2020年2月28日金曜日

 「口まねや」の巻の続き。

 二表。
 二十三句目。

   苫やの陰に侘た雪隠
 さすらふる我身にし有はすきの道 宗因

 中村注は、

   堀川院御時百首歌奉けるとき旅歌
 さすらふる我身にしあれば象潟や
     あまの苫屋にあまた旅寝ぬ
              藤原顕仲朝臣(新古今集)

を引いている。
 すきの道(数寄道:すきどう)はコトバンクの「世界大百科事典内の数寄道の言及」に、

 「17世紀には,数寄といえば侘茶を指すようになり,侘茶が茶の湯の本流として位置づけられるようになった。17世紀末に茶道の称がおこり,元禄年間(1688‐1704)ころからは数寄道は茶道と呼ばれるようになる。茶道【日向 進】。」

とある。
 さすらいの茶人から、苫屋の影の侘び、と付くが、最後は雪隠で落ちになる。
 二十四句目。

   さすらふる我身にし有はすきの道
 忍びあかしのおかたのかたへ   宗因

 「すきもの」は古くは色好みの意味だったし、近代でもその意味で用いられている。
 『源氏物語』の明石の君を江戸時代の遊郭風に「明石のお方」と呼び、須磨明石にやってきた光源氏の物語を当世風に作り変えている。
 二十五句目。

   忍びあかしのおかたのかたへ
 織布のちぢみ髪にもみだれぞめ  宗因

 「ちぢみ髪(縮髪)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① ちぢれている頭の毛。ちぢれっ毛。色欲が強いとされた。ちぢゅうがみ。
  ※評判記・満散利久佐(1656)「とかく、ねふりめ成女也、縮髪にて、いかが侍らん」
  ② 手を加えて縮れ毛にした髪。
  ※随筆・守貞漫稿(1837‐53)九「男女ともに縮み髪はやりて之を賞せり」

とある。
 明石と縮(ちぢみ)は明石縮という織物の縁があり、そこから「織布のちぢみ」と掛けて「縮み髪」を導き出す。
 「乱れ染め」というと『小倉百人一首』の、

 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに
     乱れそめにし我ならなくに
            河原左大臣

がよく知られている。「しのぶもぢずり」については諸説あるが、筆者は『奥の細道─道祖神の旅─』(鈴呂屋書庫)には『万葉集の服飾文化』(小川安郎、1986、六興出版)を参考にして、

 「摺り衣というのは植物や鉱物などをすり潰した染料を衣類に擦り付けるだけの、衣類の着色方法としては最も原始的なものだ。しのぶもぢ摺りというのは、おそらく染料を着けた平らな岩に衣を擦り付けることによって不定形の乱れ模様を着けていたのだろう。」

と推測した。「乱れ染め」は和歌では恋に心が乱れることと掛けて用いられる。
 明石縮の織布の縮みのような縮み髪の女はその髪のように恋に心を乱し、明石の御方の方へ忍ぶ、と付く。
 二十六句目。

   織布のちぢみ髪にもみだれぞめ
 あかり窓より手をもしめつつ   宗因

 あかり窓は明かりを取るための障子を張った窓。
 「手を締める」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 相手の手を握りしめる。多く、男が恋する女の手を握る時にいう。
  ※俳諧・犬子集(1633)七「度々人の手をばしめけり 折やつす山の早蕨たばねわけ〈徳元〉」
  ② やり方をひきしめる。きびしくする。
  ※評判記・難波の㒵は伊勢の白粉(1683頃)三「もと作りからそれしゃが手をしめていたほどに出来のわるからう筈もなし」
  ③ 商談、約束、または和解などの成立、会合の終わりなどを祝って、参会者一同が拍手する。手締めをする。また転じて、めでたく結着をつける。手をたたく。
  ※俳諧・新続犬筑波集(1660)七「双六の手をもしめあふ戯れに たがひにういつうかれめの袖〈似空〉」
  ※歌舞伎・小袖曾我薊色縫(十六夜清心)(1859)四立「いい所を二三番受たら、手を〆てお仕舞被成い」

とあり、この場合は①の意味。ちなみに③は今日で言う「手締め」のこと。一本締めと三本締めがある。
 禁じられた仲なのか、あかり窓を開けてこっそりと手を握り合う。

2020年2月27日木曜日

 今日の夕暮れは三日月と金星が並んで綺麗だった。
 COVID-19の感染の拡大で来週から小中学校が休校になるということで、いよいよ生活にいろいろな影響が出てくるようになった。
 平穏な日常もある日突然終ることもある。そんなことを考えると竜騎士07さんの『ひぐらしのなく頃に』のことも思い浮かぶ。
 本当にパンデミックが来るなら、これくらいはまだ序の口といったところだ。一体何が起こるのか想像もつかないが、とにかく何があっても受けて立つしかないだろう。
 今の状態で感染の広がりはとめられないかもしれないが、そのペースを遅らせ時間を稼ぐことくらいは出来るかもしれない。何もやらないよりは精一杯あがいた方がいい。
 プラスに考えるなら、このパンデミックを一つの契機に、直接人と人が会わなくてもいいように、商取引や学校の授業のオンライン化、様々な分野でのAI化、工場の無人化、交通網の自動運転化などが加速してゆけばいいと思う。
 クラウドソーシングも今後重要性が増すから、安倍首相も今から先手を打っているなら頼もしい限りだが。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 十五句目。

   過がてにする西坂の春
 有明のおぼろおぼろの佐夜の山  宗因

 小夜の中山は金谷宿と日坂宿の間にある。
 そのまま読むと日坂を明け方に旅立ち、春の朧の有明の月を見ながら小夜の中山を越えるという意味になる。
 中村注はこれを有明行灯のことだとするが、この場合、

 「『有明』が前句に続ける場合は、『有明の月』の意味にもなるので」(『宗因独吟 俳諧百韻評釈』中村幸彦著、一九八九、富士見書房、p.45)

とあり、その一方で「一句の意味」としては有明行灯で、有明行灯の朧に光る「小夜」つまり小夜ふけての頃だという。
 最初にこの本を読んだ時には何の疑問も持たなかったが、「一句の意味」って一体なんだろうか。前句に付いた時の意味、後句に付いた句の意味だけで十分で、果して一句の意味を考える必要などあるのだろうか。ここは単に月のことでいいのではないか。
 十六句目。

   有明のおぼろおぼろの佐夜の山
 無間の鐘に花やちるらん     宗因

 「無間の鐘」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「静岡県、佐夜の中山にあった曹洞宗の観音寺の鐘。この鐘をつくと現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちるという。」

とある。
 ここでも前句の有明は有明行灯の意味にはならない。普通に明け方の月の意味になる。
 十七句目。

   無間の鐘に花やちるらん
 あだし世とおもひこそすれ出来分限 宗因

 「徒世(あだしよ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「つねに移り変わるはかない世。無常の世の中。
  ※天満宮本拾遺(1005‐07頃か)雑下「あだし世の 例(ためし)なりとぞ さわぐなる〈藤原兼家〉」

とある。
 「出来分限(できぶげん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「急に大金持になること。また、その人。にわかぶげん。
 ※俳諧・独吟一日千句(1675)二「仕合は日の出也けり出来分限 聟かむこなら家をとらせう」

とある。『独吟一日千句』は西鶴の『俳諧大句数』の前段階のもの。
 前句の「無間の鐘」の「この鐘をつくと現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちる」というのを説明しただけといえなくもないことは、中村注も指摘している。
 十八句目。

   あだし世とおもひこそすれ出来分限
 いくらも立てする堂供養     宗因

 にわかに金持ちになって、何か良いことをしようと思ったのだろう。それが堂供養か。
 堂供養はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「寺堂を建てて供養すること。また、その供養のために寺の周囲を稚児行列してねり歩くこと。
 ※今昔(1120頃か)三一「此の堂供養の間にも、兼てより可然き事共を様々に訪ければ」

とある。
 十九句目。

   いくらも立てする堂供養
 鎌倉や南の岸のかたはらに    宗因

 鎌倉の南の岸といえば材木座海岸だが、そこの堂供養というと九品寺のことか。ウィキペディアには、

 「この寺は、新田義貞が鎌倉幕府滅亡後に北条方で亡くなった者の菩提を弔うために、1336年(建武3年)風航順西を開山として創建したものと伝えられる。」

とある。
 二十句目。

   鎌倉や南の岸のかたはらに
 風によるをば海松よあらめよ   宗因

 「みる(見る)」に掛けている「海松(みる)」は海藻の一種。松の葉に似た緑藻。「あらめ(あらむの已然形)」に掛けている「あらめ」も海藻で、褐藻の一種。
 材木座海岸に打ち寄せられて見えるのは海松かあらめか。海松があったらいいな。
 二十一句目。

   風によるをば海松よあらめよ
 帆かけ船はしり痔やみは押留て  宗因

 「はしり痔」は裂肛のことで「切れ痔」とも言う。
 中村注は貝原益軒の『大和本草』を引いて、あらめが痔の薬だという。
 帆掛け舟の走るに「はしり痔」を掛けて、痔病みの者が舟を押しとめて、痔の薬の海松があったなら、とする。
 二十二句目。

   帆かけ船はしり痔やみは押留て
 苫やの陰に侘た雪隠       宗因

 舟を押し止めたのはトイレに行くためだった、とこれはシモネタ。
 「苫やの陰に侘た」までは和歌の趣向で何か風流なものでもあるかと思わせて、「雪隠」で落ちにする。

2020年2月26日水曜日

 独裁者無き「ソフトな独裁」がなぜ成り立つのかというと、それは日本人が「臣民」だというところにあるのではないかと思う。
 誰もが家臣だという意識を持っているなら、君主が不在でも家臣だけで国は成り立つ。
 二十世紀の社会主義国家の実験の失敗は、結局誰もが最高指導者になりたがってしまったからではないか。
 ただでさえ冨をいったん国家が預り再配分するという方式は、国家が全国民の生殺与奪権を握ることになる。そこで過酷な権力争いが起こり、粛清に継ぐ粛清となる。
 最高指導者を不在にするか、あるいは形式的で象徴的なトップ(天皇のような)を据えていれば、あるいはうまくいったのかもしれない。
 近代の天皇の居場所は、西田幾多郎も「絶対無」とし、和辻哲郎も「空」と呼んだが、和辻の場合これは「人間関係」そのものを表わす。人様だとか世間様に仕える下僕の意識でみんながその実在しないものの意志を推し量り、忖度しながら生きていれば、最も成功した社会主義独裁国家になるというわけか。
 北島三郎の唄にもあったが、「肩で風切る王将よりも、俺は持ちたい歩の心」のようなものが、この日本を支えているのだろう。
 さて、それにつけても「口まねや」の巻。

 初裏。
 九句目。

   ちりつもりてや露のかろ石
 秋風に毛を吹疵のなめし皮    宗因

 中村注にもあるように、「毛を吹いて疵を求む」という、今では忘れられてしまった諺から来ている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「(毛を吹きわけて、傷を探し出す意) 好んで人の欠点を指摘する。また、わざと他人の弱点をあばいて、かえって、自分の欠点をさらけ出す。毛を吹いて過怠の疵を求む。」

 「かえって、自分の欠点をさらけ出す」ことを、今日ではブーメランという。
 秋風が吹いて、なめし皮の疵が露呈するが、とりあえずなめし皮の最後

の仕上げで軽石を使って肉面をなめらかにする。
 十句目。

   秋風に毛を吹疵のなめし皮
 いはへて過る馬具の麁相さ    宗因

 ざらざらした皮のことを「麁皮(そひ)」という。前句の「疵のなめし皮」を麁皮でできた馬具のこととするが、馬はそんなことも知らぬげにいなないて通る。
 馬耳東風の類義語に「秋風耳を過ぐ」というのがある。
 十一句目。

   いはへて過る馬具の麁相さ
 長刀もさびたる武士の出立に   宗因

 馬具が粗末なら、それに乗っている武士の刀も錆びている。
 謡曲『鉢木(はちのき)』、つまり「いざ鎌倉」の物語を本説にしている。

 「其諸軍勢の中に。いかにもちぎれたる具足を着。さびたる長刀を持ち。痩せたる馬を自身ひかへたる武者一騎あるべし。急いで此方へ来れと申し候へ。」

とある。
 十二句目。

   長刀もさびたる武士の出立に
 どの在所よりねるやねり衆    宗因

 「練衆(ねりしゅ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「祭礼などに武者などの仮装行列をしてねり歩く人々。」

とある。前句を武士ではなく仮装の武者とする。
 十三句目。

   どの在所よりねるやねり衆
 蕨の根くだけてぞおもふ餅ならし 宗因

 前句の「ねる」を餅を練ることとする。
 蕨餅は蕨の根を砕いて取り出した汁からデンプンを固め蕨粉を作り、それに水と砂糖を入れて火にかけながら練る。
 「くだけてぞおもふ」は中村注に、

 かのをかに萩かるをのこなはをなみ
     ねるやねりそのくたけてぞ思ふ
            凡河内躬恒(拾遺和歌集)

