2020年2月16日日曜日

 ファン・エイク兄弟の一四三二年に描かれた『ヘントの祭壇画』をテレビでやっていたが、面白いのは羊と聖霊の化身の鳩のところに阿弥陀如来のような放射光背が描かれているところだ。上段の父なる神、聖母マリア、洗礼者ヨハネにもやはり放射光背が描かれている。こういう旭日旗的な発想はヨーロッパにもあったんだなと思った。さすがに徐坰徳教授もこれにクレームをつけることはないだろうけど。

 第三章「なぜ世界は存在しないのか」で展開される、世界と意味の場との無限に続く入れ子構造は昔からわかってたことで、正岡子規も明治二十九年に『松蘿玉液』の中でこのように述べている。

 「〇宇宙 はわれにあり。方丈の中に八万四千の大衆を容れて息の出来ぬほどに窮屈にもあらず。まだ八万由旬の蓮台も仏もはひるべき余地あり。さりとて入れ物がおおきくなりたるにはあらではひる物が小さくなりたらんかし。一たびわが頭脳中に縮めたる宇宙を頭脳の外に投げ出せば宇宙は再び無量際にまでひろがりぬ、さてやわが頭脳を取りてこの宇宙に置けばこれはまた頭脳の小ささよ。おもしろきものは相対なり煩悩なり、つまらぬものは絶対なり悟りなり。

 出て見れば春の風吹く戸口かな」(『松蘿玉液』正岡子規、一九八四、岩波文庫、p.15)

 ここでは世界ではなく宇宙という言葉が用いられている。
 世界が人間の主観的な意味の場において存在するということは、世界が脳の中にある事を意味する。意味を考えるのは脳だからだ。その脳は世界の中にあるのだから、世界は脳の中にあり、その脳は世界の中にあり、その世界はまた脳の中にあるという無限遡及に陥ってしまう。それゆえ世界は意味の場には存在しないということになる。
 子規にしてみれば、世界を対象領域とする哲学は相対的なものであり煩悩に過ぎなかった。絶対だとか悟りだとかはつまらない。
 意味の場は複数あり、存在はその複数の、おそらく無数に存在する意味の場の中で存在するとも言われれば存在しないとも言われる。
 たとえば魔女はゲーテの『ファウスト』や竜騎士07の『うみねこのなく頃に』の世界の中では存在するが、現実の世界の中では存在しない(もっとも、宇宙の隅々まで探したわけではないが)。存在するかしないかは意味の場によって異なる。
 物理学的な世界も一つの意味の場だし、脳科学の世界も一つの意味の場になる。そこでは例えば日常的な感覚として存在しているものが実は存在しなかったり、ということも起こる。
 意味の場は一人一人の記憶の中でも独自なものが形成されているから、ある人にとってかけがえのない重要な意味を持つものでも他の人にとってはほとんど無意味だということもある。
 意味の場は無数に存在し、多元的世界を構成する。こうした考え方は多神教の風土に育った私にとっては、西洋近代哲学の考え方よりもわかりやすい。この世界全体の中で自分の存在が一体何なのかなんて問いは、正直ピンと来ない。だからそんな世界なんてないんだと言ってくれるのは嬉しい。
 連歌や俳諧の取り成しも、一種の意味論の場の移動と考えればいいのではないかと思う。たとえば「日の春を」の巻の九十六句目、

   足引の廬山に泊るさびしさよ
 千声となふる観音の御名    其角

の句は白楽天の『琵琶行』の意味の場だった前句を、当時の現実の京都の意味の場に移動させている。

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