2020年6月30日火曜日

 今年の上半期が終る。年の初めはゴーンさんだったが、もうみんな忘れているのでは。そのあとはとにかくコロナに明け暮れた。
 コロナでとにかくたくさんの人の命が奪われていった。世界では五十万人を越え、日本でも千人に迫っている。
 報道では数字ばかりだが、亡くなった人の無念、残された人の悲しみははかりしれない。
 アマビエ巻九十九句目。

   蝶の羽にも時間よ戻れ
 疫病に涙も果てぬこの世界

 それでは「早苗舟」の巻の続き。さすがに「子は裸」の巻ではちょっとという所で「早苗舟」の巻と呼称することにした。

 五句目。

   与力町よりむかふ西かぜ
 竿竹に茶色の紬たぐりよせ     野坡

 紬(つむぎ)は紬糸で織った絹織物で、紬糸はウィキペディアに、

 「絹糸は繭の繊維を引き出して作られるが、生糸を引き出せない品質のくず繭をつぶして真綿にし、真綿より糸を紡ぎだしたものが紬糸である。 くず繭には、玉繭、穴あき繭、汚染繭が含まれ、玉繭とは、2頭以上の蚕が一つの繭を作ったものをいう。」

とある。
 江戸時代にはたびたび奢侈禁止令が出され、庶民が絹を着ることを禁じられていたが、裕福な商人は一見木綿に見える紬を好んで着たという説もある。
 紬の色としては目立たない茶や鼠が用いられた。
 句は表向きは西風で竿に掛けた紬が片方に寄ったというものだが、与力が岡っ引きを引き連れてやってくるというので、あわてて干してあった紬を取り込んだとも取れる。
 六句目。

   竿竹に茶色の紬たぐりよせ
 馬が離れてわめく人声       孤屋

 荷物を運ぶ馬であろう。繋いであった馬がいつの間に綱が解けて勝手に歩き出してしまったので、みんな抑えようと大騒ぎになる。
 どさくさに紛れて干してあった紬を失敬しようということか。
 七句目。

   馬が離れてわめく人声
 暮の月干葉の茹汁わるくさし    利牛

 「干葉(ひば)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 枯れて乾燥した葉。
  2 ダイコンの茎や葉を干したもの。飯に炊き込んだり汁の実にしたりする。」

とある。
 「わるくさい」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「( 形 ) [文] ク わるくさ・し
  〔「わるぐさい」とも〕
  いやなにおいがする。 「近く寄つたら-・い匂が紛(ぷん)としさうな/平凡 四迷」

とある。
 前句を馬子の家でのこととし、馬子の位で貧しい干葉の汁物を付けたのであろう。
 干した大根の葉の匂いは嗅いだことないからよくわからないが、ネットで見ると干葉を入浴剤に使う人が結構いるようで、それによると大根の葉には硫化イオンが含まれているので硫黄の匂いがするという。
 暮の月で時刻は秋の夕暮れ時。
 八句目。

   暮の月干葉の茹汁わるくさし
 掃ば跡から檀ちる也        野坡

 臭みのある干葉の汁を食う人を隠遁者としたか。寒山拾得ではないが、庭を掃き清めていると、そこにまた檀(まゆみ)の葉が落ちてくる。
 香木の栴檀、白檀などの檀ではなく、ここではニシキギ科のマユミのことであろう。秋には紅葉する。

2020年6月29日月曜日

 今日は晴れた。旧暦五月九日で半月が見えた。久しぶりに月を見たような気がする。
 アマビエ巻九十八句目。ラスト3。

   過ぎてった楽しい春の思い出よ
 蝶の羽にも時間よ戻れ

 さて、連歌三巻終って久しぶりに俳諧でも読んでみようかな。
 今回選んでみたのは『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)から『炭俵』所収の利牛、野坡、孤屋による三吟百韻で、芭蕉は参加していない。
 発句。

 子は裸父はててれで早苗舟     利牛

 「ててれ」は「ててら」ともいう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 (「てでら」とも)
  ① 襦袢(じゅばん)。膝のあたりまでしかない着物。ててれ。
  ※咄本・醒睡笑(1628)五「夕顔の棚の下なるゆふすずみ男はててら妻はふたのして」
  ② 男の下帯。ふんどし。ててれ。〔書言字考節用集(1717)〕」

とある。
 この場合どちらなのかはわからない。中村注はふんどしとしている。
 襦袢の用例として引用されている歌は、久隅守景(くすみもりかげ)が『納涼図屏風』にしている。
 「早苗舟」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 田植の時、早苗を積んで、水田に浮かべておく手押しの小舟。田植舟。《季・夏》
  ※俳諧・炭俵(1694)上「子は裸父はててれで早苗舟〈利牛〉 岸のいばらの真っ白に咲く〈野坡〉」

とある。
 当時の田植えは一種の神事で、彭城百川(さかきひゃくせん)の『田植図』を見ると烏帽子をかぶって踊ってる人がいるし、鼓を打ち鳴らす人もいる。田植えをする人はちゃんと服を来て笠を被っている。柳の木の下には見物する老人がいるが、これは、

 田一枚植て立去る柳かな      芭蕉

の芭蕉さんか。
 そうなると、このばあいの「ててれ」は半襦袢の方か。
 脇。

   子は裸父はててれで早苗舟
 岸のいばらの真ッ白に咲      野坡

 イバラは花は綺麗だけど、棘があるから裸の子供は痛そうだ。綺麗なだけで収めない所が俳諧か。
 第三。

   岸のいばらの真ッ白に咲
 雨あがり珠数懸鳩の鳴出して    孤屋

 珠数懸鳩(ジュズカケバト)はドバトと同様外来種で、本来飼育されていたものが野生化したものだろう。ウィキペディアには、

 「全長25から30センチメートル。全体的に淡い灰褐色で後頸部に半月状の黒輪がある。風切羽は黒褐色、嘴は暗褐色。シラコバトによく似ているが、背や翼の褐色がシラコバトよりも薄い。白変種をギンバト(銀鳩)といい、全身白色で嘴と脚が紅色。」

とある。クックルルルルルーとドバトよりも澄んだ声で鳴く。
 四句目。

   雨あがり珠数懸鳩の鳴出して
 与力町よりむかふ西かぜ      利牛

 ウィキペディアによれば与力は町奉行の下で行政・司法・警察の任にあたり、八丁堀に三百坪程度の組屋敷が与えられていたという。与力の下には同心がいて、その下には岡っ引きがいる。
 ここでいう与力町は八丁堀にあった片与力町、中与力町のことだろう。
 雨が上がって与力町の方から西風が吹いてくる。八丁堀から西と言えば深川の方か。何やらどやどやと一緒になって岡っ引きまでやってきそうだが。

2020年6月28日日曜日

 昨日は鈴呂屋書庫の方に「兼載独吟俳諧百韻」をアップしたが、それに続いてと思って「守武独吟俳諧百韻」を読み返していたら、

   さだめ有るこそからすなりけれ
 みる度に我が思ふ人の色くろみ
   さのみに日になてらせたまひそ
 一筆や墨笠そへておくるらん

というのがあった。
 日本人に限らず黄色人種は日焼けするもので、白くも黒くもなる。
 こと女性に関しては一五四三年に種子島にポルトガル人がやってくる以前から、色の白いのを良しとされていた。まだ白人とも黒人とも接触する前のことだ。だから、白人に憧れてでもなければ黒人を差別してでもない。
 単純に考えれば、日焼けは外に出て仕事する人がするもので、それ自体が身分の低さの象徴でもあった可能性が高い。逆に色白の女性は良家の箱入り娘というふうに見られたのだろう。
 近代でも「色の白さは七難隠す」という諺がある。これももっぱら女性に関してのものだ。
 男の場合は色黒は賤しいが働き者というプラスの価値付けもあった。
 「黒面(こくめん)」は芭蕉の時代に誠実だとか律儀だとかいう意味で用いられていた。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘形動〙 (「こくめい(克明)」の変化した語か) 実直なさま。律義(りちぎ)なさま。まじめ。
  ※浮世草子・宗祇諸国物語(1685)五「畑の細路を黒面(コクメン)にうつむきて、爰を大事と目をくばる」

とある。
 おそらく最初は「こくめい(克明)」と言っていたのが、誰かが間違えて「こくめん」と言うようになり、それが広がったものであろう。
 最近でも「定番(ていばん)」のことをいつの間にか「鉄板(てっぱん)」と言うようになっている。最初は言い間違いだったものの、鉄板のように固い定番ということで、定着したと思われる。
 「こくめん」もそういう意味で、働き者で顔が真っ黒に日焼けした人のように克明だということで広まったのではないかと思う。
 梅若菜の巻の三十二句目にも、

   咳聲の隣はちかき縁づたひ
 添へばそふほどこくめんな顔   園風

とある。
 また、色の黒さは旅人の象徴でもあったか。

 早苗にも我が色黒き日数哉    芭蕉

の句もある。これは能因法師が白川まで旅をしてきたように見せかけるため、わざと日焼けしたという伝説に基づくものだが、「我が色黒き」には本当に旅をしてきたという自負があり、そこには旅が公界の自由を象徴するという意味も含まれていたと思われる。
 戦後になり、西洋流のレジャーが入ってくると、今度は日焼けした肌がかっこいいということになる。これはレジャーを楽しむ余裕があるということで、むしろ裕福さを象徴するものになったからだ。日焼けサロンという日焼けベッドがたくさんあって人工的に日焼けする店も繁昌した。
 この時代は男でも日焼けしてないと「青白い」とか言われ、不健康のように言われた。
 ただ、やがて紫外線の害が言われるようになると、一転して日焼けを嫌うようになった。今日の日本の美白文化にはこうした歴史による変遷を伴うもので、別に白人が良くて黒人が悪いといった感情によるものではなかった。
 日焼けとは別に九十年代のギャルの間で「がんぐろ(顔黒)」とよばれる顔を黒く塗るメイクがはやったこともあった。
 日本語の白と黒に関しては「しろうと」「くろうと」と言うように、黒には熟練したという意味もあった。単純にアメリカの価値観で美白を批判したり言葉狩りを行うようなことはしないでほしい。
 アマビエ巻九十七句目。

   早咲き枝垂れ八重の花々
 過ぎてった楽しい春の思い出よ

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 名残裏。
 九十三句目。

   川音近し谷の夕暮
 滝浪につるるあらしの吹き落ちて  量阿

 滝浪は上から落ちる瀧ではなく、吉野宮滝のような急な渓流のことであろう。『万葉集』に、

 み吉野の瀧の白波知らねども
     語りし継げば古思ほゆ
              土理宣令

の歌がある。
 急流の上に強い風が吹き荒れてごうごうと恐ろしいほどの川音を響かせている。
 九十四句目。

   滝浪につるるあらしの吹き落ちて
 さわげど鴛ぞつがひはなれぬ    専順

 激しい波と風にも負けず、オシドリのつがいは離れようとしない。
 人間の場合は、

 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
     われても末に逢はむとぞ思ふ
              崇徳院(詞花集)

というところだが。
 九十五句目。

   さわげど鴛ぞつがひはなれぬ
 月なれや岩ほの床の夜の友     慶俊

 オシドリは夜行性で昼は木の上で休む。
 「岩ほの床の夜の友は月なれや」の倒置で、川べりの大きな岩の上で野宿をすると、川ではオシドリが騒いでいる。オシドリに伴侶がいるように、私にはあの月が友なのだろうか、となる。
 オシドリは漂鳥で秋になると西日本の河辺にやってくる。
 九十六句目。

   月なれや岩ほの床の夜の友
 露もはらはじ苔の小筵       行助

 岩ほの床を修行僧の宿坊とする。
 島津注は、

   大峯通り侍りける時、
   笙の岩屋といふ宿にて
   よみ侍りける
 宿りする岩屋の床の苔むしろ
     幾夜になりぬ寝こそ寝られね
             前大僧正覚忠(千載集)

の歌を引いている。
 九十七句目。

   露もはらはじ苔の小筵
 松高き陰の砌りは秋を経て     心敬

 「砌(みぎ)り」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「名〙 階下のいしだたみ。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
 〘名〙 (「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという)
 [一]
 ① 軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。
 ※万葉(8C後)一三・三三二四「九月(ながつき)の 時雨の秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて」
 ② 転じて、庭。また、境界。
 ※千載(1187)序「ももしきの古き跡をば、紫の庭、玉の台、千とせ久しかるべきみきりと、みがきおきたまひ」
 ③ あることの行なわれ、または、あるものの存在する場所。その所。
 ※東寺百合文書‐い・康和元年(1099)閏九月一一日・明法博士中原範政勘文案「東寺是桓武天皇草創鎮護国家砌也」
 ④ あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。
 ※百座法談(1110)三月二七日「このみきりも、定めて過去の四仏あらはれ給ふらむを」
 ※太平記(14C後)一一「法華読誦の砌(ミギリ)には」
 [二] 水辺。水ぎわ。
 ※性霊集‐九(1079)高野四至啓白文「見二砌中円月一、知二普賢之鏡智一」
 〘名〙 「みぎり(砌)」の変化した語。
 ※謡曲・金札(1384頃)「さても山城の国愛宕の郡に平の都を立て置きたまひ、国土安全のみぎんなり」

とある。元は「水を切る」「水を防ぐ」という意味だったのだろう。
 松の下にある石畳は年を経て苔に埋もれて、今では露で濡れるがままになっている。
 ここで「砌」の文字を出すことには別の意図があったのだろう。
 九十八句目。

   松高き陰の砌りは秋を経て
 ふりぬ言葉の玉の数々       宗怡

 宗怡と「宗」の付く名前の人だから、多分師匠の宗砌さんのことを思い起こしたのだろう。宗砌は十一年前の康正元年(一四五五)に世を去っている。行助や宗祇の師匠でもある。
 九十九句目。

