この頃寒い日が続いている。今年は梅が遅いとも言われているが、この寒さのせいか。今日は睦月の十五夜。雲はあるが月は見える。
それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。
五十九句目。
連歌まぎるる山ほととぎす
哥やらん又何やらん草の庵 守武
歌なのか何なのかわからないのは一体何かと思わせて、連歌に紛れるホトトギスの声だと落ちにする。
草庵で少人数の連歌会をやっていたのだろう。連歌も歌だから付いたばかりの句を朗々と歌い上げていると、ホトトギスの声が次ぎの句を付けるかのように聞こえてくる。
六十句目。
哥やらん又何やらん草の庵
世をつらゆきのうちぞながむる 守武
和歌といえば紀貫之。草庵でこの世を憂うのは後の俳諧からするとベタな感じもする。
「うちぞながむる」は「うちながむるぞ」の倒置。物思いにふけるという意味。
六十一句目。
世をつらゆきのうちぞながむる
朝もよひきのふ今日いかがせん 守武
「朝もほひ」は「朝催ひ」で、weblio辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「朝食の準備。また、そのころ。」
とある。何を悩んでいたかと思えば朝ごはんの献立のことか。
六十二句目。
朝もよひきのふ今日いかがせん
くまのまゐりのくやしさぞそふ 守武
「あさもよし(麻裳よし)」は紀の国に掛かる枕詞。かつては熊野川の東側の熊野市や尾鷲市のあたりも紀伊国だった。明治九年に三重県になった。
熊野路は、
苦しくも降り来る雨か三輪の崎
佐野の渡りに家もあらなくに
(万葉集二六五)
の歌もあるように苦しい道のりだった。家もないくらいだから朝ごはんも満足に食べられず、後悔する。
六十三句目。
くまのまゐりのくやしさぞそふ
山伏に人はなるべき物ならで 守武
熊野の山伏の修行は厳しく、普通の人の耐えられるものではない。半端な気持ちで山伏になろうとすると後悔する。
六十四句目。
山伏に人はなるべき物ならで
さのみにかひをふかずともがな 守武
「貝を吹く」は法螺貝を吹くことだが、今でも「法螺を吹く」という言葉は話を盛るという意味で用いられる。
前句の「人はなるべき」をいかにも山伏が超人的な力を持つかのように吹聴しているという意味にして、そんな話を盛らなくてもいいのに、と展開する。
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