を引用している。前句の「ねるやねり」から「くだけてぞおもふ」と繋げるのは、連歌の「歌てには」のバリエーションといっていいだろう。
 十四句目。

   蕨の根くだけてぞおもふ餅ならし
 過がてにする西坂の春      宗因

 西坂は東海道の日坂宿のこと。わらび餅が名物。

2020年2月25日火曜日

 だいぶ日本でもCOVID-19の感染者が増えてきたが、日本では移動制限のようなことはしない。あくまで自粛ムードを作ることに専念する。強制ではないが、何となくそうしなくてはいけないような雰囲気というのは、マルクス・ガブリエルの言う「ソフトな独裁」なのだろうか。
 昔からよく日本は「最も成功した社会主義国家」と呼ばれるが、その大きな特徴は独裁者がどこにもいないところだ。「独裁者なき空気の独裁」とでも言うべきなのだろう。
 空気というのはこっくりさんのようなもので、本当は誰かが動かしているのだけど、それとわからないようにソフトに動かし、回りも容易にそれに同調するから、自然にそうなったかのようにメッセージが現れる。
 和辻哲郎は天皇も「空」だと言ったが、実際日本の皇居には聳え立つ宮殿のようなものはない。何もない「空」の支配こそが日本なのだといえよう。
 欧米の哲学は「力(権力をも暴力をも表わす)」の均衡を目指すが、日本では力を隠す。
 あからさまに警察や軍隊などの暴力装置によって移動を封じ込めるのではなく、自粛ムードを作ることによって自発的に移動しないようにする。
 このやり方が功を奏するかどうか、世界の人は注目していいと思う。

 さて、昨日から旧暦二月、如月、令月ということで、また俳諧を読んでいこうかと思う。
 今回は随分前に読んだ『宗因独吟 俳諧百韻評釈』(中村幸彦著、一九八九、富士見書房)を久しぶりに読み返してみようかと思う。
 ここで紹介されているのは『宗因七百韵』(延宝五年刊)所収の宗因独吟「口まねや」の巻で、制作年代は不明。
 まず発句だが、

 口まねや老の鶯ひとり言     宗因

 「口まねに老の鶯のひとり言(す)や」の倒置と思われる。
 鶯は外の鶯の囀るのを聞いて、それを真似して囀るようになるという。飼われた鶯は、鶯笛で鳴き方を教える。
 中村幸彦氏は若い者の真似をしてこの御老体も独吟とやらをやってみようか、という風に解釈しているが、ここはむしろ梅翁自ら若い者に見本を示すために、この独吟百韻を作ったのではないかと思う。宗祇法師の『宗祇独吟何人百韻』のようなものではなかったかと思う。
 発句の意味はしたがって、後輩たちの口真似のためにも老いの鶯がここで独り言(独吟)を一巻奉げようではないか、という意味ではないかと思う。
 脇。

   口まねや老の鶯ひとり言
 夜起きさびしき明ぼのの春    宗因

 年寄りは早く目が覚める。若い頃は昼まで爆睡できたのに、歳を取るごとに、自然と早く目が醒めてしまうようになる。それもまだ暗い曙に目が覚めてしまう。最後の「春」ほ放り込み。いわば後付けの季語。俳諧ではよくある。
 第三。

   夜起きさびしき明ぼのの春
 ほの霞む枕の瓦灯かきたてて   宗因

 「瓦灯(くはとう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 灯火をともす陶製の道具。方形で上がせまく下が広がっている。〔文明本節用集(室町中)〕
  ※俳諧・毛吹草(1638)五「川岸の洞は蛍の瓦燈(クハトウ)哉〈重頼〉」
  ② 「かとうぐち(火灯口)①」の略。
  ※歌舞伎・韓人漢文手管始(唐人殺し)(1789)四「見附の鏡戸くゎとう赤壁残らず毀(こぼ)ち、込入たる体にて」
  ③ 「かとうびたい(火灯額)」の略。
  ※浮世草子・好色一代女(1686)四「額際を火塔(クハタウ)に取て置墨こく、きどく頭巾より目斗あらはし」
  ④ 「かとうまど(火灯窓)」の略。
  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「つづれとや仙女の夜なべ散紅葉〈芭蕉〉 瓦灯(クハトウ)の煙に俤の月〈信章〉」

とある。ここでは①であろう。陶器製のランプと考えていい。
 陶器のスリットから光が漏れるだけなので、行灯ほど明るくはないが寝る時にはちょうど良い。それを「ほの霞む」とすることで春の季語となる。ただし本来の春の霞とは違うが、俳諧ではそれで良しとする。実質季語ではなく形式季語になる。
 「かきたてて」は灯心をかきたてることをいう。
 四句目。

   ほの霞む枕の瓦灯かきたてて
 きせるにたばこ次の間の隅    宗因

 ここでは時間は曙でなくてもいい。暗い中、瓦灯のほのかな灯りで煙管と煙草を探していると、隣の部屋の隅にあった。あそこまで取りにいくの、面倒くさいなあ、というところか。
 五句目。

   きせるにたばこ次の間の隅
 気をのばし膝をも伸す詰奉公   宗因

 「気をのばし」というのは「気延(きのばし)」のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 心の慰め。気晴らし。気散じ。
  ※俳諧・犬子集(1633)二「見る春も気のはしをする梢哉〈重頼〉」
  〘名〙 のんびりすること。気晴らし。
  ※雑俳・黛山評万句合(1757‐59)「束帯の気のべはぬぐとかしこまり」
  〘名〙 気持。気だて。気性。心ばえ。
  ※浄瑠璃・曾我会稽山(1718)四「若けれども亀菊は、侍まさりの気ばへといひ、義理強ひは傾城の習ひよもや如在は致すまじ」

とある。ここではのんびりするの意味か。
 「詰奉公(つめぼうこう)」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に、

 「常に主人の前に勤務していること。」

とある。
 主人がいつも見ているので、普段は緊張し、きちっと正座しているが。主人がいないときには、部屋の隅で気も膝も伸ばし、ちょっと一服煙草を吸う。
 六句目。

   気をのばし膝をも伸す詰奉公
 お鞠過ての汗いるるくれ     宗因

 前句の「膝をも伸す」を足を崩すことではなくストレッチのこととする。
 蹴鞠が終って日が暮れて、汗を抜くえば張り詰めていた気持ちも緩め、膝を伸ばす。
 七句目。

   お鞠過ての汗いるるくれ
 月影も湯殿の外にながれ出    宗因

 蹴鞠が終った後はサウナでまた一汗。月の光も冷水も湯殿の外に流れ出ている。
 八句目。

   月影も湯殿の外にながれ出
 ちりつもりてや露のかろ石    宗因。

 かろ石(軽石)は角質を取るのに用いる。ただ、軽いので水を流すと塵と一緒に流れて行ったりする。

2020年2月23日日曜日

 今日は二子玉川から経堂まで歩いた。
 小坂緑地の小坂住宅にはつるし雛が飾られ、フラワーランド(瀬田農業公園)では沈丁花、ユキヤナギ、福寿草、杏、寒緋桜などが咲いていた。
 砧公園の梅も見頃で、完成間近の馬事公苑の脇を通り、農大の河津桜は既に葉桜になりかけていた。
 そのほかにもミモザやカモミールの咲いているのを見た。
 経堂でたい焼きセゾンというビールを飲んだ。隣の店のたい焼きも食べた。最後は太子堂のCat's Meow Booksに行った。猫はみんな爆睡していた。『うらやまし猫の恋─越人と芭蕉─』(吉田美和子著、二〇〇八、木犀社)を買った。
 猫の日も終わり、旧暦二月はまだ明日ということで、今日はこの俳話の既出・未出含めて、今のところ集まった猫の恋の句の一覧を作ってみた。

 春を待たずに。

 春来ると猫もいそがし品定    之道「己が光」
   柊・鰯の頭・豆うつよりはやく、
   立春の暦は
 豆をうつ音よりはやし猫の恋   越人「鵲尾冠」
 正月もまだすすくさしねこの恋  露川「菊の香」

 まず猫が通ってくる。

 猫の妻竃(へつい)の崩れより通ひけり 芭蕉「江戸広小路」
 京町のねこ通いけり揚屋町    其角「焦尾琴」
 猫の恋隣はつらし枳殻垣     里楊「草苅笛」
 北窓に後めたしや猫の恋     万山「西國曲」
 壁の穴覗ツ鳴ツねこの恋     氷下「千鳥掛」
 恋守や猫こさじとは箱根山    東順「虚栗」

 妻恋は人やとがめん寺の猫    智月「華摘」
 鎌倉も別のことなし猫の恋    南鄰「芭蕉庵小文庫」
 梅が香に鼻うごめくや猫の妻   史邦「俳諧猿舞師」
 老猫の尾もなし恋の立すがた   百里「其袋」
 猫瀬戸や妻に心をつくし舟    玖也「俳枕」(安芸)
 箱戸桶や猫の落合いもせ川    如船「俳枕」(紀伊)

 そして声を上げる。

 猫の恋初手から鳴きて哀れなり  野坡「炭俵」
 あたまからないて見せけり猫の恋 枳邑「二葉集」
 我影や月になを啼猫の恋     探丸「続猿蓑」
 おもひかねその里たける野猫哉  巳百「続猿蓑」
 いろいろの声を出しけりたはれ猫 穂音「一幅半」
 田作りの口で鳴きけり猫の恋   許六
 猫も我におされて鳴な小夜鵆   一邑「千鳥掛」

 おろおろし妻に呼るる猫の顔   車庸「己が光」
 寂蓮の詠歌ちぎるか猫の妻    露沾「己が光」
 化粧する果やなき出す猫のこひ  史邦「有磯海」
 呼出しに来てはうかすや猫の妻  去来「芭蕉庵小文庫」
 啼々て暁声や猫の恋       夏長「俳諧猿舞師」
 鶏の啼ばなき出す猫のこひ    广盤「俳諧猿舞師」
 食時にはづれて啼や猫の恋    葫官「俳諧猿舞師」
 札張し上にも啼かねこの恋    白良「俳諧猿舞師」
 猫や声身のうき浜の鰒のわた   松陰「俳枕」(筑紫)

 浮かれる。

 石磨の音にうかれつ猫の恋    孤松「幾人主水」
 まとふどな犬ふみつけて猫の恋  芭蕉「茶のさうし」
 猫の恋通ふや犬の鼻の先     重行「陸奥鵆」
 猫の恋のぼりつめてか屋根の音  信昌「一幅半」
   女にかはりて
 なれも恋猫に伽羅焼てうかれけり 嵐雪「虚栗」
 愛あまる猫ハ傾婦の媚ヲ仮    才丸「虚栗」

 三味線の皮のうき名や猫の恋   木導「草苅笛」
 よし原やたばこも入らず猫の恋  許六「渡鳥集」
 うつつなや主も見知らず猫の恋  東以「俳諧猿舞師」
 十二支にもれてや侘る猫のこひ  種文「俳諧猿舞師」

 恋に迷う。

 ふみ分て雪にまよふや猫の恋   千代女
 行衛なき恋に疲や船の猫     擧桃「花の雲」
 うき恋にたえてや猫の盗喰    支考「続猿蓑」
 麦めしにやつるゝ恋か猫の妻    芭蕉「猿蓑」
 痩る程恋する猫や夜の雨     貴和「北國曲」
 鞠それて妻乞猫の行衛なし    沾竹「千鳥掛」
 猫の五器あはびの貝や片おもひ  秀和「其袋」

 若衆には化る知恵なし猫の恋   支考「草苅笛」
 何をがな妻乞猫に喰すべき    重行「俳諧勧進牒」
 縁遠き俎箸疵や猫のつま     貞喜「庵桜」

 喧嘩する。

 うき友にかまれて猫の空ながめ  去来「猿蓑」
 にくまれてたはれありくや尾切猫 芦本「皮籠摺」
 美尾谷が錣(しころ)になくや猫の恋 卷耳「北國曲」

 いがみあふ中にうき名や猫の妻  舎六「渡鳥集」

 懐旧。

 懐旧や雨夜ふけ行猫の恋     千那「鎌倉街道」
 ははき木の我が影法師や猫の恋  斗曲「北國曲」

 邪魔される。

 手をあげてうたれぬ猫の夫かな  智月「卯辰集」
 のら猫の恋ははかなし石つぶて  等年「西國曲」
 雨だれの水さされてや猫の恋   化光「北國曲」
 うたた寝を取まかれけり猫の恋  里倫「俳諧猿舞師」

 成就。

 朧月猫とちぎるや夜の殿     越闌「正風彦根躰」

 終わり。

 猫の恋やむとき閨の朧月     芭蕉「をのが光」
 うらやまし思ひ切る時猫の恋   越人「猿蓑」
 盗して見かぎられけり猫の妻   乙由「皮籠摺」
 羽二重の膝に飽きてや猫の恋   支考「東華集」
 傾城の生れかはりか猫の妻    木導「韻塞」
 更る夜を水のむ猫の別かな    川支「有磯海」

 声たてぬ時が別れぞ猫の恋  千代女「千代尼句集」
 猫の恋風のおこらぬ斗なり    風国「有磯海」
 こがれ死ためしも聞ず猫の妻   史邦「芭蕉庵小文庫」
 升落し中避る猫の別哉      宗旦「庵桜」

