独裁者無き「ソフトな独裁」がなぜ成り立つのかというと、それは日本人が「臣民」だというところにあるのではないかと思う。
誰もが家臣だという意識を持っているなら、君主が不在でも家臣だけで国は成り立つ。
二十世紀の社会主義国家の実験の失敗は、結局誰もが最高指導者になりたがってしまったからではないか。
ただでさえ冨をいったん国家が預り再配分するという方式は、国家が全国民の生殺与奪権を握ることになる。そこで過酷な権力争いが起こり、粛清に継ぐ粛清となる。
最高指導者を不在にするか、あるいは形式的で象徴的なトップ(天皇のような)を据えていれば、あるいはうまくいったのかもしれない。
近代の天皇の居場所は、西田幾多郎も「絶対無」とし、和辻哲郎も「空」と呼んだが、和辻の場合これは「人間関係」そのものを表わす。人様だとか世間様に仕える下僕の意識でみんながその実在しないものの意志を推し量り、忖度しながら生きていれば、最も成功した社会主義独裁国家になるというわけか。
北島三郎の唄にもあったが、「肩で風切る王将よりも、俺は持ちたい歩の心」のようなものが、この日本を支えているのだろう。
さて、それにつけても「口まねや」の巻。
初裏。
九句目。
ちりつもりてや露のかろ石
秋風に毛を吹疵のなめし皮 宗因
中村注にもあるように、「毛を吹いて疵を求む」という、今では忘れられてしまった諺から来ている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「(毛を吹きわけて、傷を探し出す意) 好んで人の欠点を指摘する。また、わざと他人の弱点をあばいて、かえって、自分の欠点をさらけ出す。毛を吹いて過怠の疵を求む。」
「かえって、自分の欠点をさらけ出す」ことを、今日ではブーメランという。
秋風が吹いて、なめし皮の疵が露呈するが、とりあえずなめし皮の最後
の仕上げで軽石を使って肉面をなめらかにする。
十句目。
秋風に毛を吹疵のなめし皮
いはへて過る馬具の麁相さ 宗因
ざらざらした皮のことを「麁皮(そひ)」という。前句の「疵のなめし皮」を麁皮でできた馬具のこととするが、馬はそんなことも知らぬげにいなないて通る。
馬耳東風の類義語に「秋風耳を過ぐ」というのがある。
十一句目。
いはへて過る馬具の麁相さ
長刀もさびたる武士の出立に 宗因
馬具が粗末なら、それに乗っている武士の刀も錆びている。
謡曲『鉢木(はちのき)』、つまり「いざ鎌倉」の物語を本説にしている。
「其諸軍勢の中に。いかにもちぎれたる具足を着。さびたる長刀を持ち。痩せたる馬を自身ひかへたる武者一騎あるべし。急いで此方へ来れと申し候へ。」
とある。
十二句目。
長刀もさびたる武士の出立に
どの在所よりねるやねり衆 宗因
「練衆(ねりしゅ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「祭礼などに武者などの仮装行列をしてねり歩く人々。」
とある。前句を武士ではなく仮装の武者とする。
十三句目。
どの在所よりねるやねり衆
蕨の根くだけてぞおもふ餅ならし 宗因
前句の「ねる」を餅を練ることとする。
蕨餅は蕨の根を砕いて取り出した汁からデンプンを固め蕨粉を作り、それに水と砂糖を入れて火にかけながら練る。
「くだけてぞおもふ」は中村注に、
かのをかに萩かるをのこなはをなみ
ねるやねりそのくたけてぞ思ふ
凡河内躬恒(拾遺和歌集)
を引用している。前句の「ねるやねり」から「くだけてぞおもふ」と繋げるのは、連歌の「歌てには」のバリエーションといっていいだろう。
十四句目。
蕨の根くだけてぞおもふ餅ならし
過がてにする西坂の春 宗因
西坂は東海道の日坂宿のこと。わらび餅が名物。
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