今日は一日雨。
県境を越えた移動自粛が解除されたせいか、道路は大渋滞だった。
アマビエ巻八十八句目。
ワイシャツの少年達は汗臭く
垣間見るのはスク水の君
それでは「寛正七年心敬等何人百韻」の続き。
二裏。
三十七句目。
なににも色の冬浅き陰
春は猶頭に雪の積り来て 行助
頭に雪が積もると白髪頭のように見える。「なににも」はここでは「なんとも」というような意味か。春だというのにもう人生冬が来たみたいだ。
三十八句目。
春は猶頭に雪の積り来て
日はてりながら光り霞める 紹永
島津注は、
二条のきさきの東宮の御息所と聞こえける時、
正月三日おまへにめして仰せ言ある間に、
日は照りながら雪のかしらに降りかかりけるを
よませ給ひける
春の日の光に当たる我なれど
かしらの雪となるぞわびしき
文屋康秀(古今集)
によるとする。「光り霞める」とすることで春の句にする。
三十九句目。
日はてりながら光り霞める
深草や下萌え初めてけぶる野に 宗祇
「深草」は島津注に、「京都市伏見区。東山連峰の南端、稲荷山の麓にある歌枕。草深い野の意を掛ける。」とある。
夕されば野辺の秋風身にしみて
鶉鳴くなり深草の里
藤原俊成(千載和歌集)
などの歌に詠まれている。
『伊勢物語』一二三段には、
「むかし、男ありけり。深草に住みける女を、やうやう飽き方にや思ひけむ、かかる歌をよみけり。
年を経て住み来し里をいでていなば
いとど深草野とやなりなむ
女、返し、
野とならば鶉となりて鳴きをらむ
狩にだにやは君は来ざらむ
とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。」
とある。
伏見稲荷大社の周辺で、今でも「深草」のつく地名が見られ、龍谷大前深草駅がある。
その深草の知名に掛けて、春の草の下萌えをさらに「燃え」に掛けて野焼きとし「けぶる野に」を導き出す。前句の「光り霞める」を煙に霞むとする。
四十句目。
深草や下萌え初めてけぶる野に
うつせみの世を忍ぶはかなさ 専順
野のけぶりは火葬の煙の連想を誘い、哀傷に展開する。
蝉の抜け殻のように肉体だけを残し魂の去っていった人の命のはかなさを偲び、今その肉体も火葬にされ、野の煙となって立ち上る。
四十一句目。
うつせみの世を忍ぶはかなさ
かくのみに恋しなば身の名や立たむ 心敬
「忍ぶ」を故人を偲ぶのではなく忍ぶ恋とする。
このまま恋に死んでしまったなら、浮名を残すことになってしまうでしょう、こうやって心を隠し忍ばねばならないのは空しい。
四十二句目。
かくのみに恋しなば身の名や立たむ
みよや涙の袖のくれなゐ 量阿
深い悲しみに血の涙を流すというのは、実際は血を流すほどそれくらい悲しいという比喩だが、
見せばやな雄島のあまの袖だにも
濡れにぞ濡れし色はかはらず
殷富門院大輔(千載集)
のように和歌に詠まれている。
ここでもはっきりと血の涙とは言ってないが、「袖のくれなゐ」でそれを表わしている。
恋に死にそうなくらい苦しんでいるから、血の涙に袖も赤く染まる。
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