2020年6月28日日曜日

 昨日は鈴呂屋書庫の方に「兼載独吟俳諧百韻」をアップしたが、それに続いてと思って「守武独吟俳諧百韻」を読み返していたら、

   さだめ有るこそからすなりけれ
 みる度に我が思ふ人の色くろみ
   さのみに日になてらせたまひそ
 一筆や墨笠そへておくるらん

というのがあった。
 日本人に限らず黄色人種は日焼けするもので、白くも黒くもなる。
 こと女性に関しては一五四三年に種子島にポルトガル人がやってくる以前から、色の白いのを良しとされていた。まだ白人とも黒人とも接触する前のことだ。だから、白人に憧れてでもなければ黒人を差別してでもない。
 単純に考えれば、日焼けは外に出て仕事する人がするもので、それ自体が身分の低さの象徴でもあった可能性が高い。逆に色白の女性は良家の箱入り娘というふうに見られたのだろう。
 近代でも「色の白さは七難隠す」という諺がある。これももっぱら女性に関してのものだ。
 男の場合は色黒は賤しいが働き者というプラスの価値付けもあった。
 「黒面(こくめん)」は芭蕉の時代に誠実だとか律儀だとかいう意味で用いられていた。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘形動〙 (「こくめい(克明)」の変化した語か) 実直なさま。律義(りちぎ)なさま。まじめ。
  ※浮世草子・宗祇諸国物語(1685)五「畑の細路を黒面(コクメン)にうつむきて、爰を大事と目をくばる」

とある。
 おそらく最初は「こくめい(克明)」と言っていたのが、誰かが間違えて「こくめん」と言うようになり、それが広がったものであろう。
 最近でも「定番(ていばん)」のことをいつの間にか「鉄板(てっぱん)」と言うようになっている。最初は言い間違いだったものの、鉄板のように固い定番ということで、定着したと思われる。
 「こくめん」もそういう意味で、働き者で顔が真っ黒に日焼けした人のように克明だということで広まったのではないかと思う。
 梅若菜の巻の三十二句目にも、

   咳聲の隣はちかき縁づたひ
 添へばそふほどこくめんな顔   園風

とある。
 また、色の黒さは旅人の象徴でもあったか。

 早苗にも我が色黒き日数哉    芭蕉

の句もある。これは能因法師が白川まで旅をしてきたように見せかけるため、わざと日焼けしたという伝説に基づくものだが、「我が色黒き」には本当に旅をしてきたという自負があり、そこには旅が公界の自由を象徴するという意味も含まれていたと思われる。
 戦後になり、西洋流のレジャーが入ってくると、今度は日焼けした肌がかっこいいということになる。これはレジャーを楽しむ余裕があるということで、むしろ裕福さを象徴するものになったからだ。日焼けサロンという日焼けベッドがたくさんあって人工的に日焼けする店も繁昌した。
 この時代は男でも日焼けしてないと「青白い」とか言われ、不健康のように言われた。
 ただ、やがて紫外線の害が言われるようになると、一転して日焼けを嫌うようになった。今日の日本の美白文化にはこうした歴史による変遷を伴うもので、別に白人が良くて黒人が悪いといった感情によるものではなかった。
 日焼けとは別に九十年代のギャルの間で「がんぐろ(顔黒)」とよばれる顔を黒く塗るメイクがはやったこともあった。
 日本語の白と黒に関しては「しろうと」「くろうと」と言うように、黒には熟練したという意味もあった。単純にアメリカの価値観で美白を批判したり言葉狩りを行うようなことはしないでほしい。
 アマビエ巻九十七句目。

   早咲き枝垂れ八重の花々
 過ぎてった楽しい春の思い出よ

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 名残裏。
 九十三句目。

   川音近し谷の夕暮
 滝浪につるるあらしの吹き落ちて  量阿

 滝浪は上から落ちる瀧ではなく、吉野宮滝のような急な渓流のことであろう。『万葉集』に、

 み吉野の瀧の白波知らねども
     語りし継げば古思ほゆ
              土理宣令

の歌がある。
 急流の上に強い風が吹き荒れてごうごうと恐ろしいほどの川音を響かせている。
 九十四句目。

   滝浪につるるあらしの吹き落ちて
 さわげど鴛ぞつがひはなれぬ    専順

 激しい波と風にも負けず、オシドリのつがいは離れようとしない。
 人間の場合は、

 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
     われても末に逢はむとぞ思ふ
              崇徳院(詞花集)

