2019年3月31日日曜日

 今日は近所でお花見。ソメイヨシノは八分咲きといったところか。このまま花冷えが続いてくれれば来週もまだ咲いているかな。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、下巻ニ、
 名月や座にうつくしき㒵もなし      翁
 此句、『名月の座にうつくし』とあり。此発句にて一歌仙あり。予うつし置ぬ。
 名月の『名』の字に、明の字如何。名月ハ八月十五日一日也。明月ハ四季に通ズ。明の字、書事あるや。かかぬ法とハきき侍りぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.121)

 この句の元の形は、

 月見する座にうつくしき顔もなし    芭蕉

で、元禄三年八月十八日付の加生(凡兆)宛書簡に見られる。「名月散々草臥、発句もしかじか案じ不申候」とあり、八月十五日の句ではないようだ。
 歌仙もこの形で、享保七年刊の『夕がほの歌』に収録されている。尚白との両吟で、表六句は以下のとおり。

 月見する座にうつくしき顔もなし    芭蕉
   庭の柿の葉みの虫になれ      尚白
 火桶ぬる窓の手際を身にしめて     仝
   別当殿の古き扶持米        芭蕉
 尾頭のめでたかりける塩小鯛      仝
   百家しめたる川の水上       尚白

 書簡は興行について触れてないが、八月十八日より後の可能性もある。
 許六の写し持っていた歌仙の発句の上五が「月見する」だったのか「名月の座にうつくし」と直されていたようだ。芭蕉自身が直したのか、定かではない。
 公刊されたのは風国編の『初蝉』が最初で、

「名月や兒たち並ふ堂の橡       芭蕉

とありけれと此句意にみたすとて

 名月や海にむかへは七小町      仝

と吟しても尚あらためんとて

 明月や座にうつくしき皃もなし    仝

といふに其夜はさたまりぬ
   これにて翁の風雅にやせられし事を
   しりて風雅をはけまん人の教なるへ
   しと今茲に出しぬ」

とある。
 三句とも『初蝉』が初出なので、この記述を信じるしかないだろう。芭蕉が興行の前に発句をいくつか作ってその中の一つを選ぶことは、「此道や」の句と「人声や」の二句を支考に選ばせた例でも知られる。尚白との両吟興行の前に、三句候補を作ったことは十分考えられる。
 ただ、このとき成立した句の上五は「月見する」で、「明月や」は後に芭蕉が作り直したものであろう。
 『三冊子』「あかさうし」にも、

 「明月や座にうつくしき貌もなし
 此句、湖水の名月也。名月や兒達並ぶ堂の縁、としていまだならず。名月や海にむかへば七小町、にもあらで、座にうつくしき、といふに定まる。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.117)

とある。
 名月か明月かについての議論は、『去来抄』にも見られる。

 「去来曰、許六と明月の明の字を論ず。
 予は第一、八月十五夜婁宿也。清明を用ゆる。
 第二、和歌にも今宵清明を詠メり。
 第三、詩にも清明の字有あり。
 第四本朝の習ならひ字儀叶ふをかり用る事有。
 富士を不二、吉野を芳野と書るがごとし。先達も明の字書れたる多し。

明の字書て苦しからじといふ。
 許六曰いはく、明月と八月十五夜とは和歌題格別也。名月は良夜の事也ことなり。名月に明の字は未練といふ。此論至極せり。若し明月の題を得て、中秋の月を作せば放題なるべし。名月に明の字を書間敷事必せり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.57)

 明月は清明の頃の月で秋の月に用いられたことはあったのだろう。これに対し「名月」は八月十五日の中秋の名月に限定される。許六の論はそこに極まる。
 ただ、芭蕉の「明月に」の句が八月十五日の興行ではなかったとしたら、「名月」ではない。書簡からそのことは確認できる。ゆえに「明月」でOKとしたい。
 問題は「明月や」の「や」の切れ字のほうだが、確かに「皃(かほ)もなし」を結んで「や」は変な感じがする。許六の言うとおり、

 明月の座にうつくしき皃もなし

の方が収まりが良い。この形のほうが芭蕉らしい感じがする。
 ただ、許六が書き写したという情報だけで、証明するとなると難しい。今は「明月や」の形で通っているが、後に真蹟が発見されれば定説が覆る可能性はある。
 「うつくしき皃もなし」は両吟の発句と見れば、「二人っきりだね」という意味になる。稚児たちがいなくても、七小町がいなくても、君がいればいいんだよって、芭蕉さんそれは‥‥。
 尚白はこのとき四十。当時としては初老で、まあ「うつくしき顔」ではないだろうけど。

2019年3月30日土曜日

 ジュゴンが死んで十日が過ぎたが、未だに死因についての発表がない。
 最初の報道では傷がどうのこうのとあって、右翼左翼両方でアンタが殺したみたいになってたが、ジュゴンネットワーク沖縄の細川太郎事務局長さんは、死につながるような傷などは確認できなかったとしている。
 ただ、政治的に利用価値がないとなると、そのまま報道の方が沈黙してしまう可能性がある。それではジュゴンも浮かばれない。浮かんでいたのに。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、上巻に、
 笠持て鵜篭をのぞく宵月夜  ヒコ子 朱廸
 『笠持て』にてなし。『箸持て』也。やがて立出むと、したためなどしながら、鵜篭をのぞくさま也。
 下輩の情をよくいひなし、よき俳諧なりと作者も自慢せしに、『笠持て』にて、作者も力おとし侍る。これらハ見あやまりにして、しいてあやまりにあらず。次でに爰に記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.119)

 朱廸(しゅてき)も彦根の作者で、許六に語ったのであろう。

 箸持て鵜篭をのぞく宵月夜     朱廸

 当時の鵜匠の暮らしがどうにも思い浮かばないので、すんなりと伝わる句ではないが、当時はすぐにわかる句だったのだろう。
 「鵜篭」は鵜飼に使う鵜を入れておく篭で、取れた魚を入れておく吐き篭とはちがう。箸を持って鵜篭を覗くというのがどういう場面なのかはよくわからないが、当時のあるあるだったのだろう。
 「やがて立出むと、したためなどしながら、鵜篭をのぞくさま也」と許六が言うのだから、これから漁に出ようとする時に、準備のために鵜篭を覗く場面には違いない。箸を何に使うのかがよくわからない。
 「宵月夜」は鵜飼が月が沈んで真っ暗になってからはじめるものなので、準備の頃はまだ月が出ているという意味。
 「見あやまり」というのは、草書で書いたとき「笠」と「箸」は棒一本多いくらいで似ているから、そう判断したのだろう。

 「一、上ニ、
 おもしろうやがてかなしき鵜舟哉   翁
 此句、五文字にて文字あり。則校考に見えたり。
 其上、晋子が方より申こし侍るなどまで書侍るならバ、委敷あら野集を見せたし。
 此句あら野に出て、一天下三歳の童子までおぼえたる句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.119~120)

 「五文字にて文字あり」は、「五文字に『て』文字あり」で、「おもしろう」のあとに「て」の字があったというもの。即ち句は今に伝わる通り、

 おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉  芭蕉

になる。『阿羅野』に収められている。当時は三歳の子供でも知っている句だったという。

 「一、下巻に、
 七夕やいはむ事なし夜半過   イガ 猿雖
 此『七夕や』の『や』もじ、うたがひのや也。『事なし』と切字二ツ入たり。
 『七夕や』の『や』字、曾ていらぬ字也。入て慥ニならず。
 何事ニ『七夕や』とハうたがひ侍りけるぞ。下にてハ、『いはん事なし』と決定して、上にうたがひ、益なし。『七夕の』歟、ハとかあるべき句也。かやうの文字加筆する事、撰者の役也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.120)

 今日のように詠嘆の「や」に慣れていると、許六のこの指摘は「はあ?」って感じで、昔の人の文法知識はこの程度だったかということになりかねないが、許六は芭蕉などが用いていた古い係助詞的な「や」の用法を知った上で言っている。間違いはない。
 系助詞的な倒置により、疑問の「や」を前に持ってきた用法で、それゆえ他の助詞に変わることができる。

 七夕のいはむ事なし夜半過
 七夕ハいはむ事なし夜半過

 こちらの方が収まりが良い。これが芭蕉の時代の感覚だ。
 蕪村の頃になると詠嘆の「や」が広まり、今日の言語感覚に近くなる。

 「愚が集の時、カガ北枝が句ニ、
 かべ土の道せばめけり花盛
ときこえたり。『かべ土の』といふ『の』の字きこえず。『かべ土に道せばめけり』と加筆せし事あり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.120)

 文庫版の注にもあるが、『韻塞』(許六・李由撰)には、

 壁土に道せばめけり花ざかり    句空

とある。手直しされたことに北枝が不服で、弟子の名にして載せたのかもしれない。
 壁土は土壁のことで、土を塗った壁は分厚く、その分道が狭くなるし圧迫感もある。
 蔵や立派な屋敷の壁に用いられるので、道を狭くしているのはもっぱら金持ちだ。せっかくの花盛りだというのに無風流な、といったところか。
 「壁土の」でも「壁土が」の「が」に変わる「の」で、意味が通らなくはない。ただ、「壁土の道」まで一続きに読んでしまうと、壁土の道が何で狭くなったのかと取られやすくなる。「壁土に」の方がわかりやすい。
 ただ、北枝の意図としては、壁土に区切られた道を人がたくさん通るから花盛りの時には道が狭く感じるという意味だったのかもしれない。これだと「壁土の」の方がいい。

2019年3月28日木曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「一、上巻ニ、
 夏草に肥たり鹿のむしり喰ひ    惟然
 「肥たり」と切て、又「鹿のむしり喰ひ」、かやうのてにハるづきあるべしともおもえず。
 句の心かくれたる所なければ、其分にききなして、人々をくと見えたり。眼あるもの一度にらむ時ハ、一字もゆるさず。
 六百番の歌合等の詞を見るに、つづき・いひくだし、大事ニ論じ給ふ事、翁の俳諧専ラ俊成卿の論にかハる事なし。
 又定家の卿ののたまひける、歌ハつづけがらにてよくもあしくもなる、柿の本のつつミといへるとのたまひけるたぐひ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.117~118)

 句意は明瞭で、鹿が夏草をむしり喰いするので太ったということだ。それをおそらく、「夏草に肥えたり」で始めることで、聞く人が「何で?」と思ったところで「鹿のむしり喰ひ」で落ちにしている。「鹿のむしり喰いて夏草に肥えたり」の倒置。
 まあ、意味が通るからと、人々のこれでいいと思いがちだが、許六さんは眼のある人だから、「一度にらむ時ハ、一字もゆるさず。」となる。別にいいじゃないかと思うが、こういううるさい人がいるからこそ、当時の文法についての手懸りを今日に残してくれているといってもいい。
 何が悪いのかというと、倒置にする時に「むしり喰いて」の「て」が抜け落ちて「鹿のむしり喰い夏草に肥えたり」の倒置になってしまったということだろう。「て」があれば原因結果の関係が明瞭になる。「て」が抜ければ、「鹿のむしり喰い、夏草に肥えたり」と二つの文章に割れてしまう。それが続きの悪さの原因ではないかと思う。
 たいたい鹿というのは一年中むしり喰いするもので、夏は草が豊富だから肥えるというだけのことだ。
 多分「むしり喰い」という言葉が俳言として面白いので、使ってみたかったのだろう。だがここでは、倒置にして落ちをつけるという続き方の方に目が行き、「むしり喰い」という言葉自体が生かされてないように思える。

 むしり喰い鹿は肥えたり夏の草

の方がまだ良かったのではないかと思う。

 「一、いせ萩や鵜の涼む夜の風の音  彦根 馬仏が句
 是荻を萩とよみあやまり、進むを涼むとよみ違ひたると見えたり。
 すすむの字ニハ、進の字をはたに付て遣したる也。かやうの見あやまりハさもあるべし。
 しかし伊勢萩にてハ、一句きこえがたし。何とききなして、撰集へハ入給ふぞ、いぶかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.118)

 この句は正しくは、

 いせ荻や鵜の進む夜の風の音

だという。彦根の作者だから、作者自身が本当はこうだったと許六に語ったのか。
 いせ荻は『菟玖波集』の、

   草の名も所によりてかはるなり
 難波の葦は伊勢の浜荻       救済

から来たもので、芦の別名。ただ、芦だけだと季語にならない。この句の場合は「荻」の字があるから秋になるのであろう。そうなると「涼む」という夏の季語が邪魔になる。
 句意としても「萩の下露荻の上風」と言われるように、荻吹く風の悲しげな中に鵜の泳ぐ様を詠んだのであろう。「鵜の進む夜のいせ萩の風の音や」を「いせ萩の鵜の進む夜の風の音や」と倒置にして、さらに「や」を倒置して前に持ってきてできた句だ。
 これを、

 いせ萩や鵜の涼む夜の風の音

にしてしまうと、確かに意味がよくわからない。撰者があえてこの句を採ったのか、それとも出版する段階で清書した人が聞き違えたか、多分後者であろう。

 「『いせの浜荻』といふ事を五文字ニいはば、『いせ荻』とハいはれべきものと、作者の発明也。證歌あるニ非ズ。本歌あらバおかしからず。
 『いせ荻』と、てにはをぬきていふもあるべし。『いせ浜の荻』とハいひがたからんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.118~119)

 「伊勢の浜荻」という言葉は古くからあるし、歌にも詠まれた雅語で、

 あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて
     妹恋しらに見つる月かな
              藤原基俊(千載集)

の例がある。ただ、「伊勢荻」という雅語があったことを証明する證歌はない。作者である馬仏の造語だという。この種の俳言は俳諧の常で厭うものではない。ただ「伊勢浜の荻」だと単に伊勢の浜に生えている荻になってしまうので微妙な所だ。「伊勢荻」だとそういう特別な種類の荻(通常の荻とは別物)があるという連想が働く。

2019年3月27日水曜日

 東京都心部の桜に満開宣言が出たが、実際は六分咲きくらいの印象を受ける。
 日本気象協会によると、「満開日は標本木で80%以上のつぼみが開いた状態となった最初の日」だそうで、靖国神社にある標準木が八部咲きになったら満開と言っていいというわけだ。
 まあ、早く満開宣言をした方が景気付けになるというところか。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、上巻ニ
 春風や焼野の灰の跡もなし  長サキ 笑計
 是又同じ事也。
 「跡もなし」といひ切て、「春風や」とうたがひのやいかが。
 是も二ツ切字入たり。古来ハ五文字ニやとしてハ、中ノ七字にてとおかせず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116~117)