   ふりぬ言葉の玉の数々
 神垣や絶えず手向の茂き世に    紹永

 神社の神垣には長年にわたって多くの人が幣を奉り、手向けの言葉を掛けてきた。ここでもこの連歌興行の「言葉の玉の数々」を東国へ下向する行助さんへの手向けとできれば幸いです、というところか。
 大勢の人数を集めたこの興行は、大きな神社での興行だったのだろう。
 古代の神社には今のような本殿・拝殿はなく、神垣によって囲われた神域が神社だった。神垣に手向けをするというのはその頃の名残の言い回しであろう。
 挙句。

   神垣や絶えず手向の茂き世に
 いのりし事のたれか諸人      英仲

 「誰か諸人のいのりし事の」の倒置。「かなはざる」が省略されていると思われる。
 そういうわけで東国への旅路のご無事をみんな祈ってますと、この送別連歌百韻は終了する。

2020年6月27日土曜日

 今日は曇り。
 東京の新たな感染者は五十七人で、感染経路のわからないのが三十六人。確実に上昇トレンドに入っている。
 アマビエ巻九十六句目。

   豊かさは自由があってこそのもの
 早咲き枝垂れ八重の花々

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 八十九句目。

   落つる涙にうかぶ手枕
 昔思ふ袖にかほれる梅の花     心敬

 「昔思ふ袖の香ほれる」は、

 五月待つ花橘の香をかげば
     昔の人の袖の香ぞする
            よみ人知らず(古今集)

で、この時代の連歌はそれほどマイナーな本歌を引いてくる必要はない。誰もが楽しめるように、誰もが知ってる歌を使うのが良しとされていたからだ。ただ、時代が下ると、それに飽き足らぬ作者がやたら難解な出典を好むようになり、連歌がオタク化してしまうことになる。
 島津注は、

 昔思ふさ夜のねざめの床さえて
     涙も氷る袖の上かな
            守覚法親王(新古今集)

を引くが、「袖」に「涙」を読んだ歌は無数にあり、それこそ付き物だ。
 花橘を梅の花に変えることで、『伊勢物語』の「月やあらぬ」の歌で有名な四段の、

 「またの年の正月に、梅の花盛りに、去年を恋ひて、行きて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月の傾くまで伏せりて、去年を思ひ出でて詠める。」

の一節を思い起こさせる。
 こういう出典のわかりやすさへのこだわりも心敬さんならではのものだ。連歌はオタク文化ではなく、あくまでポップでなくてはならなかった。
 芭蕉の時代も其角などは難解な出典でオタク化の道を歩んだが、芭蕉はポップに留まろうとした。
 九十句目。

   昔思ふ袖にかほれる梅の花
 草の庵も春はわすれず       元用

 これも、「春はわすれず」とくれば、

 東風吹かばにほひおこせよ梅の花
     あるじなしとて春を忘るな
            菅原道真(拾遺和歌集)

で、島津注も引用している。「梅の花」との縁もあり、僻地に左遷され隠棲する隠士の句とする。
 九十一句目。

   草の庵も春はわすれず
 大原や山陰ふかし霞む日に     行助

 大原に隠棲となれば、『平家物語』の大原御幸であろう。
 「大原御幸」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「平曲の曲名。伝授物。灌頂巻(かんぢようのまき)5曲の中。後白河法皇は建礼門院の閑居訪問を思い立つ。4月下旬のことで,道には夏草が茂り,人跡絶えた山里である。山すその御堂は寂光院(じやつこういん)で,浮草が池に漂い,青葉隠れの遅桜が珍しく,山ホトトギスのひと声も,法皇を待ち顔に聞こえる。質素な女院の庵に声を掛けると,老尼が出迎え,女院は山へ花摘みに行かれたと告げる。尼は昔の阿波内侍(あわのないし)だった。」

 季節はややずれるが、本説を取る時に少し変えるのは普通のこと。古くはほとんどそのまんまでも良かったが、蕉門の俳諧では多少変えるのを良しとした。
 九十二句目。

   大原や山陰ふかし霞む日に
 川音近し谷の夕暮         宗祇

 ここは景色でさらっと流す。ただ、春の山川の霞む夕暮れは大原ではないが、

 見渡せば山もとかすむ水無瀬川
     夕べは秋となに思ひけむ
            後鳥羽院(新古今集)

による。
 後に『水無瀬三吟』を巻く宗祇さんだけに、やはり好きな歌だったのだろう。

2020年6月26日金曜日

 国内の新たな感染者が百人を超えた。まあ、検査体制に余裕が出来て、無症状の人も調べているというから、重篤化してもなかなか調べてもらえなかった頃とはたいぶ意味合いが違うとは言うが、それでも移動制限がなくなったからこのまままた全国に広がって行くかもしれない。
 国も自治体も金がないからと言って自粛要請をしないならば、とにかく自分の身は自分で守るしかない。外出は極力控え、人との接触も最低限に。みんな、生き残ろう。
 アマビエ巻九十五句目。

   頼むネットよ繋がってくれ
 豊かさは自由があってこそのもの

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 八十五句目。

   遠方人に千鳥立つ声
 誰かまつ妹があたりを尋ぬらん   専順

 島津注は、

 思ひかねいもがりゆけば冬の夜の
     川風さむみ千鳥なくなり
              紀貫之(拾遺集)

を引いている。
 ただここでは旅人(遠方人)と「誰かまつ妹(誰待つかの倒置)」という面識のない二人の出会いとなる。在原行平と松風・村雨の姉妹との出会いの場面も念頭にあるのか。
 八十六句目。

   誰かまつ妹があたりを尋ぬらん
 契りし頃よ更けはつる空      宗怡

 誰か待つ妹を訪ね、夜更けには契ることになる。
 八十七句目。

   契りし頃よ更けはつる空
 うたたねの夢を頼めば鐘なりて   士沅

 これは巫山の夢であろう。目覚めた時に夜明けの鐘がなる所で現実に引き戻される。
 八十八句目。

   うたたねの夢を頼めば鐘なりて
 落つる涙にうかぶ手枕       弘其

 夢に頼むというと、

 うたた寝に恋しき人を見てしより
     夢てふものは頼みそめてき
             小野小町(古今集)

 夢に出てきてくれると嬉しいけど、目覚めれば悲しい現実に引き戻される。
 「涙にうかぶ手枕」は島津注によれば『源氏物語』須磨巻の「なみだおつともおぼえぬに、まくらうくばかりになりにけり。(涙がこぼれたと思うか思わないかのうちに、枕が涙の海に浮かんでいるような心地にになりました。)」に拠るという。

2020年6月25日木曜日

 今日も朝から雨。午後には止んだが。
 重慶のほうはなんか水害で大変なことになっているようだね。三峡というと、

 巴東山峡巫峡長 猿鳴三声涙沾裳

という六朝時代の無名詩があったっけ。芭蕉の「猿を聞く人」の句に素堂は、「一等の悲しミをくはへて今猶三声のなみだたりぬ」と評してた。
 アマビエ巻九十四句目。

   終らない夢に選んだ新天地
 頼むネットよ繋がってくれ

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 名残表。
 七十九句目。

   ひとり枕にあかす夜な夜な
 虫の音や恨むる色をさそふらん   能通

 「ひとり枕」を別れた後とする。過去のことは忘れたと思っても、虫の音にいろいろ思い出すこともあるのか、過去の恨みを思い出す。
 八十句目。

   虫の音や恨むる色をさそふらん
 常より秋のつらき故郷       与阿

 恋から離れ、都を離れて帰郷した人とする。都会ではあまり聞けない虫の音も、故郷ではうるさいくらい聞こえ、都落ちした恨みを思い出す。今年の秋はいつもの秋よりも辛くなりそうだ。
 八十一句目。

   常より秋のつらき故郷
 陰寂し暴風の風のそなれ松     行助

 「暴風」は「のわき」と読む。「そなれ松」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 海の強い潮風のために枝や幹が低くなびき傾いて生えている松。いそなれまつ。そなれ。
  ※古今六帖(976‐987頃)六「風ふけば波こすいそのそなれまつ根にあらはれてなきぬべら也〈柿本人麻呂〉」
  ② 植物「はいびゃくしん(這柏槇)」の異名。」

とある。①の意味であろう。
 ここでは海辺の故郷となり、いつもの秋よりも辛いのは台風のせいだと

する。
 八十二句目。

   陰寂し暴風の風のそなれ松
 思はず月にきさ山の暮       量阿

 「きさ山」は吉野にある。「象山」という字を当てる。
 暴風の磯のそなれ松に、月の吉野の象山はいわゆる相対付けであろう。江戸時代の俳諧では「向え付け」という。
 きさ山は「月に来し」に掛けて「月にきさ山」で、大阪の高師浜の方から吉野にやってきたか。
 八十三句目。

   思はず月にきさ山の暮
 袖寒く渡る小川に雨晴れて     心敬

 吉野の青根ヶ峰から流れ出た水は象山の麓を通り、この川は古来象(きさ)の小川と呼ばれていた。今は喜佐谷川という名前になっている。宮滝で吉野川にそそぐ。
 前句の「思はず月に」を思いがけなく雨も晴れて月が見えるとする。「きさ山」に「小川」が付く。秋の夕暮れは袖も寒い。
 八十四句目。

   袖寒く渡る小川に雨晴れて
 遠方人に千鳥立つ声        慶俊

 海辺の景色に転じる。
 「遠方人(おちかたびと)」は遠くにいる人という意味だけでなく旅人という意味もある。

2020年6月24日水曜日

 晴れ間も見えたが、鬱陶しい季節が続く。
 アマビエ巻名残の裏に入る。九十三句目。

   中央道を西へと向かう
 終らない夢に選んだ新天地

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 七十五句目。

   うつるひかりの影をしめ只
 老い果てば無きが如くと思ふ身に  宗祇

 これより三十三年後になるが、『宗祇独吟何人百韻』の挙句に、

   雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に
 わが影なれや更くる灯       宗祇

の句がある。文字通り老い果てた宗祇法師の句だが、灯の光の影に対して、人生をしみじみと振り返っている。
 自分の影と対すというのは李白の『月下独酌』の、

 舉杯邀明月 對影成三人

の句から来ていると思われる。ここでは月と自分と自分の影の三人ということになっている。
 前句の「をしめ」を「惜しめ」から「愛しめ」に取り成した句だということは島津注も指摘している。
 老い果てて、自分を知る人も世を去って、友もなく有るか無しか境遇になったなら、自分の影と対座してそれだけを頼りに過ごせということなのだろう。
 この句の着想はずっと宗祇法師の心に残ってたのだろうか。宗祇法師の遺訓とも言われる独吟百韻の最後もこの趣向で締めくくることとなる。
 七十六句目。

   老い果てば無きが如くと思ふ身に
 有りて命の何をまつらん      専順

 「命」は「いのち」と読むが「拠り所」の意味もある。「応仁二年冬心敬等何人百韻」四十九句目の、

   わすれぬ物を人や忘れん
 かはらじのその一筆を命にて    心敬

の用法だ。
 島津注は「命の有りて何をまつらん」の倒置と取るが、「有りて何の命をまつらん」の倒置とも取れる。これだと出世の欲を捨てるという意味になる。生きて一体何を当てにして待てというのか、となる。
 七十七句目。

   有りて命の何をまつらん
 ひまもなき心の程はしる袖に    紹永

 「ひまもなき心」は島津注にもあるとおり、

 秋の夜は月にこころのひまぞなき
     いづるをまつといるををしむと
            源頼綱朝臣(詞花集)

の用例がある。心の休まる時がない、悩ましくてしょうがない、という意味。
 悩ましくて他のことも手につかない今の心を知っている涙に濡れた袖に、一体何の拠り所を待てというのか、となる。
 七十八句目。

   ひまもなき心の程はしる袖に
 ひとり枕にあかす夜な夜な     慶俊

 ひとり枕で片思いとする。

2020年6月23日火曜日

 今日は午後から晴れた。
 日本人は黒人差別の問題を見てみぬふりをしているのではない。見ようにもよく見えない、と言った方がいい。
 それこそBlack Lives Matterをちゃんと訳すこともできないし、かつての南アフリカのアパルトヘイトのようなわかりやすい差別のシステムもない。
 何が問題なのかほとんどわからないにもかかわらず、そのわからないことを厳しく責め立てられ、日本人も加害者であると断罪されるとそりゃあ反発するわな。
 明治以降、日本人は西洋の植民地化政策に脅威を感じ、一歩間違えば日本人も奴隷にされるかもしれないという恐怖の中で、西洋に対抗しようとあの侵略戦争の道を歩んでしまっただけに、少なくとも日本人を加害者扱いする人権派の主張は、逆に日本人を劣等民族として差別し、劣等民族の日本は征服され、消滅されるべきだと言っているように聞こえてしまう。
 まあ、その辺の微妙な心理は外国の人にはわからないかもしれないけど。チェッカーズじゃないが「わかってくれとは言わないが/そんなに俺が悪いのか」。
 アマビエ巻九十一句目。

   定めなき雨のおさまる凍月に
 中央道を西へと向かう

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 七十一句目。

   人を待乳の山の名もうし
 時鳥かたらひ捨てし後の暮     量阿

 さあ、また「かたらひ」が出てきて、恋ではあの意味になる。
 まあ、今で言えば渡部建か。時鳥の一声のようにささっと済ませて去ってったのだろう。そんなんで夕暮れになってまた待っているのは嫌なものだ。
 まつち山と時鳥の縁は、島津注が、

 来ぬ人をまつちの山の時鳥
     同じ心に音こそ泣かれる
             よみ人知らず(拾遺集)

を引いている。
 七十二句目。

   時鳥かたらひ捨てし後の暮
 きのふもけふも神祭る頃      元用

 「神祭(かみまつ)る」は元は「かむまつる」で、「う」と乙類の「お」は交替するので、「かもまつる」にもなったのだろう。ここでいう「神祭」は「加茂祭」のこと。
 加茂祭は上賀茂神社と下鴨神社の祭礼で、卯月に何日もかけて行われた。特に競馬(くらべうま)は人気だった。
 文亀二年(一五〇二)以降しばらく途絶え、元禄七年(一六九四)に復活した時には貞門の俳諧師北村季吟の進言もあって『源氏物語』の斎王の行列が再現され、葵祭と呼ばれるようになった。
 ホトトギスのなく頃はちょうど賀茂祭の頃でもある。
 七十三句目。

