2020年2月17日月曜日

 マルクス・ガブリエルはちょっと誤解しているようだが、科学は一つの世界を作ろうとしているのではない。ただ仮説と検証のくり返しで真理の近似値を得ようというだけのものだ。
 宇宙を量子の集まりに還元したり、三次元空間+時間をもっと多くの字弦の一部にしようとするにしても、人間の意識を脳の働きだとしたにしても、日常的な経験の世界を否定するものではないし、その背後を語っているのでもない。ただ、日常的に経験している世界のより良い説明を探求しているだけだと思う。
 科学は決して統一されて一つの世界を形作っているのではない。実際に相対性理論と量子力学と熱力学を統一する理論がないのが何よりもそれを証明している。科学は個々に発見された法則の集合にすぎず、それが相互に結びつきながら大きな体系を作っていても、すべてが統一されているわけではない。
 まして、検証困難な分野では今だに複数の仮説が共存している。これも「一つの世界」に反する。
 科学は世界を捉えるための網のようなもので、その網は一つではないし、その網から漏れているものもたくさんある。科学は完全ではないが、きちんと検証された知識は間違いなく役に立つ。むしろ永遠に不完全で永遠に未完成であるのが科学だ。いきなり超越を持ち出して完全な一つの世界を仮定する形而上学とは一緒くたに出来ない。
 だから科学は一つの意味の場を構成はするものの、他の意味の場を否定することはない。
 ただ、科学万能主義となると当然そこには弊害が出てくる。未完成なのが科学なのに、それを完全なものと勘違いするなら、それは間違っていると言わねばならない。
 科学万能主義の弊害は、まさに今のこのCOVIT-19ががそうなのではないか。
 科学は仮説検証のくり返しだが、検証されないものについては「わからない」が正しいのだが、科学万能主義者は「ない」とみなす。
 今回のCOVIT-19では世界的に検査キットが不足している。
 ダイアモンド・プリンセス号でも、五人の検査官で一日百人程度の検査がやっとだったため、検査の速度が感染の速度に追いつかなかった。
 これは日本の縮図でもあるし、世界の縮図でもある。2019-nCoVの検査を受けられた幸運な人はほんのわずかしかいない。公表されている感染者数はその中のさらに一部にすぎない。それこそ宝くじに当たるようなものだ。
 WHOも政府もこれを唯一科学的な数字とみなし、それを基に未だ流行していない、安全だを繰り返している。
 感染していながら未だに検査を受けていない人や、検査を受ける前に死んでしまった人がどれ程いようとも、彼等からすればそれは魔女や雪男や宇宙人と同じだ。「観測されてない以上、存在しない」というわけだ。
 間違えてはいけない。観測されてないものは「わからない」のであって「存在しない」のではない。
 科学が完全でないからといって、科学に対して精神が完全な世界として存在することもない。
 意味は個々の人間にとっての意味にすぎず、それが不断の会話によって用例を積み重ねることで一般的な意味を生じるにしても、意味はただ個々においてしか現れない。
 科学は仮説検証のくり返しによって真理を得ようとする者同士で情報交換する中で生じた経験の蓄積であって、科学の体系そのものが世界なのではない。ただ蓄積された経験が各自にとって一つの意味の場を作るにすぎない。
 科学の受け止め方は決して万人にとって等しいわけではない。それでも会話の蓄積によってある程度の一般的な意味の場を形成することが出来る。
 構築主義の間違いは、こうした一般的な意味の場があたかも個人的な意味を超えて存在しているかのように錯覚しているところにある。
 芸術作品の感動は芸術自体に内在する精神によるものではなく、あくまで個々の大事な記憶や体験が引き出されることによって生じる。そして、そこに何らかの普遍的な傾向があるとしたら、それに対して進化によって獲得された何かを仮説として立てることはできる。
 宗教に関してもフェティシズムは一神教の論理であり、多神教の根底にあるのは「わからない」ということで、「わからないもの」が存在することによって自らの無知を知り、人智の限界を知る。
 「わからないもの」があるからこそ、人はそれを問い、仮説を立て、検証を繰り返す。こうしてわかるものを増やして行くのだが、それでもまだわからないものがあるということで、科学は進歩し続けることが出来る。科学が万能なら、もはやそれ以上進歩はない。

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