東京の感染者が増えている。昨日の花火(見なかったけど)は七回の裏の攻撃の合図か。ここで大逆転ということもある。気をつけよう。
政治家は命より金が大事な人が多いから、自分の命は自分で守ろう。
アメリカでは「暴力をやめて投票しろ」と呼びかけている人もいるが、民主党政権でも黒人大統領でも結局何も変わらなかったからこんなことになったのでは。大事なのは相互理解であって力の行使ではない。
思うに人権思想が開放したのは白人文化に同調した黒人と、男性的価値観を受け入れた女性と、ペニスを持って生まれたLGBTではなかったか。
故郷の便りうれしいけれど
だからもう結婚なんてしないから
それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。
三表。
五十一句目。
はかなき跡をみるぞ悲しき
千年ともいひしやいつの塚の松 宗祇
前句の「はかなき跡」を千年前の死者の墓とする。いわゆる古墳のことであろう。
金子金次郎は『徒然草』第三十段の、
「果ては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪に摧かれ、古き墳は犂かれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。」
を引いているが、松が伐採されたからはかなき跡だというのは読み過ぎだろう。千歳とも言われている松の木を眺めながら「はかなき跡」とする方がいい。
五十二句目。
千年ともいひしやいつの塚の松
こころぞひける舟岡の山 心敬
前句の塚を京都の船岡山とする。
船岡山はウィキペディアに、
「古来、船岡山は景勝の地であった。その美観が尊ばれ、清少納言も『枕草子』231段にて「岡は船岡」と、思い浮かぶ岡の中では一番手として名前を挙げている。一方では都を代表する葬送地でもあり、吉田兼好も『徒然草』137段にて「(都の死者を)鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と述べている。」
とある。
なおウィキペディアには、
「応仁元年(1467年)、応仁の乱の際に西軍を率いる備前国守護の山名教之や丹後国守護の一色義直らが船岡山に船岡山城を建築して立て籠もった(西軍の陣地となった船岡山を含む一帯はそれ以来「西陣」の名で呼ばれるようになる)。」
とある。心敬はこのことを知っていたかどうか。
五十三句目。
こころぞひける舟岡の山
霞さへ月はあかしのうき枕 長敏
「うき枕」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 水べや船中などに旅寝すること。浮き寝の枕。
※曾丹集(11C初か)「そま川の筏の床のうきまくら夏は涼しきふしどなりけり」
② (「涙で枕が浮く」の「浮き」に「憂き」をかけて) ひとりねの悲しさにいう語。つらいひとりね。
※堀河百首(1105‐06頃)冬「水鳥の玉藻の床のうき枕ふかき思ひは誰かまされる〈大江匡房〉」
とある。
前句の「舟岡の山」を「舟、岡の山」と分解し、「岡山」のこととしたか。ネットの地名由来辞典によると、
「鎌倉時代より見られる名で、地名の由来は城周辺の小高い丘を『岡山』と呼んだことに因む。」
とある。岡山城は心敬の時代より後の築城だが、その城の立つ前から岡山という地名はあったようだ。
岡山から見れば明石の門は東にあり、そこから昇る朧月は明石に夜泊しているかのようだ。
五十四句目。
霞さへ月はあかしのうき枕
藻塩の床に雁かへる声 宗祇
霞む月に帰る雁、明石に藻塩、四手に付ける。基本的な付け方でこの巻の脇もこの付け方で付けている。
藻塩の床のうき枕は在原行平を髣髴させる。
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