2020年2月22日土曜日

 今日は猫の日ということで、猫の春夏秋冬をつれづれなるままに。

 正月もまだすすくさしねこの恋 露川「菊の香」

 年末に煤払いをしたけど、猫は相変わらず煤臭い。煤のある縁の下や竃などに出入りするせいか。
 映画『男はつらいよ』の寅さんの台詞に「けっこう毛だらけ猫灰だらけ」というのがあるが、昔は猫の煤くささは猫あるあるだったのだろう。

 猫の五器あはびの貝や片おもひ 秀和「其袋」

 五器はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①食物を盛るための蓋ふたつきの椀わん。 → 御器の実み
  ②修行僧や乞食が食べ物を乞うために携える椀。
  ③ 「呉器」に同じ。」

とある。ここでは猫の餌を入れる皿のことであろう。その皿にアワビの貝殻が用いられているので、アワビが片貝なのに掛けて「あはびの貝や片おもひ」となる。アワビの片思いは『万葉集』に起源を持つ。

 伊勢の海人の朝な夕なに潜(かづ)くといふ
     鮑の貝の片思(かたもひ)にして
              よみ人知らず(万葉集)

 猫の恋隣はつらし枳殻垣    里楊「草苅笛」

 「枳殻垣(きこくがき)」はカラタチの垣根で棘がある。
 『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻の二十五句目に、

   隣をかりて車引こむ
 うき人を枳穀垣よりくぐらせん   芭蕉

の句がある。こちらの方が早く、これを猫に置き換えたか。『草苅笛』は元禄十六年刊。

 かげろふの跡をおさへし小猫哉 舟雪「其袋」

 猫の恋が終ればやがて小猫が生まれる。何もないところに飛びついて遊んでいる姿は、陽炎の跡を押えているかのようだ。

 かげろふに長活したる野猫哉  呂風「続有磯海」

 こちらの方は陽炎に老いた猫を取り合わせている。

 子を運ぶ猫の思ひや春の雨   里倫「俳諧猿舞師」

 小猫を雨に濡らさないように運ぶところに母の愛が感じられる。

 山猫の姿見せけり山ざくら   竹童「其便」

 本物のヤマネコではなく、山にいる野良猫だろう。山桜のある所に現れたから山猫か。

   四睡
 海棠に女郎と猫とかぶろ哉   卜宅「其袋」

 『唐書』楊貴妃伝に「此真海棠睡未足耶(これまさに海棠の眠り未だ足らずや」とある。楊貴妃の二日酔いの顔を海棠に喩えたもの。
 遊郭に海棠の花が飾ってあり、そこに女郎と猫とかむろ(遊女の付き人の少女)がそろうと四睡図のようだ。
 四睡図はウィキペディアに「豊干、寒山及び拾得が虎と共に睡る姿が描かれた禅画」とある。猫はこの虎の役になる。
 後の高崇谷の『見立風流四睡』は猫と遊女と二人のかむろが描かれている。

 野等猫のつらよ弥生の河豕の腸 史邦「俳諧猿舞師」

 河豚の腸は白子のことであろう。ふっくらとしている。春の猫の昼寝姿はほっぺたが下がって河豚の白子のようだ。

 ぬれ石に猫の昼寝の暑サ哉   寒蝉「華摘」

 猫は暑さを避けて濡れた石の上で昼寝をする。なかなか賢い。

 猫の子のざれて臥けり蚊屋の裾 史邦「俳諧猿舞師」

 今だと小猫はカーテンの裾で遊んだりする。

 蠅打に猫飛出や膳の下     汶江「俳諧猿舞師」

 ハエを打った音に驚いたのか、膳の下に隠れていた猫が飛び出す。

 はりぬきの猫もしる也今朝の秋 芭蕉「下郷家遺片」

 これは生きた猫ではなく張子の猫だが、朝には露が降りて秋を感じさせる。

 猫の毛の濡て出けり菊の露   岱水「韻塞」

 牡丹に猫はよくあるが、菊に猫の取り合わせもまた秋を感じさせる。

   時雨
 猫狩の中をませたる時雨哉   冶天「ばせをだらひ」

 時雨に猫も狩を中断する。

 そばへけり雪折竹に虎毛猫   水柳「東日記」

 「そばへ」は「そばえる」で戯れること。竹林に虎のようだ。

 かはゆさや雪を負ねてかへる猫 堀江氏妻「有磯海」

 「かはゆし」は可哀相の意味もある。

 猫出して火燵の上のかざり哉  小僧「渡鳥集」

 これは、

 蓬莱の火燵猫の不盡見る朝哉  千門「庵桜」

に似てなくもない。でも、より日常的な感じがする。

 暁や猫かきよせてぬくめどり  百里「俳諧勧進牒」
 友とてや猫もかじけて冬籠り  昌房「俳諧勧進牒」

 「かじけて」はかじかんでという意味。冬の猫は暖かい。湯たんぽがわりになる。

2020年2月21日金曜日

 COVID-19がこのまま広がってゆくと、どうなるのだろうか。一度なおってもまた罹るという情報もあるし、そうなるといつ発症して死ぬかわからない爆弾のようなものを抱えてみんな生きて行くことになるのだろうか。
 死亡率の高かった江戸時代のような生活感覚に戻るのかもしれない。いつ死ぬかわからないから、酔い越しの金は持たずにパーと使ってしまう方がいいのかもしれない。そうなると貯蓄率が下がるかな。
 いつ死ぬかわからないと思うと、やはり人はあまり苦しいことを我慢しなくなるかな。でもある程度は地道に努力しないと今のこの豊かさを維持できないから、効率よく働いて効率よく遊ぶ方向に行かなくてはならない。COVID-19が過労死を防いでくれるなら、案外日本の経済に良い影響を与えるのかもしれない。
 まあ、悲観すればきりがないから、何とか前向きに考えなくちゃね。
 さて、今日は知足編の『俳諧千鳥掛』から猫の句を拾ってみよう。

 鞠それて妻乞猫の行衛なし     沾竹

 鞠に気を逸らされてしまったか。

 壁の穴覗ツ鳴ツねこの恋      氷下

 これも説明の必要はないだろう。

 猫も我におされて鳴な小夜鵆    一邑

 小夜千鳥というと、

 旅寝する須磨の浦路の小夜千鳥
     声こそ袖の浪は掛けけれ
              藤原家隆(千載集)

の歌があり、千鳥の声に涙を流すことを本意とする。「袖の浪は掛けけれ」は袖を濡らす=泣くということの遠まわしな言い方だ。
 この句は小夜千鳥に我も泣くが、猫も押されて鳴かないでほしい、千鳥が逃げてしまうというわけだ。
 付け句のほうで、

   築山のなだれに梅を植かけて
 あそぶ子猫の春に逢つつ      知足

 雪崩が起こるような築山って、どんなけ大きな築山なのだろうか。
 ちなみに新宿区戸山の戸山公園には標高は44.6mの「箱根山」があるが、これは元々は尾張藩徳川家の下屋敷の築山だったという。
 雪崩といえば雪解け、小猫が遊ぶ。

   天井は生てはたらく古法眼
 翠簾のうちから猫の穿鑿      路通

 「翠簾(すいれん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 みどり色のすだれ。立派に飾られたすだれ。あおすだれ。《季・夏》
 ※菅家文草(900頃)五・冬夜呈同宿諸侍中「幸得二高躋一臥二九霞一、通宵守禦翠簾斜」
 ※太平記(14C後)一三「翠簾(スイレン)几帳を引落して残る処無く捜けり」

とある。
 前句の「古法眼」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 父子ともに法眼に補せられた時、その区別をするために父をさしていう称。特に狩野元信をいう。
 ※俳諧・信徳十百韻(1675)「机の朱筆月ぞ照そふ 古法眼したふながれの末の秋」

とある。狩野元信が天井画を制作していたのだろうか。それを猫が何事かと覗き見する。先の「壁の穴覗ツ鳴ツ」の句もあったが、猫の覗き見をネタにしている。猫は見ていた。

2020年2月20日木曜日

 さて、今年ももうすぐ猫の日がやってくる。今年は令和二年の二月二十二日で、にゃんが四つ重なる。去年買い足した本もあるので、そこから少し猫の句を拾ってみよう。
 まず其角編の『虚栗』(天和三年刊)から。

   女にかはりて
 なれも恋猫に伽羅焼てうかれけり  嵐雪

 「なれ」は二人称のくだけた言い方で、ここでは猫に話しかけている。「あんたも恋してんのかい?」といったところか。
 伽羅は良質の沈香で、自分だけでなく猫にも伽羅を焚いてやり、恋のうきうきした気分に浸っている。
 男が女に成り代わって詠むのは、演歌で言う「女唄」のようなものか。

 愛あまる猫ハ傾婦の媚ヲ仮     才丸

 愛想のいい猫は傾城の遊女のように媚びている。

 恋守や猫こさじとは箱根山     東順

 東順は其角の父。
 恋守は恋の関所を守るもののことか。「猫こさじ」は、

 君をおきてあだし心をわがもたば
     末の松山波もこえなむ
                東歌(古今集)

の歌によるもので、多賀城にある末の松山は貞観地震の大津波も越えなかったということで、ありえないことの例えとして用いる。
 それを踏まえるなら猫が箱根山を越すことはない、という意味だが、「こさじとは」という語尾だと、

 契りきなかたみに袖をしぼりつつ
     末の松山波こさじとは
                清原元輔(後拾遺集)

の方になり、ありえないことが起きてしまったことになる。
 越しがたい恋の関所も時に越えてしまうことは起こりうる。

 寒食や竃下に猫の目を怪しむ    其角

 「寒食(かんしょく)」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「中国において,火の使用を禁じたため,あらかじめ用意した冷たい物を食べる風習。〈かんじき〉とも読む。冬至後105日目を寒食節と呼び,前後2日もしくは3日間,寒食した。この寒食禁火の風習は古来,介子推(かいしすい)の伝説(晋の文公の功臣。その焼死をいたんで,一日,火の使用を禁じた)と結びつけられるが,起源は,(1)古代の改火儀礼(新しい火の陽火で春の陽気を招く),(2)火災防止(暴風雨の多い季節がら)などが考えられている。」

とある。「竃下」の読みは「そうか」か。使ってない竃の中は猫が暖を取るのにちょうど良い。

 猫にくはれしを蛬の妻はすだくらん 其角

 「蛬」はコオロギのこと。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、

 「竃馬 いとど、こほろぎ二名一物。この部「蟋蟀」の条に註す。」

とあり、カマドウマはコオロギのことだとしている。だか一方で、

「蟋蟀(きりぎりす)[大和本草]本草四十一巻、竃馬の附録にのす。一名蟋蟀(しっしゅつ)、又蛬(きゃう)といふ。」

ともある。蛬という字を当てているところを見ると、ここではコオロギと考えた方が良さそうだ。
 「すだく」は鳴くことで、夫が猫に食われてしまったからコオロギの妻は鳴いて(泣いて)いるのだろうか、という意味になる。実際に鳴いているのはオスの方だが。
 なお、猫とは関係ないが、改夏のところに、

 忍び音や連歌ぬす人子規      翠紅

という句があった。この前読んだ「守武独吟俳諧百韻」の五十八句目、

   法楽は一むら雨をさはりにて
 連歌まぎるる山ほととぎす     守武

にちょっと似ている。

2020年2月19日水曜日

 今日は旧暦一月の二十六日。もうすぐ二月如月令月。河津桜もいたるところで満開になり、春だなあ。
 マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル、2018、講談社)もようやく読み終わった。これで「天才王子の赤字国家再生術」(鳥羽徹、GA文庫)の続きが読める。
 最後のほうはテレビの話が多く、さすがにドイツのテレビの話題には付いていけず、斜めに読み飛ばすことになった。テレビお宅なのかな。
 そういうわけで、昨日の補足でこの哲学談義を終わりにしようと思う。

