2019年3月9日土曜日

 今朝は遅霜が降りて寒かったが、昼は一転して暖かくなった。夕暮れの空には三日月が浮かび、今日は旧暦二月の三日。
 そういえば、仕事でたまたま新大久保のあたりを通ったが、相変わらず原宿・巣鴨にも劣らぬ賑やかさで、チーズハットク(チーズ・ホットドッグ)の店の前はどこでも身動きが取れないほどだ。
 以前、チーズハットクを食べずに写真だけ撮って捨てる人がいるなんてニュースがあったが、嘘とわかって安心した。まあ、こんなけ人がいるんだから、中には一人二人そういう人がいたのかもしれないが。
 北や南の政府が何をたくらんでいるかは知らないが、庶民はそんなの関係ない。韓流アイドルも相変わらず大人気だし、美味いものに国境はない。やっぱり平和が一番。鈴呂屋は平和に賛成します。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「世上雑俳の上を論ずるにあらず。雑俳の事ハ究たる事なけれバ、評にかかハらず。
 惣別予が論ずる所ハ、門人骨折の上の噂也。此正秀血脈を継がぬ故ニ、かやうの珍敷一言をいふと見えたり。
 かれが俳諧を見るに、専ラひさご・さるミのの場所にすハり、翁と三年の春秋をへだてて、師説をきかず、血脈を継がず、底をぬかぬ故に、炭俵・別座敷に底を入られたり。全ク動かぬしるし也。
 しかりといへ共、かれが俳諧を見るに、底ハぬかずといへ共、逸物也。又々門人の一人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107)

 正秀が『ひさご』『猿蓑』から抜け出せなかったのは確かだろう。いとど自分の作風が確立されると、なかなかそれを変えることは難しい。それは今日の様々なジャンルの芸術を見ても同じだ。
 どんな天才と言えどもある程度の年になると新しいものを受け入れることができなくなる例として有名なのは、アインシュタインが量子力学を受け入れなかったことと、ピカソが抽象絵画を受け入れなかったことだ。
 其角や嵐雪も、荷兮や越人も、自分の過去の芭蕉とともに一時代を作ったその輝かしい成功体験から抜けることができなかった。去来・正秀もそうだったろうし、許六もたまたま芭蕉の最晩年の弟子だから変わる必要はなかっただけで、仮に芭蕉が長生きして惟然や千山とともに新風を作ったなら、許六も脱落していただろう。正秀は後に惟然の『二葉集』(元禄十五年)に参加しているが、許六の名はない。
 許六は結局の所、若い頃に影響を受けた談林が基本になっている。談林のリアルな生活感のある俳諧が元になっていて、蕉風確立期の古典回帰の影響をあまり受けなかった。
 芭蕉が猿蓑調から軽みへと再び古典の趣向からリアルな生活感へと戻ってきた頃に、ちょうど許六のいくつかの句が芭蕉にとってわが意を得たりだった。
 そこで芭蕉が血脈だの底を抜くだの言って褒めたのが結局許六の到達点になり、許六もまたそこから動いてなかったのではないかと思う。だから、結局十団子の句が許六の代表作になってしまった。
 正秀は芭蕉の晩年の風にはついていかなかったけど、『猿蓑』に入集した代表作があった。

 鑓持の猶振たつるしぐれ哉     正秀
 猪に吹かへさるるともしかな    同

 許六もこれらの句を評価しないわけにはいかない。そこで持ち出したのが「逸物」という言葉だった。

 「定家卿の論ニ云ク、家隆ハ歌よみ、我ハ歌作り、寂蓮ハ逸物也といへり。
 此人逸物と云もの也。師の眼前において句をいひ出す時ハ、師の眼有て撰出し、これハよし、是ハ五文字すハらず、此句ハ用にたたずなどいひて撰出して後、世間に出るゆへに、人々正秀ハよき俳諧と眼を付るといへ共、師遷化の後ハ、猿の木に離れたるごとくニして、自己の眼を以て善悪の差別を撰出す事をしらず。
 ただ我口より出るハ皆よき句と心得ていひ出すゆへに、当歳旦三ツ物の如き句出る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107~108)

 岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎の註に、

 「兼載雑談」に「慈鎮西行などは歌よみ、其の外の人はうた作りなりと定家の被書たる物にあり。」とあるが内容が違ってをり、特に寂蓮に就いての所見がない。

とある。
 和歌についての様々な伝承のなかには、伝わってゆくうちにも変わっていったものもあっただろう。許六の記憶違いなのか、それともそのように伝えていた本があったのかは定かでない。
 ネットで見た伊達立晶の『藤原定家の「歌つくり」と「歌詠み」について : 創造と表現との相違』によれば、頓阿の『井蛙抄』第六には、定家が慈円に、

 「御詠又は亡父などこをはうるはしき歌よみの歌にては候へ。定家名とは知恵の力をもてつくる歌作なり。」

と言ったという。「亡父」は俊成卿で西行ではない。
 「歌詠み」は心に思うことが自然と歌になる人であり、「歌作り」はあくまで計算で歌を作り上げる人という意味だろう。ならば「逸物」は何かというと、ウィキペディアに、

 後鳥羽院は、後鳥羽院御口伝において、「寂連は、なをざりならず歌詠みし物なり」、「折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき」と様々な才能を絶賛している。

とあるように、その中間の、自然に口をついて歌になるわけでもなく、かといって計算でこしらえるのでもなく、自然の情を繊細にして注意深く歌へとまとめ上げてゆくタイプといっていいのか。
 許六から見れば、正秀も自然に句を詠むのでもなく、かといって時々其角が見せるような、このネタでよくここまで作るというような句(たとえば、切られたる夢はまことか蚤の跡 其角)でもなく、師の評価を気にしていわば忖度した句を作っているというように見えたのだろう。実際の所はよくわからない。
 「当歳旦三ツ物の如き句出る也」というのは、『元禄七年二月二十五日付森川許六宛書簡』の、

 「膳所正秀が三つ物三組こそ、跡先見ずに乗放たれ。世の評詞にかかはらぬ志あらはれておかしく候。」

のことか。ちなみに許六の歳旦五つ物については、

 「彦根五つ物、いきほひにのつとり、世上の人をふみつぶすべき勇体、あつぱれ風雅の武士の手業なるべし。」

と言っている。

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