今日は一日雨だった。枇杷の木に鳥が集まり、一日中騒がしかった。
今日の東京では新たに二十四人、北海道は九人の感染確認で、このレベルで安定しているとはいえ収まってはいない。
本来は事務手続きを簡素化するための一律給付だったのに、その後野党に要求されるがままにあれもこれもと給付の種類を増やし、当然役所だけでは対応しきれないから民間に委託すると、今度はマスゴミがそれをあたかもスキャンダルであるかのように書きたてる。一体何のための一律給付だったのかわからない。
要求する方もするほうだが、それに簡単に屈してしまう政府の弱腰が支持率低下の最大の原因ではないかと思う。
野党やマスゴミの言いなり政権なら安倍さんである必要はないし、自民党である必要すらない。とにかく第二波が今来ないことだけを祈ろう。
アメリカは警官の首絞めを禁止するより、一般人の銃の所持を禁止した方がいい。いつ撃たれるかわからない恐怖の中で仕事をしていれば、多少の暴力は仕方ない。エクスペリアームス 武器よ去れ!
アマビエ八十二句目。
地球儀をくるくる回す子の笑みに
爺は勝手に物買ってくる
今日は閏四月二十二日ということで、まだまだ卯月は終らない。その間の時間つぶしとして、季節に関係なくもう一つ心敬参加の連歌を読んでみようと思う。
『連歌集』(新潮日本古典集成33、島津忠夫校注、一九七九、新潮社)に収録されている『寛正七年心敬等何人百韻』で、寛正七年(一四六六年)三月四日の興行で行助の東国下向の送別会だった。
寛正七年は実際には二月二十八日に文正元年に改元されている。当時のことだから、改元がすぐに周知されていたわけではなかったのだろう。今みたいな文正おじさんが「文正」の文字をカメラに向かってかざし、お祭り騒ぎになったわけではない。
そして文正は翌二年三月五日に応仁に改元される。つまりこの連歌は心敬が東国に下向する一年前ということになる。この年の夏には宗祇も下向
している。
ただ、行助の東国滞在は短く、応仁二年正月廿八日室町殿連歌始②参加しているのでそれまでには京に戻っている。心敬とは行き違いになった形で応仁三年三月二十四日に行助が死去するまで、再びまみえることはなかったのだろう。
さて、その心敬の発句。
比やとき花にあづまの種も哉 心敬
折から桜の季節で、この時期に行助が東国に下向し、東国にも連歌の種を撒いてくれることでしょうと、戦乱を避けての下向でもポジティブに捉える。
「比やとき」はこの場合は「比や疾き」ではなく「比や時」であろう。
光秀の「時は今」のような感覚か。
これに対し見送られる行助はこう返す。
比やとき花にあづまの種も哉
春にまかする風の長閑さ 行助
意味は「春を風に任せる長閑さ」で、あくまでも時節柄の風に任せての下向なので、そんな東に種を撒こうなんて大それたことは考えていません、という謙虚な返しだ。
行助はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、
「1405-1469 室町時代の連歌師。
応永12年生まれ。もと山名氏の家臣。比叡山(ひえいざん)延暦(えんりゃく)寺の僧となり,法印にいたる。連歌を高山宗砌(そうぜい)にまなび,連歌七賢のひとり。宗祇(そうぎ)編「竹林抄」の7作者のひとりにもあげられる。応仁(おうにん)3年3月24日死去。65歳。通称は惣持坊。連歌句集に「行助句集」など。歌学書に「連歌口伝抄」。」
とある。心敬は一四〇六年生まれだからほぼ同世代。
第三。
春にまかする風の長閑さ
雲遅く行く月の夜は朧にて 専順
「風の長閑」から「雲遅く」を導き出し、朧月を出す。
専順はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、
「没年:文明8.3.20(1476.4.14)
生年:応永18(1411)
室町時代の連歌師。柳本坊,春楊坊とも号す。頂法寺(六角堂)の僧で法眼位にあった。華道家元池坊では26世とする(『池坊由来記』)。嘉吉・文安年間(1441~49)から活躍しはじめ,高山宗砌没後は連歌界の第一人者と目された。足利義政主催の連歌会に頻繁に参加し,飯尾宗祇を指導して大きな影響を与えてもいる。応仁の乱後は美濃国(岐阜県)に下り,守護代斎藤妙椿 の庇護を受けた。連歌は「濃体」と称される内容の深い円熟味のある句風で,連歌論書に『片端』,自選付句集に『専順五百句』がある。その死因はあきらかではなく,殺害されたともいわれる。」
とある。
心敬、行助よりはやや後輩になる。応仁の乱後はちりぢりばらばらで、おそらく再びまみえることはなかったのだろう。
四句目。
雲遅く行く月の夜は朧にて
帰るや雁の友したふらん 英仲
朧月に帰る雁は付け合い。前句の「雲遅く行く」と「雁の帰る」を重ね合わせ、雁が雲を友として慕っているようだとする。
わが心誰にかたらん秋の空
荻に夕風雲に雁がね 心敬
此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉
のように、雁と雲は友とされていた。
「英仲」については不明。この時代だと資料も少なく、たどれない人も多い。当時としてはひとかどの人物で、連歌の実力も高く評価されていたから四句目を任されているのだろう。
五句目。
帰るや雁の友したふらん
消えがての雪や船路の沖津波 元用
「帰る雁」に自分の旅路を重ね合わせる。「船路の沖津波は消えがての雪や」の倒置で、遠くに見える浪の白さを消えてゆく雪に喩えている。
元用は島津注に「浄土僧。寛正~文明頃の中堅作者。」とある。
六句目。
消えがての雪や船路の沖津波
あらいそ寒み暮るる山陰 弘仲
前句の「消えがての雪」を比喩ではなく実景とし、山陰を付ける。
弘仲の不明。ただ、句を見る限り英仲、元用、弘仲ともに京の連歌のレベルの高さが窺われる。東国の旦那衆相手の「応仁二年冬心敬等何人百韻」を読んだ後なだけに、いっそうそれが際立っている。
七句目。
あらいそ寒み暮るる山陰
主しらぬ蘆火は松に木隠れて 宗祇
ここでようやく宗祇の登場で、当時の京での序列はこんなもんだったのだろう。当時四十六歳だが「四十五十は鼻垂れ小僧」の世界か。
磯の寒さに誰のものとも知れぬ焚き火はありがたい。ただそれはまだ松林の向こうにある。古典によらぬ斬新な趣向と言えよう。
八句目。
主しらぬ蘆火は松に木隠れて
人の声する村のはるけさ 量阿
水辺から離れ、木隠れの蘆火を村人の焚き火とする。
量阿は島津注に「五条堀川踊道場、時宗」とある。
0 件のコメント:
コメントを投稿