 「や」の用法は時代によって変化し、特にこの頃からちらほらと詠嘆の「や」のような用例が出てくる。蕪村の時代になると、

 菜の花や月は東に日は西に     蕪村

のように詠嘆の「や」が定着し、近代に至っている。
 蕪村のこの句は、

 菜の花に月は東に日は西に
 菜の花の月は東に日は西に
 菜の花は月は東に日は西に
 菜の花を月は東に日は西に
 菜の花と月は東に日は西に

など他の助詞に置き換えても意味が通じない。これに対し芭蕉の時代は他の助詞に変えて意味の通るものがほとんどだ。
 鈴呂屋書庫の『奥の細道─道祖神の旅─』の「七夕の二句」のところで、芭蕉の句で「や」と別の助詞と入れ替わっているものがたくさんある事に触れた。ここでも示しておく。
 1、「は」と「や」の入れ替わっているもの

 俤や姨ひとり泣月の友   『更級紀行』
 俤は姥ひとりなく月の友『芭蕉庵小文庫』

 曙はまだむらさきにほととぎす (真蹟)
 あけぼのやまだ朔日にほととぎす『芭蕉句選拾遺』

 大津絵の筆のはじめは何仏  『勧進牒』
 大津絵の筆のはじめや何仏  『蓮実』

 名月はふたつ有ても瀬田の月 『泊船集』
 名月やふたつ有ても瀬田の月『蕉翁句選』

 降ずとも竹植る日は蓑と笠  『笈日記』
 降ずとも竹植る日や蓑と笠 『こがらし』

 2、「の」と「や」の入れ替わっているもの

 さびしさの岩にしみ込む蝉のこゑ 『こがらし』
 淋しさや岩にしみ込むせみの声 『初蝉』

 中山の越路も月は又いのち 『芭蕉翁句解参考』
 中山や越路も月は又いのち 『荊口句帳』

 文月の六日も常の夜には似ず 『泊船集』
 文月や六日も常の夜には似ず『奥の細道』

 国々の八景更に気比の月  『荊口句帳』
 国々や八景更に気比の月 『芭蕉翁句解参考』

 さみだれの雲吹おとせ大井川 『笈日記』
 五月雨や雲吹落す大井川『芭蕉翁行状記』

 名月の花かと見へて棉畠   『続猿蓑』
 名月や花かと見へて綿ばたけ 『有磯海』

 松風の軒をめぐって秋くれぬ 『泊船集』
 松風や軒をめぐって秋暮ぬ  『笈日記』

 白菊の目にたてて見る塵もなし『笈日記』
 しら菊や目にたてて見る塵もなし 『矢矧堤』

 3、「に」と「や」の入れ替わっているもの

 須磨寺に吹ぬ笛きく木下やみ『続有磯海』
 須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ 『笈の小文』

 柚花にむかし忍ばん料理の間『蕉翁句集』
 柚花や昔しのばん料理の間 『嵯峨日記』

 草の戸に日暮れてくれし菊の酒 『きさらぎ』
 草の戸や日暮れてくれし菊の酒『笈日記』

 夕顔に酔て顔出す窓の穴  (芭蕉書簡)
 夕顔や酔てかほ出す窓の穴  『続猿蓑』

 4、「を」と「や」の入れ替わっているもの

 その玉を羽黒にかへせ法の月 『泊船集』
 其玉や羽黒にかへす法の月 (真蹟懐紙)

 あさむつを月見の旅の明離 『荊口句帳』
 あさむつや月見の旅の明ばなれ 『其袋』

 行春を近江の人とをしみける  『猿蓑』
 行春やあふみの人とをしみける (真蹟懐紙)

 この道を行人なしに秋の暮 (芭蕉書簡)
 此道や行人なしに秋の暮    『其便』

 5、「と」と「や」の入れ替わっているもの

 川上とこの川下と月の友   『泊船集』
 川上とこの川しもや月の友  『続猿蓑』

 許六がここに示した、

 春風や焼野の灰の跡もなし     笑計

の句は、

 春風に焼野の灰の跡もなし

で意味が通じる。だからこの「や」は詠嘆とは言えない。疑いの「や」で正しい。「春風に焼野の灰の跡もなきや」の倒置になる。だから、

 春風や焼野の灰の跡もなき

ならまだわかる。ただ意味的にここは疑う場面かどうかというと、春風が吹いて草が一斉に萌え出でて、野焼きした痕跡が瞬く間に消えてゆくという意味で、疑う理由はない。だからこの場合は、

 春風に焼野の灰の跡もなし

の方がいい。

2019年3月26日火曜日

 今日は午前中雨が降った。午後から天気は回復し、ソメイヨシノもまた一段と開いたようだ。街路樹が桜のトンネルになりつつある。
 それにしても、蕉門の俳諧のてにはの細かなニュアンスというのは、あの時代の言葉のネイティブではないので、なかなかわかりにくい。
 当時の人はダイレクトに理解できたことでも、今日ではただ推測するしかない。
 どんな言語の習得でも、結局文法学習だけでは駄目で、とにかく数多くの用例に接し、感覚的に鍛え上げていくしかないのだろう。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「文章に、「何久敷不能対面」と書てハ、何と云字きこえず。歌・俳諧ハ文章也。俳諧平話よろしといへ共、吟味とげての上ニ用ざる事ハ、つたなき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116)

 「何久敷不能対面」は漢文っぽいが「久敷」って漢語なのか?ネットで見ると日本の漢文では習慣的に使われてるようだ。
 「何」が世俗の平話で俳諧にふさわしくないなら、「久敷」も日本語の「ひさしく」の当て字で本来の漢文ではないのではないか。

 「何の木の花ともしれぬ匂ひ哉
といへるハ、何の字、「匂ひ哉」と切字重畳せざるとおもへり。「花ともしれぬ」とまハり、「何の花の」とまハるゆへに、きこえ侍る也。「何風も吹ぬ日落る椿哉」とハまハらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116)

 これは芭蕉の句で、

 何の木の花とはしらず匂哉     芭蕉

が正しい。許六の記憶違いか。
 この句は省略されていて、「何の木の花とはしらず(に嗅いでいる)匂哉」になる。匂いは事実だが、「何の木の花とはしらず」は主観的な言葉で、哉で治定するにふさわしい。
 許六の言いたいのもそこで、「匂ひ哉」に「花とも知れぬ」が掛かり、それにさらに「何の花」と掛かるため、「何の木の花ともしれぬ匂ひ」が一まとまりの言葉になり、その全体を「哉」で治定しているから意味は明瞭だということだ。

 「芭蕉葉ハ何になれとや秋の風
 是「何」といひ、又「や」といひ候(候は文庫版では合略仮名で表記されている、フォントなし)へ共、「何になれとや」ハ、何といふ字のてにハの中ニて、外の言葉なし。かやうの発句いくらもあるべし。論ずるにたらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116~117)

 「何」と「や」は二つの切れ字ではなく、「何になれとや」で一つの言葉だということに異論はあるまい。

 「此次、さるミの何事も無言の中ハしづかなりの論、書入べし」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.117)

 文庫版の注には「この小書「板本」、「随本」にはなく、「五本」「去本」等には本文並みに書入れてあり、「露本」は小書にしてある。」とある。
 『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻の、

   はきごころよきめりやすの足袋
 何事も無言の内はしづかなり    去来

の句について何事か書こうとして、そのことをメモしていたように思われる。
 「何事も」は疑問の「何」ではないので、切れ字にはならない。それに付け句だから本来切れ字はなくてもいい。
 「何事」といえば、

 何事ぞ花みる人の長刀       去来

という発句もある。

2019年3月25日月曜日

 『俳諧問答』の続き。

 治定(じじょう)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」を見るとこうある。

 1 決定すること。落ち着くこと。〈和英語林集成〉
「連歌はなほ上手になりてのちも善悪をひしと―する事はかたし」〈連理秘抄〉
 2 きまりきっていること。また、そのさま。必定(ひつじょう)。
「それがしは、君を御代に出だし申すぞ。―なり」〈狂言記・七騎落〉
 3 連歌・俳諧で、推敲の結果、句形が決定すること。また、切れ字により1句の表現を完結すること。
「『や』と言ふ文字は―の切れ字」〈伎・名歌徳〉

 治定は断定ではない。いろいろ疑いがありながらも最終的に決定することを言う。
 付け句では、出勝で誰かが句を言い出ると、それを吟味して、あるいは他の案を考慮したり、若干語句を変えたりして最終的にこの句で行こうというのが治定だ。
 「哉」が治定だというのは、哉で言い切る言葉がたいてい主観的な内容で、比喩の場合が多い。

 木のもとに汁も膾も桜かな     芭蕉

の句は、汁や膾が物理的に桜になることはないが、心情的には桜も同然だということで、あえて断定を避ける感じで「なり」ではなく「哉」になる。

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉

の場合も、柳を雨に喩えたもので、その柳の大きさもきっちり計って八九間ということではない。やや大袈裟に木より遥かに大きな範囲で雨が降っているようだという意味。事実でないのでここも「なり」ではなく「哉」になる。
 では、

 鶯の笠落したる椿哉        芭蕉

はというと、やはり鶯が本当に笠を被っていたわけではなく、あくまで比喩で「笠を落としたような椿だ」という意味だから、ここも「なり」ではなく「哉」となる。
 これに対し、

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり    芭蕉

の場合は、本当に猿が小蓑を欲しがっているわけではないから「欲しげ哉」になってもよさそうだが、「欲しげ」の「げ」のなかに既に本当に欲しがってるのではないことが記されているため、重複しないよう「なり」になる。「猿も小蓑を欲す」だったら「哉」になる。

 「うぐひすの笠落したる椿哉
といへるハ、全体治定の哉也。「何風も吹ぬ日落る椿哉」ハ全体うたがひ也。上の何と云字きこえず。
 何風も吹ぬ日落る赤椿
と成共、白椿と成共いへば、成程きこえ侍る。又
 雨風のせぬ日も落る椿哉
といへ共、又きこえ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114~115)

 「うぐひすの」の句が全体治定なのはわかる。ただ「何風も吹ぬ日落る椿哉」は果して疑いかどうかは疑問だ。むしろ何の風も吹いてない日なのに椿が落ちたという事実を述べたという感じがする。たとすると治定の「哉」でも断定の「なり」でもなく、叙述の「けり」が良いように思える。

 何風の吹ぬも椿落ちにけり

が筆者的には正解だと思う。
 許六の、

 何風も吹ぬ日落る赤椿

は「何風も吹ぬ日赤椿落る」の倒置で、「落る」は治定でも断定でもない。「落ちにけり」に近い言い回しといえる。

 雨風のせぬ日も落る椿哉

だと「何」と「哉」の重複は避けられるが、「雨風のせぬ日も落る」が比喩でも何でもなく主観としては弱いので、治定の「哉」がそれほど生きているとは思えない。

 「何風といへるハ、風の惣名をすべていはむ為の五文字と見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.115)

 「惣名」は総称のこと。春風、そよ風、強風、春嵐、など風にもいろいろあるが、そのすべてということ。否定の言葉と組み合わされると、嵐どころかほんの微風すらないのに、という意味になる。

 「是世俗の平話にいひあやまりたる事を、歌・俳諧につらねたる詞也。
 此句にかぎらず、何といふ字多クいひあやまりたる句、世間にいくらも有。此論にてよくしれたり。
 何と云字の間に句を切て見侍れバ、落着よくきこえ侍る。
 惣別平話を文字に書違侍る事在リ。分別なしに書侍れバ、あやまり多し。たとへバ「何と久敷あハぬ」といへる詞など、何の字曽てきこえね共、下畧の詞也。其下に「無事なるや」といふ事を、何と云字にもたせたる言葉也。よくききしりて互ニ合点し来れり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.115~116)

 「何と云字の間に句を切て見侍れバ、落着よくきこえ侍る。」というのは、たとえば、

 何ぞ、風も吹ぬ日落る椿

ということか。これだと確かに「疑い」の句になる。この場合の何は惣名ではない。
 「何と久敷あハぬ」の「何と」は単なる強調の言葉として用いられている。今日でも「何と」は用いられる。この場合は「何て久しぶり」だが。
 「いろいろな事情が考えられるが、それらすべてひっくるめて何がともあれ」が「何と」になったとすれば、この何も「惣名」をいうためのものと言える。

2019年3月24日日曜日

 今日は六義園のしだれ桜を見に行った。人も多かったが大きな木が満開で、まさに「灰汁桶の」の巻の三十五句目、

 糸桜腹いっぱいに咲にけり     去来

だった。この句も花の定座で「花」ではなく「桜」にしたという意味では、「底を抜いた」のだろう。
 そのあと染井吉野発祥の地、旧古河庭園、飛鳥山公園を散歩した。ソメイヨシノはまだ二分咲きくらいだが、飛鳥山公園の花見は盛り上がっていた。
 それでは『俳諧問答』の方に戻るとしよう。

 「通書の中ニ、切字。古事。古詩・古歌の用る法など、かれこれのせられたり。
 師説同じ趣をとき給ふといへ共、千変万化して天地に独歩の人なれバ、今日の論、明日ハ同じ事いはず。
 先生のきき給ふ所、予がきく所、少々違ひハあるらん。なれ共、小耳ニはさみ置所、予が発明自得の下ニ記ス。
 あハれ閑暇を得て、先生の伝授し給ふ処、幷先生の発明を合してききたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.111)

 ここからしばらく、まず切れ字について論じてゆくことになる。
 ただ、芭蕉の説も変わってきているので、先生(去来)が聞いたのと予(許六)が聞いたのでは違いがあるので、ここでは予(去来)が小耳にはさんだことと自得したことを記すことになる。
 ここで少々飛ばして、実例のある所から入ることにする。

 「一、初蝉上巻ニ、
 鶯の噂さや舌も引入れず  大ツ 箕香
 此句、噂さやと切て、又舌もといふ珍敷つづき也。鶯の噂の舌も引入れず、といふ事也。心ハかくれたる事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.113)

 句は「鶯の噂(うわさ)の舌も引入れずや」の倒置で、「や」を「の」の位置に持ってきたものだ。
 誰かが鶯を聞いたという噂話は黙っていることが出来ない、という意味か。「心ハかくれたる事なし」というから、当時の人ならすぐ分かる句だったのだろう。

 「其分ニ見やりて捨ツ。切字さへ入るれバ、発句と心得ぬる作者幷撰者同前と見えたり。是にてもきこえるといへば、是非なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.113~114)

 『初蝉』は風国の撰で、元禄九年刊。
 末尾の「や」を係助詞的に前に持ってきて倒置にする事自体は間違った用法ではない。ただ、持ってくる位置が問題で、「噂さや舌も」は変だということだ。「鶯や噂の舌も引入れず」だと鶯が聞こえたが噂の舌もになってしまうし、「噂の舌や」でも変だし、確かにどこに持ってきても納まりが悪い。
 これは「鶯の噂の舌も引入れずや」に、倒置にして強調すべき語句がないせいなのかもしれない。「鶯の噂」は意味的に一塊だからここに「や」を入れて分断すると意味側からなくなる。「舌も引入れず」も一塊だから、強いて言えば確かに「噂の」と「舌も」の間ということになる。
 難しい所で、ここは「ず」の終止形を切れ字として「の」のままでよかったのかもしれない。