   きのふもけふも神祭る頃
 かたぶける日はさるとりの時過ぎて 宗怡

 賀茂祭は明治の旧暦行事の禁止によって新暦の五月十五日とその前の何日かに行われるが、本来は卯月の酉の日まで行われた。
 前句の「きのふもけふも」が申の日、酉の日になり、その最後の酉の日も申の刻を過ぎて酉の刻となると日没となり、祭は終了する。
 七十四句目。

   かたぶける日はさるとりの時過ぎて
 うつるひかりの影をしめ只     英仲

 島津注は日想観を詠んだものだとする。日想観はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「〘仏〙 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法。極楽浄土を見る修行の一部で、観無量寿経に記される。日想。」

とある。「をしめ」という命令形が確かに説教を思わせる。

2020年6月22日月曜日

 今日も雨。昨日から文字通りの五月雨だ。
 ところで河出書房新社から六月二十九日に発売予定だった方方の『武漢日記 封鎖下60日の魂の記録』(飯塚 容 / 渡辺新一訳)、完全に情報が途絶えている。何があったのか。
 HMV&BOOKSでようやく「こちらの商品はメーカーにより生産中止となりましたので、恐れ入りますがご注文いただくことはできません。」の文字を見つけた。
 アマビエ巻九十一句目。

   冬籠る寺虹になぐさむ
 定めなき雨のおさまる凍月に

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 三裏。
 六十五句目。

   子日の松の幾とせか経ん
 春の野をうづむ笆の陰遠く     専順

 「笆」は「まがき」と読むようだが、漢字ペディアによると、

 「①いばらだけ。とげのあるタケ。 ②たけがき。いばらだけで作ったかきね。「笆籬(ハリ)」

とある。ならそのイバラダケって何だということになる。そのような名前の植物はないようだ。
 島津注は「霞のまがき」だというが、霞みはたなびくもので「春の野をうづむ」ものではないように思う。この場合は籬に用いられるような笹で野が埋まっているということではないかと思う。
 子の日の松を松林に取りに行くと、遠景に笹や篠の野が見える、ということだろう。
 宋の時代の中国絵画で歳寒三友という松竹梅の画題があり、その影響もあったのだろう。これが松竹梅として一般庶民に広まるのは江戸時代だという。
 六十六句目。

   春の野をうづむ笆の陰遠く
 末はかすめる庭のやり水      与阿

 ここで前句の「笆(まがき)」は霞の籬に取り成されるのだと思う。
 「霞の籬」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「たちこめた霞を籬にたとえていう。《季・春》
  ※夫木(1310頃)二「谷の戸のかすみの笆あれまくに心して吹け山の夕風〈藤原為家〉」

とある。
 庭のやり水は池泉庭園に流す人工の川で、室町時代には砂で代用する枯山水が増えたとはいえ、池泉庭園も普通に作られていたのだろう。
 借景となってた野に霞が掛かると、そのまま霞の籬になる。
 六十七句目。

   末はかすめる庭のやり水
 月細く有明がたに流れきて     心敬

 「月が流れる」というのは、『源氏物語』朝顔巻の、

 氷とぢ岩間の水は行き悩み
     空澄む月の影ぞ流るる

の歌に詠まれている。庭の遣り水は凍って流れないが、月はお構いなしに西に流れていく、という歌だ。
 ただ、ここでは下弦過ぎた細い月(逆三日月のようなものだが、なぜかこのような月を表す言葉がない)東から昇る様で、夜も明けて庭の遣り水の向こうの霞んだ景色が見えてくる。
 六十八句目。

   月細く有明がたに流れきて
 夜寒になりぬ秋の初風       士沅

 有明がたといえばやはり気温も下がり、肌寒くなる。旧暦七月の二十六日過ぎであろう。
 六十九句目。

   夜寒になりぬ秋の初風
 衣うつ音を聞くさへ目もあはで   清林

 「目もあはで」は眠れないということ。瞼が閉じないということ。
 夜寒になる頃には衣うつ音が物寂しく、長い夜なのになかなか寝付けない。
 七十句目。

   衣うつ音を聞くさへ目もあはで
 人を待乳の山の名もうし      行助

 待乳山(まつちやま)というと浅草の待乳山聖天(しょうでん)が浮かぶ。ただ、万葉集などに詠まれた「待乳の山」がどこにあったかについては大和、紀州など諸説ある。
 前句の「目もあはで」から愛しい人を待って眠れないと恋に展開し、待つを待乳の山に掛ける。

2020年6月21日日曜日

 今日は夏至で旧暦五月一日。一日曇、夕方から雨で日蝕は見えなかった。
 新たな感染者数は今のところ横ばいで、緊急事態宣言の解除の影響はこの程度のものだったか。あとは都道府県をまたぐ移動制限解除の影響がどうでるか、二週間後にわかる。
 第二波のことを考えるなら、会いたい人に会いに行くのは今のうちかもしれない。先のことはわからないからな。
 パンデミックに関わらず、表現に制約を課すのは右からのものであれ左からのものであれないほうがいい。
 左翼や人権派の人たちの間では未だにサピア・ウォーフ仮説の亡霊がさまよっていて、言葉をなくせば差別はなくなるだとかいった表現狩り言葉狩りが行われているが、言葉は人間の思考を決定することはない。言葉に意味を与えるのはあくまで人間だからだ。
 どんな言葉でも多種多様な解釈が可能であり、どの解釈を選ぶかはその人の問題だ。芸術作品でも同じだ。
 バンクシーのあの星条旗を燃やす絵だって、星条旗が燃え上がってざまー見ろと思う人もいれば、大変だ早く消し止めなくてはという警告だと思う人もいる。
 黒人の看護婦のフィギアの絵も、世間で二つの解釈があったらしいが、筆者は絵空事のヒーローよりも現実の世界で自分を救ってくれた人のほうがヒーローだと解釈している。別に深読みはしない。
 銅像を引き倒す像も、銅像が倒されて万歳というモニュメントにもなれば、銅像を倒した馬鹿共がいたというモニュメントにもなる。
 七十年代のクラッシュのヒット曲「ホワイトライオット」は、後に白人優越主義者が歌うようになったので歌えなくなったなんて話も聞く。
 作品はどのようにも解釈できる、選ぶのはそれぞれの人間だ。
 だから筆者は作者の思想を問題にしない。いい作品なら共産党員が作ろうがネオナチが作ろうがかまわない。
 クレイユーキーズの「世界から音が消えた日」はapple musicでプレイリストに入れて何度も聞いているが、必ず「たかが風邪だよ、大袈裟な」の台詞が耳に止まる。コロナを風邪だと思っている人は、これで「そのとおり」と思うのだろう。
 文脈では学生達のコロナ以前の平時の会話で「いつもの馴染みのトークなつかしい」と続くが、こういうトリックは面白いと思う。もちろんコロナがただの風邪ではなく恐ろしい病気であることは言うまでもないが。他にもこの歌詞にはトリックがある。
 wacciの「乗り越えてみせよう」の「取り合えず全部やめよう/気持ちはわかるし」も、取りあえずじゃなくて本当に危険だからだろうと突っ込み入れたくはなるが、まあそういうのも作品の面白さだ。笑って許すのが成熟した国民というものだ。
 アマビエ巻九十句目。

   もっこりも気にならぬ程あどけなく
 冬籠る寺虹になぐさむ

 二次元エロのことを「虹エロ」と表記することがある。LGBTの象徴であるレインボウとは何の関係もない。
 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 三表。
 五十一句目。

   かたびら雪は我が袖の色
 ならす手の扇に風を猶待ちて    宗祇

 前句の「かたびら雪」を雪のように白い帷子の袖として夏に転じる。
 「ならす」は慣れること。すっかり手馴れた手つきで扇をあおぎ、白い涼しげな帷子を来て、さらに涼しい秋風が吹いてくるのを待つ。
 島津注は、

 手もたゆくならす扇のおき所
     忘るばかりに秋風ぞ吹く
             相模(新古今集)

の歌を引いている。
 五十二句目。

   ならす手の扇に風を猶待ちて
 みどりに近く向ふ松陰       量阿

 馬に乗って移動している人だろうか。扇でぱたぱたあおぎながら松陰で涼もうとする。
 五十三句目。

   みどりに近く向ふ松陰
 散る花の水に片よる岩隠      専順

 前句の「みどりに近く向ふ」を松の方に向かうというだけでなく、花が散って新緑の季節に向かうと二重の意味を持たせる。
 散った花は水に落ち、やがて岩隠の方に流されてゆく。岩に松は付き物。
 五十四句目。

   散る花の水に片よる岩隠
 さざ波立ちて蛙なくなり      行助

 散る花の水に片よりいわゆる花筏になったっ所にさざなみが立てば、蛙が飛び込んだことが知られる。ただ、当時の和歌・連歌の感覚では蛙の水音ではなく、あくまで蛙の鳴き声を付ける。
 芭蕉の古池の句まであと少しといった句だ。
 五十五句目。

   さざ波立ちて蛙なくなり
 小田返す人は稀なる比なれや    弘其

 そろそろ田植えの準備も整い、いまさら田んぼを耕す人もいない頃、水の張った田んぼに蛙が飛び込み鳴き声が聞こえる。
 五十六句目。

   小田返す人は稀なる比なれや
 暮るる夜さびし岡野辺の里     慶俊

 前句の「人は稀なる比」を夕暮れとする。
 五十七句目。

   暮るる夜さびし岡野辺の里
 月遠き片山おろし音はして     宗怡

 島津注は、

 をかの辺の里のあるじを尋ぬれば
     人は答へず山颪のかぜ
              慈円(新古今集)

を引いている。
 前句の「さびし」から月の出も遅く、片山おろしの音だけがする、と付ける。
 五十八句目。

   月遠き片山おろし音はして
 まつにつけても秋ぞ物うき     紹永

 「月遠し(月の出の遅い)」から「まつ(待つ)」を付け、「片山おろし」に「物うき」と四手に付ける。待つを松に掛けた展開を期待する。
 五十九句目。

   まつにつけても秋ぞ物うき
 玉章の露の言の葉いたづらに    士沅

 「待つ」と来れば恋に展開したいところだが、「松」と掛けなければという、かえって制約を課すことになってしまったか。
 松に露と葉を付け、「玉章(たまづさ)」つまり手紙の露のようにはかない言の葉とする。
 六十句目。

   玉章の露の言の葉いたづらに
 おくる日数をいつか語らん     弘仲

 手紙のわずかな取り繕った言葉も空しいばかりで、こうして過ぎてゆく日々を帰ってきたときには伝えたいものだが、果してその日は来るのだろうか。
 なお、三十五句目の作者は英仲ではなく弘仲でした。英仲は英、弘仲は仲、弘其は玄となっていて紛らわしい。
 六十一句目。

   おくる日数をいつか語らん
 有増の忘れ安きを驚きて      行助

 「有増(あらまし)」はこうあって欲しい、こうしたい、ということで今日の夢に近い。
 ここでは「いつか語らん」がそのあらましだが、「語る」には「結ばれる」の意味もある。
 いつか君のところへ行かねばと思いつつも、仕事の忙しさに忘れてしまったか、これではいけない、いつか遅くなった言い訳とともに君のところに行かなくては、とする。
 六十二句目。

   有増の忘れ安きを驚きて
 心のみちにいづる世の中      政泰

 「あらまし」は出家への思いとしてもよく用いられるので、この展開はお約束ともいえよう。「心の道」は当然ながら仏道のこと。また忘れないうちに、思い出した今出家しよう。
 六十三句目。

   心のみちにいづる世の中
 賢きも君にひかるる山の奥     心敬

 前句の「心のみち」を君子の王道とし、「いづる世の中」を世の中に出る、つまり出家ではなく出世とする。
 中国では皇帝が王道を逸脱し国が乱れると忠臣は山に籠り隠士となる。そこに再び王道を復活させる名君が現れると、隠士たちは山を降りて再び仕官することを願う。
 六十四句目。

   賢きも君にひかるる山の奥
 子日の松の幾とせか経ん      元用

 前句の「君」を「君が代」とする。この時代には特定の天皇ではなく、『神皇正統記』などの影響で既に皇統一般を指していたと思われる。
 「子日(ねのひ)の松」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「子の日の遊びに引く小松。
 「ひきて見る―は程なきをいかで籠れる千代にかあるらむ」〈拾遺・雑春〉」

とある。正月の最初の子の日で小松を引いて新年を祝う儀式は、門松の原型ともいえる。松になぞらえて長寿を祝う。
 引用されている歌は、

 ひきて見る子の日の松は程なきを
     いかで籠れる千代にかあるらむ
            恵慶法師(拾遺集)

で、島津注は、

 ゆくすゑも子の日の松のためしには
     君がちとせをひかむとぞ思ふ
            藤原頼忠(拾遺集)

の歌を引いている。
 山の奥に隠棲する賢者も皇統の道の絶えぬことを祈り、子の日の松を引く。
 それはこの後東に下り品川で、

   身を安くかくし置くべき方もなし
 治れとのみいのる君が代      心敬

と詠んだその心境を予言するものだったかもしれない。

2020年6月20日土曜日

 今日は午前中は晴れたが昼から曇ってきた。閏四月も今日で終わり。
 結局コロナに関係なく、仕事はずっとあった。連休で休んだ時は籠城だなんて言っていたが、何のかんの言って毎日のように外に出ていたし、結構仕事柄県境を越えることも多かったし、通勤も神奈川から東京に移動している。
 それで言えるのは、まだ一度も自粛警察とやらに逢ったことも見たこともないということだ。それに感染者の多い東京の品川ナンバーの車で移動しているのに、罵倒されたり来るなと言われたりといった差別を受けたことは一度もない。
 マスゴミという奴は結局ほんのわずかな限られた例だけで、あたかも日本中がそうなっているかのように大袈裟にわめきたてるものだ。
 日本は今日も平和だ。鈴呂屋は平和に賛成します。
 アマビエ巻八十九句目。

