今日は哲学の話でもしようかな。
というのも最近一部で話題になっているらしいマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル、2018、講談社)を読み始めたからだ。
まあ、世界がなぜ存在しないのかというと、これは私自身の結論とも似ている。つまり「一つの世界(唯一にして絶対の世界)は存在しない」ということだ。
言うまでもなく世界はそこに存在している。ただ、「世界」という言葉が意味するものは多種多様だ。
「世界地図」という時の世界は地球の表面のことで、月や太陽は含まれないし、マントルやコアも含まれない。
「世界記録」という時の世界は基本的に人間のことで、宇宙人は想定されてないし、他の動物の記録も除外されている。
「世界観」という時の世界は、この世界に対する見方に限定されず、創作の中の異世界の世界観も含まれる。
古語で「世(よ)」といった場合は、前世や後世も含まれるし、男女の仲だけを限定して言う場合もある。連歌の式目『応安新式』には、
「世(只一、浮世世中の間に一、恋世一、前世後世などに一)」
とある。世界という意味での「世」、「世間」という意味での「世」、男女の仲という意味の「世」、前世来世などの「世」という四つに分類されている。
また仏教で「世界」というと「三千世界」というのがあって、無数の並行する世界が想定されている。ウィキペディアには「三千大千世界」が本来の言い方で、
「仏教の世界観では、須弥山を中心として日・月・四大州・六欲天・梵天などを含む世界を一世界とし、一世界が1,000個集まったものを小千世界といい、小千世界が1,000個集まったものを中千世界といい、中千世界が1,000個集まったものを大千世界という。大千世界を三千大千世界ともいう。略して三千世界といい、三界、三千界ともいう。」
マルクス・ガブリエルが「世界は存在しない」という時の世界はこうした多様な世界ではなく、唯一絶対の世界のことをいう。『なぜ世界は存在しないか』のなかで、はっきりとこう書いている。
「この問いにたいするわたし自身の答えは、最終的には次のような主張に行き着くことになるでしょう。たったひとつの世界なるものなど存在せず、むしろ無限に数多くのもろもろの世界だけが存在している。そして、それらもろもろの世界は、いかなる観点でも部分的には互いに独立しているし、また部分的には重なり合うこともある、と。」(kindle版no.1333-1336)
もっと正確に言えば「世界は存在するとも言えるし存在しないとも言えてカント的なアンチノミーに陥る」と言った方がいいのかもしれない。
「世界が存在しない」というのは何を帰結するかというと、結局は戦後に起こった哲学の終焉を追認することになる。というのも哲学者達が共通の対象領域とするような「世界」は存在しないからだ。
世界に付いての解釈は、様々な世界のそれぞれの解釈にすぎず、そこに唯一の理論というのは存在できない。つまり絶対的な知としての形而上学は成立しない。ただ個々のMy哲学があるにすぎない。
余談だが、
「大量殺戮兵器はアメリカ合衆国に存在しているのであって、(わたしの知るかぎり)ルクセンブルクに存在しているのではない。」(kindle版no.293)
は私だったら「アメリカや中国やロシアなどに存在しているのであって」と書くところだ。普通はそうだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