「たった一本のマリファナ取り締まることなんかより、もっと外にやることがあるはずさ」って1980年だったかアナーキーというパンクロックバンドが唄ってたが、何となくそんなことを思い出した。あれはポールマッカートニーが税関で捕まったときだったか。
ドラックをやったからといってCDの発売を停止するというなら、ビートルズとかストーンズとかクラプトンとかみんなアウトだ。井上陽水や尾崎豊だってアウトじゃないか。
芭蕉の門人だっていろいろな人がいた。それでは『俳諧問答』の続き。
「野坡といふものハ、炭俵のかるミ少ハ得たりといへ共、生得越後屋の手代なれバ、俳諧も人情程ありて、少かるみを得たる迄也。
胸中せまくして、我得ざる方すきとみえず。高弟先生を憚からず、過言自讃に似たりといへ共、時々を得たる事ハ高弟とても是非なし。
達磨の法、六祖の米つきに血脈をゆづり給ふハ、是六祖血脈をしり給ふ人なれバ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110~111)
野坡は『風俗文選』の「作者列伝」に、
「野坡者。越之前州人。生商家居于武江戸。蕉門之学者也。一遊西海不定其所居。随師得炭俵之撰号。」
とある。越前の生まれで、ウィキペディアによると
「元々は両替商の三井越後屋に奉公し、番頭にまで登りつめた。宝井其角に俳諧を学んだがのちに松尾芭蕉に入門し直接指導を受ける。」
という。
「一遊西海不定其所居」というのもウィキペディアには、
「元禄11年から14年まで商用で長崎に滞在する。一時江戸に帰るが、翌15年から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始。 長崎・田代・久留米・日田・博多などに旅寝を重ね多くの弟子を獲得した。 人柄は温厚で社交的、蕉風を上方や九州に普及させた業績は大きい。」
とある。
『続虚栗』(其角編、貞享四年刊)のまだ野馬を名乗ってた頃の句は、
総角が手に手に手籠や薺つみ 野馬
さまざまの人にもあかぬ桜かな 同
啼々も風に流るゝひばり哉
烏帽子を直す桜一むら 同
といった当時の古典回帰の風に従っている。
「生得越後屋の手代なれバ」と許六はどうも階級に偏見があるようだが、芭蕉が再び庶民のリアルな世界に切り込んでいこうとしたとき、野坡は欠かせぬ人材だった。
談林の頃は庶民のリアルを描くのにも雅語や謡曲の古い言葉を用い、付け合いに頼って句を付けていったが、それをより口語に近い言葉で、猿蓑の頃から試されていた匂い付けで付けてゆく所が新しかった。
特に『炭俵』の「梅が香に」の巻の両吟は、芭蕉との息の合った展開を見せている。
藪越はなすあきのさびしき
御頭へ菊もらはるるめいわくさ 野坡
と、御頭が「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」とばかりに大事に育てた菊を持ってってしまう迷惑さに、
御頭へ菊もらはるるめいわくさ
娘を堅う人にあはせぬ 芭蕉
と「菊」を娘の名に取り成して、御頭に合わせないようにする親心に展開する。
それをまた、
娘を堅う人にあはせぬ
奈良がよひおなじつらなる細基手 野坡
と結婚を言い寄る零細業者を嫌う体に読み替える。
また、
桐の木高く月さゆる也
門しめてだまつてねたる面白さ 芭蕉
と、名月を遊興のうちに過ごすのを嫌って門を閉ざす高士の風情に、
門しめてだまつてねたる面白さ
ひらふた金で表がへする 野坡
と拾った金を他人にたかられるのを恐れて黙っているせこい男の句に読み替える。
こうした句はまさに「人情程ありて」で、そのあとはむしろ「軽みをおおいに得たり」と言った方がいいのではないかと思う。
まあ、炭俵の風を牽引した中心人物だっただけに、許六としてはライバルとしての嫉妬もあったのではないかと思う。
「六祖の米つきに血脈」の「六祖」は慧能(えのう)のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」にこうある。
「中国、唐代の僧。中国禅宗の第六祖。俗姓は盧(ろ)氏。諡号(しごう)は大鑑真空普覚円明(だいかんしんくうふかくえんみょう)禅師。六祖(ろくそ)大師ともいわれる。新州(広東(カントン)省)に生まれ、3歳で父を失い、市に薪(まき)を売って母を養っていたが、ある日、客の『金剛経』を誦(じゅ)するのを聞いて出家の志を抱き、州(きしゅう)(湖北省)黄梅(おうばい)の東山に禅宗第五祖、弘忍(こうにん)を尋ね、仏性(ぶっしょう)問答によって入門を許された。8か月の碓房(たいぼう)(米ひき小屋)生活ののち、弘忍より大法を相伝し、南方に帰って猟家に隠れていたが、676年(儀鳳1)南海法性寺(ほうしょうじ)にて印宗(いんしゅう)(627―713)法師の『涅槃経(ねはんぎょう)』を講ずる席にあい、風幡(ふうばん)問答によって認められ、印宗によって剃髪(ていはつ)、受具した。」
この米搗きのエピソードは画題にもなり、狩野常信の「六祖踏碓図」がある。
野坡のことを貧しくても血脈を得て六祖となった慧能に喩えるあたりは、許六も野坡を高く評価していた印と言えよう。
支考、千川、許六、野坡、いずれも風雅の誠を得、芭蕉に見出されたが、芭蕉の血脈は他の門人にも受け継がれていたはずで、なぜこの四人なのかはよくわからない。許六のみが知る所であろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