 自分探しの宗教論がなぜおかしいかというと、簡単に言えば「自分とは何か」という問いにたった一つの答を要求するのであれば、それを「一つの世界」に位置づけなくてはならないからだ。そこに否定した「世界」に替る言葉として「精神(霊)」という言葉を登場させている。(そういえばテレビジョンは本来は霊視のことだったと確かデリダが言っていたと思ったが。)
 一つの世界が存在せず、無数の意味の場が存在するのであれば、「自分とは何か」の答えもそれぞれの意味の場の中に無数に存在する。
 意味の場の多様性は生活空間の多様性と言ってもいい。
 人は一人で生きているのではない。家庭や職場・学校、地域社会、趣味の場、宗教、そして友人などともに生きている。これらはほぼ無限に細分化している。
 例えば家庭といっても夫婦の間柄もあれば親子や兄弟の関係もあり、遠い親戚との稀な交流もある。
 職場は会社員であれば一企業に所属し、その中でも部署に所属し、そこでは上司や部下の上下関係もあれば同僚との関係もある。さらに他の部署との関係や取引先との関係もある。労働組合のある会社だと、そこでの上下関係もあれば同志の関係もある。また、企業は広く業界に所属し、業界は経済界全体のなかにある。
 地域社会も隣近所から町内会や団地の自治会、市町村から国家にに至るまで様々な区分がある。国家を超えたNGOに参加する場合もある。
 最終的には地球市民の立場というのもあるが、これはほとんど「一つの世界」と変わらない。つまりただ抽象的に存在しているだけで実在しない。
 趣味の場は今はネット上のコミュニティーが多いが、それ以外にもスポーツチームに入ったりカルチャー教室に通ったり、様々なサークル活動もあるし、芸能人のファンクラブなどもある。
 宗教ももちろんいろいろある。結婚式は神前かキリスト教会が多いけど、なぜか死ぬと仏教式の葬式を行うことが多い。新興宗教に所属する人とはあまり深く係わりたくはない。
 友人はこうした組織とは無関係に独自な人間関係を構成する。
 「自分とは何か」はこうした異なる様々な所属集団の中で様々に規定することができよう。どれに重点を置くかも人それぞれだし、こうして誰でもたくさんの顔を持っている。答えは無数にある。一つに限定することなど凡そ不可能だ。
 それでも一つの答を探そうと思ったとき、人は旅に出たりする。あるいは山に籠るか。
 もっとも、昔の人は決して「自分を探す」ために山に籠ったのではないし旅に出たのでもない。「遁世」は世間のわずらわしさから遁れるためのもので、古典の中に自分探しの痕跡を見つけることは難しい。「自分探し」は近代でもかなり最近のものではないかと思う。多分西洋でもそうだと思う。それこそキルケゴールあたりから始まっているのではないか。
 今日の引き籠りも、そのほとんどは特に自分探しとかそういうものではないと思う。自室に引き籠ってもネット上ではいくつものハンドルネームを使い分けて、たくさんの自分を演じてたりする。
 多様な世界に所属するというのは、一種の保険のようなもので、一つの世界が駄目でもほかの世界に逃げ場を作ることができる。だから基本的に人は統一力ならぬ「分裂力」というのが具わっているのではないかと思う。
 これに対し、たった一つの意味を求めるというのは、あくまで世界が一つであることを前提としたもので、「世界は存在しない」というテーゼと矛盾する。
 一つの世界像を信仰するのがフェティシズムなら、一つの自分の探求も自分フェチといわざるを得ない。
 芸術は自分の知らない多様な見方を見せてくれるという意味で、多様であることに意味がある。一つの芸術、唯一の美などというものは存在しない。それは世界が存在しないのと一緒だ。
 いろいろな芸術に興味を持つのは良いことだが、これだけ広い世界に多種多様な芸術があると、さすがにすべてに首を突っ込むなんてことはできない。
 だからドイツのテレビについてはご勘弁願おう。私もガブちゃんに俳諧を読めというつもりはないし。一人の人間には限界がある。だから世の中には多種多様な、時として相反する人もいなくてはならない。それを認め合うことで、ともに民主主義の価値観を共有することができると思う。
 まあ、私も一応大学では哲学を専攻してたし、卒論はハイデッガーで書いた。久しぶりに哲学というのを楽しませてもらったことに感謝したい。

2020年2月18日火曜日

 さて、マルクス・ガブリエルの『世界はなぜ存在しないか』に戻るが、
 一つの世界が存在せず、多種多様な無数に存在する意味の場があるだけだというのはわかった。
 このような場所では絶対的真理は存在せず、科学といえども仮説の体系で、真理の近似値にすぎないということは既に多くの科学者が認めていることだ。
 ただ、このあとこの本には唐突に「精神」なるものが登場する。特にキルケゴールに言及する辺りから、宗教=精神、科学=肉体といった古典的二元論が復活する。ほとんど絶望的なまでの先祖帰りだ。まあ、ものがキルケゴールだけに絶望というわけか。
 これが何かに似ていると思ったが、思い当たるのはカントの『純粋理性批判』から『実践理性批判』への転換だ。
 『純粋理性批判』では純粋な認識論の議論から「物自体」を退けるが、『実践理性批判』では倫理的要請というほとんどキリスト教の既存の権威へ忖度した形で物自体が復活する。マルクス・ガブリエルもこの類か。
 特定の世界像に執着する宗教はフェティシズムだと言うのはわかる。ただ、それに対抗するように持ち出されたのが自己の探求だが、これは自己という対象に執着するもので、フェティシズムというよりはオナニズムの匂いがぷんぷんする。
 我々の神道は教義も戒律もない宗教で、未知のものに満ち溢れた自然の道を探求する。そこにはフェティシズムもないしオナニズムもない。こちらの方が真の宗教なのではないかと思う。

 「宗教の意味は、わたしたち人間の有限性を認めるところに見て取ることができます。」no.3428

というのは理解できる。ただそのあとの、

 「宗教は、まず最大限の距たりの立場をとってから人間へと回帰してきます。人間は神に取り組むことによって、精神の歴史という冒険に乗り出したのでした。」no.3431

との間には何の必然性もない。
 人間の有限性はどこにでもある。たとえばある楽曲に感動した時は、それを理屈で説明することができない。その曲は神なのである。アニメには神回があるし、様々な技芸にはそれぞれの神業がある。神は至る所に存在する。最大限の距たりを求めなくても、いつでも身近に神は神っている。それに取り組むのに精神の歴史は何ら必然的なものではない。それはいつでも日常の中の溶け込んでいるからだ。

 「むしろ本質的には宗教で問題となるのは人間であり、そのつど意味の連関の中での人間の位置づけです。」no.3450

と言うが、連関の中に人間を位置づけてしまったら、それ自身が「世界」を復活させているのではないかと思う。連関を作るのではなく、自然をあるがままにしておくことが真の宗教なのではないかと思う。
 意味もまた多種多様な意味の場をあるがままにしておくことが大事で(そして異なる意味の場へ軽やかにジャンプして遊んだりして)、そこに思惟的な意味の連関を作る行為は自然に反する。
 大事なのは自分自身が何であるかを理解することではなく、自分自身であることを感じられるかどうかだ。

 芸術の意味についてはこれまで、私自身の考えは鈴呂屋俳話の中で述べてきた。
 マルクス・ガブリエルはこう言う。

 「わたしたちが美術館に行くのは、美術館では、あらゆるものにたいして違った見方をするという経験ができるからです。」p.3464

 これは芸術は石頭にならないために必要だとする筆者の考えに似ている。ただ、

 「じっさい美術館では、受動的な観察者のままでは何も理解できません。訳のわからない、無意味にすら見える芸術作品を解釈することに努めなければなりません。」no.3467

というのは、芸術の専門家を目指す人以外には不要ではないかと思う。無理に理解しようとしても、大概は故事付けのようなどうでもいい理屈を拵えるだけで、本当の感動はやはり作品の方から自分の方に飛び込んでくるものだと思う。それこそ雷に打たれたように。
 そうは言いながらも一見何の意味があるのかチンプンカンプンな江戸時代の俳諧なんかを読んでいる自分は、無意味にすら見える芸術作品を解釈することに努めているといえばそう言えなくもないが。

 「芸術の意味は、わたしたちを意味に直面させることにあります。」p.3473

 これは自分自身が慣れ親しんでいる意味の場に対して、異なる意味の場に出会うということではないかと思う。自分の知っているものをそのまま追認しても何の発見もない。
 文学において実在の芸術と虚構の芸術を議論することは、俳諧での虚実の論にも近いかもしれない。もちろん虚の芸術と実の芸術があるのではない。それは俳諧に不易体と流行体のようなものがはっきりと区別できないのと同じだ。
 マルクス・ガブリエルはスタンリー・カヴェルというアメリカの哲学者の言葉を引用している。そのなかに、

 「実在性という価値にたいするわたしたちの確固たる信念は、幻想を通じてこそ打ち立てられる。幻想を放棄するということは、この世界との接触を放棄するということである。」no.3528-3531

とあるが、どこか支考の「虚において実を行う」と髣髴させる。

2020年2月17日月曜日

 マルクス・ガブリエルはちょっと誤解しているようだが、科学は一つの世界を作ろうとしているのではない。ただ仮説と検証のくり返しで真理の近似値を得ようというだけのものだ。
 宇宙を量子の集まりに還元したり、三次元空間+時間をもっと多くの字弦の一部にしようとするにしても、人間の意識を脳の働きだとしたにしても、日常的な経験の世界を否定するものではないし、その背後を語っているのでもない。ただ、日常的に経験している世界のより良い説明を探求しているだけだと思う。
 科学は決して統一されて一つの世界を形作っているのではない。実際に相対性理論と量子力学と熱力学を統一する理論がないのが何よりもそれを証明している。科学は個々に発見された法則の集合にすぎず、それが相互に結びつきながら大きな体系を作っていても、すべてが統一されているわけではない。
 まして、検証困難な分野では今だに複数の仮説が共存している。これも「一つの世界」に反する。
 科学は世界を捉えるための網のようなもので、その網は一つではないし、その網から漏れているものもたくさんある。科学は完全ではないが、きちんと検証された知識は間違いなく役に立つ。むしろ永遠に不完全で永遠に未完成であるのが科学だ。いきなり超越を持ち出して完全な一つの世界を仮定する形而上学とは一緒くたに出来ない。
 だから科学は一つの意味の場を構成はするものの、他の意味の場を否定することはない。
 ただ、科学万能主義となると当然そこには弊害が出てくる。未完成なのが科学なのに、それを完全なものと勘違いするなら、それは間違っていると言わねばならない。
 科学万能主義の弊害は、まさに今のこのCOVIT-19ががそうなのではないか。
 科学は仮説検証のくり返しだが、検証されないものについては「わからない」が正しいのだが、科学万能主義者は「ない」とみなす。
 今回のCOVIT-19では世界的に検査キットが不足している。
 ダイアモンド・プリンセス号でも、五人の検査官で一日百人程度の検査がやっとだったため、検査の速度が感染の速度に追いつかなかった。
 これは日本の縮図でもあるし、世界の縮図でもある。2019-nCoVの検査を受けられた幸運な人はほんのわずかしかいない。公表されている感染者数はその中のさらに一部にすぎない。それこそ宝くじに当たるようなものだ。
 WHOも政府もこれを唯一科学的な数字とみなし、それを基に未だ流行していない、安全だを繰り返している。
 感染していながら未だに検査を受けていない人や、検査を受ける前に死んでしまった人がどれ程いようとも、彼等からすればそれは魔女や雪男や宇宙人と同じだ。「観測されてない以上、存在しない」というわけだ。
 間違えてはいけない。観測されてないものは「わからない」のであって「存在しない」のではない。
 科学が完全でないからといって、科学に対して精神が完全な世界として存在することもない。
 意味は個々の人間にとっての意味にすぎず、それが不断の会話によって用例を積み重ねることで一般的な意味を生じるにしても、意味はただ個々においてしか現れない。
 科学は仮説検証のくり返しによって真理を得ようとする者同士で情報交換する中で生じた経験の蓄積であって、科学の体系そのものが世界なのではない。ただ蓄積された経験が各自にとって一つの意味の場を作るにすぎない。
 科学の受け止め方は決して万人にとって等しいわけではない。それでも会話の蓄積によってある程度の一般的な意味の場を形成することが出来る。
 構築主義の間違いは、こうした一般的な意味の場があたかも個人的な意味を超えて存在しているかのように錯覚しているところにある。
 芸術作品の感動は芸術自体に内在する精神によるものではなく、あくまで個々の大事な記憶や体験が引き出されることによって生じる。そして、そこに何らかの普遍的な傾向があるとしたら、それに対して進化によって獲得された何かを仮説として立てることはできる。
 宗教に関してもフェティシズムは一神教の論理であり、多神教の根底にあるのは「わからない」ということで、「わからないもの」が存在することによって自らの無知を知り、人智の限界を知る。
 「わからないもの」があるからこそ、人はそれを問い、仮説を立て、検証を繰り返す。こうしてわかるものを増やして行くのだが、それでもまだわからないものがあるということで、科学は進歩し続けることが出来る。科学が万能なら、もはやそれ以上進歩はない。

2020年2月16日日曜日

 ファン・エイク兄弟の一四三二年に描かれた『ヘントの祭壇画』をテレビでやっていたが、面白いのは羊と聖霊の化身の鳩のところに阿弥陀如来のような放射光背が描かれているところだ。上段の父なる神、聖母マリア、洗礼者ヨハネにもやはり放射光背が描かれている。こういう旭日旗的な発想はヨーロッパにもあったんだなと思った。さすがに徐坰徳教授もこれにクレームをつけることはないだろうけど。

 第三章「なぜ世界は存在しないのか」で展開される、世界と意味の場との無限に続く入れ子構造は昔からわかってたことで、正岡子規も明治二十九年に『松蘿玉液』の中でこのように述べている。

 「〇宇宙 はわれにあり。方丈の中に八万四千の大衆を容れて息の出来ぬほどに窮屈にもあらず。まだ八万由旬の蓮台も仏もはひるべき余地あり。さりとて入れ物がおおきくなりたるにはあらではひる物が小さくなりたらんかし。一たびわが頭脳中に縮めたる宇宙を頭脳の外に投げ出せば宇宙は再び無量際にまでひろがりぬ、さてやわが頭脳を取りてこの宇宙に置けばこれはまた頭脳の小ささよ。おもしろきものは相対なり煩悩なり、つまらぬものは絶対なり悟りなり。