   垣間見るのはスク水の君
 もっこりも気にならぬ程あどけなく

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 四十三句目。

   みよや涙の袖のくれなゐ
 等閑に思ひし色ははじめにて    士沅

 「等閑」は「なおざり」。本気ではないということ。
 たわむれの恋でも今は血の涙を流すほど打ちのめされている。ビートルズの「イエスタデイ」の一節が浮かんできそうな句だ。
 「イエスタデイ、なおざりに思いし/今袖はくれない」という雅語バージョンの歌詞が出来そうだ。
 四十四句目。

   等閑に思ひし色ははじめにて
 住みあかれめや秋の山里      宗怡

 いい加減なつもりだったのは最初だけで、を恋ではなく山里での暮らしとする。いつの間にか山里での暮らしにはまってしまう。
 四十五句目。

   住みあかれめや秋の山里
 宇治川や暁月の白き夜に      元用

 宇治川は琵琶湖に発し山の中を通って宇治へと流れる。平等院のある辺りでは西側に平野が開け暁の月がきれいに見える。
 喜撰法師がここに住み、

 我がいほは宮このたつみしかぞすむ
     世を宇治山と人はいふなり
             喜撰法師(古今集)

の歌でも有名になった。
 四十六句目。

   宇治川や暁月の白き夜に
 こゑすさまじき水の水上      与阿

 『源氏物語』の「浮舟」であろう。

 「暮れて月いと明かし。 有明の空を思ひ出づる、涙のいと止めがたきは、いとけしからぬ心かなと思ふ。母君、昔物語などして、 あなたの尼君呼び出でて、 故姫君の御ありさま、心深くおはして、さるべきことも思し入れたりしほどに、目に見す見す消え入りたまひにしことなど語る。」

と浮舟は母君や尼君の話を聞いているうちに、

 「など、言ひ交はすことどもに、 いとど心肝もつぶれぬ。 なほ、わが身を失ひてばや。つひに聞きにくきことは出で来なむと思ひ続くるに、この水の音の恐ろしげに響きて行くを」

と宇治川の水音に入水を思うことになる。
 四十七句目。

   こゑすさまじき水の水上
 霧り渡る田面の末に鴫立ちて    専順

 前句の「こゑ」を鴫の声とする。

 明ぬとて沢立つ鴫の一声は
     羽かくよりも哀なりけり
             藤原家隆

の歌もある。
 霧で良く見えない田の遠いところから鴫の声が聞こえてくる。美しいというよりは荒んだ、寒々しい声だ。
 四十八句目。

   霧り渡る田面の末に鴫立ちて
 今折からの哀をぞ知る       清林

 鴫といえば、

 心なき身にもあはれは知られけり
     鴫立つ沢の秋の夕暮れ
            西行法師(新古今集)

で、田面の末の霧の中に立つ鴫を見て、心なき身も今折から哀れを知ることになる。
 四十九句目。

   今折からの哀をぞ知る
 侘びぬれば冬も衣はかへがたし   行助

 落ちぶれ果てた身には冬でも衣を変えることができずに寒い思いをしている。前句の「哀」を貧困の哀れとする。
 五十句目。

   侘びぬれば冬も衣はかへがたし
 かたびら雪は我が袖の色      心敬

 「かたびら雪」は薄く積もった雪の意味と一片の薄くて大きな雪という二つの意味がある。帷子が夏用の薄い一重の着物で、その帷子のような雪ということで、その二つの連想が生じたのだろう。
 ここでは帷子に付着する一片の薄くて大きな雪という意味か。雪が降っているのに帷子を着てたのでは凍死しそうだが。

 霰まじる帷子雪は小紋かな     宗房

は芭蕉の若い頃の句だが、発想が似ている。

2020年6月19日金曜日

 今日は一日雨。
 県境を越えた移動自粛が解除されたせいか、道路は大渋滞だった。
 アマビエ巻八十八句目。

   ワイシャツの少年達は汗臭く
 垣間見るのはスク水の君

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 二裏。
 三十七句目。

   なににも色の冬浅き陰
 春は猶頭に雪の積り来て      行助

 頭に雪が積もると白髪頭のように見える。「なににも」はここでは「なんとも」というような意味か。春だというのにもう人生冬が来たみたいだ。
 三十八句目。

   春は猶頭に雪の積り来て
 日はてりながら光り霞める     紹永

 島津注は、

   二条のきさきの東宮の御息所と聞こえける時、
   正月三日おまへにめして仰せ言ある間に、
   日は照りながら雪のかしらに降りかかりけるを
   よませ給ひける
 春の日の光に当たる我なれど
     かしらの雪となるぞわびしき
              文屋康秀(古今集)

によるとする。「光り霞める」とすることで春の句にする。
 三十九句目。

   日はてりながら光り霞める
 深草や下萌え初めてけぶる野に   宗祇

 「深草」は島津注に、「京都市伏見区。東山連峰の南端、稲荷山の麓にある歌枕。草深い野の意を掛ける。」とある。

 夕されば野辺の秋風身にしみて
     鶉鳴くなり深草の里
              藤原俊成(千載和歌集)

などの歌に詠まれている。
 『伊勢物語』一二三段には、

 「むかし、男ありけり。深草に住みける女を、やうやう飽き方にや思ひけむ、かかる歌をよみけり。

 年を経て住み来し里をいでていなば
     いとど深草野とやなりなむ

 女、返し、

 野とならば鶉となりて鳴きをらむ
     狩にだにやは君は来ざらむ

とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。」

とある。
 伏見稲荷大社の周辺で、今でも「深草」のつく地名が見られ、龍谷大前深草駅がある。
 その深草の知名に掛けて、春の草の下萌えをさらに「燃え」に掛けて野焼きとし「けぶる野に」を導き出す。前句の「光り霞める」を煙に霞むとする。
 四十句目。

   深草や下萌え初めてけぶる野に
 うつせみの世を忍ぶはかなさ    専順

 野のけぶりは火葬の煙の連想を誘い、哀傷に展開する。
 蝉の抜け殻のように肉体だけを残し魂の去っていった人の命のはかなさを偲び、今その肉体も火葬にされ、野の煙となって立ち上る。
 四十一句目。

   うつせみの世を忍ぶはかなさ
 かくのみに恋しなば身の名や立たむ 心敬

 「忍ぶ」を故人を偲ぶのではなく忍ぶ恋とする。
 このまま恋に死んでしまったなら、浮名を残すことになってしまうでしょう、こうやって心を隠し忍ばねばならないのは空しい。
 四十二句目。

   かくのみに恋しなば身の名や立たむ
 みよや涙の袖のくれなゐ      量阿

 深い悲しみに血の涙を流すというのは、実際は血を流すほどそれくらい悲しいという比喩だが、

 見せばやな雄島のあまの袖だにも
     濡れにぞ濡れし色はかはらず
           殷富門院大輔(千載集)

のように和歌に詠まれている。
 ここでもはっきりと血の涙とは言ってないが、「袖のくれなゐ」でそれを表わしている。
 恋に死にそうなくらい苦しんでいるから、血の涙に袖も赤く染まる。

2020年6月18日木曜日

 今朝は久しぶりに細くなった月を見た。閏四月二十七日。もうすぐ長かった卯月も終わる。そして五月一日は夏至。
 テレワーク化が進んでいけば都心にオフィスを構える必要もないし、通勤がないならどこに住んでてもいいわけだ。ならば田舎にいながら仕事もできる。
 役所の「スーパーシティ」という発想が既に時代遅れなんだと思う。未来は都市である必要はない。農業のAI化とともに、様々な仕事も農村に留まりながらできるようになるスーパーカントリーこそこれからなのではないか。
 アマビエ巻八十七句目。

   外階段は夏の香りが
 ワイシャツの少年達は汗臭く

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 三十三句目。

   袂をはらふ秋の追風
 船人の波なき月に今朝出でて    慶俊

 前句の「追風」を帆船の追風とする。波もなく風は追風で船出には絶好の朝だ。
 三十四句目。

   船人の波なき月に今朝出でて
 塩干を見れば山ぞ流るる      心敬

 波のない干潟には山がくっきりと映っていて、船が進めばその山が流れて行く。
 三十五句目。

   塩干を見れば山ぞ流るる
 木々の葉や入江の水に浮ぶらん   弘仲

 山の木々が水に映っていて、それが流れて行くとなると、あたかも木の葉が浮かんで流れているかのようだ。
 三十六句目。

   木々の葉や入江の水に浮ぶらん
 なににも色の冬浅き陰       能通

 「なににも色の浅き陰」に冬を放り込んだ形。「冬のなににも色の浅き陰」の倒置と見てもいい。
 疑問の「らん」を反語に取り成すのはお約束ということで、「赤や黄色に染まった落ち葉すら落ちていない、色の浅き陰」とつながる。

2020年6月17日水曜日

 日本にいる朝鮮半島の専門家は基本的に左翼だから、朝鮮半島に与えている中国の脅威については完璧なまでに無視している。だからその辺は自分で補って考えなくてはならない。
 おそらくトランプさんも最初はその辺のことを知らずに米朝会談を行ったのだろう。だが、北と協議を続けたり、中国政府からの様々な働きかけのあった中で、南北統一を本当に難しくしているのは中国だというのがわかってきたのではないかと思う。だからすぐに中国との貿易戦争を開始した。
 中国政府はかつての朝貢国は中国の一部と考えていて、朝鮮半島は元々中国のものだったのが日本に奪われ、日本が戦争に負けたときにも変換されずにアメリカとソ連が居座っただけで、今でも朝鮮半島は中国に権利があると考えている。
 そのため南北統一は基本的に両者が中国を退け、アメリカ側に属さなくてはならない。それを裏切ったのが韓国だった。
 今回の金正恩の死も中国側が広めたもので、北とアメリカはそれを認めることはできない。
 アマビエ巻八十六句目。

   古めかしいエレベーターは故障中
 外階段は夏の香りが

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 二十七句目。

   旅は袖ほすひまぞ稀なる
 待つたれもあらじ古郷恋しくて   士沅

 前句の「袖ほすひまぞ稀なる」を涙の乾く閑もないという比喩に取り成し、知っている人が誰もいなくなった故郷を思う句にする。
 悪い領主に堪えかねての村民の逃散や、戦乱により壊滅や、あるいは一族みんな粛清にあったか、いろいろな事情が想定できる。戦国の世ではありそうなことだ。
 二十八句目。

   待つたれもあらじ古郷恋しくて
 忘るるかたや夢は見ざらん     心敬

 前句の「待つたれもあらじ」を切り離して通ってくる人も誰もいなくなった女の家とする。
 私のことなど忘れてしまった人は「古郷恋しくて夢は見ざらん」と繋がる。
 いつしか男はこの里を出て行ってしまって、私のことなど忘れてしまったようだけど、故郷が恋しくなって夢に出てくることはないのかしら、となる。
 まあ、「木綿のハンカチーフ」のパターンだね。男は「僕は帰れない」なのだろう。
 二十九句目。

   忘るるかたや夢は見ざらん
 よわりつつ来ぬ夜積れる物思ひ   宗怡

 忘れられてしまった女は身も心も衰弱してゆく。
 三十句目。

   よわりつつ来ぬ夜積れる物思ひ
 くだけし心末ぞみじかき      専順

 「くだけし心」は英語だとbroken heartになるが、単なる失恋というよりは心神衰弱のような深い傷を言う。医療水準の低い社会では、精神的なダメージが心因性の病気を引き起こし、死に直結することもある。
 三十一句目。

   くだけし心末ぞみじかき
 かる跡にむらむら残る草の露    与阿

 これは「くだけし」を導き出す序詞のような上句で、露のくだけるように、砕けた心にもう末も長くないと繋がる。技法としては掛けてにはになる。
 「刈る跡」が「みじかき」に呼応するあたりは芸が細かい。
 三十二句目。

   かる跡にむらむら残る草の露
 袂をはらふ秋の追風        英仲

 袂に着いた草の露は秋風が払ってゆく。

2020年6月16日火曜日

 東京のコロナの新たな感染者は二十七人。四十人越えが二日続いた後だと少ないと感じてしまう。
 北朝鮮の攻勢はトランプ公認なのかな。
 アマビエ巻八十五句目。

   査察があると通路片付け
 古めかしいエレベーターは故障中

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 二表。
 二十三句目。

   さもうかるらん稲葉もる人
 雲なびく遠の山本風寒えて     紹永

 「うかるらん」に「山本風」は、

 うかりける人を初瀬の山おろしよ
     はげしかれとは祈らぬものを
             源俊頼朝臣(千載集)

の縁か。
 二十四句目。

   雲なびく遠の山本風寒えて
 夕べにかはる冬の日の影      宗祇

 これは、

 見渡せば山もとかすむ水無瀬川
     夕べは秋となに思ひけむ
             後鳥羽院(新古今集)

であろう。春を冬に変え、弱々しい冬の日ざしが夕暮れてゆく様も秋に劣らず物悲しい。
 後の水無瀬三吟の発句、

 雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇

の前段階ともいえよう。

 秋もなを浅きは雪の夕べかな    心敬

もこのあと心敬が東国で詠むことになる。
 宗祇の句はこの頃は目立たなかったかもしれないが、何気に時代の先を行っている。「冬の日」の語は芭蕉七部集のタイトルの一つにもなる。
 二十五句目。

