今日も朝から雨。終戦記念日の今日はいつものように平和だった。鈴呂屋は平和に賛成します。
そういえば「同調圧力」という言葉はコロナ前にはあまり聞かれなかった言葉だ。左翼の間で国のコロナ対策を妨害するために広められた言葉と言っていい。最初は自粛要請に対して用いられたが、いまはワクチン接種に対して用いられている。
まあ、共産党の場合は「組織の圧力」で主体がはっきりしているから、あれは「同調圧力」とは言わないんだろうけど。
ただ、ワクチンは妨害しない方が野党のためだと思う。ワクチン接種が進んだ高齢者や元から死亡率の低い若者は、早期の自粛解除を求めているから、今の政府や自治体に不満を持っている。こうした人たちの票が「何もできない」野党の方に流れる可能性があるからだ。
今のコロナ対策は医者対一般人の戦いに変わってきている。
二十代は八月十一日の時点で252,840人が感染しているが死者は10人。これで危機感を持てという方が難しい。
八月十三日時点での実効再生産数は1.16。八月一日をピークに増加のペースは緩んでいる。
メンタリストDaigoさんやひろゆきさん、小林よしのりさん、古市憲寿さん、その他の炎上の常連の人達って、本当の危険思想の組織の工作に対して、免疫を作るうえで必要な人なんじゃないかと思う。mRNAのようなもの。
それでは「初茸や」の巻の続き、挙句まで。
二十五句目。
嫁入するよりはや鳴子引
袖ぬらす染帷子の盆過て 嵐蘭
染帷子(そめかたびら)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「染帷子」の解説」に、
「〘名〙 色や模様を染めた一重(ひとえ)の衣服。染めた帷子。《季・夏》
※舜旧記‐元和五年(1619)七月一日「長老へ曝帷一つ、森久右衛門染帷一つ遣也」
とある。
綺麗に染め上げられた帷子はいい所の育ちだったのだろう。急に親に先立たれ、嫁いだ先は貧乏な家で鳴子引きをさせられる。
二十六句目。
袖ぬらす染帷子の盆過て
月も侘しき醤油の粕 岱水
醤油は「しゃういう」と伸ばして字数を合わせる。醤油は中京から関西を中心に広まり、この頃は江戸でも用いられるようになっていたのだろう。ただ、醤油は高くてその絞り粕を食べるあたりが侘しい。
二十七句目。
月も侘しき醤油の粕
草赤き百石取の門がまへ 半落
百石取は武士としてはそれほど裕福とは言えない。一石が一人の一年食える米の量だとはいえ、百石だから百人食えるわけではない。年貢を取られて実質は四十石で、その米を売って現金に換え、米以外の支出に当てなくてはならない。
そういうわけで、見栄張って立派な門を立ててはいても、生い茂る雑草が秋には赤くなり、醤油の粕をすすって生活している。
二十八句目。
草赤き百石取の門がまへ
公事に屓たる奈良の坊方 芭蕉
屓は「まけ」と読む。お寺と神社は本地垂迹で共存していても、その境界はしばしば裁判沙汰になる。公事は訴訟のことで、負けて寺領を失った坊は門にも雑草が生い茂っている。
二十九句目。
公事に屓たる奈良の坊方
傘をひろげもあへず俄雨 史邦
俄雨なのですぐ止むということで、傘を差さずに坊方に雨宿りする。その坊方も公事に負けてみすぼらしい。互いに相哀れみ、
世にふるもさらに時雨のやどり哉 宗祇
の心になる。
三十句目。
傘をひろげもあへず俄雨
見る目もあつし牛の日覆 嵐蘭
前句の俄雨を夕立のようなものとして、夏に転じる。牛舎に日除けがしてあっても見るからに暑そうだ。
二裏、三十一句目。
見る目もあつし牛の日覆
出店へと又も隠居の出られて 半落
出店はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「出店」の解説」に、
「① 本店から分かれて、他所に出した店。支店。分店。でだな。
※俳諧・天満千句(1676)三「京江戸の外にて鹿の鳴はなけ〈未学〉 出見世本宅萩の下道〈宗恭〉」
② 路傍などに臨時に小屋掛けをした店。露店。
※俳諧・大坂独吟集(1675)下「光る灯心三筋四つ辻 小まものや出見せのめがねめさるべし〈重安〉」
③ 比喩的に、大もとのものから分かれ出たもの。本流に対する支流、幹に対する枝の類など。
※雑嚢(1914)〈桜井忠温〉二六「露軍の銃剣の尖(さき)は〈略〉。露西亜(ロシア)の出店(デミセ)━セルビアへ向いてゐる」
とある。この場合は①の方か。隠居したはずなのに、ついつい家業の商売に口を出したくなる。牛の日覆も暑苦しいが、御隠居がやってきて商売の事あれこれ指図されるのはもっと暑苦しい。
