今日は一日雨で、早いけどそろそろ菜種梅雨の季節に入るのか。
それでは『俳諧問答』にもどるとしよう。
「句の案じ方」の所を飛ばして「不易流行」にふれたところから始めよう。
「一、不易流行をいはば、不易ハかくれたる所なき故ニ不易也。流行の姿ハ、月々年々にかはる。発句においてハ、少紛るる味あり。故ニ付句ニして爰ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103)
まず「不易」についての議論は「かくれたる所なき」、つまり自明ということにして、基本的には流行についての議論に入る。
「一、前句有て、さざゐの壺いりといふ事よきところならバ、むかし作り出し侍る時ハ、やうやうと、
つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼
など作れり。中ごろ句を尋ねこしらへたつ時、
にがやきのさざゐにふたのひつ付て
又
にが焼のさざゐを横に喰付て
な作れり。当時江戸表五句付点取の俳諧ハ、今に此場所にすハれり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103)
「さざゐの壺いり」は今で言う「さざえの壺焼き」だが、当時は「壺炒り」と言っていたようだ。
『去来抄』「同門評」にある、
行ずして見五湖いりがきの音をきく 素堂
の句の「いりがき」も牡蠣を鍋の上で焼いたもので、がらがらと大きな音を立てる。
コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、
「[動ラ五(四)]火にかけて、水気がなくなるまで煮つめる。また、鍋などに入れて火であぶる。「豆を―・る」
[補説]「煎」は火で熱し焦がす、「炒」は鍋などで熱し焦がす、油でいためる、「熬」は焦がす、煮つめる意とするが、明確には使い分けにくい。
[可能]いれる」
とある。
さざえの壺焼きを「壺炒り」と言っていたのは、この頃は鍋で焼いていたからかもしれない。今でも家庭ではフライパンで焼くことはあるが、アウトドアや店では網の上に乗せて焼くことが多い。
網の上だとさざえの殻の突起がちょうどよくさざえ本体を安定させてくれるが、鍋やフライパンだとなかなか安定しない。それが、
つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼
だと思う。さざえの壺炒りあるあるだ。
もう一句の、
にがやきのさざゐにふたのひつ付て
だが、「壺炒り」は「にがやき」とも言ったのか、これはよくわからない。おそらく苦味の強い内臓部分を取らずに丸ごと焼くからだろう。先に殻から中身を取り出し、内臓を取ってから焼けば苦くはないが、酒飲みとしてはその苦味が良いというところもある。
殻ごとそのまま焼くと、蓋がくっついてなかなか取れない。バーベキューでさざえを焼いたりすると、けっこう中身を取り出すのに苦労する。これもさざえの壺炒りあるあるだ。
にが焼のさざゐを横に喰付て
これもさざえの壺炒りあるあるで、さざえの身を殻から引っ張り出した時に先が殻にくっついてなかなか完全に抜けない時に、口の方からお迎えに行ってしまう、その仕草のことであろう。
「江戸表五句付点取」というのは、許六が其角のもとを尋ねた時の点取り俳諧のことだろう。おそらく、一巻全部だとなかなか大変だからというので、入門向けに表六句だけ、つまり発句をお題として与え、それに脇、第三、四句目、五句目、六句目を付けて表六句を仕上げる俳諧ではないかと思う。
「此拵へたる事をにくミ給ひて、炭俵・別座敷ニ場をふミ破て、
さざゐを振てひたと吸ハるる
とおどり出られたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103~104)
さざえがうまく座らないだとか、蓋が引っ付いて取れないだとか、口の方からお迎えに行くだとか、確かにあるあるネタとして面白いが、これくらいは誰でも最初に思いつきそうなことで、同じネタを何度も繰り返すわけにも行かない。
そこで『炭俵』『別座敷』あたりの風になると、特に珍しくもない単に身を取り出して口に運ぶ仕草を「さざゐを振てひたと吸ハるる」と巧に描写して見るようになる。
これは許六の理解していた炭俵調の特徴のようだが、たとえば「梅が香に」の巻の、
娘を堅う人にあはせぬ
奈良がよひおなじつらなる細基手 野坡
のように、単純に行くと「そろいもそろい細基手」とかなりそうなところに、「おなじつらなる」でふっと絵が浮かぶようにする工夫のことをいうのかもしれない。
終宵尼の持病を押へける
こんにゃくばかりのこる名月 芭蕉
の句も。看病している間にご馳走がなくなるというネタを「こんにゃくばかりのこる」というマイナー・イメージを使って一工夫している。
同じあるあるネタでも、蕉風は点取り俳諧の一歩上を行くというのは、こういうところだろう。今のサラリーマン川柳に欠けているのもこういうところかもしれない。
「是予が生たる国也。其後師上洛し、伊賀にこもりて後猿とかや撰し給ふときく。さざゐのうまミをぬきて、遺経の俳諧を残せりときけ共、板に出ざれバしらず。予ハ独り流行して、
火鉢の焼火に並ぶ壺煎
といふ処に遊ぶ。雉子かまぼこを焼たる跡ハ、かならず一献を待。
にがやきのさざゐに、青ぐしをさして並べたるを、直に見るがごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.104)
元禄五年から六年に許六が江戸で芭蕉に会い、指導を受けた後、許六は彦根に戻る。
翌元禄七年、芭蕉も五月に江戸を離れ伊賀に戻る。そのあと滋賀、京を廻り、大阪で最期を迎える。この頃『続猿蓑』の編纂が始まるが完成を見ず、支考が跡を継ぎ、元禄十一年に刊行されるが、この『俳諧問答』が書かれた頃はまだ刊行されてなかった。
この新風を許六は「さざゐのうまミをぬきて」と、さざえの美味しさを直接食べる仕草であらわすのではなく、と解釈したのだろう。
火鉢の焼火に並ぶ壺煎
「焼火」は「をさ」と読むらしい。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」の「をさ(筬)」だと、
「機織(はたお)りの道具の一つ。細く薄い竹片を櫛(くし)の歯のように長方形の枠に並べ入れたもの。縦糸をその目に通し、横糸を織り込むごとに動かして織り目を密に整える。」
だが、火鉢の上に置く網もそう呼ばれていたのか。
近代の火鉢は陶器の丸いものが多いが、かつては外側の木で出来た角火鉢や長火鉢があった。その上に五徳を乗せて薬缶や鍋をかけたりしたが、物を焼くときの鉄灸で四角くて横棒がなければ筬に似てなくもない。
雉子やかまぼこを焼いたあとには、さざえの壺焼きも焼いたというが、それは許六さんのような裕福な家のことかも知れない。
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