 「一、上巻ニ、
 何風も吹ぬ日落る椿哉   大ツ 梅主
 てにはよろしからず。やとして、哉ととめぬハ新古同じおきてなれバ、何とうたがひて、哉とハとまるまじ。
 椿哉とハ治定の哉なれ共、此句全体うたがひの句也。「しづ心なく花のちるらん」といへる歌にて、一句のうたがひしれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114)

 句は何一つ風も吹いてないのに椿は落ちるんだなあ、という意味で、

 ひさかたの光のどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
               紀友則

の歌と似ている。
 「何風も」の「何」はここでは疑いではなく反語で、末尾の「哉」も治定で疑ってはいない。
 紀友則の歌はこんな長閑な日に何で散ってしまうのだろうか、と散ってしまう花の心を疑っているだけで、花が散ったこと自体を疑っているのではない。
 これに対し、「何風も」の句は風も吹いてないのに椿が落ちるという事実を言っているにすぎない。「風もないのに何で散ってしまうのかな」という疑いの心は表に見えていない。
 許六が「此句全体うたがひの句也」というのはあくまで句の裏なので、表向き治定の句で問題はないように思える。

 「切字二ツ入てきこえぬ故に、二ツ入ぬものと古来定めたるも、かやうの事也。何といふ字をぬきても、又哉と云字ぬきても、一段心きこえて、しかも発句の姿を得たり。
 切字ハ発句の姿を付べき為也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114)

 たとえば、

 いづく時雨傘を手に提げて帰る僧  芭蕉

の句であれば、「傘を手に提げて帰る僧」という事実に対して「いずく時雨」と現前しない時雨を疑うのだから、「いづく」と疑ったあと、帰る僧を疑うことは出来ない。
 この場合は「傘を手に提げて帰る僧はいづくで時雨にあひしや」であるため、「いづく時雨」の「いづく」が切れ字となり、句は体言止めになる。
 これを

 いづく時雨傘を手に提げて僧は帰るや

だと、時雨も疑えば僧の帰るのも疑うで、事実が何もなくなる。

 いづく時雨傘を手に提げて僧は帰るなり

だと、意味的には問題ないが、倒置を元に戻したときに「手に提げて僧は帰るなり。いづくで時雨にあひしや。」と二つの文章に分かれてしまう。
 切れ字を二つ使うというのは、一句を一つの文章ではなく二つの文章に分断してしまうので嫌われたのだろう。
 これを

 時雨けり傘を手に提げて帰る僧

とするなら問題はない。

 時雨けり傘を手に提げて僧は帰るや

と疑われてしまえば、「帰るべし」と答えるしかない。

 時雨けり傘を手に提げて僧は帰るなり

だと二つの文章になる。

 何風も吹ぬ日落る椿哉      梅主

の句に戻るなら、この「何」は哉を強調するだけで二重の治定のくどさはあるものの、文章を二つに切ることはないので、問題はないように思える。
 表にない「うたがい」を読み取ってしまったところが問題ではないかと思う。

 風もない日に何落ちる椿哉

だと「何」は何故の意味で疑いになり、「哉」の治定との食い違いが生じてしまう。この場合は許六の論の通りだ。

2019年3月23日土曜日

 沖縄のジュゴンの死を受けて、今回は俳話ではなくちょっと雑談を。
 いろいろ政治的なプロパガンダが絡んでしまって、沖縄のジュゴンの問題はどうもわけのわからないことになってしまっている。
 かつて沖縄周辺では多くのジュゴンが生息していたといわれているが、明治に入ると乱獲され、特にダイナマイト漁などによって数は激減した。
 また、ジュゴンの餌場である藻場も減少し、近年では目撃例も僅かとなった。
 2007年にはA、B、Cの三頭のみになり、2015年6月24日を最後にCは姿を見せなくなった。B、Cは今帰仁村(なきじんそん)の付近で多く目撃され、Aは嘉陽のあたりにいたが、長く目撃されていない。
 今回、三月十八日午後五時頃、今帰仁村の運天漁港沖で死んだ状態で漂着したのはBではないかと言われている。場所は辺野古の反対側の東シナ海に面した方で、Bが辺野古のある太平洋側で目撃されたことはない。
 2002年から2004年の調査では、東海岸中部(名護市嘉陽、安部、辺野古、東海岸南部(南城市知念志喜屋)、西海岸北部(名護市屋我地島、今帰仁村古宇利島)の6海域で藻場での食跡が確認されていたので、当時は辺野古にもまだジュゴンが来ていたと思われるが、辺野古基地の建設が始まったのが2014年、護岸整備に手を付けたのが2017年なのでそれより遥かに前の痕跡にすぎない。
 基地建設のはるか前から沖縄沿岸のジュゴンは散発的にやって来る個体のみで、繁殖に必要なだけの集団を構成している風ではなかった。おそらくは群れからはぐれた放浪個体だったのではないかと思う。
 辺野古基地の西側には確かにまとまった藻場が存在していて、基地の埋め立て工事はその一部に掛かっている。藻場は遠浅の海岸に多いため、埋め立てのしやすい所は藻場である場合が多い。
 那覇空港の第二滑走路の建設地にも藻場があるが、ここは残念ながら全滅することになる。今後も何らかの埋め立て計画が持ち上がるたびに、藻場の消滅が問題になると思う。
 繁殖可能なだけの十分な個体数を回復させようと思うなら、今ある藻場を守るだけでは無理で、人工的に藻場を造成するといった発想が必要なのではないかと思う。ジュゴンの大きな体を維持するには、それだけの多くの藻を必要とする。
 あるいは完成した辺野古基地の周辺をそうした実証実験の場にするというのも一つの手かもしれない。
 基地の建設をやめたからといってジュゴンが帰ってくるわけではない。ジュゴンはそれ以前からほとんど姿を見せていなかった。日本の左翼、つまり共産勢力は今回のジュゴンの死を反米闘争に結び付けようと躍起になっているし、海外のやはり左翼系の団体がそれに同調しているが、それは必ずしもジュゴンにとって良いことではない。本当に真面目にジュゴンを守ろうとしている人間は、むしろ迷惑しているといってもいい。
 ジュゴンの命に共感する「細み」の心を取り戻してほしいものだ。

2019年3月21日木曜日

 東京の都心で桜(ソメイヨシノ)の開花が発表された。これは靖国神社にある標本木の五、六輪の開花を以て決まるという。
 折から今日は満月で如月の望月の頃。でもまだ死にたくない。「死にたがり」は実は「生きたがり」で、生きようという気持ちが強いほど、挫折した時に強力に死を意識してしまうだけだ。西行法師も七十三まで生きた。
 それでは「鰒の非」の巻の続きを挙句まで。

 二十九句目。

   あはれげもなき講の題目
 三条の橋から西は時雨けり      凉葉

 東海道の終点でもある京都三条大橋の東には、日蓮宗京都八本山の一つの妙傳寺がある。東海道を旅する人にはお馴染みだったのかもしれない。
 三十句目。

   三条の橋から西は時雨けり
 茶屋の二階は酒の楼閣        芭蕉

 三条大橋の南東には祇園があり、茶屋が立ち並ぶ歓楽街だった。二階で飲食する。
 二裏に入る。三十一句目。

   茶屋の二階は酒の楼閣
 うつくしき貌も丈より年ふけて    此筋

 遊女はいろいろ苦労が絶えないのか、まだ若いのに老けた貌をしている。
 三十二句目。

   うつくしき貌も丈より年ふけて
 恨の文をつくる琴の手        千川

 一巻に恋がないのも何なので、遅ればせながらここで恋に転じる。
 琴を出すことで遊女から王朝風の物語に転じる。特に出典のなさそうなところが「軽み」だ。
 三十三句目。

   恨の文をつくる琴の手
 花さけば又来てのぼる塚の上     芭蕉

 前句の「恨み」を死別の恨みとした。
 三十四句目。

   花さけば又来てのぼる塚の上
 馬荷にはさむ蓬たんぽぽ       凉葉

 前句の花をタンポポの花とした。塚もここでは一里塚か。
 荷物を載せた馬を引く人が、ふとそこに蓬とタンポポをみつけ、少し摘んでゆく。蓬もタンポポも食用になる。自分の家に持ち帰る分であろう。
 三十五句目。
   馬荷にはさむ蓬たんぽぽ
 諸雲雀夕日おしげに囀りて      左柳

 蓬やタンポポを摘んで帰る馬曳きに、春の長い日も暮れようとしている。雲雀が名残惜しそうに囀っている。
 挙句。

   諸雲雀夕日おしげに囀りて
 ただよきほどに春風ぞふく      主筆

 春の夕暮れの景色に春風を添えて主筆が締めくくる。さあみんな、風を感じることが出来たかな。

 生きてゆくことは決して楽なことではない。
 ただ人間の生存競争は孤独ではない。一対一の腕力の戦いではなく、あくまで多数派工作の戦いだからだ。
 多数派の側について安泰な人生を送るには、それなりに妥協したり折れたりしなくてはならないことも多い。だけどそんな子供頃思い描いた理想とは程遠いふがいない自分に、心の中を吹きぬけてゆく風の音を感じる。
 それはハイデッガーなら「良心の声」とでも言う、自己(現存在)の全体性への回帰を求める声だ。そのかすかな声なき声に耳を傾けるなら、今の世の中をもっとより良いものにしてゆくこともできるだろう。
 心の中の風の音を聞き、風の声は言葉になり句となる。そしてその声を共有できる集まりがある。それが俳諧だ。
 風はその時々で変風変雅あるものの、その元は一つ、風雅の誠あるのみ。
 それが師の血脈でもある。ただ、その相続は古典に感動し、それを今の言葉で作ろうとするなら、誰の中にも同じ血が流れている。
 芭蕉の血脈も、芭蕉の句に感動し、芭蕉のようになろうとするなら、そこに自ずとあらわあれる。それでいいのではないかと思う。無用な派閥争いをすべきではない。

2019年3月20日水曜日

 今日も月が出ていた。ほぼ満月で朧というほど霞んではいなかったが、澄んでいるとも言いがたい微妙な春の月だ。
 それでは「鰒の非」の巻の続き。

 二十一句目。

   地取の株に見ゆる名苗字
 爰まではとどかぬ鹿の音をしたひ   凉葉

 立派な武家の人の新築物件は、居住する屋敷では聞けない鹿の音を聞くための別邸だとした。
 二十二句目。

   爰まではとどかぬ鹿の音をしたひ
 寺のひかへは四五反の秋          千川

 「一泊り」の巻の二十七句目に、

   薬手づから人にほどこす
 田を買ふて侘しうもなき桑門(よすてびと) 芭蕉

の句があったが、お寺はそれなりの寺領を持ち、経済的に自立していた。
 ここでは四五反だから普通の自作農の百姓と同じレベルで、それほど豊かではないが、まあまあ人並みの生活が出来るといったところか。
 鹿の音の風流も経済的基礎があってのこと。芭蕉血脈の句といえよう。
 二十三句目。

   寺のひかへは四五反の秋
 夕月に植木つり出す塀の破      左柳

 左柳も大垣藩士。芭蕉が元禄二年の『奥の細道』の旅で大垣まで戻ってきた時に、芭蕉を出迎えた連衆の一人。この頃は千川の父の荊口が連衆に加わり、千川はまだ登場しない。僅か四年で世代交代している。
 此筋はこの時の「はやう咲(さけ)」の巻に、左柳、荊口とともに参加している。
 大垣の重鎮?として月の定座を任されたようだが、月を見るために植木を撤去するのだったら、ちょっとわざとらしい。
 二十四句目。

   夕月に植木つり出す塀の破
 見よ水籠をかけられし軒       凉葉

 普通は籠では水は汲めない。これは前句に対し意味のないことをすると咎めた句か。
 二十五句目。

   見よ水籠をかけられし軒
 先はなは土俵靱の一縄手       芭蕉

 「土俵靱(どひょううつぼ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《形が土俵に似ているところから》空穂の一種。竹または葛藤(つづらふじ)で編み大形に作ったもので、多くの矢が入る。」

とある。「大辞林 第三版の解説」には「腰につけず、人に持たせる。」とある。
 靱(うつぼ)は矢を持ち歩くための容器だが、その大型の物を言うようだ。相撲の土俵ではなく俵に似ている。
 「縄手」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 田の間の道。あぜ道。なわて道。
  2 まっすぐな長い道。
  3 縄の筋。なわ。
「いかりおろす舟の―は細くとも命の限り絶えじとぞ思ふ」〈続後拾遺・恋三〉」

とある。ここでは3の意味か。
 水籠に見えたのは土俵靱に縄をつけたものだった。
 二十六句目。

   先はなは土俵靱の一縄手
 着て居るうちに帷子の干ル      此筋

 前句を土俵靱を運ぶ武士の畦道を行く姿としたか。
 夏の日を遮るもののない畦道は暑くて汗をかくが、日の光ですぐにそれ乾く。
 二十七句目。

   着て居るうちに帷子の干ル
 うつぶきて糸さす筬に暮かかり    千川

 「筬(をさ)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「織機の部品の一つ。経 (たて) 糸の位置を整え,打込んだ緯 (よこ) 糸を押して,さらに密に定位置に打働きをするもの。竹片または鋼片を平行に並べ枠にセットしたもので,普通,竹片を用いた竹筬は手織機用,鋼片を用いた金筬は手織機,力織機の双方に使用する。」

とある。
 許六の『俳諧問答』の例句に「火鉢の焼火(をさ)に並ぶ壺煎」とあったときにも調べたが、長い梯子状のもの。機織の筬はここに糸を通す。
 筬に糸を通す作業をしているといつの間にか日も暮れて、昼間の汗も乾いている。
 二十八句目。

   うつぶきて糸さす筬に暮かかり
 あはれげもなき講の題目       左柳

 「題目講」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「日蓮系の法華仏教信奉者が営む講。〈南無妙法蓮華経〉と法華経の題目を唱えることを営為の中心とするので題目講とよばれる。その多くは日蓮(1282年10月13日没)の忌日である13日やその逮夜に当たる12日に営まれ,13日講ともいった。早くは鎌倉時代末期にみられ,日蓮鑽仰とともに一家一族連帯の促進を目的として,血縁関係が講構成員の紐帯であった。しかし中世においても,しだいに同一地域居住という地縁を紐帯とする講が営まれるようになった。」

とある。
 夕方になると日蓮宗の題目講の「南無妙法蓮華経」のお題目を唱える声が聞こえてくる。それは賑やかなもので哀れな感じはしない。

2019年3月19日火曜日

 今日は旧暦二月十三日で如月の望月の頃も近い。空には春らしく朧月が見えている。
 それでは「鰒の非」の巻の続き。

 十七句目。

   裸足でありく内庭の砂
 朝月に花の乗物せつき立       千川

 「花の乗物」は花見車のことか。貞徳著の『俳諧御傘(はいかいごさん)』には、

 「花車 正花也、春也。花見車の事也。」

とある。
 その「花見車」はというと、時代は下るが江戸後期の曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「花見車は花ある処へ乗て行く車を云也。」