三十二句目。
出店へと又も隠居の出られて
干物つきやる精進の朝 岱水
精進の朝は精進日の朝で、先祖や身内の命日であろう。この日は肉食を忌む。
出店の方でも精進日をちゃんと忘れず守っているかどうか気になるのだろう。
三十三句目。
干物つきやる精進の朝
手拭のまぎれて夫を云つのり 芭蕉
『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年刊)を引いている。
「前句つねの所なれど、後句おのれが精進をもしらず、干物つけたるはその宿にはあらず、旅籠屋(ハタゴヤ)などの朝と見てつけたる也。さては手拭もゆふべの風呂よりまぎれたるをいひつのるさまに、若者どもの旅連なるべし」
夕べの風呂場で手拭を誰かが自分のと間違えて持って行ってしまったのだろう。そのことを宿に文句を言って、「そんなことうちには責任ありませんよ」とか言われると、「それに精進日だというのに干物を出しやがって」といちゃもんつける。店の方としては「知るかよ」だろう。
若者かどうかは知らないが、こういうクレーマーはいつの世にもいたのだろう。
三十四句目。
手拭のまぎれて夫を云つのり
駄荷をかき込板敷の上 嵐蘭
駄荷(だに)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「駄荷」の解説」に、
「① 馬につけて送る荷物。
※浄瑠璃・十二段(1698頃)二「今宵の中だに共数多拵へて」
※俳諧・七柏集(1781)雪中庵興行「紅毛(おらんだ)わたる駄荷の朝駒〈風宜〉 捨物の鎗(やり)かけてある横かすみ〈古音〉」
② (①の誤用から) 肩に担ぐ荷物。
※読本・南総里見八犬伝(1814‐42)八「二裹(ふたつつみ)の担荷(ダニ)を見かへりて」
手拭が見つからないが、その荷物の中に紛れているんではないかと、荷物の中身をひっくり返して調べさせる。迷惑なことだ。
三十五句目。
駄荷をかき込板敷の上
人つづく毛利細川の花盛り 史邦
毛利氏はウィキペディアによると、
「秀吉の死後は天下奪取を図る徳川家康に対抗して石田三成と接近し、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に就くも吉川広家が東軍と内通した際に毛利氏は担ぎ上げられただけとの弁明により所領安堵の約定を得た。
ところが、敗戦後に大坂城で押収された連判状に輝元の名があったことから家康は約束を反故にしたため、輝元は隠居し嫡男の秀就に家督を譲り、安芸国ほか山陽・山陰の112万石から周防国・長門国(長州藩)の2か国29万8千石に減封された。 このようにして毛利氏は、萩に新たな居城を造るとともに領内の再検地に着手し始め、慶長18年(1613年)に幕閣と協議したうえで36万9千石に高直しを行ない、この石高が長州藩の表高(支藩分与の際も変わらず)として公認された。」
とあるように、敗軍でありながらも江戸時代に生き永らえた。
細川氏もウィキペディアに、
「藤孝の長男・忠興(三斎)は、雑賀攻めで初陣し、信長の武将として実父とともに活躍。本能寺の変では妻・ガラシャの父である明智光秀に与しなかった。その後丹後北部の一色満信を滅ぼし、羽柴(豊臣)秀吉から丹後一国12万石の領有を認められ、羽柴姓を与えられた。藤孝(幽斎)は歌道の古今伝授の継承者、忠興は茶道の千利休の高弟として、文化面でも重きをなした。
慶長5年(1600年)、忠興は徳川家康の会津征伐に従軍、その間に大坂で石田三成が家康打倒の兵を挙げるとガラシャは人質になることを拒んで自害した。幽斎と三男の幸隆は丹後田辺城で西軍15,000の軍勢を相手に2か月に及ぶ籠城戦を戦い、忠興は関ヶ原の戦いにおいて東軍の部将として活躍した。戦後、忠興は功により豊前小倉藩39万9千石(豊後杵築6万石を含む)を得るとともに、姓を羽柴から細川に戻した。」
とあり、やはり命脈を保っている。
今は毛利氏も細川氏も立派な屋敷の広い縁に駄荷を広げて花見をしている。天下泰平でお目出度い。
挙句。
人つづく毛利細川の花盛り
聲も賢なり雉子の勢い 半落
キジのケンと鳴く声も「賢」と言っているかのようだ。賢い殿様がいて、長いこと徳川の平和が保たれている。その毛利氏のお膝元から討幕の炎が上がり、細川氏が戊辰戦争で薩長側に着いたのはまた別のお話になる。
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