アフガニスタンからの米軍撤退は日本人も他人事と思わぬ方が良い。守られるに値する国になるよう努めなくてはならない。隣の国もそうだが。
中国ワクチンを入れるという野党の発言がファイザーワクチンを遅らせたというAERAの記事もあった。守られるに値する国になるというのはそういうことでもある。
メンタリストのDaiGoさんは猫の命の重さについて語ってくれたが、猫の命が大事だから生まれてこないようにするという考え方に何か意見してほしかった。猫を保護すると称して、猫の繁殖権を奪い、子孫を根絶やしにする運動って何か間違っていないか。
あと、鈴呂屋書庫に元禄四年冬の「此里は」の巻をアップしたのでよろしく。
それでは「初茸や」の巻の続き。
十三句目。
物書く内につらき足音
月暮て雨の降やむ星明り 史邦
夕暮れに三日月が出ていて、それから一雨通り過ぎると星明りになる。今日は来ないと思っていた男の足音がするが、招かざる客のようだ。
十四句目。
月暮て雨の降やむ星明り
早稲の俵にほめくかり大豆 嵐蘭
仲秋の月の頃ということで、早稲の収穫は終り俵に収まり、大豆はそろそろ実り始める。「ほめく」はこの場合熱を持つことではなく「穂めく」であろう。
十五句目。
早稲の俵にほめくかり大豆
胸虫に又起らるる秋の風 岱水
「胸虫(むねむし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「胸虫」の解説」に、
「① 腹の虫。怒りの虫。
※雑俳・川柳評万句合‐宝暦一二(1762)桜二「むね虫がにわかにむっと仕り」
② 胃痙攣(いけいれん)のことか。〔日葡辞書(1603‐04)〕」
とある。ただ、胸というからには、腹ではなく心臓などの循環器系の異常ではないかと思う。
十六句目。
胸虫に又起らるる秋の風
ふごに赤子をゆする小坊主 史邦
ふごはもっこのこと。赤ん坊を乗せるにはハンモックのようで良さそうだ。
赤ん坊に胸虫がいるのか、夜鳴きがひどく、毎晩起こされてはあやすのが小坊主の役目になっている。
十七句目。
ふごに赤子をゆする小坊主
花守の家と見えたる土手の下 半落
花守は坊主がやることも多かったのだろう。花守の家には赤子を揺する小坊主の姿が見える。
十八句目。
花守の家と見えたる土手の下
細き井溝をのぼる若鮎 芭蕉
井溝(ゐみぞ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「井溝」の解説」に、
「〘名〙 田や畑に水を注いでいる溝。〔色葉字類抄(1177‐81)〕」
とある。花守の家の辺りの情景を付ける。
二表、十九句目。
細き井溝をのぼる若鮎
春風に太皷きこゆる旅芝居 嵐蘭
田舎に突如芝居小屋が立つこともよくあることだったのだろう。六十年代の漫画にもそういうのがあったように思う。
元禄二年伊賀での「霜に今」の巻三十三句目にも、
幕をしぼれば皆はしをとる
鶏のうたふも花の昼なれや 式之
の句がある。元禄四年の「うるはしき」の巻十二句目にも、
田の中にいくつも鶴の打ならび
芝居の札の米あつめけり 游刀
の句がある。田舎渡らいの旅芸人の芝居は、長いこと庶民の娯楽だったのだろう。
二十句目。
春風に太皷きこゆる旅芝居
のみ口ならす伊丹もろはく 岱水
もろはくは諸白でウィキペディアに、
「諸白(もろはく) とは、日本酒の醸造において、麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名。
または、その製法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のこと。」
とあり、
「その起源は、平安時代に奈良の大寺院で製造されていた僧坊酒で、その造り方の流れを継ぐ奈良の酒屋の「南都諸白(なんともろはく)」は、まるで今日の純米大吟醸酒のように、もっとも高級な清酒の呼び名として長らく名声をほしいままにした。
やがて室町時代以降は堺、天王寺、京都など近畿各地に、それぞれの地名を冠した「○○諸白」なる酒銘が多数誕生し、江戸時代に入ると上方から江戸表へ送る下り酒の諸白を「下り諸白」と称した。」
とある。南都諸白の製法の伊丹に伝わったものを伊丹諸白という。
前句の旅芝居の一座が都にやってくると、伊丹諸白の旨さのとりこになってしまう。
二十一句目。
のみ口ならす伊丹もろはく
琉球に野郎畳の表がへ 芭蕉
野郎畳はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野郎畳」の解説」に、
「〘名〙 縁(へり)をつけない畳。坊主縁(ぼうずべり)の畳。坊主畳。野郎縁。
※俳諧・陸奥鵆(1697)一「拾ふた銭にたをさるる酒〈素狄〉 真黒な冶郎畳の四畳半〈桃隣〉」
とある。琉球畳も同様に縁のない畳をいう。
あるいは同じ畳を関東では野郎畳、関西では琉球畳と言ったか。
関西に来て伊丹諸白を飲み慣れたから、部屋の野郎畳も琉球畳に畳替えした、って一緒やんけーーーっ。
二十二句目。
琉球に野郎畳の表がへ
是非此際は上ンものやく 史邦
「上ンものやく」がよくわからない。『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は「献上物をする役の意か」としている。
「揚げン物焼く」かもしれない。前句が同じものでありながら関西では琉球畳、関東では野郎畳というネタだったから、同じ天ぷらでも関西では魚のすり身を素揚げし、関東では魚をそのまま小麦粉の衣を付けて揚げるという違いに展開したのかもしれない。関西式の天ぷらは今日では九州のつけ揚げ(さつま揚げ)や飫肥天と呼ばれるものとして残っている。
二十三句目。
是非此際は上ンものやく
見知られて近付成し木曽の馬士 半落
馬士は「まご」、馬子のこと。
ここでは「上ンものやく」は献上する役ということで、木曽の駒牽(こまひき)のことであろう。
『去来抄』「先師評」に、
駒ひきの木曾やいづらん三日の月 去来
の句があり、八月十六日に朝廷に献上される馬が八月の三日頃出発したという句だが、ただ計算が合うというだけの句で芭蕉に酷評された。
半落の句は木曽の馬子と知り合いになって、献上する役をやらされてしまった、という句になる。
二十四句目。
見知られて近付成し木曽の馬士
嫁入するよりはや鳴子引 芭蕉
「鳴子引(なるこひき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳴子引」の解説」に、
「〘名〙 (「なるこびき」とも) 鳴子の綱を遠くから引いて鳴らし、田畑の害鳥を驚かし追うこと。また、その綱を引く人。《季・秋》
※仮名草子・尤双紙(1632)下「ひく物のしなじな〈略〉くびびき、つなびき、なるこ引(ビキ)」
とある。
木曽の馬子の所に嫁に行ったら、最初にやらされた仕事が鳴子引きだった。
0 件のコメント:
コメントを投稿