とある。王朝時代であれば牛車であろう。
 ところで、ここでは花車や花見車という言葉をあえて使わず「花の乗物」としているところから、江戸時代の一般的な乗物、つまり花見に行く時の駕籠のことではないかと思われる。花車に準じて駕籠も花の乗物とするところに新味があったと思われる。
 朝の月が出ている頃に出発するのだから、多少遠出するのだろう。駕籠を呼んで出発を急ぐあまりに、内庭の砂を裸足で歩くことになる。
 十八句目。

   朝月に花の乗物せつき立
 日影のふぢの雫つめたき       凉葉

 桜の季節とはいえ朝はまだ寒さが残る。早朝ともなれば藤棚から滴り落ちてくる露の雫も冷たい。
 二の表に入る。十九句目。

   日影のふぢの雫つめたき
 石畳む鳥井の奥の春霞        此筋

 「畳む」には積み重ねるという意味もあるから、ここは石を積んで作った鳥居という意味か。ネットで石鳥居を検索すると、楯岡の石鳥居や元木の石鳥居といった本当に石を積んだような古い鳥居の画像が出てくる。
 芭蕉の時代でも、鳥居は石を組むのではなくまだ積んで作っていたのかもしれない。
 奥の春霞も、古い神社なのでまだ拝殿がなく、後ろの山そのものが御神体で、折から春の霞がたなびいているという意味だろう。何とも神々しい神祇の句に仕上がっている。
 藤から落ちる雫の冷たさも、清らかさを感じさせる。
 二十句目。

   石畳む鳥井の奥の春霞
 地取の株に見ゆる名苗字       芭蕉

 前句の神々しさの後はバランスを取って卑俗に落とすのが正解。
 鳥居の奥が春霞なのはまだ拝殿が建ってないからなので、これから作ることとする。
 地取りはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、「家を建てるときなどに、地面の区画割りをすること。」とある。株はそのための杭のこと。
 そこに苗字が記されていれば、立派な武士の寄進によるものだとわかる。

2019年3月18日月曜日

 マイケル・ヨン著の『決定版 慰安婦の真実』に、

 「ナチスの戦時残虐行為について証明する記録や証拠は、一立方マイル四方の空間を埋め尽くすほど存在します。世界で最も速読できる人でも、一生かかっても読みつくせないほどです。」

と書いてあったけど、高須さんは読まなかったのかな。
 慰安婦に関して言えば、この本は軍の直接関与した婦女の強制連行は数えるほどしかなく、すべて戦犯として裁かれたということを言っているだけで、売春婦がどのようにして集められたかについてはほとんど触れていない。
 まあ、実際それは裏社会のことで調査も難しく、推定無罪といったところか。
 まあ、それはともかく、「鰒の非」の巻の続き。

 十一句目。

   奈良へむぐらの内にこそあれ
 掛渡す小袖の黴をもみ落し      此筋

 「掛渡す小袖」は『校本芭蕉全集』第五巻の注に「小袖に風を入れるためにずらりとかけひろげてあるさま」とある。
 葎に埋もれた奈良の旧家では着ることもない小袖に黴が生えてたりする。
 十二句目。

   掛渡す小袖の黴をもみ落し
 金の団扇を閨のなぐさみ       千川

 金の団扇とは何とも豪華だが、使う人は上臈か。これは位付け。
 十三句目。

   金の団扇を閨のなぐさみ
 見るうちに源氏一部のしのばしく   凉葉

 「一部」は一部分ではなく一揃いをいう。全巻セットのことか。あるいは絵巻物か、金団扇に描かれた源氏物語五十四帖のセットか。
 十四句目。

   見るうちに源氏一部のしのばしく
 捨て浮世のやすき僧正        宗波

 源氏物語を仏教に結びつける考え方は昔からあった。源氏物語を読んで発心し僧となったということか。
 十五句目。

   捨て浮世のやすき僧正
 出来合も伊勢の料理は麁相にて    芭蕉

 これは西行の俤か。

 神風に心やすくぞまかせつる
     桜の宮の花のさかりを
              西行法師

の歌もある。
 伊勢というと伊勢海老に鮑にサザエにトコブシと海の幸は豊富だが、出家して殺生を嫌う身には食うものがない。
 十六句目。

   出来合も伊勢の料理は麁相にて
 裸足でありく内庭の砂        此筋

 「内庭」は「坪庭」ともいう。コトバンクの「坪庭」の「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」にはこうある。

 「中庭のことで、今日では「坪庭」の字が多く用いられる。壺には宮中の通り路の意味があり、桐(きり)壺、萩(はぎ)壺、梅壺などのように、キリ、ハギ、ウメなどの植栽が主役になった、建物と建物のジョイント空間を意味した。平安時代からの御所の壺庭は約四、五百坪あって広い空間だが、後の「坪」または「局(つぼ)」は「搾(つぼ)かなる」の意味であり、くぎられた場所とか、周囲を仕切った所をさし、中世以降はごく狭い庭をさすようになった。この狭い限られた空間にも各種の意匠を施すようになり、茶庭と相互に影響しあって、近世以降は町家(まちや)の庭として独自の発展を遂げた。[重森完途]」

 この場合は町屋の通り庭のことか。料理も麁相なら庭も砂を敷いただけ

の麁相なもの。響き付けか。

2019年3月17日日曜日

 近所の花桃も満開になった。あとはソメイヨシノの開花を待つといったところか。ソメイヨシノも老木化が進み、切り倒されたりして数が減っている。
 ソメイヨシノは挿し木でしか増やすことが出来ず、そのためすべてのソメイヨシノは一本の木のクローンだという。そのために一斉に寿命が来てしまうのか。
 まあ、お隣の国では日帝の象徴だから切り倒せという声もあるみたいだが、急がなくてももうすぐ自然に寿命が来るのではないかと思う。
 元々日本では桜といえばヤマザクラだった。白い清楚な花で花と葉が同時に芽吹く。ソメイヨシノが近代に入って急速に広まったのは、薄いピンクの華麗な色と葉のない姥桜だったのはもちろんのこと、開花時期がヤマザクラとそんなに変わらないから、季節感が従来通りで変わらなかったからというのもあるのかもしれない。
 最近の河津桜、熱海桜、おかめ桜、春めき桜は皆姥桜だ。ソメイヨシノの華麗さを引き継いで、開花時期がそれぞれ異なり、そのため一月の終わり頃から四月の八重桜まで桜が絶えることがなくなった。花見の文化も変わってゆくことだろう。
 それでは「鰒の非」の巻の続き。

 四句目。

   門番の寝顔に霞む月を見て
 今朝むきそむる前栽の柿       宗波

 宗波は『鹿島詣』の旅に同行した「水雲の僧」。

 月さびし堂の軒端の雨しづく     宗波
 ぬぐはばや石のおましの苔の露    同
 夜田かりに我やとはれん里の月    同

の句がある。
 「前栽」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 1 草木を植え込んだ庭。寝殿造りでは正殿の前庭。のちには、座敷の前庭。
 2 庭先に植えた草木。

とある。門番が居るのだから大きな屋敷かお寺だろう。庭の柿の実を剝いて、門番にそっと差し出したのだろう。
 「霞む月」を秋の薄月とする。
 五句目。

   今朝むきそむる前栽の柿
 秋風に筵をたるる裏座敷       此筋

 此筋は『校本芭蕉全集』第五巻の注に「大垣藩士宮崎荊口の長男、千川の兄」とある。
 前栽に対して裏座敷を付ける向え付け。風が通らないように筵を垂れる。
 六句目。

   秋風に筵をたるる裏座敷
 虫も雨夜は目覚めがちなる      濁子

 濁子はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「?-? 江戸時代前期-中期の武士,俳人。美濃(みの)(岐阜県)大垣藩士。江戸詰めのとき松尾芭蕉(ばしょう)にまなぶ。絵もよくし「野ざらし紀行絵巻」の絵をかく。杉山杉風(さんぷう),大石良雄らと親交をむすんだ。名は守雄。通称は甚五兵衛,甚五郎。別号に惟誰軒素水(いすいけん-そすい)。」

とある。「野ざらし紀行絵巻」は『甲子吟行画巻』ともいい、芭蕉の自画自筆の原稿をもとに濁子が清書した濁子本が存在する。
 この場合の虫は部屋の中にいる虫か。
 初裏に入る。七句目。

   虫も雨夜は目覚めがちなる
 肌寒く痞のかたを下になし      千川

 「痞(つかへ)」は漢字ベディアに「つかえ。腹のなかに塊のようなものがあって痛む病気。また、胸がふさがること。『痞結』」とある。漢方では脾胃の機能失調を言うようだ。腹部膨満感のことか。
 前句の「虫」を腹の虫とし、雨夜になると虫がうずくとする。
 八句目。

   肌寒く痞のかたを下になし
 手本に墨を付て悔けり        凉葉

 姿勢が乱れると書も乱れる。思うように動かない体に、つい手本に墨を垂らして「ああ、しまった」というところか。
 九句目。

   手本に墨を付て悔けり
 尼寺の老尼はひとり髪剃て      濁子

 手本に墨を付けたのを独り侘しく髪を剃る老尼とする。位付け。
 「尼寺の老尼」の重複を嫌い、「痩寺の老尼」と直したテキストもあるようだが、「ひとり髪剃」あたりで痩寺の風情なのでやはり重複感は免れない。
 「尼寺の老尼」だと大きな尼寺でも年寄りは何となく敬遠され、孤立している様とも取れる。その意味だったのかもしれない。
 若い尼さんがキャッキャ言いながら互いに髪を剃り合う脇で、ハブられた老尼は哀れだ。
 十句目。

   尼寺の老尼はひとり髪剃て
 奈良へむぐらの内にこそあれ     芭蕉

 前句を「痩寺」の老尼とする。葎が茂るのは古典の趣向で、遣り句と言っていいだろう。

2019年3月16日土曜日

 昨日の朝にはapple musicからも電気グルーブは消えていた。意味のない行きすぎた自粛を止めることはできないのか。
 change.orgでは「電気グルーヴの音源・映像の出荷停止、在庫回収、配信停止を撤回してください」の電子署名を集めている。既に2万人を越えているが、これも法的な力はなく、単なるアンケートと同じだ。

 さて、ここでまた『俳諧問答』の方をお休みして、また俳諧を読もうと思う。
 野坡、支考の俳諧はこれまでも読んできたが、許六の言うもう一人の血脈相続者、千川はまだなので、元禄六年一月江戸の大垣藩邸千川亭で興行された歌仙を読んでみようかと思う。
 発句は、

 野は雪に鰒の非をしる若菜哉     凉葉

で、「野は雪に」の巻になるところだが、これだと芭蕉が伊賀の宗房だった頃の百韻とかぶってしまうので、取りあえずここでは「鰒の非」の巻としておく。
 凉葉(りょうよう)は『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)の注に「上田氏、名は儀太夫、大垣の人で、後に江戸へ出て深川に寓居があったという」とある。
 雪の鰒(ふぐ)というと、芭蕉の天和二年の、

 雪の河豚左勝水無月の鯉       芭蕉

の句がある。これは句合せの書き方で、

 雪の河豚
   左勝
 水無月の鯉

となり、縦書きだと左は水無月の鯉になる。
 芭蕉の江戸の二人の門人、嵐雪と杉風(鯉屋)を較べて杉風の勝とした

句だ。
 延宝五年の、

 あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁   芭蕉

の句もあるように、若い頃は芭蕉も河豚を食っていたようだ。当時は河豚汁にすることが多かったのか、「雪の河豚」というのも、寒い季節に食べる河豚汁が旨かったからなのだろう。
 河豚は日本では有史以前から食べていたようで、河豚の毒のある部位を取り除く技術についてもある程度のレベルにはあったと思われる。ただ、今日に較べれば危険も多かった。そのせいで、武家では禁止する藩も多かったという。
 春になると雪の積もる野にも若菜が生えてきて、正月の七草粥になる。
 一方、河豚は春になり産卵期になると毒が強くなるから、経験的に春になると河豚を食べるのをやめていたのだろう。それが「河豚の非を知る」なのかもしれない。
 去年の冬には命知らずにも河豚汁を食ったりしたが、正月の若菜を見ると生きていてよかった、もう河豚はやめようと思う。そうは言ってもまた冬が来れば河豚が食いたくなるのだろうな。
 この発句に千川が脇を付ける。

   野は雪に鰒の非をしる若菜哉
 まだうぐひすの啼きらぬこゑ     千川

 千川も大垣の人。雪の残る野にまだ啼ききらぬ鶯で応じる。特に付け合いはなく、初春の心で付ける。
 これに芭蕉が第三を付ける。

   まだうぐひすの啼きらぬこゑ
 門番の寝顔に霞む月を見て      芭蕉

 前句の鶯の啼ききらぬを早朝だからとし、まだ寝ている門番に春の朧月を添える。孟浩然『春暁』の、「春眠暁を覚えず、処々啼鳥を聞く」の心か。

2019年3月14日木曜日

 apple musicでは普通に電気グルーブが聞けたので、今日は一日車の中で流して走った。懐かしい曲、忘れてた曲、初めて聞く曲などいろいろあった。
 出演者の一人が何か悪いことをするとその作品そのものをお払い箱にするのは、いわゆる連帯責任と同じで、結局は「あいつさえいなけりゃ」という恨みを生む。
 そして誰か何かやらかしやしないかと常に周りに疑いの目を向け、相互監視で人をがんじがらめに縛り、そこからはみ出る人間をいじめて排除しようとする。これは日本の社会の闇の部分だ。

