晴れ間も見えたが、鬱陶しい季節が続く。
アマビエ巻名残の裏に入る。九十三句目。
中央道を西へと向かう
終らない夢に選んだ新天地
それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。
七十五句目。
うつるひかりの影をしめ只
老い果てば無きが如くと思ふ身に 宗祇
これより三十三年後になるが、『宗祇独吟何人百韻』の挙句に、
雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に
わが影なれや更くる灯 宗祇
の句がある。文字通り老い果てた宗祇法師の句だが、灯の光の影に対して、人生をしみじみと振り返っている。
自分の影と対すというのは李白の『月下独酌』の、
舉杯邀明月 對影成三人
の句から来ていると思われる。ここでは月と自分と自分の影の三人ということになっている。
前句の「をしめ」を「惜しめ」から「愛しめ」に取り成した句だということは島津注も指摘している。
老い果てて、自分を知る人も世を去って、友もなく有るか無しか境遇になったなら、自分の影と対座してそれだけを頼りに過ごせということなのだろう。
この句の着想はずっと宗祇法師の心に残ってたのだろうか。宗祇法師の遺訓とも言われる独吟百韻の最後もこの趣向で締めくくることとなる。
七十六句目。
老い果てば無きが如くと思ふ身に
有りて命の何をまつらん 専順
「命」は「いのち」と読むが「拠り所」の意味もある。「応仁二年冬心敬等何人百韻」四十九句目の、
わすれぬ物を人や忘れん
かはらじのその一筆を命にて 心敬
の用法だ。
島津注は「命の有りて何をまつらん」の倒置と取るが、「有りて何の命をまつらん」の倒置とも取れる。これだと出世の欲を捨てるという意味になる。生きて一体何を当てにして待てというのか、となる。
七十七句目。
有りて命の何をまつらん
ひまもなき心の程はしる袖に 紹永
「ひまもなき心」は島津注にもあるとおり、
秋の夜は月にこころのひまぞなき
いづるをまつといるををしむと
源頼綱朝臣(詞花集)
の用例がある。心の休まる時がない、悩ましくてしょうがない、という意味。
悩ましくて他のことも手につかない今の心を知っている涙に濡れた袖に、一体何の拠り所を待てというのか、となる。
七十八句目。
ひまもなき心の程はしる袖に
ひとり枕にあかす夜な夜な 慶俊
ひとり枕で片思いとする。
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