 出て見れば春の風吹く戸口かな」(『松蘿玉液』正岡子規、一九八四、岩波文庫、p.15)

 ここでは世界ではなく宇宙という言葉が用いられている。
 世界が人間の主観的な意味の場において存在するということは、世界が脳の中にある事を意味する。意味を考えるのは脳だからだ。その脳は世界の中にあるのだから、世界は脳の中にあり、その脳は世界の中にあり、その世界はまた脳の中にあるという無限遡及に陥ってしまう。それゆえ世界は意味の場には存在しないということになる。
 子規にしてみれば、世界を対象領域とする哲学は相対的なものであり煩悩に過ぎなかった。絶対だとか悟りだとかはつまらない。
 意味の場は複数あり、存在はその複数の、おそらく無数に存在する意味の場の中で存在するとも言われれば存在しないとも言われる。
 たとえば魔女はゲーテの『ファウスト』や竜騎士07の『うみねこのなく頃に』の世界の中では存在するが、現実の世界の中では存在しない(もっとも、宇宙の隅々まで探したわけではないが)。存在するかしないかは意味の場によって異なる。
 物理学的な世界も一つの意味の場だし、脳科学の世界も一つの意味の場になる。そこでは例えば日常的な感覚として存在しているものが実は存在しなかったり、ということも起こる。
 意味の場は一人一人の記憶の中でも独自なものが形成されているから、ある人にとってかけがえのない重要な意味を持つものでも他の人にとってはほとんど無意味だということもある。
 意味の場は無数に存在し、多元的世界を構成する。こうした考え方は多神教の風土に育った私にとっては、西洋近代哲学の考え方よりもわかりやすい。この世界全体の中で自分の存在が一体何なのかなんて問いは、正直ピンと来ない。だからそんな世界なんてないんだと言ってくれるのは嬉しい。
 連歌や俳諧の取り成しも、一種の意味論の場の移動と考えればいいのではないかと思う。たとえば「日の春を」の巻の九十六句目、

   足引の廬山に泊るさびしさよ
 千声となふる観音の御名    其角

の句は白楽天の『琵琶行』の意味の場だった前句を、当時の現実の京都の意味の場に移動させている。

2020年2月15日土曜日

 今日は哲学の話でもしようかな。
 というのも最近一部で話題になっているらしいマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル、2018、講談社)を読み始めたからだ。
 まあ、世界がなぜ存在しないのかというと、これは私自身の結論とも似ている。つまり「一つの世界(唯一にして絶対の世界)は存在しない」ということだ。
 言うまでもなく世界はそこに存在している。ただ、「世界」という言葉が意味するものは多種多様だ。
 「世界地図」という時の世界は地球の表面のことで、月や太陽は含まれないし、マントルやコアも含まれない。
 「世界記録」という時の世界は基本的に人間のことで、宇宙人は想定されてないし、他の動物の記録も除外されている。
 「世界観」という時の世界は、この世界に対する見方に限定されず、創作の中の異世界の世界観も含まれる。
 古語で「世(よ)」といった場合は、前世や後世も含まれるし、男女の仲だけを限定して言う場合もある。連歌の式目『応安新式』には、

 「世(只一、浮世世中の間に一、恋世一、前世後世などに一)」

とある。世界という意味での「世」、「世間」という意味での「世」、男女の仲という意味の「世」、前世来世などの「世」という四つに分類されている。
 また仏教で「世界」というと「三千世界」というのがあって、無数の並行する世界が想定されている。ウィキペディアには「三千大千世界」が本来の言い方で、

 「仏教の世界観では、須弥山を中心として日・月・四大州・六欲天・梵天などを含む世界を一世界とし、一世界が1,000個集まったものを小千世界といい、小千世界が1,000個集まったものを中千世界といい、中千世界が1,000個集まったものを大千世界という。大千世界を三千大千世界ともいう。略して三千世界といい、三界、三千界ともいう。」

 マルクス・ガブリエルが「世界は存在しない」という時の世界はこうした多様な世界ではなく、唯一絶対の世界のことをいう。『なぜ世界は存在しないか』のなかで、はっきりとこう書いている。

 「この問いにたいするわたし自身の答えは、最終的には次のような主張に行き着くことになるでしょう。たったひとつの世界なるものなど存在せず、むしろ無限に数多くのもろもろの世界だけが存在している。そして、それらもろもろの世界は、いかなる観点でも部分的には互いに独立しているし、また部分的には重なり合うこともある、と。」(kindle版no.1333-1336)

 もっと正確に言えば「世界は存在するとも言えるし存在しないとも言えてカント的なアンチノミーに陥る」と言った方がいいのかもしれない。
 「世界が存在しない」というのは何を帰結するかというと、結局は戦後に起こった哲学の終焉を追認することになる。というのも哲学者達が共通の対象領域とするような「世界」は存在しないからだ。
 世界に付いての解釈は、様々な世界のそれぞれの解釈にすぎず、そこに唯一の理論というのは存在できない。つまり絶対的な知としての形而上学は成立しない。ただ個々のMy哲学があるにすぎない。
 余談だが、

 「大量殺戮兵器はアメリカ合衆国に存在しているのであって、(わたしの知るかぎり)ルクセンブルクに存在しているのではない。」(kindle版no.293)

は私だったら「アメリカや中国やロシアなどに存在しているのであって」と書くところだ。普通はそうだろう。

2020年2月13日木曜日

 今日は午前中は雨が降ったが、昼頃から日が射してくると一気に暖かくなった。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。挙句まで。

 名残裏。
 九十三句目。

   今年十六身にやしむらん
 乙女子をとらへてとへば秋の暮 守武

 十六歳は今だったらロリだが室町時代にはやや行き遅れの年齢。当時は十三歳くらいが結婚適齢期だった。十六でもはや秋の暮。
 九十四句目。

   乙女子をとらへてとへば秋の暮
 盗人なりとながめやるそら   守武

 宗鑑編の『新撰犬筑波集』に、

   きりたくもありきりたくもなし
 盗人を捕らえて見れば我が子なり

の句があり、似ている。『新撰犬筑波集』はウィキペディアには「大永四年(一五二四年)以降の成立」とあるから、読んだ可能性はある。
 ただここでは我が子とは限らない。ただ、意外な犯人というネタか。
 『連歌俳諧集』の注は『伊勢物語』六段や十二段の略奪婚のととする。この場合は恋になる。
 九十五句目。

   盗人なりとながめやるそら
 物をなど雲のはたての取りぬらん 守武

 「雲の果たて」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《「くものはだて」とも》
 1 雲の果て。空の果て。
「都をば天つ空とも聞かざりき何眺むらむ―を」〈新古今・羇旅〉
 2 《「はたて」を「旗手」の意に解して》雲のたなびくさまを旗がなびくのに見立てていう語。
 「吹く風に―はとどむともいかが頼まむ人の心は」〈拾遺・恋四〉
 [補説]書名別項。→雲の涯(はたて)」

とある。
 この場合の「物」は心とか魂とかの意味で、空の果てを眺めていると心が盗まれてゆくようだという意味。

 夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふ
      天つ空なる人を恋ふとて
            よみ人知らず(古今集)
 都をば天つ空とも聞かざりき
     何ながむらむ雲のはたてを
             宜秋門院丹後(新古今集)

のように、雲の果たては恋にも羇旅にも詠む。
 九十六句目。

   物をなど雲のはたての取りぬらん
 あらあらにくのことやささがに 守武

 物を取ったのは雲ではなくささがに(蜘蛛)だった。とんだ「くも」違い。
 「あらあらにく」は「あらあら憎き」の略。平安時代から形容詞の終止語尾は口語では省略される。今日でも「やばっ」「きもっ」「ちかっ」など口語ではしばしば語尾の「い」を省略する。
 九十七句目。

   あらあらにくのことやささがに
 かり初も毒をのみてはいたづらに 守武

 日本の毒蜘蛛の多くは外来種だが、在来種でもカバキコマチグモのような毒蜘蛛がいる。今日では刺されても死ぬことはないが、昔はどうだったかはわからない。
 九十八句目。

   かり初も毒をのみてはいたづらに
 金のはくは薄やたづねよ    守武

 「金(こがね)のはく」は金箔。薄やは薄屋でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 金・銀などの箔を製造し、または販売する人。また、その店。箔打ち。〔日葡辞書(1603‐04)〕
 ※俳諧・誹諧独吟集(1666)上「かり初も毒をのみてはいたづらに 金のはくは薄屋たづねよ」

とある。この守武独吟は重徳編『俳諧独吟集』(寛文六年刊)にも収められている。
 金箔は今日でも食品に用いられるが、昔は銅の混じった純度の低い金が多く、これを飲むと中毒を起す。
 九十九句目。

   金のはくは薄やたづねよ
 とがするは花見のはれの腰刀  守武

 江戸時代の俳諧に描かれる庶民の花見ではなく、宮廷や大名クラスの花見であろう。腰の刀はきれいに研ぎなおし、鞘には金箔を貼って箔を付けたいものだ。
 江戸時代になると花見は庶民のもので、武士はそういう所に行くものではないとされていたが、そうはいっても庶民の花見に混ざるものはいた。ただ、刀を挿していると浮いてしまう。

 何事ぞ花みる人の長刀     去来

ということになる。
 挙句。

   とがするは花見のはれの腰刀
 御幸と春やあひにあひざめ   守武

 刀を研がせるのは御幸で御門を警護するためだった。御幸に春と目出度さが重なって、「逢いに逢い」ということだが、それを最後に刀の鞘に用いられる「藍鮫」と掛けて落ちにする。
 藍鮫は漢字ペディアに、

 「①ツノザメ科の海魚の総称。関東以南の深海にすむ。全長約一(メートル)。体は淡褐色。肉は練り製品の原料。
  ②濃い青色をおびたさめ皮。刀の鞘(さや)を巻くのに用いる。」

とある。

2020年2月12日水曜日

 新型肺炎だとか新型コロナウイルス感染症だとか、名前を変えてきたが一応COVID-19という名前に決定したという。ウイルスの名前は2019-nCoVで、これは2019年のNovel coronavirusの略だとするとCOVID-19は、coronavirus infectious disease-2019の略ということでいいのかな。
 「肺炎」という文字が消えているのが気になる。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 八十五句目。

   こひしき人にまゐらせにけり
 物思ふ宿よりおくの持仏堂    守武

 前句の「まゐらせにけり」をお参りさせるの意味に取り成す。
 持仏堂はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「朝夕その人が信仰し礼拝する仏像(念持仏,持仏)を安置しておく建物,または部屋。江戸中期以後,一般化した在家の仏間や仏檀はこの変形である。」

とある。宿の奥の持仏堂に恋しき人を招き入れる。
 八十六句目。

   物思ふ宿よりおくの持仏堂
 見えし姿やさらに花皿      守武

 花皿はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、花籠(けこ)に同じとあり、花籠(けこ)は、

 「法要のとき、散華(さんげ)に用いる花を盛る器。竹を編んで作ったもののほか、透かし彫りを施した金属製のものなどがある。はなざら。はなかご。」

とある。
 花皿は松永貞徳の『俳諧御傘』では、「春也、正花也。植物也、尺教也」とあるが、ここでは九十九句目に花の句があるので正花にはなっていないし、春にもなっていない。前の五句、後の五句に植物がないから植物として扱われていた可能性はある。また、前句に持仏堂、後の句に坊主があるから釈教にはなっている。
 八十七句目。

   見えし姿やさらに花皿
 山水にうつろひぬるは坊主にて 守武

 これは河童だろう。本当は坊主だけど水に映る姿はさながら頭に皿のある河童のようだ。
 八十八句目。

   山水にうつろひぬるは坊主にて
 いかに涼しきはげがやすらひ  守武

 山水の景色があれば隠遁の僧侶のようにも見えるが、実はただの禿。
 八十九句目。

   いかに涼しきはげがやすらひ
 ま木の戸やよるはすがらに光るらん 守武

 真木は杉や檜などの針葉樹を指す。ここでは戸の材料なので植物にはならない。
 「よるはすがらに」は「夜もすがら」のこと。
 木戸に寄りかかると涼しいが、そのため夜もすがら真木の戸が光っていると、「光は親父の禿頭」みたいな何とも素朴なネタだ。
 九十句目。

   ま木の戸やよるはすがらに光るらん
 夢に源氏のみゆる手まくら   守武

 光の縁から源氏だが、光源氏の「光」に由来は「桐壺」巻には二つある。一つは、

 「世にたぐひなしとみたてまつり給ひ、名だかうおはする宮の御(み)かたちにも、なほにほはしさはたとへんかたなくうつくしげなるを、世のひとひかる君と聞ゆ。」
 (世に類を見ないと言われている名高い東宮様の立派な姿と比べても、なお何とも例えようもない雰囲気を持つ源氏の君の美しさに、宮中の人たちは「光る君」と呼びました。)

で、もう一つは「桐壺」巻の最後の、

 「ひかるきみといふ名は、こまうどのめできこえてつけたてまつりけるとぞ、いひつたへたるとなん。」
 (一説には、「光君(ひかるきみ)」という名は、かつての渤海の使節が最初に賞賛の意味でつけたとも言われてます。)