 蕉門にもいじめがなかったとは言えないだろう。路通は明らかにそれだった。他にも惟然や支考が芭蕉没後に旅に出たのも、京に居づらい何かがあったのだろう。支考は花屋では浮いていたようだし。
 芭蕉没後、京と大津の門人が芭蕉の葬儀の中心となることであたかも芭蕉の継承者であるかのように振る舞い、その対抗勢力として許六・支考・野坡・千川がいたとすれば、許六がなぜこの四人を選んで芭蕉の血脈の相続者だとしたのか分かるような気もする。これは去来包囲網と言ってもいいだろう。
 蕉門の門人達も人間だし、風流だけで生きてたわけでもあるまい。そういう下世話な部分もあっただろう。
 ところでそもそも論としてその血脈って何だと考えた時、それは人間の普遍的な情の根源への問いになる。今日は『俳諧問答』を離れて、それを少し考えてみよう。
 まず一つの仮説から入るが、出る杭は打たれる仮説から入ってみよう。
 多くの動物は個々の能力によって上下関係が決まる。腕力は重要だが、それでけでなく知力も必要だ。ただ、たとえ群れをなしていても、個々の上下は一対一の勝負で決まる。これが全体として見たとき、あたかも最強の者から最弱の者まで直線的な序列があるかのようになる。これが順位社会と言われるものだ。
 これに対し人間は共感能力を発達させたため、一対一で戦うのでなく、二人、三人、もっと大勢で連合して戦えばどんな強い者でも倒せることを知ってしまう。そうなると一対一の勝負での強弱は無意味になり、生存競争は多数派工作の勝負になる。
 そこで人間は多数派工作に適した性質を進化させる。体力や一対一での喧嘩の強さはもはや重要ではない。共感能力に優れ、他人の欲しい物を察知してそれを与えたり、その一方で敵に対しては一番やって欲しくないことをやる能力を発達させる。優しさと意地悪は表裏一体に進化する。
 微笑の表情も、言語によるコミュニケーションも、気前のよさも、弱者をいたわる心も、すべて多数派工作に役に立つ。
 もちろんこれらの人間の美徳が多数派工作の「ために」進化したというのはラマルキズムだ。本来そんなものを意図したわけではない。ただ結果的に多数派工作に役立ち、生存競争に勝ち抜く結果になったにすぎない。
 有限な地球に無限の生命が繁栄できるわけでもなく、大地の恵みが一定でそこに自ずと定員があり、それに逆らって人口は等比数列的に増えようとすれば、そこはいつでも過酷な生存競争の世界になる。
 今日では限られた大地から最大限の生産性を引き出す技術が発達する一方、人口は地球規模で少子化によって頭打ちから減少に転じつつあるため、過酷な生存競争はもはや過去のものになろうとしている。だが、それはここ数十年のことで、特に近代化以前の世界はマルサス的な状況にあった。
 人間は他人を思いやり、限りなく慈悲深くなれるにもかかわらず、大地に定員が有る一方で、人口は常に増加の圧力がかかれば、椅子取りゲームになる。
 人は生きるために多数派に何とかもぐり込まなくてはならない。だが、人は一人一人みんな違う。そこで他人に合せ、自分を殺しながら生きてゆかざるを得なくなる。これは取り引きだ。
 自分のある種の欲求を断念する代わりに、自分の居場所を確保する。これは生存の取り引きだ。
 人は生まれたときはほとんど無力な存在で、大人が殺そうと思えば抗すべき手段はない。それこそ赤子の手をひねるようなものだ。大人の側に「生かす」という選択がなければ死ぬしかない。これは絶対的な上下関係だ。そのなかで最初に学ぶのは服従の選択だ。
 やがて物心ついたころには子供は自分の欲求を周囲の大人達にぶつけるようになる。ここから生存の取り引きが始まる。
 その欲求の多くは挫折し、子供は生きるために大人達の与える様々なしきたりや価値観を受け入れる。そうしてやがていっぱしの社会人になる。
 ただ、生存の取り引きは人が生きてゆく限りどこまでもついて回る。会社で、家庭で、地域で、様々な場面で自分の意見を通そうとしては妥協を繰り返す。打ちのめされ傷つき疲れ果てることもあれば、より良い生活を勝ち取ることもある。
 挫折し、断念した欲求はただ抑えているだけで消えるわけではない。その欲求はいつでも風のように心の中を吹きぬけてゆく。本当の自分に戻るために。
 ある時人は決断するかもしれない。これまでの取引の結果である今の人生を清算して、心の中の風の趣くままに新しい人生をはじめようと。それはまさに「旅立ち」だ。ただ、それはそれで様々な苦難が待ち受けている。
 本当の自分になろうと、絶えず取り引きを繰り返し、そのつど苦難にぶちあたり、悩み傷つく。それでもなおかつ自分自身でありたいと、それが「風」雅の種であり、風雅の誠だ。
 それを俳諧の談笑の中で表現し続けること、それが「血脈」だ。
 西洋では人は生まれながらに生存権を持つことになっている。ただ、現実は違う。生まれたばかりの赤子を殺すのはいともたやすいことだし、赤子はそれに抗すことはできない。生存権は自明ではない。
 西洋の文明は強力な権力によって生存権を守るシステムを作ろうとしてきた。しかし強力な権力は諸刃の剣だ。
 日本人は人は生きるのではなく「生かされている」ものだと考える。これは無力な赤ん坊の頃から、周囲の圧倒的な数の人間に対し自分はたった一人と明らかに不利な環境の中で学んできた事実だ。
 生存の取り引きはどこまでも個と個の取り引きであり、抽象的な「社会」との契約ではない。
 たとえば労働条件を良くするために労働組合に入るにしても、それは個人の決断だし、組合に加入すれば、今度はその組合の上司との間で延々と生存の取り引きが繰り返されることになる。そこでは方針への異議申し立てや不服従や脱退などの選択肢と、組合に籍を置くことのメリットと常に秤にかけながら取り引きを繰り返すまでだ。それは契約ではない。不断の取り引きの連続だ。
 社会契約説は生存の取り引きの現実的なやりとりをかなり抽象化し、単純化したものだ。単純なモデルは複雑な事象を支配できない。そこに西洋の人権思想の限界がある。
 結局どんな社会でも人は結局一人だし、孤独に生存の取り引きを繰り返す。風雅の誠はその取り引きの中で生まれる。だからそれを理論化することは出来ない。だが、共感することは出来る。それが血脈の相続だ。
 許六はそれを狭く捉え、一種の家元制に近いものにしてしまったが、本当の血脈の継承は、ただ先行する芸術作品に感動し、自分もまたそのようなものを作ろうともがくなかで、自分もまた他人を感動させた時初めてそれに成功するものだ。
 今日の大衆芸術もそのように作品に感動した人が作者になり、その感動をまた誰かが引き継ぐことによって受け継がれてゆく。これが血脈継承の真の姿ではないかと思う。

2019年3月13日水曜日

 「たった一本のマリファナ取り締まることなんかより、もっと外にやることがあるはずさ」って1980年だったかアナーキーというパンクロックバンドが唄ってたが、何となくそんなことを思い出した。あれはポールマッカートニーが税関で捕まったときだったか。
 ドラックをやったからといってCDの発売を停止するというなら、ビートルズとかストーンズとかクラプトンとかみんなアウトだ。井上陽水や尾崎豊だってアウトじゃないか。
 芭蕉の門人だっていろいろな人がいた。それでは『俳諧問答』の続き。

 「野坡といふものハ、炭俵のかるミ少ハ得たりといへ共、生得越後屋の手代なれバ、俳諧も人情程ありて、少かるみを得たる迄也。
 胸中せまくして、我得ざる方すきとみえず。高弟先生を憚からず、過言自讃に似たりといへ共、時々を得たる事ハ高弟とても是非なし。
 達磨の法、六祖の米つきに血脈をゆづり給ふハ、是六祖血脈をしり給ふ人なれバ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110~111)

 野坡は『風俗文選』の「作者列伝」に、

 「野坡者。越之前州人。生商家居于武江戸。蕉門之学者也。一遊西海不定其所居。随師得炭俵之撰号。」

とある。越前の生まれで、ウィキペディアによると

 「元々は両替商の三井越後屋に奉公し、番頭にまで登りつめた。宝井其角に俳諧を学んだがのちに松尾芭蕉に入門し直接指導を受ける。」

という。
 「一遊西海不定其所居」というのもウィキペディアには、

 「元禄11年から14年まで商用で長崎に滞在する。一時江戸に帰るが、翌15年から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始。 長崎・田代・久留米・日田・博多などに旅寝を重ね多くの弟子を獲得した。 人柄は温厚で社交的、蕉風を上方や九州に普及させた業績は大きい。」

とある。
 『続虚栗』(其角編、貞享四年刊)のまだ野馬を名乗ってた頃の句は、

 総角が手に手に手籠や薺つみ     野馬
 さまざまの人にもあかぬ桜かな    同

   啼々も風に流るゝひばり哉
 烏帽子を直す桜一むら        同

といった当時の古典回帰の風に従っている。
 「生得越後屋の手代なれバ」と許六はどうも階級に偏見があるようだが、芭蕉が再び庶民のリアルな世界に切り込んでいこうとしたとき、野坡は欠かせぬ人材だった。
 談林の頃は庶民のリアルを描くのにも雅語や謡曲の古い言葉を用い、付け合いに頼って句を付けていったが、それをより口語に近い言葉で、猿蓑の頃から試されていた匂い付けで付けてゆく所が新しかった。
 特に『炭俵』の「梅が香に」の巻の両吟は、芭蕉との息の合った展開を見せている。

   藪越はなすあきのさびしき
 御頭へ菊もらはるるめいわくさ    野坡

と、御頭が「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」とばかりに大事に育てた菊を持ってってしまう迷惑さに、

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ
 娘を堅う人にあはせぬ        芭蕉

と「菊」を娘の名に取り成して、御頭に合わせないようにする親心に展開する。
 それをまた、

   娘を堅う人にあはせぬ 
 奈良がよひおなじつらなる細基手   野坡

と結婚を言い寄る零細業者を嫌う体に読み替える。
 また、

   桐の木高く月さゆる也
 門しめてだまつてねたる面白さ    芭蕉

と、名月を遊興のうちに過ごすのを嫌って門を閉ざす高士の風情に、

   門しめてだまつてねたる面白さ
 ひらふた金で表がへする       野坡

と拾った金を他人にたかられるのを恐れて黙っているせこい男の句に読み替える。
 こうした句はまさに「人情程ありて」で、そのあとはむしろ「軽みをおおいに得たり」と言った方がいいのではないかと思う。
 まあ、炭俵の風を牽引した中心人物だっただけに、許六としてはライバルとしての嫉妬もあったのではないかと思う。
 「六祖の米つきに血脈」の「六祖」は慧能(えのう)のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」にこうある。

 「中国、唐代の僧。中国禅宗の第六祖。俗姓は盧(ろ)氏。諡号(しごう)は大鑑真空普覚円明(だいかんしんくうふかくえんみょう)禅師。六祖(ろくそ)大師ともいわれる。新州(広東(カントン)省)に生まれ、3歳で父を失い、市に薪(まき)を売って母を養っていたが、ある日、客の『金剛経』を誦(じゅ)するのを聞いて出家の志を抱き、州(きしゅう)(湖北省)黄梅(おうばい)の東山に禅宗第五祖、弘忍(こうにん)を尋ね、仏性(ぶっしょう)問答によって入門を許された。8か月の碓房(たいぼう)(米ひき小屋)生活ののち、弘忍より大法を相伝し、南方に帰って猟家に隠れていたが、676年(儀鳳1)南海法性寺(ほうしょうじ)にて印宗(いんしゅう)(627―713)法師の『涅槃経(ねはんぎょう)』を講ずる席にあい、風幡(ふうばん)問答によって認められ、印宗によって剃髪(ていはつ)、受具した。」

 この米搗きのエピソードは画題にもなり、狩野常信の「六祖踏碓図」がある。
 野坡のことを貧しくても血脈を得て六祖となった慧能に喩えるあたりは、許六も野坡を高く評価していた印と言えよう。
 支考、千川、許六、野坡、いずれも風雅の誠を得、芭蕉に見出されたが、芭蕉の血脈は他の門人にも受け継がれていたはずで、なぜこの四人なのかはよくわからない。許六のみが知る所であろう。

2019年3月12日火曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「実ハ師の恩に寄てあら野の時を得たるやうなれ共、今日見る時ハ、時の風を得ざると見えたり。ひさご・猿ミのノ時代、猶以右ニ同じ。慥ニ是底のぬけぬ証拠也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110)

 「実」は「虚」あるいは「花」に対する言葉で、実は不易、虚は流行と考えてもいい。
 荷兮・越人は蕉風確立期の古典回帰の時代の門人で、古典の本意はよく学んでいる。ただ、その後のより今のリアルな俳諧へと変わっていったとき、取り残されてしまう。

 「今世上に遺経の俳諧の風ハ、天下ニ三四人ならでハあるまじ。
 伊勢の支考ハ、後猿の時底をぬきて流行すれ共、難じていはば実少すくなし。
 しかりといへ共、世間門人と目を同して語る人ニてなし。此人慥ニ血脈相続して、当時諸門弟の中肩をならぶる人なし。
 されどかれが質不実に謟へる心あれバ、行末覚束なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110)

 「謟へる」は「うたがへる」と読む。
 支考は美濃の人だが、この頃は伊勢山田にいたようだ。翌元禄十一年には『伊勢新百韻』が刊行される。後に美濃に戻り、後に美濃派と呼ばれるようになる。
 『風俗文選』の「作者列伝」にも、「中遇居于勢州山田後帰故国作俳書数篇」とある。
 支考は元禄七年五月の「牛流す」の巻の六句目で、

    月影に苞(つと)の海鼠の下る也
 堤おりては田の中のみち    支考

と、「苞(つと)」に「堤(つつみ)」、「下る」に「おりて」と類義語で付けている。
 また十八句目では、

    道もなき畠の岨の花ざかり
 半夏を雉子のむしる明ぼの   支考

と、マムシグサに似ている半夏が蛇に似ているところから雉が間違って啄ばむという突飛な空想を見せている。
 この年の秋の「この道や」の巻の第三でも、

   岨の畠の木にかかる蔦
 月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て  支考


と、「岨(そば)の畠」に「蕎麦のこぼれ」と「ソバ」つながりでありながら、駄洒落にもならず、掛詞でもなく、取り成しにもなってない。何となく繋がっているだけで、蕎麦の花を照らす月の美しい情景にしている。
 また、「白菊の」の巻の三十三句目では、

    老の力に娘ほしがる
 餅ちぎる鍋のあかりの賑さ     支考

と、前句の「力」を餅に取り成して、爺さんの餅を娘がほしがる句にしてしまう。
 支考の付け句は変幻自在でまさに「底を抜く」ものだった。これこそ芭蕉の血脈と言っていい。
 ただ、発句の方はそれほどでもなく、「実少(すこし)すくなし」というのはそういうことだろう。
 才能はあるけど、疑い深くて誠実さに掛けていたのか、その後伸び悩んだ。

 「ミのの大垣千川といふ者此風也。次ニ彦根門人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110)

 美濃の千川も「遺経の俳諧の風ハ、天下ニ三四人」の一人だという。
 「彦根門人」は自分のことか。

2019年3月11日月曜日

 今日は東日本大震災の日で、みんな3・11は忘れてないが、3・10の東京大空襲がその分遠くなってしまったか。子供の頃はラジオで一日その特集をやってたりした。
 大事なのは忘れないことではなく、美化しないことだ。
 復興が遅れていると批判するのは簡単だが、もとから復興なんてそんな簡単なもんではない。産業を興し、人を集め、地方を活性化する妙案があるなら聞いてみたい。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「故ニ眼ひがミ、心俗に落て、古き事、又ハ面白からぬ物も、ふとおかしとていひ出す。
 去ル比、予が撰集の時、猿の喧嘩といふ句、面白しとて自慢し越したり。猿の喧嘩曾て新ミなし。此方とらざるゆへに、加賀の集に入たり。五三年もへだて、俳諧上洛の後、立かへり見侍らバ、此事明にしるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.108~109)

 岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎の註には、北枝編『喪の名残』(元禄十年刊)の、

   春日に詣で
 秋風や猿も梢の小いさかひ    正秀

の句だという。
 許六の撰集というのは『韻塞』だと思われるが、これも元禄十年刊だから、この頃の句であろう。
 句は「秋風に猿も梢の小いさかひや」の倒置で、「も」は並列ではなく「力も」であろう。「秋風に猿の梢の小いさかひもや」の倒置と見てもいい。
 「や」と疑っているので、猿の梢の小いさかいは必ずしも見たわけではない。猿の声が聞こえてきて「小いさかいもあるのかな」と推測する体だ。人の世も世知辛いが猿の世もと気遣う辺りには「細み」が感じられる。
 ただ、秋風に猿の叫ぶ情は古来漢詩に歌われてるもので、その意味で新味なしと言えるかもしれないが、それを猿の声ではなく「小いさかひ」にしたところに新味があるかどうかは人によって意見が分かれたかもしれない。
 筆者は悪くないと思うが、ただ芭蕉の「猿に小蓑を」の句があるから、それと比較されてしまうと苦しい。
 「五三年もへだて、俳諧上洛の後、立かへり見侍らバ、此事明にしるべし。」つまり五年もすれば忘れ去られているだろうというのは、おそらく正しかったのだろう。岩波文庫の『蕉門名家句選』にも取られていない。

 「生れつき千兵ヲ破る勇あり共、士を使ふ器なけれバ、宗匠の器なし。
 勇ハ樊噲にもあたるといへ共、善悪のわかれざる人ハ、将の器ハなし。
 此頃の集の俳諧を見るに、炭俵・別座敷の風一句もなし。
 今世間の人、後猿の俳諧ハかるミありて面白し、これ也とて、筋なき不用の句を出せり。別座敷・炭俵の風熟吟せざる人、いかで後猿の風に飛入事を得むや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.109)

 樊噲(はんかい)はウィキペディアに、

 「泗水郡沛県の人で、剛勇の人だったという。もとは犬の屠殺業をしていた。劉邦(高祖)の反秦蜂起に加わり、生涯仕えて武勲を挙げ、咸陽に入って、豪華な財宝に目を眩んだ劉邦に対して、張良とともに諫めた。鴻門の会でも項羽から身を救うなど活躍する。秦打倒の功績で賢成君に封じられた。また決起以前より劉邦の妻呂雉の妹呂嬃を娶っていたため、将軍の間でも王室の信頼は厚かった。」

とある。もちろん勇だけでなく、多くの士を使う器だったし、善悪もわきまえた名将だった。
 「別座敷・炭俵の風熟吟せざる人、いかで後猿の風に飛入事を得むや。」とあるのは、許六自身の阿羅野・猿蓑を熟読した経験によるものだというのはわかる。ただ、芭蕉はあえてそういう旧習に染まってないものを用いることが多い。もっとも、凡兆、野坡のように使い捨てみたいな所はあるが。
 新しい風を試すには古い風に染まっていない無垢な才能を見つけ出し、その初期衝動を開放させる方がいい。ただ、そこには芭蕉と違い、長年にわたって蓄積された技術がないため、ひとたび初期衝動が衰えれば凡庸な作者に転落する。

 「しかし一向ニ成まじ共いひがたし。発明の人あらバ、直入の俳諧もあるべし。大方ハ成まじき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.109)

 古い技術を熟知してなくても、新しい風に直に入ってゆくことは出来る。

 「冬の日・あら野の時、段々門人其時の風を得たりといへ共、次第に流行なき故に底を入られたり。
 予察し見るに、荷兮・越人、あら野の時、真ンのあら野の風を得ざると見えたり。今日あら野を見るに、炭俵・別座敷のかるミ、其時より慥ニあらハれ、時代の費のミニして、炭俵の趣き急度すハれり。其時識得せば、何ぞ翁と同じく流行せずといふ事あらんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.109~110)

 一つのスタイルは繰り返されると次第にマンネリになるのは言うまでもない。それを「底を入られたり」という。今日でも「底が浅い」という言い方はする。底を抜いて、更なる深みに進まなくてはならない。
 ただ、あとから見てあの頃はまだ底が浅かったと思うのは簡単だが、底を抜いて深みに到達した時、更なる深みが見えている人は稀だ。まあ、芭蕉はそれが見えていたのだろう。
 荷兮・越人は自ら『冬の日』『春の日』『阿羅野』で底を抜いてきたところに満足してしまったのだろう。人は一年一年確実に歳を取って行き、更なる底が見えなければそこで守りに入ろうとする。
 荷兮や越人にいえることは許六にもいえただろう。芭蕉亡き後、許六もまたその先の更なる深みが見えていたとは思えない。それが見えてたら、許六は芭蕉を超えて新風を興していたであろう。

2019年3月10日日曜日

 今日は南足柄へ春めき桜を見に行った。
 前日のラジオで二分から四分咲きと言っていたから、昨日今日の暖かさで五分咲きくらい放っているかと思っていた。
 最初に大雄山線の富士フイルム前駅で降りて、狩川沿いのの幸せ道(北岸)、春木径(南岸)の桜を見たときには、木によっては二分、よく咲いている木は八分咲きで、全体としては五分咲きだった。ただ、ここは昨日のニュースでは先初めと言っていた所だった。
 空には雲が多く、時折薄日がさす天気だったが、気温は高く、富士山の白い姿も見えた。
 このあと二分から四分と言われていた一の堰ハラネへ行ったら満開だった。

 世の中は三日見ぬまのさくら哉   蓼太

とはよく言ったものだ。
 あまり知られていないのか、人も少なく露店の屋台もなく、静かだった。良い香りがした。春めき桜は南足柄市の古屋富雄さんの品種登録した地元産の桜だという。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「我友木導といふもの、かたのごとくの作者也。終に師に対面せずして、急度師の血脈の所を見届、師の状通ごとニ、木導ハ作者なりといふ褒美を得たるもの也。
 しかれ共逸物也。十句ニ七八ハ雑句也。一ニハ天地を動かす句也。是逸物のしるし也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.108)

 木導は『風俗文選』の作者列伝に、

 「木導者。江州亀城之武士也。直江氏。自号阿山人蕉門之英才也。師翁称奇異逸物。」

とある。「江州亀城」は近江国彦根城のことで、許六の身内のようなものだ。
 元禄六年五月四日付許六宛書簡に、

 「木道麦脇付申候。第三可然事無御座候間、貴様静に御案候而御書付可被成候。」

とある。これは、

 春風や麦の中行水の音      木導

の発句に芭蕉が、

   春風や麦の中行水の音
 かげろふいさむ花の糸口     芭蕉

と付けたので、第三を許六が付けてくれというものだ。
 『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)の補注に木導編『水の音』の木導自身による序が引用されている。そこには、

 「此一すじを兼て求をかばやと風流を種となして、はせを庵の松の扉をたたき、翁の流を五老井と共に汲つくす事三十年、かれこれの便をつたひ、蕉門の俳友ところどころに数をつくせり。其あらましを五老井雨夜物かたりにおよびぬれば、翁しばらく目をふさぎ、奥歯をかみしめ、皺の手をはたと打、謀略のたくましきを深かんじ玉ふと也。かの折から、予が麦の中行水の音をも聞たまひて翁曰、いにしへ伊勢の守武が、小松生ひなでしこ咲るいわほ哉、我が古池やかはず飛込水の音、今木導が麦の中行水の音、此三句はいづれも甲乙なき万代不易、第一景曲玄妙の三句也。誠に脇をなしあたへんと許子にながれに麦をかかせて、かげろふいさむ花の糸口と筆をとり給ひしを初となして、いひ捨し句どもとりあつめ阿山の鎮守に奉納せり」

とある。
 許六の第三がどうなったかはわからない。

 小松生ひなでしこ咲るいわほ哉  守武
 古池やかはず飛込水の音     芭蕉
 春風や麦の中行水の音      木導

 この三句を「万代不易、第一景曲玄妙」と芭蕉が言ったというが、真ん中の古池の句は、同じ「水の音」が入るというのと芭蕉自身の謙遜から引き合いに出しただけで、芭蕉としては守武の句にも匹敵すると言いたかったのだろう。
 「翁の流を五老井と共に汲つくす事三十年」は明らかに誇張だろう。元禄六年(一六九三年)の三十年前といったら寛文三年(一六六三年)で、その頃からというと芭蕉の句が『佐夜中山集』に初入集した頃からになってしまう。しかも許六『俳諧問答』の「終に師に対面せずして」と矛盾する。この序文のエピソード自体が怪しい。
 許六が芭蕉に近づこうと苦労してた頃から木導も同じに思ってたのかもしれない。しかしついに芭蕉に会うことかなわず、五老井(許六)が代わりに芭蕉に会った時に木導の句の話もし、後に芭蕉がそれに脇を付けて手紙で許六に伝えたあと、許六は結局第三が出来ぬまま、あたかも芭蕉がその場で脇を付けたかのように木導に話したというのが一番考えられることだ。
 そのとき芭蕉が木導の発句を守武の句にも匹敵する「万代不易、第一景曲玄妙」の句と言ったぐらいはありそうだ。
 この時芭蕉は「作者也」と言ったのかもしれない。ただ許六は作者でなく「逸物」だという。その理由を、「十句ニ七八ハ雑句也。一ニハ天地を動かす句也。」とする。血脈を受け継いだなら十中十句天地を動かすはずだというわけだ。その天地を動かす句が、

 春風や麦の中行水の音      木導

だったのか。許六は木道を正秀と同列に扱う。

 「正秀逸物たるゆへに、猪のともし・鑓持のしぐれなど、血脈の句いひ出せり。
 時々其姿あらハれるといへ共、血脈を慥ニ継ざるしるしに、毎句翁の手筋なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.108)

 鑓持の猶振たつるしぐれ哉     正秀
 猪に吹かへさるるともしかな    同

の二句は師の血脈だが、それ以外は血脈を継いでないという。

2019年3月9日土曜日

 今朝は遅霜が降りて寒かったが、昼は一転して暖かくなった。夕暮れの空には三日月が浮かび、今日は旧暦二月の三日。
 そういえば、仕事でたまたま新大久保のあたりを通ったが、相変わらず原宿・巣鴨にも劣らぬ賑やかさで、チーズハットク(チーズ・ホットドッグ)の店の前はどこでも身動きが取れないほどだ。
 以前、チーズハットクを食べずに写真だけ撮って捨てる人がいるなんてニュースがあったが、嘘とわかって安心した。まあ、こんなけ人がいるんだから、中には一人二人そういう人がいたのかもしれないが。
 北や南の政府が何をたくらんでいるかは知らないが、庶民はそんなの関係ない。韓流アイドルも相変わらず大人気だし、美味いものに国境はない。やっぱり平和が一番。鈴呂屋は平和に賛成します。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「世上雑俳の上を論ずるにあらず。雑俳の事ハ究たる事なけれバ、評にかかハらず。
 惣別予が論ずる所ハ、門人骨折の上の噂也。此正秀血脈を継がぬ故ニ、かやうの珍敷一言をいふと見えたり。
 かれが俳諧を見るに、専ラひさご・さるミのの場所にすハり、翁と三年の春秋をへだてて、師説をきかず、血脈を継がず、底をぬかぬ故に、炭俵・別座敷に底を入られたり。全ク動かぬしるし也。
 しかりといへ共、かれが俳諧を見るに、底ハぬかずといへ共、逸物也。又々門人の一人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107)

 正秀が『ひさご』『猿蓑』から抜け出せなかったのは確かだろう。いとど自分の作風が確立されると、なかなかそれを変えることは難しい。それは今日の様々なジャンルの芸術を見ても同じだ。
 どんな天才と言えどもある程度の年になると新しいものを受け入れることができなくなる例として有名なのは、アインシュタインが量子力学を受け入れなかったことと、ピカソが抽象絵画を受け入れなかったことだ。
 其角や嵐雪も、荷兮や越人も、自分の過去の芭蕉とともに一時代を作ったその輝かしい成功体験から抜けることができなかった。去来・正秀もそうだったろうし、許六もたまたま芭蕉の最晩年の弟子だから変わる必要はなかっただけで、仮に芭蕉が長生きして惟然や千山とともに新風を作ったなら、許六も脱落していただろう。正秀は後に惟然の『二葉集』(元禄十五年)に参加しているが、許六の名はない。
 許六は結局の所、若い頃に影響を受けた談林が基本になっている。談林のリアルな生活感のある俳諧が元になっていて、蕉風確立期の古典回帰の影響をあまり受けなかった。
 芭蕉が猿蓑調から軽みへと再び古典の趣向からリアルな生活感へと戻ってきた頃に、ちょうど許六のいくつかの句が芭蕉にとってわが意を得たりだった。
 そこで芭蕉が血脈だの底を抜くだの言って褒めたのが結局許六の到達点になり、許六もまたそこから動いてなかったのではないかと思う。だから、結局十団子の句が許六の代表作になってしまった。
 正秀は芭蕉の晩年の風にはついていかなかったけど、『猿蓑』に入集した代表作があった。

 鑓持の猶振たつるしぐれ哉     正秀
 猪に吹かへさるるともしかな    同

 許六もこれらの句を評価しないわけにはいかない。そこで持ち出したのが「逸物」という言葉だった。

 「定家卿の論ニ云ク、家隆ハ歌よみ、我ハ歌作り、寂蓮ハ逸物也といへり。
 此人逸物と云もの也。師の眼前において句をいひ出す時ハ、師の眼有て撰出し、これハよし、是ハ五文字すハらず、此句ハ用にたたずなどいひて撰出して後、世間に出るゆへに、人々正秀ハよき俳諧と眼を付るといへ共、師遷化の後ハ、猿の木に離れたるごとくニして、自己の眼を以て善悪の差別を撰出す事をしらず。
 ただ我口より出るハ皆よき句と心得ていひ出すゆへに、当歳旦三ツ物の如き句出る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107~108)

 岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎の註に、

 「兼載雑談」に「慈鎮西行などは歌よみ、其の外の人はうた作りなりと定家の被書たる物にあり。」とあるが内容が違ってをり、特に寂蓮に就いての所見がない。

とある。
 和歌についての様々な伝承のなかには、伝わってゆくうちにも変わっていったものもあっただろう。許六の記憶違いなのか、それともそのように伝えていた本があったのかは定かでない。
 ネットで見た伊達立晶の『藤原定家の「歌つくり」と「歌詠み」について : 創造と表現との相違』によれば、頓阿の『井蛙抄』第六には、定家が慈円に、