   夕べにかはる冬の日の影
 猶急げ又や時雨れん野辺の道    元用

 冬の日が夕べになるとやってくるのは時雨。時雨が降る前に、野辺の道を急いで早く屋根のある所に行こう。
 二十六句目。

   猶急げ又や時雨れん野辺の道
 旅は袖ほすひまぞ稀なる      量阿

 時雨に濡れたくないのは、旅の途中は濡れた着物を干す隙がないからだ。

2020年6月15日月曜日

 今日は晴れた。暑かった。
 都知事選がもうすぐ始まる。
 コロナ対策で「休業要請等に対する補償の徹底」というのは大体左翼に共通した主張だが、小規模な事件であれば可能であっても、今回のコロナのような大規模な感染症対策を必要とする案件だと、限られた国や自治体の財源での補償は自ずと限界がある。
 だから「徹底」はあくまで理想であって、問題はどこまで現実的に可能かだ。本当に争点にしなくてはならないのはそこだ。
 そうでないと、「休業要請するなら、それによる損失を全部補償すべきだ」が「損失を全部補償する財源がないから休業要請は出来ない」になり、あとはブラジルへ向かってまっしぐらになる。外堀を埋めると言っているのはこういうことだ。
 たとえば東日本大震災とまでは行かないが、台風で洪水が発生し多くの被害がでた時、政府は被災地の家や田畑や工場を全部元通りにして、それまでの間の途絶えた収入を全額補償すべきなのか。それができるなら理想だが、できることとできないことははっきりさせなくてはならない。政府に出来ない部分はせめて義援金を集めてなんとかするくらいであろう。
 都知事選も理想論ではなく、実際にどこまでできるのかをきちんと議論して欲しいのだが、まあ、無理だろうな。最後はスキャンダル頼みだったりして。
 アマビエ八十四句目。

   トイレットペーパー部屋にうず高く
 査察があると通路片付け

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 十七句目。

   こゆるも末の遠き山道
 鐘ひびく峰の松陰暮れ渡り     弘其

 越えるには遠すぎるということで、途中まで行って日が暮れたとする。この場合は入相の鐘。
 弘其も未詳。
 十八句目。

   鐘ひびく峰の松陰暮れ渡り
 御法の跡を残す古寺        常広

 「跡を」というから既に寂れてしまった山寺であろう。鐘の音は昔と変わらず、名残を留めている。
 常広も不明。これで連衆が一巡する。十八人、賑やかな連歌会だ。
 十九句目。

   御法の跡を残す古寺
 聞くのみを鹿のその世の行衛にて  心敬

 「鹿の苑(その)」と「その世」を掛けている。「鹿の苑(鹿野苑)」

はコトバンクの、「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《〈梵〉Mṛgadāvaの訳》中インドの波羅奈国にあった林園。釈迦が悟りを開いてのち初めて説法し、五人の比丘(びく)を導いた所。現在のバラナシ北郊のサールナートにあたる。鹿苑。鹿(しか)の苑(その)。」

とある。苑の名前で鹿そのものではないので無季、非獣類。
 伝説に聞くだけの鹿野苑に始まった仏法の世に広まりその末に、この古寺にも仏法の跡をとどめている。
 二十句目。

   聞くのみを鹿のその世の行衛にて
 月かたぶきて夢ぞ驚く       行助

 前句を鹿野苑から切り離し、鹿の声を聞くのみのその「夜」の行方に取り成す。
 夜の行方といえば夜明けで月も傾き、夢からハッと目覚めて驚く。鹿の行方に狩られる結末を思ったのだろう。殺生の罪を思い、一瞬にして悟る場面か。
 『去来抄』の、

 猪のねに行かたや明の月      去来

をも思わせる。
 ただ、この句を聞いて芭蕉は、

 明けぬとて野べより山へ入る鹿の
     跡吹きおくる萩の下風
           源左衛門督通光

を引き合いに出して、「和歌優美の上にさへ、かく迄かけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし。」と評された。俳諧らしい江戸時代ならではのリアルな新味がないということだろう。

 明けぼのや白魚白きこと一寸    芭蕉
 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉  同

のような古典の殺生の罪を一瞬にして悟る心を、まったく新しい事象に置き換えるというのが芭蕉の俳諧だった。
 ただ中世の連歌にあって、そのような新味は特に求められていない。

   罪のむくいもさもあらばあれ
 月のこる狩場の雪の朝ぼらけ    救済

の名吟をも思い起こさせる好句といっていいだろう。
 二十一句目。

   月かたぶきて夢ぞ驚く
 仮庵や枕の草の露おもみ      専順

 仮庵は島津注に「仮に作った粗末な庵。秋の田を害獣から守るためなどに設けた。」とあり、

 秋田もるかり庵つくりわがをれば
     衣手寒し露ぞおきける
             よみ人しらず(新古今集)

の歌も引用しているとおりの仮庵であろう。
 狩人から百姓に転じ、仮庵の枕元にある草に露が降りて草がたわみ、やがて顔の上に滴ってきたのだろう。ハッと夢から覚めると月は傾いている。
 二十二句目。

   仮庵や枕の草の露おもみ
 さもうかるらん稲葉もる人     清林

 さて二順目に入って心敬、行助、専順のそれぞれの素晴らしい技を見た後で、ここからは出勝ちになる。
 仮庵で既に百姓に転じているところに「稲葉もる人」はやや発展性に欠けるが、三人の巨匠の句と比較しては可哀相だ。
 露の重さのように、稲葉もる人の憂きもさも重いことだろう、という付け筋はなかなかのものだ。

2020年6月14日日曜日

 今日も雨。昨日よりは小降りで止んでる時間もあった。
 東京の新たな感染者数は47人。一気に増えた。そろそろ緊急事態宣言解除後の外出者の増加が反映されるころだ。
 コロナは産業構造を大きく変える。とはいってもそれはコロナ以前から起きていた変化を加速させるだけで、根本が変わるわけではない。
 例えば観光産業もコロナ以前から以前から団体旅行は減少傾向にあったし、ヨーロッパでの飛び恥のような海外旅行自体を疑問視する声もあった。
 音楽業界も米津玄師やビリー・アイリッシュのような宅録系が台頭していた。ライブハウスは元からがらがらで、バンドがライブハウスに金払って演奏させてもらうような状態だった。
 ミュージシャンもそうだし、役者も食える人間はほんの一握りで、ほとんどはバイトかヒモだった。苦しいのは今に始まったことではない。
 ファミレスも衰退していて低価格帯の店舗に力を入れていた。居酒屋も若者の酒離れと会社などの宴会需要の減少で厳しかった。
 斜陽産業を公金で補助しても、延命措置にしかならない。これから伸びる産業に投資して欲しい。
 アマビエ八十三句目。

   爺は勝手に物買ってくる
 トイレットペーパー部屋にうず高く

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 初裏。
 九句目。

   人の声する村のはるけさ
 朝ぎりや市場の方を隔つらん    清林

 村のはずれで市が立つが、朝市なので朝霧に包まれる。中世にありがちな光景なのだろう。
 清林は不明。
 十句目。

   朝ぎりや市場の方を隔つらん
 色こそ見えね秋はたちけり     宗怡

 前句の「市場」を「立つ」で受ける受けてには。

 八重葎茂れる宿のさびしきに
     人こそ見えね秋は来にけり
             恵慶法師(拾遺集)

の下句に似ているが、これは言葉の続きが同じなだけで、『去来抄』

 桐の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆
 樫の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

の類似のようなものだ。
 十一句目。

   色こそ見えね秋はたちけり
 竹の葉の音も身に入む風吹きて   紹永

 「入む」は「しむ」と読む。
 「色こそ見えね」は「目にはさやかにみえねども」の連想を誘い、風の音につながる。
 松風はよくあるが、ここでは竹風にする。松風も身にしむが、竹の葉を吹く風も身にしむ。
 紹永はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「?-? 室町時代の連歌師。
美濃(みの)(岐阜県)の人。寛正(かんしょう)4年(1463)の唐何百韻や文明4年(1472)の何路百韻,美濃千句,8年の表佐(おさ)千句などの会に出席。「新撰菟玖波(つくば)集」に10句がのっている。」

とある。専順がこのあと美濃に下るから、何らかの縁があるのか。あと紹の字は後に戦国末期に活躍する紹巴がいるが、何か関係があるのか、今のところ不明。
 十二句目。

   竹の葉の音も身に入む風吹きて
 あくる扉に残る夜の月       士沅

 第三からぎりぎり八句去りで月が登場する。「扉」は「とぼそ」と読む。竹林の七賢などの隠者のイメージだろう。
 士沅は島津注に「寛正頃、多く心敬と一座した連歌師」とある。
 十三句目。

   あくる扉に残る夜の月
 別れては俤のみや頼ままし     能通

 前句を後朝(きぬぎぬ)として恋に転じる。
 能通は島津注に「底本『張通』。伝未詳。北野の連歌師か。」とある。
 十四句目。

   別れては俤のみや頼ままし
 待てともいはぬ我が中ぞうき    慶俊

 前句の別れを後朝ではなく、本当の別れとする。せめて「待って」とでも言ってくれれば。
 慶俊は島津注に、「文正頃心敬らと一座。」とある。
 十五句目。

   待てともいはぬ我が中ぞうき
 旅に人暫しの程は語らひて     政泰

 相手は行きずりの旅人だった。「語らひ」は『源氏物語』では深い仲になる意味もある。
 政泰は未詳。
 十六句目。

   旅に人暫しの程は語らひて
 こゆるも末の遠き山道       与阿

 普通に羇旅の句とする。
 与阿は島津注に「長禄頃専順らと一座。」とある。名前からして時宗の僧であろう。

2020年6月13日土曜日

 今日は一日雨だった。枇杷の木に鳥が集まり、一日中騒がしかった。
 今日の東京では新たに二十四人、北海道は九人の感染確認で、このレベルで安定しているとはいえ収まってはいない。
 本来は事務手続きを簡素化するための一律給付だったのに、その後野党に要求されるがままにあれもこれもと給付の種類を増やし、当然役所だけでは対応しきれないから民間に委託すると、今度はマスゴミがそれをあたかもスキャンダルであるかのように書きたてる。一体何のための一律給付だったのかわからない。
 要求する方もするほうだが、それに簡単に屈してしまう政府の弱腰が支持率低下の最大の原因ではないかと思う。
 野党やマスゴミの言いなり政権なら安倍さんである必要はないし、自民党である必要すらない。とにかく第二波が今来ないことだけを祈ろう。
 アメリカは警官の首絞めを禁止するより、一般人の銃の所持を禁止した方がいい。いつ撃たれるかわからない恐怖の中で仕事をしていれば、多少の暴力は仕方ない。エクスペリアームス 武器よ去れ!
 アマビエ八十二句目。

   地球儀をくるくる回す子の笑みに
 爺は勝手に物買ってくる

 今日は閏四月二十二日ということで、まだまだ卯月は終らない。その間の時間つぶしとして、季節に関係なくもう一つ心敬参加の連歌を読んでみようと思う。
 『連歌集』(新潮日本古典集成33、島津忠夫校注、一九七九、新潮社)に収録されている『寛正七年心敬等何人百韻』で、寛正七年(一四六六年)三月四日の興行で行助の東国下向の送別会だった。
 寛正七年は実際には二月二十八日に文正元年に改元されている。当時のことだから、改元がすぐに周知されていたわけではなかったのだろう。今みたいな文正おじさんが「文正」の文字をカメラに向かってかざし、お祭り騒ぎになったわけではない。
 そして文正は翌二年三月五日に応仁に改元される。つまりこの連歌は心敬が東国に下向する一年前ということになる。この年の夏には宗祇も下向

している。
 ただ、行助の東国滞在は短く、応仁二年正月廿八日室町殿連歌始②参加しているのでそれまでには京に戻っている。心敬とは行き違いになった形で応仁三年三月二十四日に行助が死去するまで、再びまみえることはなかったのだろう。
 さて、その心敬の発句。

 比やとき花にあづまの種も哉    心敬

 折から桜の季節で、この時期に行助が東国に下向し、東国にも連歌の種を撒いてくれることでしょうと、戦乱を避けての下向でもポジティブに捉える。
 「比やとき」はこの場合は「比や疾き」ではなく「比や時」であろう。

光秀の「時は今」のような感覚か。
 これに対し見送られる行助はこう返す。

   比やとき花にあづまの種も哉
 春にまかする風の長閑さ      行助

 意味は「春を風に任せる長閑さ」で、あくまでも時節柄の風に任せての下向なので、そんな東に種を撒こうなんて大それたことは考えていません、という謙虚な返しだ。
 行助はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「1405-1469 室町時代の連歌師。
応永12年生まれ。もと山名氏の家臣。比叡山(ひえいざん)延暦(えんりゃく)寺の僧となり,法印にいたる。連歌を高山宗砌(そうぜい)にまなび,連歌七賢のひとり。宗祇(そうぎ)編「竹林抄」の7作者のひとりにもあげられる。応仁(おうにん)3年3月24日死去。65歳。通称は惣持坊。連歌句集に「行助句集」など。歌学書に「連歌口伝抄」。」

とある。心敬は一四〇六年生まれだからほぼ同世代。
 第三。

   春にまかする風の長閑さ
 雲遅く行く月の夜は朧にて     専順

 「風の長閑」から「雲遅く」を導き出し、朧月を出す。
 専順はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「没年:文明8.3.20(1476.4.14)
生年:応永18(1411)
室町時代の連歌師。柳本坊,春楊坊とも号す。頂法寺(六角堂)の僧で法眼位にあった。華道家元池坊では26世とする(『池坊由来記』)。嘉吉・文安年間(1441~49)から活躍しはじめ,高山宗砌没後は連歌界の第一人者と目された。足利義政主催の連歌会に頻繁に参加し,飯尾宗祇を指導して大きな影響を与えてもいる。応仁の乱後は美濃国(岐阜県)に下り,守護代斎藤妙椿 の庇護を受けた。連歌は「濃体」と称される内容の深い円熟味のある句風で,連歌論書に『片端』,自選付句集に『専順五百句』がある。その死因はあきらかではなく,殺害されたともいわれる。」