という説明だ。
 光源氏の夢だから夜通し光って見える。
 九十一句目。

   夢に源氏のみゆる手まくら
 篤盛のうらみも薄く月更けて  守武

 前句の源氏を平家の宿敵の源氏とする。篤盛は敦盛のこと。
 謡曲『敦盛』のラストであろう。夢に源氏との軍を回顧しながら、最後は成仏してゆく。
 九十二句目。

   篤盛のうらみも薄く月更けて
 今年十六身にやしむらん    守武

 敦盛が一ノ谷の戦いで戦死した。享年十七歳。十六になった若者にとっては、こんな早く死んだのかと身に染みる思いだ。

2020年2月11日火曜日

 今日は生田緑地の梅林を見に行った。早咲きの梅は見頃になっていたが、まだ咲いてない木も多かった。そのあと水餃子鍋を食べ、ホットビールを飲んだ。

 結局日本でも中国でも政治家や活動家というのは、感染症の脅威よりも民衆の方を恐れている。
 だから正しい情報を与えずに、ただ「安全だ」をくりかえし、デマやヘイトに過剰に反応する。
 ただ、危機管理には常に最悪の状況を想定することも必要だ。ネット上でそれを話し合うことに罪はない。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 名残表。
 七十九句目。

   月の輪とふやかすかなるらん
 小車が吹きやられたる秋の風   守武

 「小車(をぐるま)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 小さな車。また、車、特に牛車(ぎっしゃ)をいう。
「思ひまはせば―のわづかなりける憂き世かな」〈閑吟集〉
  2 キク科の多年草。湿地に生え、高さ30~60センチ。地下茎で繁殖。葉は互生し、堅い。夏から秋、黄色い頭状花を開く。のぐるま。かまつぼぐさ。《季 秋》「―や何菊と名の付くべきを/越人」

とある。牛車はウィキペディアには、

 「武家が政権を取った鎌倉・室町時代には、牛車に乗る権利を持つ従五位以上の官位を持つ武家衆も多く現れたが、実際に牛車を使ったのは将軍家のみである。応仁の乱以後には貴族のあいだでも牛車は廃れて消滅してしまうが、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が聚楽第行幸に際して牛車を新調した。」

とあり、守武の時代には既に廃れていたようだ。ここでは植物の方であろう。「さくら」とは二句去りだが、木類と草類で違えている。『応安新式』では「木に草 虫与鳥 鳥与獣(如此動物)」は可隔三句物だが、ここは牛車のこととも取れてダブルミーニングだから良しとするのだろう。
 八句目の月は実質的には夜分の「手習を目さるる人のあは雪に」と二句去りで出しているし、九句目の「下葉散る柳のやうじ秋立ちて」は六句目の「竹」から二句しか去ってない。これも柳ではなく楊枝のことだからということで遁れられる。
 三十六句目の「大蛇」も「たれぞとて百千鳥足踏みいでて」から二句しか隔ててないが、これも「千鳥足」のことだからセーフなのだろう。
 八十句目。

   小車が吹きやられたる秋の風
 ふりたてぬるは鹿牛の角     守武

 小車といっても牛車ではなく野の花だから、鹿も一緒に角を振りたてる。

 草も木も色のちくさにおりかくす
     野山のにしき鹿ぞたちける
                藤原定家(拾遺愚草)

の歌もある。
 八十一句目。

   ふりたてぬるは鹿牛の角
 大日に春日の神のあらそひて   守武

 コトバンクの「世界大百科事典内の大日如来の言及」に、

 「西日本では牛の守護神として大日如来の信仰が盛んであり,その縁日に牛をつれて参拝し,境内の草や樹枝を厩(うまや)にさしたり護符を牛小屋にはるなどの風習も広がった。また,農民は大日講,万人講などを結んで金銭を集め,それによって講員の耕牛を順次購入していく方式なども考えて実行していた。」

とある。
 大日如来の牛と春日大社の鹿が角を突き合わす。前句で「鹿牛」という言葉を考えた時点で、この展開を想定していたか。独吟だとそういうこともある。
 八十二句目。

   大日に春日の神のあらそひて
 ならのみやこや無為になるらん  守武

 奈良の大仏は盧舎那仏だが、密教では大日如来ど同一視されている。
 神と仏が争っていては奈良の都も無為ではすまない。無為(ぶゐ)はこの場合無異(何事もない)の意味。
 当時奈良は戦国大名の筒井順興(筒井順慶の祖父)が治めていたが、この独吟の二年前の享禄元年(一五二八年)、柳本賢治の軍の侵攻に合い薬師寺などが被害を受けた。
 八十三句目。

   ならのみやこや無為になるらん
 銀の目貫の太刀のゆふまぐれ   守武

 『連歌俳諧集』の注に、

 「銀(しろかね)の目貫の太刀をさげ佩きて奈良の都をねるがは誰が子ぞねるは誰が子ぞ」

という神楽歌の採物を引用している。武門の棟梁たる物部氏の総氏神で七支刀を伝える石上(いそのかみ)神宮の祭の歌であろう。
 ならは刀鍛冶が多く住んでいた。ここで作られた刀は奈良刀(ならがたな)と呼ばれる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 中世、大和国(奈良県)奈良に住む刀工の鍛えた刀。近世には主として肥前で鍛造された鈍刀が奈良に移入され、そこで外装されて売り出された。大量生産による粗製の品が多くなったところから、鈍刀のことをもいう。奈良物。〔庭訓往来(1394‐1428頃)〕」

とある。粗悪になったのは江戸時代のことで、守武の時代には質も良かったのだろう。
 前句の神仏の争いから祭で銀の目貫の太刀を佩いて練り歩く平和な姿へと転じる。
 八十四句目。

   銀の目貫の太刀のゆふまぐれ
 こひしき人にまゐらせにけり   守武

 奈良の石上神宮は古くから恋が詠まれている。人麻呂歌集の

 石上布留の神杉神さびて
     恋をも我れはさらにするかも
              (『万葉集』巻十一・一九七二)

をはじめとして、

 石上布留の中道なかなかに
     見ずは恋しと思はましやは
              紀貫之(古今集)

などの歌がある。

2020年2月10日月曜日

 昨日恐れていた通り、ダイアモンド・プリンセス号で今日は新たに66人もの感染が確認された。死者が出ないうちに何とかならないものか。
 香港のワールドドリーム号は四日間で1800人の乗員の検疫を済ませ、残りの1800人の乗客は検疫なしで全員下船させたという。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 七十三句目。

   子どもをつるる山がつの道
 さもこそはかしましからめ峰の寺 守武

 今は少子化の時代だが、昔は子連れというとぞろぞろと何人も率いてたのだろう。さぞかし峰の寺も賑やかになったことだろう。
 七十四句目。

   さもこそはかしましからめ峰の寺
 みみをもつぶせあらましの末   守武

 峰の寺と言っても小さな寺とは限らない。比叡山や高野山のような大寺院もある。修行僧の数も多く、それを束ねる僧侶の人間関係も複雑で、浮世を遁れるはずなのに思いのほか世俗と変わらなかったりする。
 「あらまし」はこうありたいと思う心で、今でいえば「夢」だ。夢がかなって仏道修行に入ったのだが、こんなはずではなかったと思うこともある。とにかく雑音は聞こえないふりをしてやりすごそう。
 七十五句目。

   みみをもつぶせあらましの末
 花ぞさく今は麝香も何かせん   守武

 室町時代といえば香道が盛んになった時代でもあった。珍しい麝香(ムスク)の香りも珍重されたが、花の下では花の香をかぎたいものだ。
 前句の「みみをもつぶせ(雑音は聞くな)」に対して余計な香を嗅ぐなと対句的に付ける相対付けになる。
 七十六句目。

   花ぞさく今は麝香も何かせん
 さくらがもとにただねぶれとよ  守武

 桜の下で眠るというのは、

 朝夕に花待つころは思ひ寝の
     夢のうちにぞ咲きはじめける
              崇徳院(千載集)

の心か。
 中世では花に桜を付けるのは珍しくなかった。湯山三吟の三十八句目にも、

    咲く花もおもはざらめや春の夢
 さくらといへば山風ぞふく    宗長

の句がある。水無瀬三吟の八十一句目は桜に花を付けている。

   小夜もしづかに桜さくかげ
 灯をそむくる花に明けそめて   宗祇

 七十七句目。

   さくらがもとにただねぶれとよ
 春のよのよそ目計は坐禅にて   守武

 桜の咲く春の夜、坐禅をして感心だと思っていたら、よくよく見ると居眠りしていた。
 七十八句目。

   春のよのよそ目計は坐禅にて
 月の輪とふやかすかなるらん   守武

 月の輪は満月のことだが、月輪(がちりん)と読むと、悟りを求める曇りなき心を意味する。
 春だから月は朧で幽かに見えるが、それと同じで春は眠くなる季節で坐禅をしていてもついつい居眠りしてしまい、悟りを求める心も霞んでしまう、となる。

2020年2月9日日曜日

 今日は満月。やはり晴れているけど寒かった。
 新型コロナはエアロゾル感染するということで、やはり今までの日本の対策は甘かったといわざるを得ない。ダイアモンド・プリンセス号の乗客はこのままだと次から次へと感染し発症するだろう。
 約3,700人といわれる乗客全員をすぐに検査をする体制が整ってなかった時点で敗着だったといえよう。100人単位で順番に検査を行ってゆく間に、感染はどんどん広まってゆく。
 ダイアモンド・プリンセスだけではない。日本の病院ではほとんど検査の体制ができてない。診断を受けないまま発症して死んでも、新型コロナの死者としてカウントされないなら、中国の情報をバカにする資格はない。
 まあ、いろいろと嫌な話は多いが、気を取り直して「守武独吟俳諧百韻」の続きと行こう。

 三裏。
 六十五句目。

   さのみにかひをふかずともがな
 思ひ入る風呂の何故せばからし   守武

 これはシモネタ。「貝」をあの意味に取り成す。
 当時は蒸し風呂だったが、この場合狭いというから八瀬の竈風呂だろうか。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「釜風呂とも書く。京都八瀬の名物で,蒸風呂の一種。荒壁で高さ約2mの土饅頭(どまんじゅう)型のものを築き,人が入れる穴蔵を作る。この中で松葉やアオキなどの生枝をたき,灰をかき出したのち湿らせた塩俵等を敷いて,これから出る蒸気が煙を追い出したころ,その上に横たわって蒸気を浴する。」

とある。
 当時は衣服の通気性が悪く、皮膚病になる人が多かったとも言う。
 六十六句目。

   思ひ入る風呂の何故せばからし
 石榴にうらみありとしらるる    守武

 『連歌俳諧集』の注に「ここは風呂の石榴口のことをいった」とある。
 石榴口はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「〔昔、鏡磨きはザクロの実からとった酢を用いたところから、「屈(かが)み入る」を「鏡要る」にかけた洒落〕
江戸時代の銭湯で、洗い場から浴槽への入り口。湯の冷めるのを防ぐため入り口を低く作ってあり、かがんで入るようになっていた。 「道理で-が込だ/滑稽本・浮世風呂 3」

とある。守武の時代にも既にあったか。
 石榴の実が割れる様も、あれを想像させる。
 六十七句目。

   石榴にうらみありとしらるる
 露ばかりのこす茶のこに袖ぬれて  守武

 「茶のこ」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「①茶菓子。茶うけ。点心(てんしん)。 「薩摩いりといふ-を拵(こしらえ)るばかり/滑稽本・浮世風呂 前」
  ②仏事の際の供物や配り物。 「本の母御の十三年忌、-ひとつ配ることか/浄瑠璃・薩摩歌」
  ③彼岸会(ひがんえ)の供物(くもつ)。
  ④農家などで、朝食前に仕事をする時にとる簡単な食べ物。
  ⑤〔① は腹にたまらないことから〕 物事の容易なこと。お茶の子。お茶の子さいさい。
  「常住、きつてのはつての是程の喧嘩は、おちやこの〱-ぞや/浄瑠璃・反魂香」

とある。
 茶うけが先に来た人に食われてしまってほんのちょっとしか残ってなかった。特に石榴が全部食われていたことは恨まれる。
 六十八句目。

   露ばかりのこす茶のこに袖ぬれて
 月みの会の明けわたるそら     守武

 月見の会が夜を徹して行われ、みんな料理をたいらげ、茶のこが少し残っただけだった。
 六十九句目。

   月みの会の明けわたるそら
 大方のねやしならずよ夜はの友   守武

 「ねやし」を『連歌俳諧集』の注は「練し」だとする。weblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「①練ってねばるようにする。こねる。 「暮るるまでおし-・したる御そくいひ/咄本・醒睡笑」
  ②金属を精錬する。 〔名義抄〕」