というところだが。
 九十五句目。

   さわげど鴛ぞつがひはなれぬ
 月なれや岩ほの床の夜の友     慶俊

 オシドリは夜行性で昼は木の上で休む。
 「岩ほの床の夜の友は月なれや」の倒置で、川べりの大きな岩の上で野宿をすると、川ではオシドリが騒いでいる。オシドリに伴侶がいるように、私にはあの月が友なのだろうか、となる。
 オシドリは漂鳥で秋になると西日本の河辺にやってくる。
 九十六句目。

   月なれや岩ほの床の夜の友
 露もはらはじ苔の小筵       行助

 岩ほの床を修行僧の宿坊とする。
 島津注は、

   大峯通り侍りける時、
   笙の岩屋といふ宿にて
   よみ侍りける
 宿りする岩屋の床の苔むしろ
     幾夜になりぬ寝こそ寝られね
             前大僧正覚忠(千載集)

の歌を引いている。
 九十七句目。

   露もはらはじ苔の小筵
 松高き陰の砌りは秋を経て     心敬

 「砌(みぎ)り」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「名〙 階下のいしだたみ。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
 〘名〙 (「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという)
 [一]
 ① 軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。
 ※万葉(8C後)一三・三三二四「九月(ながつき)の 時雨の秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて」
 ② 転じて、庭。また、境界。
 ※千載(1187)序「ももしきの古き跡をば、紫の庭、玉の台、千とせ久しかるべきみきりと、みがきおきたまひ」
 ③ あることの行なわれ、または、あるものの存在する場所。その所。
 ※東寺百合文書‐い・康和元年(1099)閏九月一一日・明法博士中原範政勘文案「東寺是桓武天皇草創鎮護国家砌也」
 ④ あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。
 ※百座法談(1110)三月二七日「このみきりも、定めて過去の四仏あらはれ給ふらむを」
 ※太平記(14C後)一一「法華読誦の砌(ミギリ)には」
 [二] 水辺。水ぎわ。
 ※性霊集‐九(1079)高野四至啓白文「見二砌中円月一、知二普賢之鏡智一」
 〘名〙 「みぎり(砌)」の変化した語。
 ※謡曲・金札(1384頃)「さても山城の国愛宕の郡に平の都を立て置きたまひ、国土安全のみぎんなり」

とある。元は「水を切る」「水を防ぐ」という意味だったのだろう。
 松の下にある石畳は年を経て苔に埋もれて、今では露で濡れるがままになっている。
 ここで「砌」の文字を出すことには別の意図があったのだろう。
 九十八句目。

   松高き陰の砌りは秋を経て
 ふりぬ言葉の玉の数々       宗怡

 宗怡と「宗」の付く名前の人だから、多分師匠の宗砌さんのことを思い起こしたのだろう。宗砌は十一年前の康正元年(一四五五)に世を去っている。行助や宗祇の師匠でもある。
 九十九句目。

   ふりぬ言葉の玉の数々
 神垣や絶えず手向の茂き世に    紹永

 神社の神垣には長年にわたって多くの人が幣を奉り、手向けの言葉を掛けてきた。ここでもこの連歌興行の「言葉の玉の数々」を東国へ下向する行助さんへの手向けとできれば幸いです、というところか。
 大勢の人数を集めたこの興行は、大きな神社での興行だったのだろう。
 古代の神社には今のような本殿・拝殿はなく、神垣によって囲われた神域が神社だった。神垣に手向けをするというのはその頃の名残の言い回しであろう。
 挙句。

   神垣や絶えず手向の茂き世に
 いのりし事のたれか諸人      英仲

 「誰か諸人のいのりし事の」の倒置。「かなはざる」が省略されていると思われる。
 そういうわけで東国への旅路のご無事をみんな祈ってますと、この送別連歌百韻は終了する。

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