オリンピックが終わったら台風が来て、今日は晴れた。買い物へ行くついでに、近所の小さなひまわり畑を見に行った。
雪ふりこむでけふも鳴瀧
にこにこと生死涅槃の夢覚て 支考
(にこにこと生死涅槃の夢覚て雪ふりこむでけふも鳴瀧)
前句を山の中の禅寺とし、瞑想による無の境地から我に返る瞬間とする。物事があるがままに存在し、花は紅柳は緑の状態で、雪も瀧の音もただそこにあるがままに存在する。
生死涅槃は生死即涅槃で、ウィキペディアには、
「大乗仏教における空の観念から派生した概念である。生死即涅槃の即とはイコールと捉えられやすいが微妙にやや異なる。この場合の「即」とは、和融・不離・不二を意味する。
迷界(迷いの世界)にいる衆生から見ると、生死(生死=迷い)と涅槃には隔たりがある。しかしそれは煩悩に執着(しゅうじゃく)して迷っているからそのように思うだけで、悟界(覚りの世界)にいる仏の智慧の眼から見れば、この色(しき、物質世界)は不生不滅であり不増不減である。したがって、いまだ煩悩の海に泳いでいる衆生の生死そのものが別に厭うべきものではなく、また反対に涅槃を求める必要もない。
言いかえれば、生死を離れて涅槃はなく、涅槃を離れて生死もない。つまり煩悩即菩提と同じく、生死も涅槃もどちらも差別の相がなく、どちらも相即(あいそく)して対として成り立っている。したがってこれを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。」
とある。
涅槃は死後のものではなく、生きながら得られるというこうした発想は、涅槃をある種の真理の体験だと解釈することによる。つまり様々な日常の先入見から解放されて、対象をそれが存在するがままにあらしめる、いかなる解釈も可能でありながらそのどれもなされていない自由な状態、判断を中止した空っぽの状態として捉えるところにある。
こうした発想はどこにでもあるもので、朱子学では既発に対しての未発の状態であり、風雅の誠も基本的にここに属する。西洋の現象学が判断中止(エポケー)によって対象の本質を直観するというのも、同じ発想だ。
こうして得られる真理は一種の感覚というか状態であって、何らかの命題を得られるわけではない。むしろハイデッガーが「真理の本質は自由である」というように、答えがない空っぽの状態(フリーな状態)が真理だということになる。
前に『無門関』の「南泉斬猫」で、何でもいいから答えを出すことが大事だと言ったが、その答えの仕方というのは、何らかの命題を引き出すのではなく、自由(空)であるということの証明、つまり意味のない答えをするというのが正解になる。趙州が靴を脱いで頭に載せて出て行ったというのも、その意味で一つの正解ということになる。
支考が『葛の松原』で古池の句をこの生死涅槃の文脈で捉えた可能性は十分にあるが、支考の場合は子規と違って写生に価値を見出すのではなく、むしろその意味のなさこそが日常の先入観に満ちた見方からの超越であって、そのまま俳諧の笑いにも適用された。ナンセンスな笑いをもたらすこともまた一つの超越であり、それは俗から遊離したものでなく、俗の中に見出されることに意味があった。
ただ、芭蕉は支考とは違い、結構風刺の利いた、いわば意味のある句も得意としていたし、支考が受け継げなかったのは芭蕉のその部分だったともいえる。この意味で支考と逆の、芭蕉のもう一つの方向へ行ったのは路通だったのかもしれない。
それでは旧暦七月三日、秋になったところで秋の俳諧を読んでゆくことにしよう。
元禄六年七月、芭蕉が江戸にいた頃、京の史邦が江戸に移住してきての歌仙興行。
史邦はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典「中村史邦」の解説」に、
「生年:生没年不詳
江戸時代の俳人。大久保荒右衛門,根津宿之助の名も伝わる。尾張犬山(愛知県)の人で,元禄期(1688~1704)に活躍した蕉門俳人。寺尾土佐守直竜の侍医で,医名は春庵。のち京に出て,御所に出仕さらに京都所司代の与力も勤めた。職を辞してより江戸に下り,諸俳人と交流。俳人としての全盛期は『猿蓑』のころであった。江戸では群小作家と交友,飛躍しえなかった。芭蕉の遺物二見文台や『嵯峨日記』などを伝来した人としても有名。編著に『芭蕉庵小文庫』(1696)がある。<参考文献>市橋鐸『史邦と魯九』(楠元六男)」
とある。
赤人の名ハつかれたりはつ霞 史邦
泥龜や苗代水の畦つたひ 同
などの句がある。
この興行でも発句を詠んでいる。
朝顔や夜は明きりし空の色 史邦
水色の朝顔であろう。ちょうど朝の明けっ切った頃の空のような色をしている。朝顔というと芭蕉に、
朝顔に我は飯食う男哉 芭蕉
という自己紹介の句がある。
朝から興行が行われたわけではないと思う。特に寓意もなく立句にしたと思われる。
脇は沾圃が付ける。
朝顔や夜は明きりし空の色
をのれをのれと蚓なきやむ 沾圃
蚓は蚯蚓(みみず)。昔はミミズが鳴くと言われていたがオケラの声だという。土の中からジーーーージーーーー、と聞こえてくる。