とある。
 心敬、行助よりはやや後輩になる。応仁の乱後はちりぢりばらばらで、おそらく再びまみえることはなかったのだろう。
 四句目。

   雲遅く行く月の夜は朧にて
 帰るや雁の友したふらん      英仲

 朧月に帰る雁は付け合い。前句の「雲遅く行く」と「雁の帰る」を重ね合わせ、雁が雲を友として慕っているようだとする。

   わが心誰にかたらん秋の空
 荻に夕風雲に雁がね        心敬

 此秋は何で年よる雲に鳥      芭蕉

のように、雁と雲は友とされていた。
 「英仲」については不明。この時代だと資料も少なく、たどれない人も多い。当時としてはひとかどの人物で、連歌の実力も高く評価されていたから四句目を任されているのだろう。
 五句目。

   帰るや雁の友したふらん
 消えがての雪や船路の沖津波    元用

 「帰る雁」に自分の旅路を重ね合わせる。「船路の沖津波は消えがての雪や」の倒置で、遠くに見える浪の白さを消えてゆく雪に喩えている。
 元用は島津注に「浄土僧。寛正~文明頃の中堅作者。」とある。
 六句目。

   消えがての雪や船路の沖津波
 あらいそ寒み暮るる山陰      弘仲

 前句の「消えがての雪」を比喩ではなく実景とし、山陰を付ける。
 弘仲の不明。ただ、句を見る限り英仲、元用、弘仲ともに京の連歌のレベルの高さが窺われる。東国の旦那衆相手の「応仁二年冬心敬等何人百韻」を読んだ後なだけに、いっそうそれが際立っている。
 七句目。

   あらいそ寒み暮るる山陰
 主しらぬ蘆火は松に木隠れて    宗祇

 ここでようやく宗祇の登場で、当時の京での序列はこんなもんだったのだろう。当時四十六歳だが「四十五十は鼻垂れ小僧」の世界か。
 磯の寒さに誰のものとも知れぬ焚き火はありがたい。ただそれはまだ松林の向こうにある。古典によらぬ斬新な趣向と言えよう。
 八句目。

   主しらぬ蘆火は松に木隠れて
 人の声する村のはるけさ      量阿

 水辺から離れ、木隠れの蘆火を村人の焚き火とする。
 量阿は島津注に「五条堀川踊道場、時宗」とある。

2020年6月12日金曜日

 コロナの感染者が今日の東京で25人。北海道で10人。なかなかこのレベルからは下がらない。三月はこれぐらいのレベルから一気に増えた。季節性ではないので、第二波はいつ突然やってくるかわからない。
 三月のときと違って野党やマスコミが外堀を埋めてしまったので、果してコロナ夏の陣になった時緊急事態宣言が出せるのか、前のような自粛要請ができるのかどうか不安だ。今年の夏はサンバカーニバルになるかもしれない。
 アメリカも気になる。トランプさんが孤立してるのか、国旗に着いた火を消す人がいない。
 アマビエ八十一句目。

   ここは命の夢のふるさと
 地球儀をくるくる回す子の笑みに

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き、挙句まで。

 九十七句目。

   まなぶはうとき歌のことわり
 浦遠く玉つ嶋山かすむ日に     宗祇

 和歌といえば和歌の浦の玉津島神社。ウィキペディアには、

 「古来玉津島明神と称され、和歌の神として住吉明神、北野天満宮と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けることになる(近世以降は北野社に代わって柿本人麿)。」

とある。
 春に転じることで花の少なかったこの巻の花呼び出しにもなっている。
 九十八句目。

   浦遠く玉つ嶋山かすむ日に
 春しる音のよはき松風       覚阿

 秋の松風はしゅうしゅうと物悲しいが、春の風だと穏やかに聞こえる。
 九十九句目。

   春しる音のよはき松風
 花にのみ心をのぶる夕間暮     満助

 風が弱いので花もすぐに散る心配もなく穏やかな夕暮れを迎える。
 「花にのみ」というのは隠棲の身で一人花を見て過ごすという意味であろう。都を離れ、品川の片田舎で過ごす心敬への共鳴であろう。
 挙句。

   花にのみ心をのぶる夕間暮
 さかりなる身ぞ齢久しき      幾弘

 まだまだ元気でこれからも長生きできますよ、と祝言でしめて終わり。

2020年6月11日木曜日

 今日の午前中は晴れてたが時折狐の嫁入り、午後は雨になり時折激しく降った。梅雨入りだが、昔の梅雨のような「しとしと五月雨」ではない。
 NHKの黒人デモを解説したアニメが差別的ということで話題になっていて、ネット上で見た。ああやっぱりと思った。
 少なくとも左翼の家庭で育った者としては、こんなわかりやすい絵はない。
 中央で終始このデモについて語る拳を振り上げた人は黒人というよりも日焼けした肉体労働者だ。それも何十年も前のまだつるはしをふるってた頃の炭鉱や工事現場にいそうな労働者で、着ている服はランニングシャツだ。
 そして「貧富の差」と書かれている。これも言わずと知れた資本主義の矛盾、つまり搾取された労働者の純粋な怒りが今回の暴動の本質だと言いたいわけだ。
 NHKは中国贔屓で知られていて、天安門事件の死者数も中国政府の発表どおりに放送する。今年の天安門事件の日には「かわいすぎ!?話題のパンダ大集合」を放送した。
 香港に対するコメントの多くも、中国に逆らっても勝てるわけがない、それも彼らはわかっているはずだという類ものもだ。
 黒船が日本を開国し、原爆が日本を民主化したように、中国が日本を共産化してくれることを期待しているんだろう。そして『キングダム』のように集近閉が天下統一をすれば世界が平和になるとでも思っているのだろうか。
 NHKに限らず、バンクシーの絵もアメリカを燃やせというメッセージだと思っている人も多いだろう。コロナの混乱と黒人の差別を利用して革命を起こそうという夢を持つ人は沢山いる。みんな冷静になろう。
 アメリカのデモの映像を見ていると白人の方が多いんじゃないかと思うが、本音の所、黒人はどう思っているのだろうか。
 アマビエ八十句目。

   戦いの記憶も遠い春の海
 ここは命の夢のふるさと

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。

 名残裏。
 九十三句目。

   かりもうちわび暮れわたる比
 身にかかる涙ならじと慰めて    修茂

 金子金次郎は、

 なき渡る雁の涙やおちつらむ
     もの思ふやどの萩の上露
            よみ人知らず(古今集)

の歌を引き、雁の涙は寄り合いだという。
 秋の露を雁の涙を見立てたもので、露は天然のもので、自分の涙ではない。これは「かこちがほなる」のパターンであろう。雁の涙が自分にかかったのではない。涙はあくまで自分自身の悲しみから来るものだ、誰のせいでもない、すべては自分の問題なんだと慰める。
 恋の涙はえてして泣かせた相手を恨む者だが、それは相手も苦しんだ末に出した結論で、自分だけが傷ついたわけではない。ふられれば傷つくがふるほうも傷ついているものだ。
 九十四句目。

   身にかかる涙ならじと慰めて
 品こそかはれ世はうかりけり    長敏

 前句を他人の涙として、身分はいろいろ違っていても悲しいね、と付ける。
 『源氏物語』帚木巻の雨夜の品定めの左馬頭(さまのかみ)によれば、上品は基本的には三位以上の上達部でそれより下の殿上人が中品になるが、成り上がりは上達部でも中品で、没落した殿上人も中品になるという。
 参議予備軍の四位は上品に準じ、受領は中品になる。
 九十五句目。

   品こそかはれ世はうかりけり
 目の前にあるを驚け六道      宗悦

 品の上下から仏教の六道に持ってゆく。ここでは「むつのみち」と読む。
 天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の上下に較べれば、貴族の上中下の品など何だというわけだ。「驚け」は咎めてには。
 九十六句目。

   目の前にあるを驚け六道
 まなぶはうとき歌のことわり    心敬

 六道を詩の六義に取り成す。詩経に、

 「故詩有六義焉。一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌。」

とある。古今集仮名序には「うたのさま、むつなり。」とあり、「そへうた、かぞへうた、なずらへうた、たとへうた、ただことうた、いはひうた、」の六つを言う。

2020年6月10日水曜日

 アマビエの巻、名残の表に入り七十九句目。

   ふりかえるならみんな陽炎
 戦いの記憶も遠い春の海

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。

 八十九句目。

   冬はすまれぬ栖とをしれ
 都には雪はあらめや小野の山    宗祇

 京都の小野山は大原三千院の東にある。このあたりは日本海の方から雪雲が入り込んでくるので雪が降る。
 京都北部までは雪が降りやすいが、南部になると雨に変わることが多く、それゆえに、

 下京や雪つむ上のよるの雨     凡兆

ということになる。
 小野の山は雪に埋もれて冬は住みにくい土地だが、都の方でも降っているのだろうか、という句で、凡兆の句の「下京や」の上五は『去来抄』によれば芭蕉が考えたものだというから、発想が似ている。多分京都に住んでる人にとっては「あるある」なのだろう。
 九十句目。

   都には雪はあらめや小野の山
 時雨に月の影もすさまじ      覚阿

 前句の「あらめや」を反語とし、雪ではなく時雨で、時雨の晴れ間からみる月が寒々としているとする。

 月を待つたかねの雲は晴れにけり
     こころあるべき初時雨かな
             西行法師(新古今集)
 たえだえに里わく月の光かな
     時雨をおくる夜半のむらくも
             寂蓮法師(新古今集)

などの歌がある。
 和歌では時雨の月は冬だが、連歌では秋になる。
 九十一句目。

   時雨に月の影もすさまじ
 木がらしの空にうかるる秋の雲   心敬

 時雨(冬)の月(秋)を木枯らし(冬)と秋の雲(秋)で受ける一種の四手付けであろう。
 秋の雲というと今日では鰯雲や羊雲を言う場合が多いが、江戸時代の俳諧だと、

 山々や一こぶしづゝ秋の雲     涼菟
 岫を出てそこら遊ぶや秋の雲    北枝
 枕出せ裏屋にまはる秋の雲     丈草

のように小さくて定めなく漂う雲というイメージがあったようだ。
 ここで言う「うかるる」というのも空一面に現れる鰯雲や羊雲ではなく、木枯らしの澄んだ空に小さくぽっかり浮かぶ雲のイメージのようだ。
 九十二句目。

   木がらしの空にうかるる秋の雲
 かりもうちわび暮れわたる比    満助

 秋の空だから雁は当然と言えよう。「うかるる雲」に「うちわぶ雁」を対比させている。

2020年6月9日火曜日

 アマビエの巻も今日で三の懐紙が終わり。あれから七十八日が経過したということか。
 あのときは日本も大変なことになって、ひょっとしたら百日後には生きてないかもなんて思ったが、今のところ死者は九百二十二人で千人に届かず、それでも地震や台風でこれだけ死んだら大惨事のはずだから、たいしたことなかったと言うのはやめよう。命があってよかった。命なりけり小夜の中山。

   今日もまた仕事ないまま花を見る
 ふりかえるならみんな陽炎

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。

 八十五句目。

   ながれの末にうかぶむもれ木
 あふ瀬にもよらば片しけ名取川   修茂

 「むもれ木」に名取川は当然と言えよう。
 「ながれの末に」は、

 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
     われても末に逢はむとぞ思ふ
               崇徳院(詞花集)

のような、流れに引き裂かれながらも流れの末でまた会おうという恋の情につながる。
 この場合は滝川の水ではなく埋もれ木なので、別々に流れていても川の狭くなったところでまためぐり合う。「片しけ」は一人寝をしろということになるが、めぐり合うまでは一人で寝るのにも耐えろということか。
 八十六句目。

   あふ瀬にもよらば片しけ名取川
 よそにもれなん色ぞ物うき     銭阿

 名取川は「名」がつくので、名が立つ、噂が広まるということに掛けて用いられる。一人で寝ていても噂が立って気が気でない。
 八十七句目。

   よそにもれなん色ぞ物うき
 かいま見もあらはに芦の葉はかれて 心敬

 芦の葉に囲まれた苫屋だろうか。芦の葉が枯れればそこに住む女性が他所の男に垣間見られてしまう。「もれる」を噂ではなく、住んでいること自体がもれるとする。
 八十八句目。

   かいま見もあらはに芦の葉はかれて
 冬はすまれぬ栖とをしれ      満助

 「栖」は「すみか」。鳥の巣の意味もある。

2020年6月8日月曜日

 バンクシーには今までそんなに興味がなかったが、まあ、作品という意味ではいろいろな解釈が可能なので、一つ遊んでみようかと思う。
 Banksy - On racism and Black Lives Matter (June 6, 2020)というyoutubeで公開されたテキストによるが、正直この作品のタイトルでもありアメリカでのデモのスローガンでもあるBlack Lives MatterのMatterのニュアンスがわからない。Matterというと思い浮かぶのは、「What's the matter with you?」でまあ、どうしたの?(問題は何なの?)ということなのか。黒人の死活問題ということなのか。
 日本のメディアは「黒人の命も大切だ」と訳していて、これは「すべての人の命が大切だ」ではなく黒人の命だけが軽んじられているから問題だというニュアンスで用いられている。
 アメリカの黒人問題に限定するなら、「黒人の命も大切だ」ということでいいのだろう。ただ、差別は世界中にある。白人がほとんどの国では白人同士で差別があり、黒人がほとんどの国では黒人同士で差別があり、黄人がほとんどの国では、日本も含めて、黄人同士で差別がある。
 だから、外国人(アメリカ以外の人)がこの暴動を見たとき、それはアメリカの特殊な問題ではなく自分たちの問題でもあると認識するのは自然なことだろう。バンクシーも、

At first I thought I should just shut up and listen to black people about this issue. But why would I do that? It's not their problem. It's mine,

と言っている。
 ただ、我々と違うのは、バンクシーはイギリスの白人であるため、おそらくイギリス国内での黒人差別のことを思い浮かべているのだろう。

People of colour are being failed by the system. The white system. Like a broken pipe flooding the apartment of the people living downstairs. The faulty system is making their life a misery, but it's not their job to fix it. They can't, no one will let them in the apartment upstairs.
This is a white problem. And if white people don't fix it, someone will have to come upstairs and kick the door in,

