今日も一日雨が降った。
雨が降るから草木も育ち、乾いた空気も潤うというのは確かに理屈だが、外で働く身にとっては、やはり嫌なものだ。
それでは『俳諧問答』の続き。
「かるきといふハ、発句も付句も求めずして直に見るごときをいふ也。
言葉の容易なる、趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚き所より出て、一句の上に自然ある事をいふ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.104)
芭蕉が軽みに至る過程では、出典に頼った趣向からの脱却が重要だったが、それによってより直接的な表現が可能になったのも確かだ。
それはたとえば延宝四年の、
森の下風木の葉六ぱう
真葛原ふまれてはふて逃にけり 信章
と、元禄五年の、
今はやる単羽織を着つれ立チ
奉行の鑓に誰もかくるる 芭蕉
の違いと言ってもいいだろう。
「六法者」というチンピラ集団があわてて逃げてゆく様子を、延宝の頃は「森の下風木の葉」「真葛原ふまれて」と古典のパロディーの言葉で表わしたが、元禄五年の流行の単羽織で粋がってる連中が逃げてゆくのに、もはやこういう古典の引用は必要としない。ごく自然に「奉行の鑓に誰もかくるる」と、それでいて絵が浮かぶような表現が可能になっている。
これは江戸上方などの大都市での共通語の形成と関わるもので、延宝の頃は確かに古典や謡曲の言葉を引いてくる必要があったのだろう。古典から独立して庶民の言葉が独自の意味空間を作り出したという所で、芭蕉の軽みも可能になったのではないかと思う。それは俳書が多くの人に読まれて行くうちに、俳諧の言葉が共通語になって行ったということではないかと思う。
出典なしにもっと日常的な言葉で、的確の多くの人に絵が浮かぶような表現が可能になったということが「軽み」であり、単に簡単な言葉を使っているだとか、趣向が軽いということをいうのではない。
病雁の夜寒に落ちて旅寝哉 芭蕉
の句の「病雁」も古典からの借用ではなく、飛来する雁から独自なイメージを作り出した点で、趣向としては重いけど「軽み」の句となる。
「仏壇の障子につきのさしかかり
行水の背中をてらす夏の月
鷹場の上を雁渡るなり
などいへる事の類、是レかるきといふ物也。
玄梅が集に、四畳半の巻といふ俳諧あり。是後猿の趣と見えて、あまみをぬきたる俳諧也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫
p.105)
「仏壇の」の句は元禄七年六月二十一日大津木節庵での興行、
秋ちかき心の寄や四畳半 芭蕉
を発句とする歌仙の十一句目で、前句を加えると、
うぢうぢ蚤のせせるひとりね
仏壇の障子に月のさしかかり 惟然
となる。玄梅編の『鳥の道』(元禄十年)に収録されている。芭蕉、木節、惟然、支考の四吟で、確かに続猿蓑の頃の風だ。
この巻は以前にこの俳話の中で読んだので、そのとき書いたことを繰り返しておこう。
「仏壇は元禄の頃から今のような豪華なものが作られるようになったという。ただ、こうした仏殿に障子はないので、仏壇の置かれている仏間の障子ではないかと思う。
大きな屋敷であれば仏間は家の奥にあるが、蚤に刺されながら一人寝するような小さな家では、仏間の障子にまで月の光が差し込んでくる。
当時の仏壇や位牌の庶民への普及を詠んだ釈教の句といえよう。それ以前は持仏を厨子に入れて安置していた。」
「行水の」の句は不明。これまでの研究者が見つけられなかったのだから、今筆者がつけ刃で探しても見つかるものではなかろう。現存してない巻のものか。月明かりの裸の背中は艶な感じのする句だ。
「鷹場の上を」の句は、李由・許六撰の『韻塞(ゐんふたぎ)』の中の、
雌を見かへる鶏のさむさ哉 木導
を発句とする木導、朱㣙、許六の三吟の六句目にある。前句を付けて表記すると、
暮切て灯とぼすまでの薄月よ
鷹場の上を雁わたる也 許六
となる。「薄月」は薄雲にぼんやりと見える月のことで、春は朧月、秋は薄月となる。
日が暮れて灯りを灯す頃のぼんやりした薄月夜には、鷹狩りをする場所でも鷹狩りは終り、空には悠然と雁が飛ぶ。
この句は月に雁という古い付け合いによる物付けで、景色の描写では新味はあるものの、果して「軽み」の代表とするにふさわしいかどうかは微妙だ。
月に雁は『古今集』に、
題しらず
白雲にはねうちかはし飛ぶかりの
かずさへ見ゆる秋の夜の月
よみ人しらず
の歌がある。
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