今日は満月。やはり晴れているけど寒かった。
新型コロナはエアロゾル感染するということで、やはり今までの日本の対策は甘かったといわざるを得ない。ダイアモンド・プリンセス号の乗客はこのままだと次から次へと感染し発症するだろう。
約3,700人といわれる乗客全員をすぐに検査をする体制が整ってなかった時点で敗着だったといえよう。100人単位で順番に検査を行ってゆく間に、感染はどんどん広まってゆく。
ダイアモンド・プリンセスだけではない。日本の病院ではほとんど検査の体制ができてない。診断を受けないまま発症して死んでも、新型コロナの死者としてカウントされないなら、中国の情報をバカにする資格はない。
まあ、いろいろと嫌な話は多いが、気を取り直して「守武独吟俳諧百韻」の続きと行こう。
三裏。
六十五句目。
さのみにかひをふかずともがな
思ひ入る風呂の何故せばからし 守武
これはシモネタ。「貝」をあの意味に取り成す。
当時は蒸し風呂だったが、この場合狭いというから八瀬の竈風呂だろうか。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「釜風呂とも書く。京都八瀬の名物で,蒸風呂の一種。荒壁で高さ約2mの土饅頭(どまんじゅう)型のものを築き,人が入れる穴蔵を作る。この中で松葉やアオキなどの生枝をたき,灰をかき出したのち湿らせた塩俵等を敷いて,これから出る蒸気が煙を追い出したころ,その上に横たわって蒸気を浴する。」
とある。
当時は衣服の通気性が悪く、皮膚病になる人が多かったとも言う。
六十六句目。
思ひ入る風呂の何故せばからし
石榴にうらみありとしらるる 守武
『連歌俳諧集』の注に「ここは風呂の石榴口のことをいった」とある。
石榴口はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、
「〔昔、鏡磨きはザクロの実からとった酢を用いたところから、「屈(かが)み入る」を「鏡要る」にかけた洒落〕
江戸時代の銭湯で、洗い場から浴槽への入り口。湯の冷めるのを防ぐため入り口を低く作ってあり、かがんで入るようになっていた。 「道理で-が込だ/滑稽本・浮世風呂 3」
とある。守武の時代にも既にあったか。
石榴の実が割れる様も、あれを想像させる。
六十七句目。
石榴にうらみありとしらるる
露ばかりのこす茶のこに袖ぬれて 守武
「茶のこ」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、
「①茶菓子。茶うけ。点心(てんしん)。 「薩摩いりといふ-を拵(こしらえ)るばかり/滑稽本・浮世風呂 前」
②仏事の際の供物や配り物。 「本の母御の十三年忌、-ひとつ配ることか/浄瑠璃・薩摩歌」
③彼岸会(ひがんえ)の供物(くもつ)。
④農家などで、朝食前に仕事をする時にとる簡単な食べ物。
⑤〔① は腹にたまらないことから〕 物事の容易なこと。お茶の子。お茶の子さいさい。
「常住、きつてのはつての是程の喧嘩は、おちやこの〱-ぞや/浄瑠璃・反魂香」
とある。
茶うけが先に来た人に食われてしまってほんのちょっとしか残ってなかった。特に石榴が全部食われていたことは恨まれる。
六十八句目。
露ばかりのこす茶のこに袖ぬれて
月みの会の明けわたるそら 守武
月見の会が夜を徹して行われ、みんな料理をたいらげ、茶のこが少し残っただけだった。
六十九句目。
月みの会の明けわたるそら
大方のねやしならずよ夜はの友 守武
「ねやし」を『連歌俳諧集』の注は「練し」だとする。weblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、
「①練ってねばるようにする。こねる。 「暮るるまでおし-・したる御そくいひ/咄本・醒睡笑」
②金属を精錬する。 〔名義抄〕」
とある。閨(寝室)と掛けているのかもしれない。
七十句目。
大方のねやしならずよ夜はの友
みだれ碁いそぐらつそくのかげ 守武
「らつそく」は蝋燭のこと。
みだれ碁はここでは囲碁の勝敗の読めない乱戦のことか。
目にも今見る心地して乱れ碁の
うちも忘れぬ面影は憂し
という古狂歌もある。
乱碁はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「 碁石を指先につけて拾い取り、その多少によって勝負を争う遊戯。中世の賭博(とばく)によく用いられたもの。らんご。
※新撰菟玖波集(1495)雑「石の上にも世をぞいとへる みたれ碁に我いき死のあるをみて〈心敬〉」
とあるが、この心敬の句も、「いき死」は囲碁の用語で、碁石を指先につけて拾う遊びの意味ではなかったと思う。
七十一句目。
みだれ碁いそぐらつそくのかげ
斧の柄の一ちやう二ちやう取り出でて 守武
「斧の柄朽つ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「〔「述異記」にみえる爛柯らんかの故事から〕
わずかな時間だと思っているうちに、長い年月を過ごすこと。時のたつのが早いことのたとえ。 → 爛柯」
とある。この故事については、同じコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「(晉の王質が山中で仙童の囲碁を見ていたが、一局終わらないうちに、手にした斧の柄が腐ってしまい、村に帰ると、もとの人はすでに亡くなっていた、という「述異記」に見える爛柯(らんか)の故事から) 僅かな時間と思っているうちに、長い年月を過ごすことのたとえ。何かに気をとられていて、あっという間に時間が過ぎてしまうことのたとえ。
※東大寺諷誦文平安初期点(830頃)「豈に法の庭に斧柄(ヲノノエ)朽(くち)不(ざ)らめや」
※古今(905‐914)雑下・九九一「ふるさとはみしごともあらずおののえのくちし所ぞこひしかりける〈紀友則〉」
とある。
仙境では時間の流れが異なるのか、浦島太郎もそうだし、二十九句目にも、
月よりおくの夜の仙口
かへるさは千とせへならん朝朗 守武
の句があった。
この句の場合、斧を取り出して、早くしないと斧の柄が腐っちゃうぞ、とせかしている場面だろうか。昼だったら日が暮れちゃうぞというところだが。
七十二句目。
斧の柄の一ちやう二ちやう取り出でて
子どもをつるる山がつの道 守武
山がつの親子は子供も斧を持っている。ほのぼのとする光景だ。
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