 問題は白人のシステムであり、それを配水管に喩えて二階の配水管が壊れると一階が水浸しになるように、白人のシステムの欠陥が黒人の生活を悲惨なものにしているというわけだ。だったら、一階の住人は二階へ押しかけ、ドアを蹴破ることになる。それが今回の暴動だというわけだ。
 問題は、白人のシステムのどこに穴があるかだ。それについては言及されてない。でも難しいのは結局そこだろう。それは白人自身も自覚していないし、何をしていいかもわからない。バンクシーも言及しない。
 作品は二つの映像で構成されている。
 最初のは肩から上の黒い人物の輪郭と白い二つの眼で、黒人を連想させようというのだろうがリアルに描いてはいない。ともすると何か悪霊のようにすら見える。その横に白い花があり、この花が何を意味するのかイギリス人にはわかるのかもしれない。その横には蝋燭がある。まあ、一般的に見れば簡素な形で遺影を祭っているということなのだろう。
 二つ目の映像は、その上部が付け加わり、蝋燭の炎の先が星条旗の裾を燃やしている。まあ、イギリス人にとって星条旗は他国の国旗だから、ここは不快感を感じる所ではないのだろう。(ここでユニオンジャックを燃やしていたらどうなるのかは気になる所だが。)
 この星条旗は何を象徴しているのだろうか。アメリカ合衆国という国家だろうか、それともアメリカの白人社会に限定されるのだろうか。いわゆる白人のシステム(The white system)のことなのだろうか。
 ともするとこの白人のシステムは資本主義と同一視され、社会主義革命に結び付けようとする人たちによって利用されることになる。ただ、黒人差別が資本主義の疎外(仲間はずれ)の問題だとしても、飢餓と粛清の地獄と化した過去の計画経済と富の再分配を再現するのは危険だ。
 疎外(仲間はずれ)の問題は仲間に加える、つまり黒人の企業を容易にし、黒人の企業が沢山生じ、黒人市場が市場全体に大きな影響力を持つことで解消する事は可能であろう。これは他の差別についても言える。LGBTもまた起業し、LGBT市場を作り出すという解決策がある。
 資本主義は日本にも韓国にもあるし、アフリカ諸国が成長すれば黒人の資本主義も世界を席巻する日が来るかもしれない。資本主義は当然白人限定のものではなく、誰もが参加可能だ。
 そうなると、黒人を水浸しの一階に閉じ込めているシステムは資本主義とはまた別にあるのだろう。
 あの絵はたとえば黒人を資本主義から疎外された哀れな被害者として、その怒りの炎が資本主義の象徴であるアメリカ国旗を焼いているという解釈も可能だろう。世界中の左翼は多分そう解していると思う。まあ、多分そのあとは灰になった星条旗の場所に中国国旗が掲げられ、黄色い連中があの遺影を蹴っ飛ばしてゆくのだろう。
 だが、別の解釈もできる。あの遺影は黒人ではない。黒く塗られ、悪霊化された人間にすぎない。それはどの人種というわけでもない。そして彼は早く火を消すように心の中で叫んでいる。あるいは火を消そうとして念じている。蝋燭は彼の意に反してあの位置に置かれ、星条旗を燃やす罪を擦り付けられたのだ。
 誰がそのような魔法を掛けたのか、それが本当の問題なのかもしれない。だから彼に聞いてみることができるなら聞いてみたい。What's the matter with you?
 愚案ずるに、白人のシステム(The white system)というのは古代ギリシャ以来続いてきた、理性の支配ではないかと思う。理性を持たぬものは肉体の奴隷であり、元から肉体の奴隷なら奴隷にしてもいいという思想だ。その理性は万人の理性ではなく、あくまでヨーロッパの形而上学に他ならない。
 こうして奴隷の労働の上に自由人が君臨する。これは古代ギリシャ以来変わっていない。

   空には昼の月が霞んで
 今日もまた仕事ないまま花を見る

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。

 名残表。
 七十九句目。

   つとむるかねを寿ともきけ
 杯をめぐらすまどひ惜しき夜に   長敏

 還暦か喜寿か、そういった長寿の祝いの席だろう。夜通し飲み交わし、夜明けの鐘を聞けば、それも長寿をことほいでいるのだと聞くことになる。
 八十句目。

   杯をめぐらすまどひ惜しき夜に
 琴の音のこるあり明の空      宗祇

 明け方の琴は『源氏物語』橋姫巻の薫が宇治八の宮を尋ねる場面か。
 八十一句目。

   琴の音のこるあり明の空
 消えもせぬ身をうき人の秋深けて  幾弘

 金子金次郎は、

 わび人の住むべき宿と見るなへに
     嘆きくははる琴の音ぞする
            良岑宗貞(古今集)

の歌を引いている。本歌による付け。
 八十二句目。

   消えもせぬ身をうき人の秋深けて
 雲きりいく重すめる山里      宗悦

 前句の「消えもせぬ」を「雲きり」で受ける。これによって「消えもせぬ」は身の消えぬと雲霧の消えぬとの二重の意味を持つことになる。
 八十三句目。

   雲きりいく重すめる山里
 五月雨は水の音せぬ谷もなし    心敬

 これは心敬の得意なパターンと言うか、水の音はするが水の姿は見えない谷があるということを逆説的に述べたもの。そこで前句の雲霧幾重に繋がる。
 八十四句目。

   五月雨は水の音せぬ谷もなし
 ながれの末にうかぶむもれ木    宝泉

 五月雨の増水に、埋もれ木も浮かんでしまう。
 「うもれぎ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①木の幹が、長い間水や土の中に埋もれていて炭化したもの。細工物に用いる。仙台に近い名取(なとり)川のものが有名。
  ②世間から捨てられて、顧みられない身の上のたとえ。◆中古以降は多く「むもれぎ」と表記。」

とある。名取川のものは長く川底に沈んでいた流木で、数百年数千年腐らず、鉄分などを吸収し黒色化したものをいう。それが時折河原に打ち上げられ採取され、細工に用いられる。
 みちのくの名取川の埋もれ木は、

 名取川せせの埋れ木あらはれは
     いかにせむとか逢見そめけむ
           よみ人しらず(古今集)

など歌に詠まれている。

 みちのくにありてふ川の埋れ木の
     いつあらはれてうき名とりけん
           源時清(続古今)

の歌ではあれはれては「浮き」と掛けて用いられている。

2020年6月7日日曜日

 今日は天気が良く、近所に買い物に出た。
 街路樹の染井吉野がいたるところで老木化したため、切り倒された後の切り株がいたるところにある。
 切り株の脇からはヒメジョオン、ナガミヒナゲシ、ブタナが咲き、ちょっとした花壇のようになっている。
 世界的にコロナでの自粛疲れなのか、何とも殺伐とした時代だけど、花に心を慰めれば夷狄なんてどこにもいないんだと思う。
 暴力は恨みを残すだけで決して世の中が良くすることはない。それは言葉の暴力でも同じだ。
 力を入れずしてあめつちを動かせ。
 コロナのほうは小池都知事が「夜の街」と言葉を濁していたけど、どうやらホストクラブでクラスターがあったようだ。
 ホストクラブというのは日本だけのものなのかよくわからないが、男性が接待する女性用の風俗店は多分どこの国にもあるのだろう。西洋だとマッチョ系の男がビキニパンツで出てきそうだが、日本のホストはアイドル系で会話重視が特徴。
 昔の侍が見たらどう思うかって、多分普通に稚児だと思うんじゃないかな。若衆歌舞伎の伝統をどこかで引き継いでいるのかもしれない。

   まずシャワー浴びてとせかす下心
 空には昼の月が霞んで

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。

 七十三句目。

   友をやまたむ宿ごとのみち
 木本ははつ雪ながら消えやらで   満助

 雪道は一人で行くには危険が多く、誰か他の人が通りかかるのを待ち、一緒に行くようにした方がいい。
 七十四句目。

   木本ははつ雪ながら消えやらで
 かつ咲く梅に匂ふ朝露       心敬

 これは散った白梅を初雪に見立てたものか。
 天満本が梅を花になおしているのは、この三の懐紙が花をこぼしているからであろう。当時は花の定座はなく、花は一座三句物で「懐紙をかふべし、にせ物の花此外に一」とあるだけで、必ず一つの懐紙に花を出さなくてはならないという決まりはない。三句までだから極端な話一句もなくても良いということになる。
 七十五句目。

   かつ咲く梅に匂ふ朝露
 春の野や馴れぬ袖をもかはすらん  修茂

 「袖をかはす」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 男女が互いに衣の袖を振りかわす。また、男女が衣の袖を敷きかわして寝る。
  ※永久百首(1116)秋「袖かはす人もなき身をいかにせんよさむのさとにあらし吹なり〈源顕仲〉」
  ② 袖がふれるほど近くに並ぶ。袖をつらねる。
  ※六百番歌合(1193頃)春上・六番「袖かはす階のきはに年ふりて幾度春をよそに迎へつ〈藤原兼宗〉」

とある。
 ②の意味で梅を見に人が集まってきた様子を述べたものとも取れるが、

 あかねさす紫野行き標野行き
     野守は見ずや君が袖振る
              額田王

のように、恋に取ることもできる。
 七十六句目。

   春の野や馴れぬ袖をもかはすらん
 かすみ敷く江に舟かよふみゆ    宗祇

 これも単なる景色とも取れるが、通ってくる舟に愛しい人が乗っているとも取れる。
 おそらく金子金次郎はこの句に恋の言葉がないため単なる景色の句として、前句も②の意味にしてしまったのだろう。
 七十七句目。

   かすみ敷く江に舟かよふみゆ
 心なき人の夕べは空しくて     宗悦

 これも前句が恋の情なら、心なき人が舟で帰ってきてくれるのを空しく待つ情景になる。この三句は恋に解しておきたい。
 金子金次郎はこの「心なき」を霞み敷く江の風流を解さない人をディスった句としているが、それこそ風流ではない。

 心なき身にもあはれは知られけり
     鴫立つ沢の秋の夕暮れ
            西行法師(新古今集)

の歌は、自らをへりくだって言うもので、他人を誹謗中傷するのは風雅の道に外れる。
 七十八句目。

   心なき人の夕べは空しくて
 つとむるかねを寿ともきけ     心敬

 これは咎めてにはで、前句の「心なき」を信心の薄いという意味に取り成し、仏道に励む人の撞く入相の鐘に、今日も一日また年取って、死に近づいているんだと悟ってくれ、となる。
 これも信心の薄い自分を励ます体であり、信心のない人々をディスっているのではない。「心なき」は自分のことで、自分自身に「寿ともきけ」と命じている句だ。
 金子金次郎は、

 けふ過ぎぬ命もしかとおどろかす
     入相の鐘の声ぞ悲しき
            寂然法師(新古今集)

を引いている。

2020年6月6日土曜日

 今日は曇っていて夜には雷雨となった。明け方の月は見えなかった。
 人種差別の起源は元はといえば対立する部族に対する感情から来ているのだろう。
 それが文明が誕生し都市が作られるようになると、様々な部族が同じ街に集まり共存するようになる。都市が形成されると様々な職業が生じ、その職業の中でも上下関係が出来てくるため、そこで差別が生じる。
 日本の穢多の場合はおそらく疫病の流行などによって、動物や死体を扱う人々が隔離されたところから始まったのではないかと思う。
 下人の起源はよくわからないが、班田収受の法が行き詰った時に農地を失った者が、貴族、寺社、大名田堵に使役されることになったか。
 戦争捕虜や債務奴隷などもそのまま本物の奴隷に身を落とし、差別されることもあっただろう。
 民族が異なる者同士だと、習慣の違いから意思の疎通を欠くことも多く、そこから話のわからぬ者ということで能力的に劣っているとみなされる。そういうところからも差別は生じる。アイヌ、琉球、在日などはそうした文化摩擦によるものだから、お互いの文化をよく理解できれば解消できる。
 今の日本でも様々な差別がある。アメリカの暴動を対岸の火事とするのではなく、我々自身も反省するきっかけとしたい。
 不思議なことだがアメリカで起きたのとまったく同じような事件が、日本でクルド人に対して起きている。結局アメリカ人も日本人も一緒なのだろう。
 大事なのはお互いの気持ちを理解することだ。みんな同じように泣いたり笑ったりして生きている同じ人間なんだということを忘れないようにしたい。まずは自分の身の回りでそれを行う。それが積もり積もってみんながやれば差別はなくなると思う。

   ポルノサイトのアイコン注意
 まずシャワー浴びてとせかす下心

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。

 六十九句目。

   くるれば帰る山ぞはるけき
 行方もいさ白雲の奥にして     宝泉

 「行くかたもいざ知らず」に「白雲」を掛ける。
 山の中でガスに巻かれてしまえばどっちへ行っていいかもわからない。夕暮れになったら帰らなくてはならない山だが、果して無事に帰れるものか。
 七十句目。

   行方もいさ白雲の奥にして
 すぎぬる鳥の幽かなる声      銭阿

 前句の「行方」を鳥の飛んで行く方とし、その声を付ける。
 七十一句目。

   すぎぬる鳥の幽かなる声
 旅人のこゆる関の戸明る夜に    長敏

 夜が明けて鳥が鳴くと、関守も関所の戸を開ける。

 夜をこめて鳥の空音ははかるとも
     よに逢坂の関は許さじ
             清少納言(後拾遺集)

