アマビエの巻も今日で三の懐紙が終わり。あれから七十八日が経過したということか。
あのときは日本も大変なことになって、ひょっとしたら百日後には生きてないかもなんて思ったが、今のところ死者は九百二十二人で千人に届かず、それでも地震や台風でこれだけ死んだら大惨事のはずだから、たいしたことなかったと言うのはやめよう。命があってよかった。命なりけり小夜の中山。
今日もまた仕事ないまま花を見る
ふりかえるならみんな陽炎
それでは「応仁二年冬心敬等何人百韻」の続き。
八十五句目。
ながれの末にうかぶむもれ木
あふ瀬にもよらば片しけ名取川 修茂
「むもれ木」に名取川は当然と言えよう。
「ながれの末に」は、
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末に逢はむとぞ思ふ
崇徳院(詞花集)
のような、流れに引き裂かれながらも流れの末でまた会おうという恋の情につながる。
この場合は滝川の水ではなく埋もれ木なので、別々に流れていても川の狭くなったところでまためぐり合う。「片しけ」は一人寝をしろということになるが、めぐり合うまでは一人で寝るのにも耐えろということか。
八十六句目。
あふ瀬にもよらば片しけ名取川
よそにもれなん色ぞ物うき 銭阿
名取川は「名」がつくので、名が立つ、噂が広まるということに掛けて用いられる。一人で寝ていても噂が立って気が気でない。
八十七句目。
よそにもれなん色ぞ物うき
かいま見もあらはに芦の葉はかれて 心敬
芦の葉に囲まれた苫屋だろうか。芦の葉が枯れればそこに住む女性が他所の男に垣間見られてしまう。「もれる」を噂ではなく、住んでいること自体がもれるとする。
八十八句目。
かいま見もあらはに芦の葉はかれて
冬はすまれぬ栖とをしれ 満助
「栖」は「すみか」。鳥の巣の意味もある。
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