2020年6月15日月曜日

 今日は晴れた。暑かった。
 都知事選がもうすぐ始まる。
 コロナ対策で「休業要請等に対する補償の徹底」というのは大体左翼に共通した主張だが、小規模な事件であれば可能であっても、今回のコロナのような大規模な感染症対策を必要とする案件だと、限られた国や自治体の財源での補償は自ずと限界がある。
 だから「徹底」はあくまで理想であって、問題はどこまで現実的に可能かだ。本当に争点にしなくてはならないのはそこだ。
 そうでないと、「休業要請するなら、それによる損失を全部補償すべきだ」が「損失を全部補償する財源がないから休業要請は出来ない」になり、あとはブラジルへ向かってまっしぐらになる。外堀を埋めると言っているのはこういうことだ。
 たとえば東日本大震災とまでは行かないが、台風で洪水が発生し多くの被害がでた時、政府は被災地の家や田畑や工場を全部元通りにして、それまでの間の途絶えた収入を全額補償すべきなのか。それができるなら理想だが、できることとできないことははっきりさせなくてはならない。政府に出来ない部分はせめて義援金を集めてなんとかするくらいであろう。
 都知事選も理想論ではなく、実際にどこまでできるのかをきちんと議論して欲しいのだが、まあ、無理だろうな。最後はスキャンダル頼みだったりして。
 アマビエ八十四句目。

   トイレットペーパー部屋にうず高く
 査察があると通路片付け

 それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。

 十七句目。

   こゆるも末の遠き山道
 鐘ひびく峰の松陰暮れ渡り     弘其

 越えるには遠すぎるということで、途中まで行って日が暮れたとする。この場合は入相の鐘。
 弘其も未詳。
 十八句目。

   鐘ひびく峰の松陰暮れ渡り
 御法の跡を残す古寺        常広

 「跡を」というから既に寂れてしまった山寺であろう。鐘の音は昔と変わらず、名残を留めている。
 常広も不明。これで連衆が一巡する。十八人、賑やかな連歌会だ。
 十九句目。

   御法の跡を残す古寺
 聞くのみを鹿のその世の行衛にて  心敬

 「鹿の苑(その)」と「その世」を掛けている。「鹿の苑(鹿野苑)」

はコトバンクの、「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《〈梵〉Mṛgadāvaの訳》中インドの波羅奈国にあった林園。釈迦が悟りを開いてのち初めて説法し、五人の比丘(びく)を導いた所。現在のバラナシ北郊のサールナートにあたる。鹿苑。鹿(しか)の苑(その)。」

とある。苑の名前で鹿そのものではないので無季、非獣類。
 伝説に聞くだけの鹿野苑に始まった仏法の世に広まりその末に、この古寺にも仏法の跡をとどめている。
 二十句目。

   聞くのみを鹿のその世の行衛にて
 月かたぶきて夢ぞ驚く       行助

 前句を鹿野苑から切り離し、鹿の声を聞くのみのその「夜」の行方に取り成す。
 夜の行方といえば夜明けで月も傾き、夢からハッと目覚めて驚く。鹿の行方に狩られる結末を思ったのだろう。殺生の罪を思い、一瞬にして悟る場面か。
 『去来抄』の、

 猪のねに行かたや明の月      去来

をも思わせる。
 ただ、この句を聞いて芭蕉は、

 明けぬとて野べより山へ入る鹿の
     跡吹きおくる萩の下風
           源左衛門督通光

を引き合いに出して、「和歌優美の上にさへ、かく迄かけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし。」と評された。俳諧らしい江戸時代ならではのリアルな新味がないということだろう。

 明けぼのや白魚白きこと一寸    芭蕉
 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉  同

のような古典の殺生の罪を一瞬にして悟る心を、まったく新しい事象に置き換えるというのが芭蕉の俳諧だった。
 ただ中世の連歌にあって、そのような新味は特に求められていない。

   罪のむくいもさもあらばあれ
 月のこる狩場の雪の朝ぼらけ    救済

の名吟をも思い起こさせる好句といっていいだろう。
 二十一句目。

   月かたぶきて夢ぞ驚く
 仮庵や枕の草の露おもみ      専順

 仮庵は島津注に「仮に作った粗末な庵。秋の田を害獣から守るためなどに設けた。」とあり、

 秋田もるかり庵つくりわがをれば
     衣手寒し露ぞおきける
             よみ人しらず(新古今集)

の歌も引用しているとおりの仮庵であろう。
 狩人から百姓に転じ、仮庵の枕元にある草に露が降りて草がたわみ、やがて顔の上に滴ってきたのだろう。ハッと夢から覚めると月は傾いている。
 二十二句目。

   仮庵や枕の草の露おもみ
 さもうかるらん稲葉もる人     清林

 さて二順目に入って心敬、行助、専順のそれぞれの素晴らしい技を見た後で、ここからは出勝ちになる。
 仮庵で既に百姓に転じているところに「稲葉もる人」はやや発展性に欠けるが、三人の巨匠の句と比較しては可哀相だ。
 露の重さのように、稲葉もる人の憂きもさも重いことだろう、という付け筋はなかなかのものだ。

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