2019年3月7日木曜日

 国語の試験なんかで「対義語」を書けなんてのがあるが、実際対義語というものに明白な真実なんてものはない。
 そもそも言葉というのは、元々個別の事象に名前を与えて、その用例の積み重ねで意味領域が形成されるものだ。個々の意味領域は個体発生的で、対義語というのは習慣的に対にしているうちに発生する。
 たとえば「ガチ」の反対は何かというと、「ゆるキャラ」に対して「ガチきゃら」と言ったり、「ゆるキャン」に対して「ガチキャン」だなんて言っているうちに、なんとなく「ガチ」の反対は「ゆる」なのかな、ということになって行く。
 「オタク」の反対は何かというと、多分「リア充」であろう。それはこの二つを対にして語る頻度が多いからだ。
 よくある暇つぶしの議論に、「愛」の反対は「憎しみ」なのか「無関心」なのかというのがあるが、これも別に答があるわけではない。
 「あつい」の反対は何かというと、「寒い」「冷たい」「ぬるい」などいくつもの答が出てくる。
 「甘い」の反対は何かというと、酒やカレーでは「甘口・辛口」というから「辛い」が対義語になる。批評の場合でもこの「甘口・辛口」が比喩として拡大されて用いられている。
 一方、野球で「甘い球」の反対は「厳しい球」になる。親の躾でも「甘い」の反対は「厳しい」になる。
 青春の思い出か何かだと「甘い」の反対は「苦い」になる。
 こういう対義語は、言い習わされているうちに自然に発生するもので、最初から対義語だったわけではない。対義語は後から作られるもので、本来概念に対義語はない。
 そういうわけで「法の支配」の対義語なんてあるわけない。「人の支配」は対義語ではない。法は人の作るもので、人の支配する所に何ら掟がないなんてことはないのだから、「法」と「人」は対義語ではない。
 ならば「暴力の支配」が対義語なのかというとそうでもない。法を守らせるには警察などの暴力装置が必要だから、法のある所に暴力がないなんてことはない。
 強いて言うなら「法の支配」の反対は法がない状態、つまり「アナーキー」だろう。
 「人の支配」の対義語はそのうち「AIの支配」になったりするのではないかと思う。昔読んだラノベに「ヒューマニズム」と「メカニズム」とが対立する人間とロボットの共存する社会というのがあった。
 ならば「不易」の反対は「流行」なのか。『俳諧問答』を見てゆくことにしよう。

 「『精進ハあいに落ちられて』など云句ならバ、是むかしの句にかはる

事なし。あたらしミといふハ是なり。
 明日・明後日流行尽る事なく、沢山にとめり。」(『俳諧問答』横澤三

郎校注、一九五四、岩波文庫p.106)

 祖父祖母の精進ハ間にまびかれて
 祖父祖母の精進ハ間に落ちられて

 許六はこの違いが昔の句と新味の句を分けると言うが、あくまで言葉の新しさにすぎないように思う。それも今となってはどちらも大昔の句なのでその差はよくわからない。
 それに較べると、芭蕉の「大せつな日が」の句は情がこもっている。ラッド(Radwimps)の歌にも「胸に優しき母の声、背中に強き父の教え」とあるが、そんなものを思い起こし喧嘩はやめなければと改心するのは、単なる精進日あるあるで笑いを取ろうというのとは違う。
 許六の不易流行論は、繰り返しになるが、不易は一方で人間誰しも自然に備わるもので、それは「かくれたる所なき」つまり自明なものとして議論はされていない。
 その一方でそれは血脈として師匠から継承するものとされている。
 この血脈の考え方は近代でも俳統だとか俳暦だとかいう形で残っていて、誰に俳句を学んだか、どの結社に所属しているかがこの世界では決定的な意味を持っている。形を変えた家元制といっていい。
 去来の「基」と「本意本情」はまだわかりやすい。「基」は形式だし、

「本意本情」はかつて多くの人を感動させ、多くの人が守り残してきたものには、それなりの理由があるからだ。
 人間誰しも持つ自然な情としての不易は、それ自体はどんな理論でも捉えることのできない、いわゆる「俳諧の神」であり、それは作品となり多くの人を感動させたことで証明される。古典はその意味で実証済みだから、古典から不易の情を学ぶのは間違っていない。
 許六の血脈論はこうした実証性を欠いている。ただ血脈を相続したと称する人の主観でしかない。

 「前論ニ云ク、正秀が詞ニ、師遷化の後、流行頼ミなし。不易の句なら

でハ作るまじといひけると書セり。此事いぶかし。
 翁滅後成共、流行頼なきと申ハ何ぞや。
 不易・流行ハ俳諧の姿也。俳諧をやめて余事に遊ババ格別の沙汰也。
 俳諧つぶやく中に、不易・流行二ツながらなくて叶ハざるもの也。叶ハざるとて、常に不易・流行を荷ひはこぶ物ニハ非ズ。
 血脈相続の人の句ハ、口より出るとひとしく不易・流行の姿出来て、千里をはしる物也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.106)

 正秀が今後は流行は追わずに不易の句に専念するというのは、今までどおりの句を作ってゆくということで、別に時代遅れでもいいというだけのことのように思える。別に荷兮のように連歌師になるというのではないだろう。
 芭蕉の没後、新風を牽引できる人がいなくなったのは確かで、それは只ネタ的に目新しければいいというのではなく、それをただ目新しいだけに終らせない、人間の真情を表現し続けられなくてはならないからだ。
 精進日あるあるで目新しい言葉を使ったとしても、精進日の親を思う気持ちを説教臭くならずに素直に表現できる才能がなければ、ただその場限りの目新しさで終る。 
 「翁滅後成共、流行頼なきと申ハ何ぞや」と許六はいうが、それは去来や其角や正秀らが共通して持っていた問題意識ではなかったかと思う。
 許六がこれを否定する理由は、「血脈相続の人の句ハ、口より出るとひとしく不易・流行の姿出来て、千里をはしる物也。」
 つまり自分は「流行頼なき」の埒外だと自負したいのだろう。ただ、その許六の句が当時どれほど流行してたというのだろうか。

 「惣別俳諧と云物、不易・流行の二ツならでハ、外ニ何といふ事もなし。此二ツに極る。
 不易にあらざれバ流行也。流行の姿なけれバ不易也。此二ツの姿を離れて、句と云物ハ曾てなし。不易・流行二ツに極ると云ハ、各や我々の上の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.106~107)

 不易は一つの現象であり、実体を伴う。流行も一つの現象であり、実体を伴う。それぞれの実体は独立しているから、不易でもなければ流行もしていない句というのも存在する。近代俳句のほとんどはこういう句だ。
 その一方で不易も流行も共に兼ね備えた句もある。今日に残る名句といわれるのはそれだ。
 「不易にあらざれバ流行也。流行の姿なけれバ不易也。」だとか、不易・流行はそういう相対的なものではない。現実を無視したいわゆる観念論の域を出ない。
 不易流行の両方から見放された句というのはいくらでもある。不易流行二つに極るのはそれこそ俳聖の領域であろう。神と言ってもいい。
 おしなべて概念というのは個体発生的なもので、多くの人が何か共通のことを同じ言葉で言い表すことで、その平均的なイメージが生じる。それは個々に生じるもので、最初から体系をなすわけではない。
 ただ、多くの人が二つの概念を対比して言い表すならば、そこに対義語が生じる。そうした対概念をあとから論理的に体系化したものが、いわゆる哲学だとか形而上学だとかいうもので、論理は後、個々の概念が先にある。不易でなければ流行で、流行でなければ不易だ何て主張はそういう後から形而上学で、実態に反している。

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