光文社新書)にちょっとだけブラインドサッカーの記述があった。そこにはプレーヤーはドリブルをするとき、できるだけボールを体から離さないようにすることが書いてあって、確かにそうだなと思った。
 ボールを体からあまり離そうとしないため、ボールを奪うのに、しばしば三人で取り囲む場面が見られた。また、あまり前後の視界が関係ないせいか、真正面から奪いに行く場面もある。
 今日の日本・ブラジル戦は、ブラジル選手のキープ力が高すぎて、三人で囲んでもなかなかボールが奪えず、簡単にサイトチェンジされてしまっていた。結局ブラジルは左右二人だけで攻め続けて、後ろに二人残っているうえに、日本は四人全員で守っているからカウンターも出来ずに終わった感じだった。

 支考の『笈日記』の続きになるが、九月九日で伊賀部の日付のある部分は終わる。正確には奈良にいたから大和国だが。

  「九月九日
 菊の香や奈良には古き佛達    翁
 霜をかぬ三笠のかげや神の菊   支考
 錢百のちかひが出來たならの菊  惟然
   幾年斗先にや侍らんこの宮古の
   西大寺に詣して
 青葉して御目の雫拭ばや     翁
  中比元禄巳の冬
   大佛榮興をよろこびて
 初雪やいつ大佛の柱立      仝」

 「菊の香や」の句はほとんど説明の必要もあるまい。重陽の節句だから菊の香で、奈良には古いお寺が多いから古い仏像もたくさんある。
 元禄七年九月十日付の杉風宛書簡にもう一句、

 菊の香や奈良は幾世の男ぶり   芭蕉

の句がある。例によって二句作って支考に選ばせたか。杉風には両方とも送り、「いまだ句体定めがたく候」とある。杉風にも選ばせるつもりだったか。「古き佛」と素直に言い下すのと、仏像の顔が良いということからちょっとひねって「幾世の男ぶり」としてみたか。
 「古き佛」の句は一見凡庸そうだが、重陽、晩秋、老い、の連想に「古き」が利いて、いわゆる「さび色」が現れている。
 支考の句、

 霜をかぬ三笠のかげや神の菊   支考

は神祇の句で、三笠山を御神体とする春日山の「春日」を隠しながら、春日だから霜置かぬとし、その「日」の影(=光)に太陽のように目出度く咲く菊を据える。

 錢百のちかひが出來たならの菊  惟然

の句の銭百はそのまんま銭百文ということでいいのだろう。百文というと賽銭としては微妙な値段で、その程度の願掛けをしたということか。大きな野心もなく、かといってせこくもなくという所で、、奈良の重陽の祈りとする。

   幾年斗先にや侍らんこの宮古の
   西大寺に詣して
 青葉して御目の雫拭ばや     芭蕉

 この句は貞享五年の『笈の小文』の旅の時の句で、『笈の小文』には上五が「若葉して」になっている。そこには、

 招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して、
 若葉して御めの雫ぬぐはばや」

となっている。お寺の名前も西大寺ではなく唐招提寺になっている。
 単純に支考『笈日記』の方が初案だとすることもできる。だとすると、前書きからこの句は西大寺で詠まれてことになる。となると「御目の雫拭ばや」は鑑真和尚の目でないなら、一体なんで目をぬぐったのかとなってしまう。
 それに、元禄七年の芭蕉の亡くなる直前にこの形だったとしてら、芭蕉はいつ『笈の小文』の形に書き直したのだろうか。
 一番考えられるのは、支考がかなり前にこの句を芭蕉から聞いて記憶していたもので、芭蕉の死後『笈の小文』を執筆する際に思い出して書き加えたが、寺の名前に記憶違いがあったということだ。招提寺・西大寺、似てなくもない。

   大佛榮興をよろこびて
 初雪やいつ大佛の柱立      芭蕉

 この句は許六の『俳諧問答』にも、

 「これ大仏建立ハ、今めかしきやうなれ共、此ふるき事万里の相違あり。初雪に扨々よき取合物、初の字のつよミ、名人の骨髄也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.185)

とある。そのときに書いたのと重複するが、元禄三年正月十七日付の万菊丸宛書簡に、

   南都
 雪悲しいつ大仏の瓦ふき

の句があり、こちらが初案と思われる。
 奈良女子大学大学院人間文化研究科のホームページによると、永禄十年(一五六七年)の三好・松永の兵火で多くの建造物が焼失し、大仏も原型を留めないほどに溶け崩けてしまったが、その後少しづつ復旧作業が進められていったという。江戸時代に入ると、

 「貞享元年(1684)公慶が大仏の修理のために勧進を始めたことから、東大寺の復興事業が本格的にスタートしました。これは江戸や上方などの都市部で大仏縁起の講談と宝物の拝観を行う、「出開帳」(でがいちょう)の方式を用いたキャンペーンでした。この方法は、大仏の現世利益・霊験を期待する民衆の信仰心をつかみ、多額の喜捨を集めて大仏修理の費用をまかなうことができました。その翌年には大仏修復事始の儀式が営まれ、東大寺勧進所として龍松院が建てられています。
 大仏修理の計画が具体化していくにつれ、奈良の町では大仏講という組織が編成され、勧進帳が作成されるなど、大仏復興への気運が地元でも盛り上がりました。そして貞享3年(1686)には大仏の修理が始まり、そのわずか5年後の元禄4年(1691)には大仏の修理は完了し、その翌年には大仏開眼供養が盛大に営まれました。このとき、奈良は空前の賑わいをみせたといわれています。」(奈良女子大学大学院人間文化研究科のホームページ「東大寺の歴史」3、江戸時代の東大寺)

とあり、芭蕉が訪れた元禄二年冬には大仏本体は修理の真っ最中で、大仏殿はまだ手付かずだったようだ。
 大仏修復の真っ最中の句で、その意味では流行の題材の句だが、大仏の有難さそのものは古くからある題材で、大仏殿の荒れたるを悲しむ心情を雪に託している。
 ただ、この『笈日記』では「大佛榮興をよろこびて」という前書きになっている。大仏修理が元禄四年に終わってしい、翌五年に開眼供養まで行われてしまったので、この前書きになってしまったようだ。この前書きだと「いつ大佛の柱立」は、「いつ行われたのだろうか、いつの間に終わっている」という意味になる。

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