2020年2月2日日曜日

 新型肺炎を死亡率が低いからって侮っている人がいるが、致死率が低いことが却って曲者だったりする。元気な人がキャリアになるとそれだけ無自覚の内に拡散されてしまうからだ。それでいて行く先々のお年寄りや子供や体の弱い人に死をもたらしてゆく。
 とにかくあの一千万都市の武漢がわずか一ヵ月半で空っぽにするようなウィルスだ。それが東京で起こらないという保証はない。日本の医療技術が高いといっても過信は禁物だ。
 みんな、頑張ろう。ウィルスに勝利しよう。
 あとイギリスにブレクジットおめでとう。でも筆者はスコットランドの独立も支持している。世界の多様性のためにも国家はより細分化されたほうがいい。カタルニアもクルディスタンも香港も台湾も頑張れ。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 二十九句目。

   月よりおくの夜の仙口
 かへるさは千とせへならん朝朗   守武

 「朝朗」は「あさぼらけ」と読む。
 これは浦島太郎ネタか。帰る頃には千年のときが経っているだろうか、と仙界は時間の経過が違うようだ。竜宮城も仙界の一種といえよう。
 豊田有恒のSFに浦島太郎UFO説があったが、たしかに相対性理論を髣髴させる。仙界は月の向こう側(宇宙)にあったのだろう。
 三十句目。

   かへるさは千とせへならん朝朗
 ひとにあへるはめでたからずや   守武

 前句の「千とせへならん」を比喩として、明け方帰って行く男を見送るときは千年の別れのような苦しみを感じる。
 別れの辛さを思えば逢わない方がいいのかというと、もちろんそんなことはない。「めでたからずや」は反語になる。
 三十一句目。

   ひとにあへるはめでたからずや
 留守としもいはればいかがをちありき 守武

 「をちありき」は遠くを歩くこと。
 遠くまで出かけていっても留守だったら残念だ。それを思えば逢えるというのは目出度いことだ。
 三十二句目。

   留守としもいはればいかがをちありき
 案内申すかどはあをやぎ      守武

 『連歌俳諧集』の注に五柳先生(陶淵明)のこととある。家の前に五本の柳があったという。
 はるばる遠くから五柳先生を訪ねてきたのなら、留守だといけないので案内します。
 三十三句目。

   案内申すかどはあをやぎ
 たれぞとて百千鳥足踏みいでて   守武

 陶淵明は仕官の話をことわるために、使者がきたときわざと酒を飲んでべろんべろんの状態で出てきたという。ここも同じネタが続いている。
 百千鳥足は千鳥足の強化形か。
 三十四句目。

   たれぞとて百千鳥足踏みいでて
 そなたさへづりこなたさへづる   守武

 百千鳥足をそのままたくさんの千鳥の足とする。
 三十五句目。

   そなたさへづりこなたさへづる
 あぢきなの心のほどや舌の先    守武

 前句の囀りをおしゃべりや噂話の比喩として、舌先三寸の思うようにならない世間の情とする。
 三十六句目。

   あぢきなの心のほどや舌の先
 おもふあたりは大蛇すむかげ    守武

 前句を大蛇がいると聞いて尻込みする男に対しての言葉とした。
 やはりそこは助けに来て欲しいものだ。大蛇を倒せば伝説の剣が手に入ったりするのだろう。アマノムラクモのような。

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