とある。閨(寝室)と掛けているのかもしれない。
 七十句目。

   大方のねやしならずよ夜はの友
 みだれ碁いそぐらつそくのかげ   守武

 「らつそく」は蝋燭のこと。
 みだれ碁はここでは囲碁の勝敗の読めない乱戦のことか。

 目にも今見る心地して乱れ碁の
     うちも忘れぬ面影は憂し

という古狂歌もある。
 乱碁はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「 碁石を指先につけて拾い取り、その多少によって勝負を争う遊戯。中世の賭博(とばく)によく用いられたもの。らんご。
※新撰菟玖波集(1495)雑「石の上にも世をぞいとへる みたれ碁に我いき死のあるをみて〈心敬〉」

とあるが、この心敬の句も、「いき死」は囲碁の用語で、碁石を指先につけて拾う遊びの意味ではなかったと思う。
 七十一句目。

   みだれ碁いそぐらつそくのかげ
 斧の柄の一ちやう二ちやう取り出でて 守武

 「斧の柄朽つ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「〔「述異記」にみえる爛柯らんかの故事から〕
わずかな時間だと思っているうちに、長い年月を過ごすこと。時のたつのが早いことのたとえ。 → 爛柯」

とある。この故事については、同じコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「(晉の王質が山中で仙童の囲碁を見ていたが、一局終わらないうちに、手にした斧の柄が腐ってしまい、村に帰ると、もとの人はすでに亡くなっていた、という「述異記」に見える爛柯(らんか)の故事から) 僅かな時間と思っているうちに、長い年月を過ごすことのたとえ。何かに気をとられていて、あっという間に時間が過ぎてしまうことのたとえ。
 ※東大寺諷誦文平安初期点(830頃)「豈に法の庭に斧柄(ヲノノエ)朽(くち)不(ざ)らめや」
 ※古今(905‐914)雑下・九九一「ふるさとはみしごともあらずおののえのくちし所ぞこひしかりける〈紀友則〉」

とある。
 仙境では時間の流れが異なるのか、浦島太郎もそうだし、二十九句目にも、

   月よりおくの夜の仙口
 かへるさは千とせへならん朝朗   守武

の句があった。
 この句の場合、斧を取り出して、早くしないと斧の柄が腐っちゃうぞ、とせかしている場面だろうか。昼だったら日が暮れちゃうぞというところだが。
 七十二句目。

   斧の柄の一ちやう二ちやう取り出でて
 子どもをつるる山がつの道    守武

 山がつの親子は子供も斧を持っている。ほのぼのとする光景だ。

2020年2月8日土曜日

 この頃寒い日が続いている。今年は梅が遅いとも言われているが、この寒さのせいか。今日は睦月の十五夜。雲はあるが月は見える。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 五十九句目。

   連歌まぎるる山ほととぎす
 哥やらん又何やらん草の庵     守武

 歌なのか何なのかわからないのは一体何かと思わせて、連歌に紛れるホトトギスの声だと落ちにする。
 草庵で少人数の連歌会をやっていたのだろう。連歌も歌だから付いたばかりの句を朗々と歌い上げていると、ホトトギスの声が次ぎの句を付けるかのように聞こえてくる。
 六十句目。

   哥やらん又何やらん草の庵
 世をつらゆきのうちぞながむる   守武

 和歌といえば紀貫之。草庵でこの世を憂うのは後の俳諧からするとベタな感じもする。
 「うちぞながむる」は「うちながむるぞ」の倒置。物思いにふけるという意味。
 六十一句目。

   世をつらゆきのうちぞながむる
 朝もよひきのふ今日いかがせん   守武

 「朝もほひ」は「朝催ひ」で、weblio辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「朝食の準備。また、そのころ。」

とある。何を悩んでいたかと思えば朝ごはんの献立のことか。
 六十二句目。

   朝もよひきのふ今日いかがせん
 くまのまゐりのくやしさぞそふ   守武

 「あさもよし(麻裳よし)」は紀の国に掛かる枕詞。かつては熊野川の東側の熊野市や尾鷲市のあたりも紀伊国だった。明治九年に三重県になった。
 熊野路は、

 苦しくも降り来る雨か三輪の崎
     佐野の渡りに家もあらなくに
              (万葉集二六五)

の歌もあるように苦しい道のりだった。家もないくらいだから朝ごはんも満足に食べられず、後悔する。
 六十三句目。

   くまのまゐりのくやしさぞそふ
 山伏に人はなるべき物ならで    守武

 熊野の山伏の修行は厳しく、普通の人の耐えられるものではない。半端な気持ちで山伏になろうとすると後悔する。
 六十四句目。

   山伏に人はなるべき物ならで
 さのみにかひをふかずともがな   守武

 「貝を吹く」は法螺貝を吹くことだが、今でも「法螺を吹く」という言葉は話を盛るという意味で用いられる。
 前句の「人はなるべき」をいかにも山伏が超人的な力を持つかのように吹聴しているという意味にして、そんな話を盛らなくてもいいのに、と展開する。

2020年2月6日木曜日

 新型コロナウイルスによる肺炎の治療に抗HIV薬だとわかったのは朗報だ。新型コロナウイルスにHIVのタンパク質が挿入されているというインド工科大学の科学者たちが発見はやはり本当だったのか。ワクチンができなくても治療法があれば取り合えず命は助かる。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 三表。
 五十一句目。

   牛若どのの春のくれがた
 あまのはら天狗いづちにかすむらん 守武

 牛若丸が天狗に兵法を教わったという伝説がいつ頃生じたのかは定かでないが、謡曲『鞍馬天狗』になって室町後期には広く世に知られていた。
 花盛りの鞍馬山での大天狗と牛若丸との交流は、今で言えばBLに近いものがある。そして最後には、

 お暇申して立ち帰れば牛若袂にすがり給えばげに名残あり。   
 西海四海乃合戦といふとも影身を離れず弓矢の力をそへ守るべし。
 めやたのめと夕影暗き。頼めやたのめと夕影暗き鞍馬の梢にかけって失せにけり。

と天狗は夕暮れの春の空へと消えて行く。
 五十二句目。

   あまのはら天狗いづちにかすむらん
 しらば鳶にもものをとはばや    守武

 天狗はどこに飛んでってしまったか、トンビにでも聞いてみようか。これは遣り句であろう。
 五十三句目。

   しらば鳶にもものをとはばや
 音に聞くくろやきぐすりなにならで 守武

 黒焼きは漢方薬とされているが、本来はどうも違ったようだ。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「民間薬の一種。爬虫類,昆虫類など,おもに動物を蒸焼きにして炭化させたもので,薬研(やげん)などで粉末にして用いる。中国の本草学に起源をもつとする説もあるが,《神農本草》などにはカワウソの肝やウナギの頭の焼灰を使うことは見えているものの,黒焼きは見当たらない。おそらく南方熊楠(みなかたくまぐす)の未発表稿〈守宮もて女の貞を試む〉のいうごとく,〈日本に限った俗信〉の所産かと思われる。《日葡辞書》にCuroyaqi,Vno curoyaqiが見られることから室町末期には一般化していたと思われ,後者の〈鵜の黒焼〉はのどにささった魚の骨などをとるのに用いると説明されている。」

とある。「室町末期には一般化」とあるから、守武の時代あたりから急速に広まったのではないかと思われる。まだ噂には聞くことがあっても実物を見た人は少なかったのかもしれない。
 同じコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、

 「動植物を土器の壺で原形をとどめたまま蒸焼にして黒く焼いたもの。中国大陸から伝来した民間薬で元禄・享保ごろには江戸・大坂で黒焼屋が繁盛した。マムシは強壮,アオダイショウは性病,イモリは夫婦和合の妙薬といわれたが,薬効はあいまいなものが多い。《竹斎》に古畳や古紙子の黒焼で瘧(おこり)をなおしたという笑話がある。」

とある。
 『連歌俳諧集』の注には、室町末期の『金瘡秘伝』の注に鳶の丸焼き、鳶の羽の黒焼きがあるという。
 五十四句目。

   音に聞くくろやきぐすりなにならで
 浪に目のまふ松がうらしま     守武

 「松が浦島」は松島の別名。

 音に聞く松が浦島今日ぞみる
     むべも心ある海人は住みけり
              素性法師(後撰集)

による「歌てには」の一種といえよう。
 五十五句目。

   浪に目のまふ松がうらしま
 玉手箱明くればばちやあたるらん  守武

 これは浦島を浦島太郎のこととしたというのがすぐわかる。ただ浦島ネタは二十九句目と被る。ただ、二十九句目のほうは時の経過だけではっきりと浦島とは言っていないから別の物語でもおかしくはない。
 五十六句目。

   玉手箱明くればばちやあたるらん
 見えて翁の面と太鼓と       守武

 謡曲『翁』は「能にして能にあらず」といわれ、これといった物語はなく、最初に箱を持った面箱が登場し、次にシテが現れ、箱から翁の面を取り出すところから始まる、それとともに鼓が舞台に登場し、翁舞いになる。
 守武に時代には太鼓が入ることもあったのか、前句の「ばち」は太鼓のばちに取り成されている。
 五十七句目。

   見えて翁の面と太鼓と
 法楽は一むら雨をさはりにて    守武

 法楽は神仏を楽しませる楽や舞いで、能(当時は猿楽)の『翁』も法楽として舞われることが多かったのだろう。
 「さはる」は妨げられることで、weblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、今昔物語集 二五・一二の「雨にもさはらず、夕方行きたりけるに」が用例として挙げられている。
 法楽はにわか雨に妨げられたけど雨が止めば翁の面と太鼓が登場する。
 五十八句目。

   法楽は一むら雨をさはりにて
 連歌まぎるる山ほととぎす     守武

 連歌も法楽として盛んに行われた。
 村雨とほととぎすは、

 声はして雲路にむせぶ時鳥
     涙やそそぐ宵の村雨
           式子内親王(新古今集)

が本歌か。
 法楽連歌は神社に奉納するということで、屋外で公開で行われたりしたのだろう。村雨に中断するとホトトギスの声が聞こえてくる。

2020年2月5日水曜日

 「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 四十三句目。

   はきたる矢にも鵺やいぬらん
 猿楽はけなげなりける物なれや   守武

 猿楽は能のこと。ウィキペディアによれば、

 「能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。」

とあり、また、

 「明治14年(1881年)、明治維新で衰微した猿楽の再興を目指して能楽社が設立された際に能楽と改称された。「能楽社設立之手続」には、『前田斉泰ノ意見ニテ猿楽ノ名称字面穏当ナラサルヲ以テ能楽ト改称シ……云々』とある。」

とある。俳諧が正岡子規のよって俳句となったようなもので、今日使われている言葉は明治時代に生じたものが多い。
 「けなげ」は古語では健気という字の通り、「勇ましい。たのもしい。勇壮だ。」あるいは「殊勝である。しっかりとしている。」という意味で用いられていた。(weblio「学研全訳古語辞典」より)
 前句の鵺を射る場面を能の一場面とする。謡曲『鵺』は今日にも残っている。
 四十四句目。

   猿楽はけなげなりける物なれや
 大夫がとしはかぎりしられず    守武

 「大夫」はウィキペディアには、

 「猿楽座(座)や流派の長(観世太夫など)を指し、古くは『シテ』の尊称として使用された時代もあったが、現在は使用されていない。」とある。猿楽の大夫は年取ってもますます芸に磨きが掛かり、その技は留まることを知らない。
 四十五句目。

   大夫がとしはかぎりしられず
 松はただ秦の始皇がなごりにて   守武

 前句の「大夫」を「五大夫」のこととする。
 「五大夫」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《秦の始皇帝が泰山で雨宿りをした松の木に五大夫の位を授けたという「史記」にある故事から》松の別名。」

とある。今の泰山にある五大夫松は、清代に植え替えられたものの内の二本だという。守武の時代にはまだ初代の松が残っていたのかもしれない。
 四十六句目。

   松はただ秦の始皇がなごりにて
 かんやうきゆうの秋風ぞふく    守武

 咸陽宮はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「戦国時代に秦の孝公が咸陽に建てた壮大な宮殿。のち、始皇帝が住んだ。」

とある。その咸陽宮も時が経てば荒れ果てて、松の木のみ名残にしてただ秋の風となる。
 こうした趣向は近代の、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」の三番にも受け継がれている。

 今荒城の夜半の月
 変わらぬ光誰がためぞ
 垣に残るはただ葛
 松に歌うはただ嵐

 四十七句目。

   かんやうきゆうの秋風ぞふく
 月や思ふわれらごときの物知らず  守武

 守武のこうした展開を見ると、江戸後期の人が「三句の渡り」という言葉も頷ける。

 松はただ秦の始皇がなごりにて
   かんやうきゆうの秋風ぞふく
 月や思ふわれらごときの物知らず

と三句一セットにして意味が通る。
 こうした緩い展開は貞徳の嫌う所で、蕉門に至るまでスピード感のある急展開が求められていたが、江戸後期から現代連句に至るまでは、またこうした緩い展開に戻るところもあったようだ。
 咸陽宮も荒れにし跡はただ秋の風。月は昔の咸陽宮を知っているが、我々は何を知るのだろうか。
 四十八句目。

   月や思ふわれらごときの物知らず
 露けきころはただ御免なれ     守武

 月を見ようと思ってはみても、我等ごとき風流の心のないものからすれば、露のじめじめした季節は勘弁願いたい。
 緩い展開ばかりでなく、時折こういう思い切った展開もする。
 毎句毎句笑いを取りにゆくのではなく、時折こうして落として笑わせるというのが守武の俳諧だったのだろう。
 四十九句目。