 「御詠又は亡父などこをはうるはしき歌よみの歌にては候へ。定家名とは知恵の力をもてつくる歌作なり。」

と言ったという。「亡父」は俊成卿で西行ではない。
 「歌詠み」は心に思うことが自然と歌になる人であり、「歌作り」はあくまで計算で歌を作り上げる人という意味だろう。ならば「逸物」は何かというと、ウィキペディアに、

 後鳥羽院は、後鳥羽院御口伝において、「寂連は、なをざりならず歌詠みし物なり」、「折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき」と様々な才能を絶賛している。

とあるように、その中間の、自然に口をついて歌になるわけでもなく、かといって計算でこしらえるのでもなく、自然の情を繊細にして注意深く歌へとまとめ上げてゆくタイプといっていいのか。
 許六から見れば、正秀も自然に句を詠むのでもなく、かといって時々其角が見せるような、このネタでよくここまで作るというような句(たとえば、切られたる夢はまことか蚤の跡 其角)でもなく、師の評価を気にしていわば忖度した句を作っているというように見えたのだろう。実際の所はよくわからない。
 「当歳旦三ツ物の如き句出る也」というのは、『元禄七年二月二十五日付森川許六宛書簡』の、

 「膳所正秀が三つ物三組こそ、跡先見ずに乗放たれ。世の評詞にかかはらぬ志あらはれておかしく候。」

のことか。ちなみに許六の歳旦五つ物については、

 「彦根五つ物、いきほひにのつとり、世上の人をふみつぶすべき勇体、あつぱれ風雅の武士の手業なるべし。」

と言っている。

2019年3月7日木曜日

 国語の試験なんかで「対義語」を書けなんてのがあるが、実際対義語というものに明白な真実なんてものはない。
 そもそも言葉というのは、元々個別の事象に名前を与えて、その用例の積み重ねで意味領域が形成されるものだ。個々の意味領域は個体発生的で、対義語というのは習慣的に対にしているうちに発生する。
 たとえば「ガチ」の反対は何かというと、「ゆるキャラ」に対して「ガチきゃら」と言ったり、「ゆるキャン」に対して「ガチキャン」だなんて言っているうちに、なんとなく「ガチ」の反対は「ゆる」なのかな、ということになって行く。
 「オタク」の反対は何かというと、多分「リア充」であろう。それはこの二つを対にして語る頻度が多いからだ。
 よくある暇つぶしの議論に、「愛」の反対は「憎しみ」なのか「無関心」なのかというのがあるが、これも別に答があるわけではない。
 「あつい」の反対は何かというと、「寒い」「冷たい」「ぬるい」などいくつもの答が出てくる。
 「甘い」の反対は何かというと、酒やカレーでは「甘口・辛口」というから「辛い」が対義語になる。批評の場合でもこの「甘口・辛口」が比喩として拡大されて用いられている。
 一方、野球で「甘い球」の反対は「厳しい球」になる。親の躾でも「甘い」の反対は「厳しい」になる。
 青春の思い出か何かだと「甘い」の反対は「苦い」になる。
 こういう対義語は、言い習わされているうちに自然に発生するもので、最初から対義語だったわけではない。対義語は後から作られるもので、本来概念に対義語はない。
 そういうわけで「法の支配」の対義語なんてあるわけない。「人の支配」は対義語ではない。法は人の作るもので、人の支配する所に何ら掟がないなんてことはないのだから、「法」と「人」は対義語ではない。
 ならば「暴力の支配」が対義語なのかというとそうでもない。法を守らせるには警察などの暴力装置が必要だから、法のある所に暴力がないなんてことはない。
 強いて言うなら「法の支配」の反対は法がない状態、つまり「アナーキー」だろう。
 「人の支配」の対義語はそのうち「AIの支配」になったりするのではないかと思う。昔読んだラノベに「ヒューマニズム」と「メカニズム」とが対立する人間とロボットの共存する社会というのがあった。
 ならば「不易」の反対は「流行」なのか。『俳諧問答』を見てゆくことにしよう。

 「『精進ハあいに落ちられて』など云句ならバ、是むかしの句にかはる

事なし。あたらしミといふハ是なり。
 明日・明後日流行尽る事なく、沢山にとめり。」(『俳諧問答』横澤三

郎校注、一九五四、岩波文庫p.106)

 祖父祖母の精進ハ間にまびかれて
 祖父祖母の精進ハ間に落ちられて

 許六はこの違いが昔の句と新味の句を分けると言うが、あくまで言葉の新しさにすぎないように思う。それも今となってはどちらも大昔の句なのでその差はよくわからない。
 それに較べると、芭蕉の「大せつな日が」の句は情がこもっている。ラッド(Radwimps)の歌にも「胸に優しき母の声、背中に強き父の教え」とあるが、そんなものを思い起こし喧嘩はやめなければと改心するのは、単なる精進日あるあるで笑いを取ろうというのとは違う。
 許六の不易流行論は、繰り返しになるが、不易は一方で人間誰しも自然に備わるもので、それは「かくれたる所なき」つまり自明なものとして議論はされていない。
 その一方でそれは血脈として師匠から継承するものとされている。
 この血脈の考え方は近代でも俳統だとか俳暦だとかいう形で残っていて、誰に俳句を学んだか、どの結社に所属しているかがこの世界では決定的な意味を持っている。形を変えた家元制といっていい。
 去来の「基」と「本意本情」はまだわかりやすい。「基」は形式だし、

「本意本情」はかつて多くの人を感動させ、多くの人が守り残してきたものには、それなりの理由があるからだ。
 人間誰しも持つ自然な情としての不易は、それ自体はどんな理論でも捉えることのできない、いわゆる「俳諧の神」であり、それは作品となり多くの人を感動させたことで証明される。古典はその意味で実証済みだから、古典から不易の情を学ぶのは間違っていない。
 許六の血脈論はこうした実証性を欠いている。ただ血脈を相続したと称する人の主観でしかない。

 「前論ニ云ク、正秀が詞ニ、師遷化の後、流行頼ミなし。不易の句なら

でハ作るまじといひけると書セり。此事いぶかし。
 翁滅後成共、流行頼なきと申ハ何ぞや。
 不易・流行ハ俳諧の姿也。俳諧をやめて余事に遊ババ格別の沙汰也。
 俳諧つぶやく中に、不易・流行二ツながらなくて叶ハざるもの也。叶ハざるとて、常に不易・流行を荷ひはこぶ物ニハ非ズ。
 血脈相続の人の句ハ、口より出るとひとしく不易・流行の姿出来て、千里をはしる物也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.106)

 正秀が今後は流行は追わずに不易の句に専念するというのは、今までどおりの句を作ってゆくということで、別に時代遅れでもいいというだけのことのように思える。別に荷兮のように連歌師になるというのではないだろう。
 芭蕉の没後、新風を牽引できる人がいなくなったのは確かで、それは只ネタ的に目新しければいいというのではなく、それをただ目新しいだけに終らせない、人間の真情を表現し続けられなくてはならないからだ。
 精進日あるあるで目新しい言葉を使ったとしても、精進日の親を思う気持ちを説教臭くならずに素直に表現できる才能がなければ、ただその場限りの目新しさで終る。 
 「翁滅後成共、流行頼なきと申ハ何ぞや」と許六はいうが、それは去来や其角や正秀らが共通して持っていた問題意識ではなかったかと思う。
 許六がこれを否定する理由は、「血脈相続の人の句ハ、口より出るとひとしく不易・流行の姿出来て、千里をはしる物也。」
 つまり自分は「流行頼なき」の埒外だと自負したいのだろう。ただ、その許六の句が当時どれほど流行してたというのだろうか。

 「惣別俳諧と云物、不易・流行の二ツならでハ、外ニ何といふ事もなし。此二ツに極る。
 不易にあらざれバ流行也。流行の姿なけれバ不易也。此二ツの姿を離れて、句と云物ハ曾てなし。不易・流行二ツに極ると云ハ、各や我々の上の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.106~107)

 不易は一つの現象であり、実体を伴う。流行も一つの現象であり、実体を伴う。それぞれの実体は独立しているから、不易でもなければ流行もしていない句というのも存在する。近代俳句のほとんどはこういう句だ。
 その一方で不易も流行も共に兼ね備えた句もある。今日に残る名句といわれるのはそれだ。
 「不易にあらざれバ流行也。流行の姿なけれバ不易也。」だとか、不易・流行はそういう相対的なものではない。現実を無視したいわゆる観念論の域を出ない。
 不易流行の両方から見放された句というのはいくらでもある。不易流行二つに極るのはそれこそ俳聖の領域であろう。神と言ってもいい。
 おしなべて概念というのは個体発生的なもので、多くの人が何か共通のことを同じ言葉で言い表すことで、その平均的なイメージが生じる。それは個々に生じるもので、最初から体系をなすわけではない。
 ただ、多くの人が二つの概念を対比して言い表すならば、そこに対義語が生じる。そうした対概念をあとから論理的に体系化したものが、いわゆる哲学だとか形而上学だとかいうもので、論理は後、個々の概念が先にある。不易でなければ流行で、流行でなければ不易だ何て主張はそういう後から形而上学で、実態に反している。

2019年3月5日火曜日

 もともと言語(ラング)というのは存在しない。無数の発話(パロール)の積み重ねが共通の記憶を形作ったとき、それがあたかも個々の発話を超えた言語(ラング)が存在するかのような幻想を与える。
 だからどこの国でも言葉はその発話の範囲で独自に発展し、方言やスラングが形成されるし、むしろその方言やスラングや業界言葉の複雑に共存する状態こそが言語の本来の姿だった。
 近代化以前の社会では世界中がそのような状態だったと思う。
 その中で地域や職業や階級を越えた共通語はというと、芸能の言葉だった。
 芸能は旅芸人によって地域を越えて広がり、その言葉をいろいろな地域の人が覚え真似する。そこから共通の言語が生まれる。
 中世の共通語とされた雅語は八代集の和歌の言葉だし、中世の末期から江戸時代にかけては謡曲の言葉も共通語となった。明治の初めでも田舎から出てきた人が会話する時に謡曲の言葉を使ったと言われる。
 貞門の俳諧は雅語を基調としていたし、談林の俳諧は謡曲の言葉が多用された。そこでひとたび俳諧が全国規模で流行すると、今度は俳諧の言葉が共通語として通用するようになってくる。「軽み」は本来そうした共通言語の革命だったのではないかと思う。
 近代に入ると国家が国語を定め、学校教育を通じてそれを普及させるようになる。ただ、実際にはその標準語はほとんど文語化している。
 実際に庶民が話す言葉は、明治の頃には落語や講談の言葉だっただろうし、戦後になってもテレビやラジオで芸人の語る日本語が共通語となっている。さらにはJ-popの詞や映画や漫画やアニメの言葉も共通語の一部となり、最近ではネットの言葉も影響を与えるようになっている。
 それに対し、文科省の定める標準語は教科書に書いてある文語にすぎない。実際に標準語で会話をする人は皆無だ。
 芭蕉はこうした言語の性質をある程度自覚していたのではないかと思う。ただ、門人はなかなかそれについていけなかったか、許六の「軽み」の理解も表面を撫でた感じがする。

 「又精進などいふ事を句作りニせば、むかしハ、
 月に二日は親の精進日
 只精進日ハかたつまりけり
などせし。これあたらしく俳諧といふ事なし。
 ふるひから次第に上る精進日
といふこそ、あたらしけれ。又あたらしミといふハ、
 祖父祖母の精進ハ間にまびかれて
トいふこそ、あたらしミと申侍れ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.105~106)

 「精進日」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「祖先の忌日など、精進をすべき一定の日。斎日。」

とある。
 「月に二日は親の精進日」はいわゆる月命日で、weblio辞書の「実用日本語表現辞典」に、

 「ある人が亡くなった日付の毎月の呼び名。「命日」とはある人が亡くなったその日の事であり、年に1回であるが、「月命日」は命日を除き1年に11回ある。」

とある。
 「只精進日ハかたつまりけり」の「かたつまり」は肩が凝るということか。
 いずれもそのまんまを述べただけで、

 つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼
 にがやきのさざゐにふたのひつ付て

と共通している。
 これに対し、

 ふるひから次第に上る精進日

 「ふるひ」は「経る日」で「ふるとし」が去年を意味するように「昨日」のことか。前日になってようやく、普段は忘れていて、前日になって明日は命日だと意識する。あるあるだ。
 こうしたあるあるは炭俵の体といってもいいもかもしれない。

 祖父祖母の精進ハ間にまびかれて

親が亡くなると祖父や祖母の精進日は忘れ去られがちになる。これもあるあるネタといっていいだろう。
 残念なのは許六が、

   喧嘩のさたもむざとせられぬ
 大せつな日が二日有暮の鐘     芭蕉

の句を知らなかったことだ。元禄七年九月の『猿蓑に』の巻のニ十三句目だが、この一巻は『続猿蓑』所収であるため、許六がこれを知るのは一年後のことだ。
 「精進」や「精進日」という言葉を直接出さずに「大切な日」で匂わせる匂い付けの句だ。

2019年3月4日月曜日

 今日も一日雨が降った。
 雨が降るから草木も育ち、乾いた空気も潤うというのは確かに理屈だが、外で働く身にとっては、やはり嫌なものだ。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「かるきといふハ、発句も付句も求めずして直に見るごときをいふ也。
 言葉の容易なる、趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚き所より出て、一句の上に自然ある事をいふ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.104)

 芭蕉が軽みに至る過程では、出典に頼った趣向からの脱却が重要だったが、それによってより直接的な表現が可能になったのも確かだ。
 それはたとえば延宝四年の、

   森の下風木の葉六ぱう
 真葛原ふまれてはふて逃にけり    信章

と、元禄五年の、

   今はやる単羽織を着つれ立チ
 奉行の鑓に誰もかくるる       芭蕉

の違いと言ってもいいだろう。
 「六法者」というチンピラ集団があわてて逃げてゆく様子を、延宝の頃は「森の下風木の葉」「真葛原ふまれて」と古典のパロディーの言葉で表わしたが、元禄五年の流行の単羽織で粋がってる連中が逃げてゆくのに、もはやこういう古典の引用は必要としない。ごく自然に「奉行の鑓に誰もかくるる」と、それでいて絵が浮かぶような表現が可能になっている。
 これは江戸上方などの大都市での共通語の形成と関わるもので、延宝の頃は確かに古典や謡曲の言葉を引いてくる必要があったのだろう。古典から独立して庶民の言葉が独自の意味空間を作り出したという所で、芭蕉の軽みも可能になったのではないかと思う。それは俳書が多くの人に読まれて行くうちに、俳諧の言葉が共通語になって行ったということではないかと思う。
 出典なしにもっと日常的な言葉で、的確の多くの人に絵が浮かぶような表現が可能になったということが「軽み」であり、単に簡単な言葉を使っているだとか、趣向が軽いということをいうのではない。