の歌もある。鳥の音に関所は付け合いと言ってもいいだろう。
 七十二句目。

   旅人のこゆる関の戸明る夜に
 友をやまたむ宿ごとのみち     宗悦

 「友をまたむや」の倒置。「宿ごとのみち」は宿を重ねる道、長い旅路という程度の意味か。
 朝早く旅立って距離を稼ぎたい所だが、相方はなかなか起きてこない。

2020年6月5日金曜日

 月は雲がかかってかすかにしか見えてないが、明日の朝は半影月食があるのかな。

   役人の小遣いじゃ援交は無理
 ポルノサイトのアイコン注意

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。

 三裏。
 六十五句目。

   はてもかなしき天つ乙女子
 面影の月にそひしも跡なくて    満助

 天女に月というとかぐや姫。永遠の命を持つかぐや姫は月に帰って行き、残された人間は悲しみにくれる。それでもたとえはかない命でも人は力強く生きてゆく。
 六十六句目。

   面影の月にそひしも跡なくて
 人だのめなる小簾の秋風      修茂

 秋風が簾を揺らすことで、時折月が見えるが、月にあの人の面影を重ねてみても風が止めば簾が閉まり見えなくなる。「人だのめ」というか風まかせというか。
 六十七句目。

   人だのめなる小簾の秋風
 下紅葉誰に分けよと見えつらん   宗祇

 秋風にめくれた簾から見えるのは月ではなく紅葉の下のほうの葉で、この下葉を掻き分けて誰がやってくるわけでもないのに、妙な期待を抱かせてしまう。
 六十八句目。

   下紅葉誰に分けよと見えつらん
 くるれば帰る山ぞはるけき     覚阿

 誰も分け入らぬ下紅葉を夜の山とする。暮れてしまえば山は真っ暗で来る人もいない。

2020年6月4日木曜日

 サツキと紫陽花の季節が来たね。
 やっぱり花はいいね。
 差別をなくすのは暴力なんかではない。心の花それだけだ。

   あの娘は夜の街へと消えて
 役人の小遣いじゃ援交は無理

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。

 六十一句目。

   御かりのかへさ野もひびく也
 霰ちる那須のささ原風落ちて    修茂

 「那須のささ原」はあまり聞かない。普通は「那須のしの原」だが、意味は変わらない。地域にもよるのかもしれない。
 前句の「ひびく」を霰の音として、霰に縁のある那須の篠原を登場させる。那須の篠原の霰といえば、

 もののふの矢並つくろふ籠手のうへに
     霰たばしる那須の篠原
              源実朝(金槐集)

であろう。
 六十二句目。

   霰ちる那須のささ原風落ちて
 草葉のかげをたのむ東路      長敏

 霰の打ちつける中、一面の篠原では防いでくれる木すらない。草葉の影だけが頼りだ。「草葉のかげ」は死んだあとに現世に残してきた人を見守るのに「草葉の陰で見ている」という言い方をするので、取り成しを期待しての言い回しであろう。
 六十三句目。

   草葉のかげをたのむ東路
 見ぬ国の玉とやならむ身の行衛   心敬

 「玉」は「魂」のことであろう。見しらぬ国で死して霊魂となってしまうかもしれないので「草葉の陰」を頼むということになる。
 旅に死ぬと魂が成仏できずにその地に留まり、道祖神になることもある。その時は社を立てて祀ってくれということか。
 宗祇の最期は宗長の『宗祇終焉記』に、

 「かく草のまくらの露の名残も、ただ旅をこのめるゆゑならし。もろこしの遊子とやらんは、旅にして一生をくらしはてぬる人とかや。是を道祖神となん、」

と記されている。
 心敬はそれよりまえの文明七年四月十六日に大山の麓の石蔵で七十年の生涯を閉じることになる。今の伊勢原市の産業能率大や伊勢原大山ICのある辺りだ。心敬塚古墳もあるが、金子金次郎によれば天保十二年の『新編相模国風土記』に記述のないところから、新しい伝承だという。
 六十四句目。

   見ぬ国の玉とやならむ身の行衛
 はてもかなしき天つ乙女子     宗悦

 「天つ乙女子」は天女のことで、各地に羽衣を失って天に帰れなくなるという羽衣伝説がある。この場合も羽衣を失った天女であろう。

2020年6月3日水曜日

 今日も暑かった。

 黒黒黒黒黒黒黒黒
 黒黒黒黒黒黒黒黒
 黒黒黒黒黒黒黒黒
 黒黒黒黒黒黒黒黒
 黒黒黒黒黒黒黒黒

 こんなんでいいのかな。黒人というとやはりシャネルズだな。黒人音楽が好きで黒人に成りきろうとした彼らは顔を黒く塗った。
 ソウル系というと何となくヤンキーのイメージがついて回るが、アメリカの黒人と日本のヤンキーは立ち位置が近いのかもしれない。
 とにかく黒人にあこがれている日本人は沢山いる。差別なんかに負けずに頑張ってほしい。

   だからもう結婚なんてしないから
 あの娘は夜の街へと消えて

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。

 五十五句目。

   藻塩の床に雁かへる声
 一夜のみかれる苫屋にね覚して   銭阿

 一夜の借り枕とする。打越の「あかしのうき枕」は明石に掛かる月の比喩なので羇旅には含めないのであろう。
 藻塩は焼くもので刈るのは玉藻だから、ここは掛けてにはにはなっていない。
 五十六句目。

   一夜のみかれる苫屋にね覚して
 うき身のうへに涙そへぬる     覚阿

 苫屋の寝覚めの心情を付ける。述懐への展開で変化をつけようという狙いか。
 五十七句目。

   うき身のうへに涙そへぬる
 父母のおもひをみるもくるしきに  宗悦

 「涙そへぬる」は父母の涙とする。
 五十八句目。

   父母のおもひをみるもくるしきに
 いまこんとてぞ捨る世中      修茂

 「今来むとて捨てる世の中ぞ」の倒置。
 老いた父母の世話をしなくてはならない苦しい時に、今にも死ぬからと言って世の中を捨てられるか、と反語に取るのがいいだろう。
 五十九句目。

   いまこんとてぞ捨る世中
 罪あるを迎の車おそろしや     心敬

 金子金次郎の注は仏教の三車火宅の車としているが、この場合は罪のある者を地獄に連れて行く火車のことであろう。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「仏教経典が地獄に関して説く〈火車(かしや)〉の和訓で,猛火の燃えている車。罪人を地獄で責めたり,あるいは罪人を地獄に迎えるのに用いる。初期の経典には〈火車輪〉〈火車炉炭〉などと罪人の責め具として出ているが,のちには命終のとき罪人を地獄に迎える乗物として説かれている。《観仏三昧海経》第五観相品には阿鼻(あび)地獄に18種の小地獄があり,その一種に18の火車地獄があるとして,火車で罪人を迎え,火車で呵責する種々相が描写されている。」

とある。
 地獄へは行きたくないから火車が来る前に出家しよう、ということになる。
 六十句目。

   罪あるを迎の車おそろしや
 御かりのかへさ野もひびく也    宗悦

 前句の車を牛車のこととする。
 狩が殺生の罪であるというテーマは、

   罪の報いもさもあらばあれ
 月残る狩り場の雪の朝ぼらけ    救済

の句が既にある。
 ここでは皇族の狩で立派な牛車に乗ってのものであろう。しかし殺生の罪を思うとそれも地獄へ行く火車のように思えて恐ろしい。野を走る車の音さえ不気味に聞こえる。

2020年6月2日火曜日

 東京の感染者が増えている。昨日の花火(見なかったけど)は七回の裏の攻撃の合図か。ここで大逆転ということもある。気をつけよう。
 政治家は命より金が大事な人が多いから、自分の命は自分で守ろう。
 アメリカでは「暴力をやめて投票しろ」と呼びかけている人もいるが、民主党政権でも黒人大統領でも結局何も変わらなかったからこんなことになったのでは。大事なのは相互理解であって力の行使ではない。
 思うに人権思想が開放したのは白人文化に同調した黒人と、男性的価値観を受け入れた女性と、ペニスを持って生まれたLGBTではなかったか。

   故郷の便りうれしいけれど
 だからもう結婚なんてしないから

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。

 三表。
 五十一句目。

   はかなき跡をみるぞ悲しき
 千年ともいひしやいつの塚の松   宗祇

 前句の「はかなき跡」を千年前の死者の墓とする。いわゆる古墳のことであろう。
 金子金次郎は『徒然草』第三十段の、

 「果ては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪に摧かれ、古き墳は犂かれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。」

を引いているが、松が伐採されたからはかなき跡だというのは読み過ぎだろう。千歳とも言われている松の木を眺めながら「はかなき跡」とする方がいい。
 五十二句目。

   千年ともいひしやいつの塚の松
 こころぞひける舟岡の山      心敬

 前句の塚を京都の船岡山とする。
 船岡山はウィキペディアに、

 「古来、船岡山は景勝の地であった。その美観が尊ばれ、清少納言も『枕草子』231段にて「岡は船岡」と、思い浮かぶ岡の中では一番手として名前を挙げている。一方では都を代表する葬送地でもあり、吉田兼好も『徒然草』137段にて「(都の死者を)鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と述べている。」

とある。
 なおウィキペディアには、

 「応仁元年(1467年)、応仁の乱の際に西軍を率いる備前国守護の山名教之や丹後国守護の一色義直らが船岡山に船岡山城を建築して立て籠もった(西軍の陣地となった船岡山を含む一帯はそれ以来「西陣」の名で呼ばれるようになる)。」

とある。心敬はこのことを知っていたかどうか。
 五十三句目。

   こころぞひける舟岡の山
 霞さへ月はあかしのうき枕     長敏

 「うき枕」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 水べや船中などに旅寝すること。浮き寝の枕。
  ※曾丹集(11C初か)「そま川の筏の床のうきまくら夏は涼しきふしどなりけり」
  ② (「涙で枕が浮く」の「浮き」に「憂き」をかけて) ひとりねの悲しさにいう語。つらいひとりね。
  ※堀河百首(1105‐06頃)冬「水鳥の玉藻の床のうき枕ふかき思ひは誰かまされる〈大江匡房〉」

とある。
 前句の「舟岡の山」を「舟、岡の山」と分解し、「岡山」のこととしたか。ネットの地名由来辞典によると、

 「鎌倉時代より見られる名で、地名の由来は城周辺の小高い丘を『岡山』と呼んだことに因む。」

とある。岡山城は心敬の時代より後の築城だが、その城の立つ前から岡山という地名はあったようだ。
 岡山から見れば明石の門は東にあり、そこから昇る朧月は明石に夜泊しているかのようだ。
 五十四句目。

   霞さへ月はあかしのうき枕
 藻塩の床に雁かへる声       宗祇

 霞む月に帰る雁、明石に藻塩、四手に付ける。基本的な付け方でこの巻の脇もこの付け方で付けている。
 藻塩の床のうき枕は在原行平を髣髴させる。

2020年6月1日月曜日

 家のあたりでは花火はなかったし音も聞こえなかった。雨が降っていたが、鶴見と調布では雨の中上げたらしい。

   白菜と葱はあるけど肉はなく
 故郷の便りうれしいけれど

 それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。

 四十三句目。

   春のこころは昔にも似ず
 すむ山は日も長からで送る身に   満助

 昔は春の日は長いと思っていたが、山に住むようになってから身辺のことを全部自分でやらなくてはならずいろいろ忙しいので、日が長いと感じなくなった。
 四十四句目。

   すむ山は日も長からで送る身に
 はたうつ峯の柴を折りつつ     長敏

 その山の暮らしというのは、山の上の畑を耕し、柴を折る生活だ。
 四十五句目。

   はたうつ峯の柴を折りつつ
 哀れにも粟飯急ぐ火を焼きて    心敬

 前句の柴で粟飯を急いで炊く。粒が小さいので米より早く炊ける。
 「黄粱一炊の夢」という言葉もある。「邯鄲の夢」のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「人の世の栄枯盛衰のはかないことのたとえ。「一炊(いっすい)の夢」「邯鄲夢の枕(まくら)」「盧生(ろせい)の夢」などともいう。中国唐の開元年間(713~741)、盧生という貧乏な青年が、趙(ちょう)の都邯鄲で道士呂翁(りょおう)と会い、呂翁が懐中していた、栄華が思いのままになるという不思議な枕を借り、うたた寝をする間に、50余年の富貴を極めた一生の夢をみることができたが、夢から覚めてみると、宿の亭主が先ほどから炊いていた黄粱(こうりゃん)(粟(あわ))がまだできあがっていなかった、という李泌(りひつ)作の『枕中記(ちんちゅうき)』の故事による。[田所義行]」

とある。
 この故事にちなんだ展開を期待したか。季節は秋に転じる。
 四十六句目。

   哀れにも粟飯急ぐ火を焼きて
 まくら程なき露のかり伏し     宗祇

 「黄粱一炊の夢」の故事にちなんで粟に枕は付け合いということになるが、その方向では話を膨らませてない。
 邯鄲の夢を見るような立派な枕ではなく、旅の野宿で用いる枕はあまりに小さすぎる。
 粟飯をさっと炊いてさっと食って、ひと寝したらまた旅の続きがある。文字通りスルーした形になる。
 まあ、出勝ちだから別に宗祇に振ったわけではなく、誰もうまく展開できなかっただけだろう。
 四十七句目。

   まくら程なき露のかり伏し
 廻りきて故郷出し夜はの月     修茂

 秋が二句続いたのでここは月を出すところだ。
 旅立って一ヶ月経ったかという句で、前句の「まくら程なき」を短い旅の意味にする。
 四十八句目。

   廻りきて故郷出し夜はの月
 わすれぬ物を人や忘れん      長敏

 旅立って一月、私はまだ忘れてないのにあなたは忘れてしまったのでしょうか、となる。
 四十九句目。

   わすれぬ物を人や忘れん
 かはらじのその一筆を命にて    心敬

 「かはらじ」と書かれた手紙を信じるけな気な女を描いてみせる。
 五十句目。

   かはらじのその一筆を命にて
 はかなき跡をみるぞ悲しき     満助

 「はかなき跡」は一筆のこととも取れるが、ずっと待っていたのに既に亡くなっていた取ることもできる。展開の大きさとしては「はかなき跡」を墓所のことと取る方がいい。