   露けきころはただ御免なれ
 花にとて雨にもいそぐ高あしだ   守武

 高足駄は歯の長い高下駄のこと。一本歯の高下駄は修験者などが用いた。
 芭蕉が黒羽で詠んだ句にも、

 夏山や首途を拝む高足駄      芭蕉

の句がある。『奥の細道』では、

 夏山に足駄を拝む首途哉      芭蕉

と改められている。
 単に「足駄」という場合も高下駄の意味だが、こちらは実用的なもので、コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「足駄(高下駄)は鼻緒が前寄りにつけられ,引きずるように履くのではねが上がらず,道路の整備された近世以降は歩行用の履物となったが,中世では衣服が汚れないよう戸外での排便や水汲み,洗濯などに用いられた。」

とある。守武の時代は中世なので、花見に高足駄で行くのは今で言えば便所のスリッパを履いてゆくようなものだったのかもしれない。「ただ御免なれ」と許しを請うことになる。
 五十句目。

   花にとて雨にもいそぐ高あしだ
 牛若どのの春のくれがた      守武

 「高足駄」を実用的な足駄ではなく修験の履く方のものとして、鞍馬山で修行していた牛若丸を登場させる。
 春の暮れ方、雨の山道をものともせずに颯爽と走る牛若丸の姿が浮かぶ。これが後の八艘飛びの元になったか。

2020年2月4日火曜日

 『紙の日本史』(池田寿著、二〇一七、勉誠出版)が届いた。すぐに気になってた紙子の所(p.110~115)を拾い読みした。
 紙子は空海の時代からあったようだ。それ以降ももっぱら僧の服装として用いられていた。
 『今昔物語』が引用されている。

 「破タル紙衣荒キ布ノ衣ヲ着タリ、或ハ破タル衣ヲ覆ヒ、或ハ鹿ノ皮ヲ纏ヘリ」(巻一三第一五)
 「衣ハ紙衣ト木皮也、絹布ノ類敢テ不着ス」(巻一三第二七)

 僧が絹を用いないのは、製造の過程で蚕を殺すからだろう。芭蕉の『奥の細道』の途中で巻いた山中三吟の十一句目に、

   髪はそらねど魚くはぬなり
 蓮のいととるもなかなか罪ふかき   曾良

の句があるが、これは暗に絹糸だけでなく仏様の花の蓮から糸を取るのも、という意味があったのだろう。
 ただ絹を用いないとはいっても、麻衣はごわごわしていて肌触りが悪い。そこで内側に紙子を着るようにしたのだろう。紙は風を通さないので防寒性に優れていて、冬の行脚には欠かせなかったに違いない。
 破れた紙子を大事に着ているのは、やはり紙子がそんなに安いものではなかったからだろう。鎌倉時代の『発心集』にも、

 痩せ黒みたる法師紙衣の汚なげにはらはらと破れたる」(第七ー一二)

とあり、『沙石集』にも、

 「暮露々々の如くにて、帷に紙衣きてぬるに」(巻第八ー十四)

とあるという。これは紙衣が貧しい人の衣服だというよりは、紙衣を破れてぼろぼろになるまで着るのが貧しいのではないかと思う。
 また、

 「優れたやまと絵の伝統を伝える十三世紀前半の制作になる『西行物語絵巻』(重文、愛知、徳川美術)に描かれている漂泊の歌人・西行(一一一八~九〇)の姿は、吉野山に向かう詞書に、「麻の衣のすみ染に、かき紙きぬの下着に」(第二巻第三段)とあり、修行の装束は柿渋引きの紙衣を墨染の麻衣の下に着していたことが知られる。」(『紙の日本史』池田寿著、二〇一七、勉誠出版、p.112)

とある。
 また紙子は死出の旅にも用いられたようだ。藤原定家が父俊成も紙の御衣を作って着せたという。
 今日は紙子の話になってしまったが
 また、こうもある。

 「連歌師の宗長が大永二年(一五二二)五月から同七年九月までの駿河国府中への下向と上洛とをくり返し、旅の途次における地方の様子を伝える紀行文である『宗長手記』には「かみこのためとて、富士綿一把」とある。「かみこ」は紙子ともいわれる衣服のことで、紙子の防寒保温性を高めるために富士山麓にて産する綿が利用されたものと思われる。」(『紙の日本史』池田寿著、二〇一七、勉誠出版、p.113)

 この文章は『宗長作品集』(重松裕巳編、一九八三、古典文庫)の「宗長道之記全」にあった。

 「油比美作法名保悟、かみこのためとて、富士わた一把。其文の返事にいひかはし侍り。
 なになににとかくするがのふじわたの絶ぬすそ野に雪はふりつつ」(『宗長作品集』重松裕巳編、一九八三、古典文庫、p.230)

 綿は平安時代に一時期栽培されたが廃れ、ふたたび盛んになるのが戦国時代の後半だと聞いていたが、室町時代には中国や朝鮮(チョソン)から綿を輸入していたし、国産化もあちこちで試みられていたようだ。
 ただ、ここでは綿を紙子にした以上、木綿の布にしたのではなさそうだ。綿入れにしたのか、それとも綿で紙を漉いたのか。
 今日は紙子の話になってしまったが、次回は「守武独吟俳諧百韻」の続きの方に戻る。

2020年2月3日月曜日

 ここのところ晴れた日が続いている。今日も夕暮れの空に半月が見えた。春らしくやや霞んでいた。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 二裏。
 三十七句目。

   おもふあたりは大蛇すむかげ
 人はこでうき入相のかねまきに   守武

 「かねまき」は謡曲『鐘巻』で謡曲『道成寺』の原型とされている。
 ただ、ここでは謡曲『鐘巻』のストーリーでなく、そこで語られる「安珍清姫の物語」を本説としたものであろう。
 この物語は僧の安珍に惚れた清姫がついには蛇となって安珍を追う。安珍は道成寺の鐘を降ろしてもらいその中に逃げ込むのだが蛇となった清姫は金に巻きつき焼き殺し、清姫も蛇のまま入水する。
 最後は道成寺の住持の唱える法華経の功徳により成仏して終る。
 人のいない道成寺の物憂げな入相の鐘を聞いていると、ここで鐘巻になって安珍の焼き殺された、あの大蛇の話が思い出される。
 三十八句目。

   人はこでうき入相のかねまきに
 法のみちとやときほどくらん    守武

 その入相の鐘は鐘巻の伝承を思い起こし、仏法を説いているかのようだ。
 「安珍清姫の物語」を本説から離れていず、やはり緩い展開が続く。
 三十九句目。

   法のみちとやときほどくらん
 むすぼほる髪にやくしをさしそへて 守武

 前句の「ほどくらん」に対し「むすぼほる」が掛けてにはになる。結んで固められた髪を櫛を挿し添えて解くように、仏法を説き解いてゆくとなるが、上句には薬師如来が隠れている。
 四十句目。

   むすぼほる髪にやくしをさしそへて
 るりのやうなるかがみみるかげ   守武

 櫛で髪をとかす女性のイメージとなり、その女性は瑠璃のような鏡を覗き込む。
 瑠璃はラピスラズリのことで、ガラスの異名でもあるが、ガラスの鏡が日本に入ってきたのは一五四九年のザビエル来日の時とされているから、この独吟の十九年後になる。
 それ以前に何らかのルートでガラスの鏡が知られていたのかもしれない。現物は見たことなくても、中国の方からの噂として伝わっていた可能性はある。
 四十一句目。

   るりのやうなるかがみみるかげ
 すきとほる遠山鳥のしだりをに   守武

 「るり」に「すきとほる」と付くからには、やはり何らかの形でガラスの鏡が知られていたのだろう。
 「遠山鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (ヤマドリの雌雄は山を隔てて寝るというところから) 「やまどり(山鳥)②」の異名。
 ※源氏(1001‐14頃)総角「歎きかちにて、例の、とを山どりにて明けぬ」
 ※新古今(1205)春下・九九「桜咲く遠山鳥のしだりをのながながし日もあかぬ色かな〈後鳥羽院〉」

とある。
 ヤマドリはキジ科でオスは金属光沢のある赤褐色の長い尾を持っている。
 後鳥羽院の歌は「桜咲くながながし日もあかぬ色かな」に「遠山鳥のしだりをの」という序詞を挟んだものだが、この句は「尾ろの鏡」で付けている。
 「尾ろの鏡」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「(光沢のある雄の山鳥の尾に、谷をへだてた雌の影がうつるというところから) 尾が光って影が映るのを鏡にみなしていったもの。異性への慕情のたとえに用いられる。山鳥の尾ろの鏡。
 ※土御門院集(1231頃)「山鳥のをろの鏡にあらねどもうきかげみてはねぞなかれける」
 [補注]「万葉‐三四六八」の「山鳥の尾ろの初麻(はつを)に鏡懸け唱ふべみこそ汝(な)に寄そりけめ」の歌から生まれた歌語で、解釈は付会されたもの。」

とある。
 四十二句目。

   すきとほる遠山鳥のしだりをに
 はきたる矢にも鵺やいぬらん    守武

 山鳥のしだり尾を使った矢は、伝説の鵺(ぬえ)すらも射抜くだろうか、となる。
 源頼政の鵺退治の話に、山鳥の尾で作った尖り矢が用いられている。ウィキペディアには、

 「毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。遂に天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果はなかった。側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。頼政はある夜、家来の猪早太(井早太との表記もある)を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓を手にして怪物退治に出向いた。すると清涼殿を不気味な黒煙が覆い始めたので、頼政が山鳥の尾で作った尖り矢を射ると、悲鳴と共に鵺が二条城の北方あたりに落下し、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差した。その時宮廷の上空には、カッコウの鳴き声が二声三声聞こえ、静けさが戻ってきたという。これにより天皇の体調もたちまちにして回復し、頼政は天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜した。」

とある。

2020年2月2日日曜日

 新型肺炎を死亡率が低いからって侮っている人がいるが、致死率が低いことが却って曲者だったりする。元気な人がキャリアになるとそれだけ無自覚の内に拡散されてしまうからだ。それでいて行く先々のお年寄りや子供や体の弱い人に死をもたらしてゆく。
 とにかくあの一千万都市の武漢がわずか一ヵ月半で空っぽにするようなウィルスだ。それが東京で起こらないという保証はない。日本の医療技術が高いといっても過信は禁物だ。
 みんな、頑張ろう。ウィルスに勝利しよう。
 あとイギリスにブレクジットおめでとう。でも筆者はスコットランドの独立も支持している。世界の多様性のためにも国家はより細分化されたほうがいい。カタルニアもクルディスタンも香港も台湾も頑張れ。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 二十九句目。

   月よりおくの夜の仙口
 かへるさは千とせへならん朝朗   守武

 「朝朗」は「あさぼらけ」と読む。
 これは浦島太郎ネタか。帰る頃には千年のときが経っているだろうか、と仙界は時間の経過が違うようだ。竜宮城も仙界の一種といえよう。
 豊田有恒のSFに浦島太郎UFO説があったが、たしかに相対性理論を髣髴させる。仙界は月の向こう側(宇宙)にあったのだろう。
 三十句目。

   かへるさは千とせへならん朝朗
 ひとにあへるはめでたからずや   守武

 前句の「千とせへならん」を比喩として、明け方帰って行く男を見送るときは千年の別れのような苦しみを感じる。
 別れの辛さを思えば逢わない方がいいのかというと、もちろんそんなことはない。「めでたからずや」は反語になる。
 三十一句目。

   ひとにあへるはめでたからずや
 留守としもいはればいかがをちありき 守武

 「をちありき」は遠くを歩くこと。
 遠くまで出かけていっても留守だったら残念だ。それを思えば逢えるというのは目出度いことだ。
 三十二句目。

   留守としもいはればいかがをちありき
 案内申すかどはあをやぎ      守武

 『連歌俳諧集』の注に五柳先生(陶淵明)のこととある。家の前に五本の柳があったという。
 はるばる遠くから五柳先生を訪ねてきたのなら、留守だといけないので案内します。
 三十三句目。

   案内申すかどはあをやぎ
 たれぞとて百千鳥足踏みいでて   守武

 陶淵明は仕官の話をことわるために、使者がきたときわざと酒を飲んでべろんべろんの状態で出てきたという。ここも同じネタが続いている。
 百千鳥足は千鳥足の強化形か。
 三十四句目。

   たれぞとて百千鳥足踏みいでて
 そなたさへづりこなたさへづる   守武

 百千鳥足をそのままたくさんの千鳥の足とする。
 三十五句目。

   そなたさへづりこなたさへづる
 あぢきなの心のほどや舌の先    守武

 前句の囀りをおしゃべりや噂話の比喩として、舌先三寸の思うようにならない世間の情とする。
 三十六句目。

   あぢきなの心のほどや舌の先
 おもふあたりは大蛇すむかげ    守武

 前句を大蛇がいると聞いて尻込みする男に対しての言葉とした。
 やはりそこは助けに来て欲しいものだ。大蛇を倒せば伝説の剣が手に入ったりするのだろう。アマノムラクモのような。