 病雁の夜寒に落ちて旅寝哉      芭蕉

の句の「病雁」も古典からの借用ではなく、飛来する雁から独自なイメージを作り出した点で、趣向としては重いけど「軽み」の句となる。

 「仏壇の障子につきのさしかかり
  行水の背中をてらす夏の月
  鷹場の上を雁渡るなり
 などいへる事の類、是レかるきといふ物也。
 玄梅が集に、四畳半の巻といふ俳諧あり。是後猿の趣と見えて、あまみをぬきたる俳諧也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫

p.105)

 「仏壇の」の句は元禄七年六月二十一日大津木節庵での興行、

 秋ちかき心の寄や四畳半       芭蕉

を発句とする歌仙の十一句目で、前句を加えると、

   うぢうぢ蚤のせせるひとりね
 仏壇の障子に月のさしかかり     惟然

となる。玄梅編の『鳥の道』(元禄十年)に収録されている。芭蕉、木節、惟然、支考の四吟で、確かに続猿蓑の頃の風だ。
 この巻は以前にこの俳話の中で読んだので、そのとき書いたことを繰り返しておこう。

 「仏壇は元禄の頃から今のような豪華なものが作られるようになったという。ただ、こうした仏殿に障子はないので、仏壇の置かれている仏間の障子ではないかと思う。
 大きな屋敷であれば仏間は家の奥にあるが、蚤に刺されながら一人寝するような小さな家では、仏間の障子にまで月の光が差し込んでくる。
 当時の仏壇や位牌の庶民への普及を詠んだ釈教の句といえよう。それ以前は持仏を厨子に入れて安置していた。」

 「行水の」の句は不明。これまでの研究者が見つけられなかったのだから、今筆者がつけ刃で探しても見つかるものではなかろう。現存してない巻のものか。月明かりの裸の背中は艶な感じのする句だ。
 「鷹場の上を」の句は、李由・許六撰の『韻塞(ゐんふたぎ)』の中の、

 雌を見かへる鶏のさむさ哉      木導

を発句とする木導、朱㣙、許六の三吟の六句目にある。前句を付けて表記すると、

   暮切て灯とぼすまでの薄月よ
 鷹場の上を雁わたる也        許六

となる。「薄月」は薄雲にぼんやりと見える月のことで、春は朧月、秋は薄月となる。
 日が暮れて灯りを灯す頃のぼんやりした薄月夜には、鷹狩りをする場所でも鷹狩りは終り、空には悠然と雁が飛ぶ。
 この句は月に雁という古い付け合いによる物付けで、景色の描写では新味はあるものの、果して「軽み」の代表とするにふさわしいかどうかは微妙だ。
 月に雁は『古今集』に、

   題しらず
 白雲にはねうちかはし飛ぶかりの
     かずさへ見ゆる秋の夜の月
               よみ人しらず

の歌がある。

2019年3月3日日曜日

 今日は一日雨で、早いけどそろそろ菜種梅雨の季節に入るのか。
 それでは『俳諧問答』にもどるとしよう。
 「句の案じ方」の所を飛ばして「不易流行」にふれたところから始めよう。

 「一、不易流行をいはば、不易ハかくれたる所なき故ニ不易也。流行の姿ハ、月々年々にかはる。発句においてハ、少紛るる味あり。故ニ付句ニして爰ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103)

 まず「不易」についての議論は「かくれたる所なき」、つまり自明ということにして、基本的には流行についての議論に入る。

 「一、前句有て、さざゐの壺いりといふ事よきところならバ、むかし作り出し侍る時ハ、やうやうと、
 つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼
など作れり。中ごろ句を尋ねこしらへたつ時、
 にがやきのさざゐにふたのひつ付て

 にが焼のさざゐを横に喰付て
な作れり。当時江戸表五句付点取の俳諧ハ、今に此場所にすハれり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103)

 「さざゐの壺いり」は今で言う「さざえの壺焼き」だが、当時は「壺炒り」と言っていたようだ。
 『去来抄』「同門評」にある、

 行ずして見五湖いりがきの音をきく   素堂

の句の「いりがき」も牡蠣を鍋の上で焼いたもので、がらがらと大きな音を立てる。
 コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「[動ラ五(四)]火にかけて、水気がなくなるまで煮つめる。また、鍋などに入れて火であぶる。「豆を―・る」
 [補説]「煎」は火で熱し焦がす、「炒」は鍋などで熱し焦がす、油でいためる、「熬」は焦がす、煮つめる意とするが、明確には使い分けにくい。
 [可能]いれる」

とある。
 さざえの壺焼きを「壺炒り」と言っていたのは、この頃は鍋で焼いていたからかもしれない。今でも家庭ではフライパンで焼くことはあるが、アウトドアや店では網の上に乗せて焼くことが多い。
 網の上だとさざえの殻の突起がちょうどよくさざえ本体を安定させてくれるが、鍋やフライパンだとなかなか安定しない。それが、

 つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼

だと思う。さざえの壺炒りあるあるだ。
 もう一句の、

 にがやきのさざゐにふたのひつ付て

 だが、「壺炒り」は「にがやき」とも言ったのか、これはよくわからない。おそらく苦味の強い内臓部分を取らずに丸ごと焼くからだろう。先に殻から中身を取り出し、内臓を取ってから焼けば苦くはないが、酒飲みとしてはその苦味が良いというところもある。
 殻ごとそのまま焼くと、蓋がくっついてなかなか取れない。バーベキューでさざえを焼いたりすると、けっこう中身を取り出すのに苦労する。これもさざえの壺炒りあるあるだ。

 にが焼のさざゐを横に喰付て

 これもさざえの壺炒りあるあるで、さざえの身を殻から引っ張り出した時に先が殻にくっついてなかなか完全に抜けない時に、口の方からお迎えに行ってしまう、その仕草のことであろう。
 「江戸表五句付点取」というのは、許六が其角のもとを尋ねた時の点取り俳諧のことだろう。おそらく、一巻全部だとなかなか大変だからというので、入門向けに表六句だけ、つまり発句をお題として与え、それに脇、第三、四句目、五句目、六句目を付けて表六句を仕上げる俳諧ではないかと思う。
 
 「此拵へたる事をにくミ給ひて、炭俵・別座敷ニ場をふミ破て、
 さざゐを振てひたと吸ハるる
とおどり出られたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103~104)

 さざえがうまく座らないだとか、蓋が引っ付いて取れないだとか、口の方からお迎えに行くだとか、確かにあるあるネタとして面白いが、これくらいは誰でも最初に思いつきそうなことで、同じネタを何度も繰り返すわけにも行かない。
 そこで『炭俵』『別座敷』あたりの風になると、特に珍しくもない単に身を取り出して口に運ぶ仕草を「さざゐを振てひたと吸ハるる」と巧に描写して見るようになる。
 これは許六の理解していた炭俵調の特徴のようだが、たとえば「梅が香に」の巻の、

   娘を堅う人にあはせぬ
 奈良がよひおなじつらなる細基手   野坡

のように、単純に行くと「そろいもそろい細基手」とかなりそうなところに、「おなじつらなる」でふっと絵が浮かぶようにする工夫のことをいうのかもしれない。

   終宵尼の持病を押へける
 こんにゃくばかりのこる名月  芭蕉

の句も。看病している間にご馳走がなくなるというネタを「こんにゃくばかりのこる」というマイナー・イメージを使って一工夫している。
 同じあるあるネタでも、蕉風は点取り俳諧の一歩上を行くというのは、こういうところだろう。今のサラリーマン川柳に欠けているのもこういうところかもしれない。

 「是予が生たる国也。其後師上洛し、伊賀にこもりて後猿とかや撰し給ふときく。さざゐのうまミをぬきて、遺経の俳諧を残せりときけ共、板に出ざれバしらず。予ハ独り流行して、
 火鉢の焼火に並ぶ壺煎
といふ処に遊ぶ。雉子かまぼこを焼たる跡ハ、かならず一献を待。
 にがやきのさざゐに、青ぐしをさして並べたるを、直に見るがごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.104)

 元禄五年から六年に許六が江戸で芭蕉に会い、指導を受けた後、許六は彦根に戻る。
 翌元禄七年、芭蕉も五月に江戸を離れ伊賀に戻る。そのあと滋賀、京を廻り、大阪で最期を迎える。この頃『続猿蓑』の編纂が始まるが完成を見ず、支考が跡を継ぎ、元禄十一年に刊行されるが、この『俳諧問答』が書かれた頃はまだ刊行されてなかった。
 この新風を許六は「さざゐのうまミをぬきて」と、さざえの美味しさを直接食べる仕草であらわすのではなく、と解釈したのだろう。

 火鉢の焼火に並ぶ壺煎

 「焼火」は「をさ」と読むらしい。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」の「をさ(筬)」だと、

 「機織(はたお)りの道具の一つ。細く薄い竹片を櫛(くし)の歯のように長方形の枠に並べ入れたもの。縦糸をその目に通し、横糸を織り込むごとに動かして織り目を密に整える。」

だが、火鉢の上に置く網もそう呼ばれていたのか。
 近代の火鉢は陶器の丸いものが多いが、かつては外側の木で出来た角火鉢や長火鉢があった。その上に五徳を乗せて薬缶や鍋をかけたりしたが、物を焼くときの鉄灸で四角くて横棒がなければ筬に似てなくもない。
 雉子やかまぼこを焼いたあとには、さざえの壺焼きも焼いたというが、それは許六さんのような裕福な家のことかも知れない。

2019年3月1日金曜日

 「此梅に」の巻が終わったところで、今日はちょっと元号の話でも。
 まあ、来月の一日から新元号になると言うので、テレビでは何かと「平成最後の」なんて枕詞がつくが、激動の昭和に較べると平成は地味で盛り上がりに欠ける。
 芭蕉の時代というと寛文、延宝、天和、貞享、元禄、この五つだ。これを西暦に直せと言われてもいつになっても覚えられなくて、結局グーグル先生に頼ることになる。
 以下、ウィキペディアを見ながら書くが、寛文元年は西暦一六六一年になる。後西天皇の御世だが、在位は寛文三年まで。その後は霊元天皇の御世になる。
 当時は天皇の在位期間と元号とはそれほど関係なかった。霊験天皇の在位は貞享四年までだが、そのときに改元はない。
 芭蕉は寛永二十一年の生まれだが、俳諧史に姿を現すのは寛文四年の松江重頼撰『佐夜中山集』になる。

 姥桜咲くや老後の思ひ出      宗房
 月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿  同

 この二年前の寛文二年にも、

   廿九日立春ナレバ
 春や来し年や行きけん小晦日    宗房

の句があるが、発表されたので一番早いのは『佐夜中山集』になる。
 「春や来し」の句は前書きに「廿九日立春」とあるところから寛文二年と分かる。
 延宝元年は西暦一六七三年になる。延宝三年には宗因の興行に参加し、この時から宗房ではなく桃青を名乗るようになる。翌四年には『江戸両吟集』を出す。
 この年の九月に大坂広岡宗信編の『千宜理記』が刊行され、先の「春や来し」の句が入集する。(『芭蕉年譜大成』今栄蔵、1994、角川書店より)
 天和元年は西暦一六八一年になる。前年の冬に深川に隠棲し、この年の春、李下から芭蕉一株を贈られ芭蕉庵が誕生する。
 貞享元年は西暦一六八四年になる。貞享四年には霊元天皇が退位し、東山天皇が即位する。
 貞享元年といえば芭蕉が『野ざらし紀行』の旅に出た年で、元禄二年の『奥の細道』までが紀行文の時代になる。いわゆる蕉風を確立してゆくのもこの頃だ。
 元禄元年は西暦一六八八年になる。翌元禄二年春に『奥の細道』の旅に出る。元禄七年に死去。
 この頃の元号は短期間でころころ変わったので、十干十二支が併用されていた。貞享元年は甲子で『野ざらし紀行』は『甲子吟行』とも呼ばれる。十干十二支は六十年で一周するが、当時の人の寿命からするとそれほど不便はなかったのだろう。また十干十二支による年の表記は韓国・中国でも共通なので、国際表記でもあった。
 日本で西暦が採用されたのは明治五年で、明治五年十二月三日が明治六年一月一日になった。ウィキペディアによると、

 「改暦は明治5年11月9日(1872年12月9日)に布告し、翌月に実施された。この年の急な実施は明治維新後、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治6年は閏6月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったといわれる。」

とある。
 村山故郷の『明治俳壇史』(一九七九、角川書店)によると、新年が冬のさ中に来たことで、

 花やかに年は来にけり松の雪    連梅
 寒菊のきよき匂ひもことし哉    等栽
 年玉に添へて出しけり寒見舞    山月

といった句が詠まれたという。
 近代俳句ではやがて歳旦の句を春夏秋冬から切り離して、独立して扱うようになった。
 明治五年には日本の伝説の初代天皇である神武天皇の即位を元年とする神武天皇即位紀元が作られた。ただ昭和初期から敗戦の年までの間を除けば一般にはほとんど使用されることがなかった。
 昭和十五年(一九四十年)は紀元二千六百年ということで盛り上がったという。ただこの頃は日中戦争が泥沼化し、予定されていた東京オリンピックが中止になった。代替地はヘルシンキだったが、ここも前年の第二次世界大戦の勃発によって中止になった。
 この紀元二千六百年に登場したあの有名な戦闘機はその年の下二桁を取り「零式」とされた。いわゆるゼロ戦だ。このゼロ戦に関しては例外的に敵性語である「ゼロ」が用いられた。
 あちこちの狛犬を見て歩いていると、時折紀元二千六百年銘の狛犬に出会う。
 戦後になると紀元は用いられなくなり、君が代・日の丸・天皇制の廃止を求める声と平行して、元号に対しても廃止を主張する人たちもいた。
 二つの暦がある事で、コンピュータのプログラムを組む際にもそれだけ手間がかかる。
 韓国独自の元号は併合によって終り、戦後の韓国・北朝鮮ともに元号はないままになっている。
 中国では明の時代から皇帝の名前が元号になり、辛亥革命によって終る。
 よって今日元号を持つのは日本だけになっている。
 元号を持つ意味は何だろうかと思うに、それは複数の暦を日常的に使い分けることで、時間が一つではないということを知るのに役に立つのではないかと思う。世界には西暦や元号以外に様々な暦が存在する。
 日本語の文字は平仮名、片仮名、漢字の三種類を使い分けることで、古来の日本文化(平仮名、漢字の訓読み)と中国から来た文化(漢字の音読み)、西洋やその他の国から来た文化(片仮名)を区別して表記している。このことで日常的に三つの文化の別を常に意識することができる。
 世界は一つではなく常に多元的で、多様な文化の体系の中で生きていることを自覚するには、三種の文字と同様、二種の暦も有用なのではないかと思う。
 十干十二支は廃れたけど十二支だけなら今でもその年の干支として話題になるから、三つの暦と言ってもいいかもしれない。この多元性を内包した文化こそが日本の文化だ。