2020年2月18日火曜日

 さて、マルクス・ガブリエルの『世界はなぜ存在しないか』に戻るが、
 一つの世界が存在せず、多種多様な無数に存在する意味の場があるだけだというのはわかった。
 このような場所では絶対的真理は存在せず、科学といえども仮説の体系で、真理の近似値にすぎないということは既に多くの科学者が認めていることだ。
 ただ、このあとこの本には唐突に「精神」なるものが登場する。特にキルケゴールに言及する辺りから、宗教=精神、科学=肉体といった古典的二元論が復活する。ほとんど絶望的なまでの先祖帰りだ。まあ、ものがキルケゴールだけに絶望というわけか。
 これが何かに似ていると思ったが、思い当たるのはカントの『純粋理性批判』から『実践理性批判』への転換だ。
 『純粋理性批判』では純粋な認識論の議論から「物自体」を退けるが、『実践理性批判』では倫理的要請というほとんどキリスト教の既存の権威へ忖度した形で物自体が復活する。マルクス・ガブリエルもこの類か。
 特定の世界像に執着する宗教はフェティシズムだと言うのはわかる。ただ、それに対抗するように持ち出されたのが自己の探求だが、これは自己という対象に執着するもので、フェティシズムというよりはオナニズムの匂いがぷんぷんする。
 我々の神道は教義も戒律もない宗教で、未知のものに満ち溢れた自然の道を探求する。そこにはフェティシズムもないしオナニズムもない。こちらの方が真の宗教なのではないかと思う。

 「宗教の意味は、わたしたち人間の有限性を認めるところに見て取ることができます。」no.3428

というのは理解できる。ただそのあとの、

 「宗教は、まず最大限の距たりの立場をとってから人間へと回帰してきます。人間は神に取り組むことによって、精神の歴史という冒険に乗り出したのでした。」no.3431

との間には何の必然性もない。
 人間の有限性はどこにでもある。たとえばある楽曲に感動した時は、それを理屈で説明することができない。その曲は神なのである。アニメには神回があるし、様々な技芸にはそれぞれの神業がある。神は至る所に存在する。最大限の距たりを求めなくても、いつでも身近に神は神っている。それに取り組むのに精神の歴史は何ら必然的なものではない。それはいつでも日常の中の溶け込んでいるからだ。

 「むしろ本質的には宗教で問題となるのは人間であり、そのつど意味の連関の中での人間の位置づけです。」no.3450

と言うが、連関の中に人間を位置づけてしまったら、それ自身が「世界」を復活させているのではないかと思う。連関を作るのではなく、自然をあるがままにしておくことが真の宗教なのではないかと思う。
 意味もまた多種多様な意味の場をあるがままにしておくことが大事で(そして異なる意味の場へ軽やかにジャンプして遊んだりして)、そこに思惟的な意味の連関を作る行為は自然に反する。
 大事なのは自分自身が何であるかを理解することではなく、自分自身であることを感じられるかどうかだ。

 芸術の意味についてはこれまで、私自身の考えは鈴呂屋俳話の中で述べてきた。
 マルクス・ガブリエルはこう言う。

 「わたしたちが美術館に行くのは、美術館では、あらゆるものにたいして違った見方をするという経験ができるからです。」p.3464

 これは芸術は石頭にならないために必要だとする筆者の考えに似ている。ただ、

 「じっさい美術館では、受動的な観察者のままでは何も理解できません。訳のわからない、無意味にすら見える芸術作品を解釈することに努めなければなりません。」no.3467

というのは、芸術の専門家を目指す人以外には不要ではないかと思う。無理に理解しようとしても、大概は故事付けのようなどうでもいい理屈を拵えるだけで、本当の感動はやはり作品の方から自分の方に飛び込んでくるものだと思う。それこそ雷に打たれたように。
 そうは言いながらも一見何の意味があるのかチンプンカンプンな江戸時代の俳諧なんかを読んでいる自分は、無意味にすら見える芸術作品を解釈することに努めているといえばそう言えなくもないが。

 「芸術の意味は、わたしたちを意味に直面させることにあります。」p.3473

 これは自分自身が慣れ親しんでいる意味の場に対して、異なる意味の場に出会うということではないかと思う。自分の知っているものをそのまま追認しても何の発見もない。
 文学において実在の芸術と虚構の芸術を議論することは、俳諧での虚実の論にも近いかもしれない。もちろん虚の芸術と実の芸術があるのではない。それは俳諧に不易体と流行体のようなものがはっきりと区別できないのと同じだ。
 マルクス・ガブリエルはスタンリー・カヴェルというアメリカの哲学者の言葉を引用している。そのなかに、

 「実在性という価値にたいするわたしたちの確固たる信念は、幻想を通じてこそ打ち立てられる。幻想を放棄するということは、この世界との接触を放棄するということである。」no.3528-3531

とあるが、どこか支考の「虚において実を行う」と髣髴させる。

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