朝が来るとそのミミズも夜明けの空の色を憎むかのように、「おのれっ、おのれっ」とばかりに鳴き止む。
「おのれ」は自分のことだが相手のことを強い調子で呼ぶときにも用いられる。関西弁の「わい」や河内弁の「われ」にもそういう用法がある。
沾圃はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「服部沾圃」の解説」に、
「1663-1745 江戸時代前期-中期の能役者,俳人。
寛文3年生まれ。宝生重友の3男。野々口立圃(りゅうほ)の養子。陸奥(むつ)平藩(福島県)の内藤義英(露沾)に約30年間つかえる。元禄(げんろく)6年(1693)松尾芭蕉(ばしょう)の晩年の弟子となり,2代立圃をつぐ。のち宝生流11代宝生友精(ともきよ)の後見役をつとめた。延享2年10月2日死去。83歳。名は重世。通称は左(佐)大夫。別号に幾重斎。」
とあり、『続猿蓑』の撰者でもある。
第三。
をのれをのれと蚓なきやむ
舛落またぬに月は出にけり 芭蕉
舛落(ますおとし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「升落・枡落」の解説」に、
「〘名〙 鼠を捕える仕掛けの一種。升をふせて棒でささえ、その下に餌を置き、鼠が触れると升が落ちてかぶさるようにしたもの。ます。ますわな。ますこかし。
※俳諧・庵桜(1686)「升落し中避る猫の別哉〈宗旦〉」
とある。
前句の「をのれをのれ」を鼠に対しての言葉とする。升落としを仕掛けておいたが夕方になっても鼠はかからず、月が出たのでその舛で酒を飲んだか。
四句目。
舛落またぬに月は出にけり
廊下口までゆるす板の間 魯可
廊下口まで鼠が来ているのを月に免じて見逃してやったか。
五句目。
廊下口までゆるす板の間
はやらかす酒にむす子の知恵売て 沾圃
「はやらかす」は「はやらせる」ということ。造り酒屋を繁盛させるのに息子のアイデアを売りにゆくが、廊下口までしか入れてもらえなかった。
六句目。
はやらかす酒にむす子の知恵売て
栗丸太きる川上の山 史邦
日本酒の樽は杉で作るが、ワインのようなオークの樽を使ったらどうか、というアイデアが江戸時代にあったのか。
初裏、七句目。
栗丸太きる川上の山
ころころと形リのおかしき石拾ふ 魯可
「形リ」は「なり」。
つげ義春の『無能の人』という漫画に面白い形の石を探して集める人の物語があったが、多分戦後一時期こういうのが流行して、珍しい形の石はかなり高価で取引されていたようだ。
ウィキペディアを見るとそれは水石(すいせき)といもので、
「中国の南宋時代から始まった愛石趣味が日本に伝わったことに始まる。後醍醐天皇の愛石で中国から伝来した『夢の浮橋』が徳川美術館に収蔵されている。盆の中に山水景観を表現する盆石、盆景の中に自然石を置くことや、奇石の収集・鑑賞趣味として現在に伝わっている。
有名な愛石家に江戸時代の頼山陽、明治時代の岩崎弥之助がいる。1961年に日本水石協会が設立され、第1回展覧会が三越で開催された。」
とある。芭蕉の時代にもこういう人がいたのだろう。
八句目。
ころころと形リのおかしき石拾ふ
寺にかへればすはる麦食 芭蕉
水石を趣味とする人を寺院に所属する修行僧とする。
九句目。
寺にかへればすはる麦食
雨すぎて白ク咲たる茨の花 史邦
「茨」は「ばら」と読む。この頃の日本でバラというとイバラのことだった。夏に白い花が咲く。
お寺の庭の情景とする。
十句目。
雨すぎて白ク咲たる茨の花
祖父のふぐり柴にとり付ク 沾圃
祖父は「ヲゝヂ」とルビがあるが「おほぢ」のこと。
「祖父のふぐり」はそのままの意味ではなく、『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に「かまきりの卵のかたまりのこと」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「螵蛸」の解説」に、
「〘名〙 (「老人の陰嚢」の意) カマキリの卵のかたまり。秋に木の枝や家の壁などに生みつけられた泡状の分泌物がかたまって黒褐色になったもの。おおじのふぐり。おおじふぐり。〔本草和名(918頃)〕」
とある。
柴を取りに行くとそこに蟷螂の卵がくっついていることはよくあったのだろう。卵が孵ると小さなカマキリがうじゃうじゃと無数に出てくるが、それがちょうどイバラの咲く頃だ。
十一句目。
祖父のふぐり柴にとり付ク
子ども皆貧乏神と名をよびて 芭蕉
前句の「とり付ク」を貧乏神が憑りつくとする掛けてにはになる。
ここでは前句の「祖父のふぐり」をそのまんま人倫として、褌もせずに歩いている爺さんの貧相な姿に、貧乏神が刈ってきた柴に憑りついていたのか、子供から貧乏神と呼ばれる。
十二句目。
子ども皆貧乏神と名をよびて
絵馬をかくる年越の宮 魯可
絵馬はここでは「ゑうま」と読む。子供から貧乏神だと呼ばれるので、年末の厄払いに絵馬を懸ける。
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