2019年3月31日日曜日

 今日は近所でお花見。ソメイヨシノは八分咲きといったところか。このまま花冷えが続いてくれれば来週もまだ咲いているかな。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、下巻ニ、
 名月や座にうつくしき㒵もなし      翁
 此句、『名月の座にうつくし』とあり。此発句にて一歌仙あり。予うつし置ぬ。
 名月の『名』の字に、明の字如何。名月ハ八月十五日一日也。明月ハ四季に通ズ。明の字、書事あるや。かかぬ法とハきき侍りぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.121)

 この句の元の形は、

 月見する座にうつくしき顔もなし    芭蕉

で、元禄三年八月十八日付の加生(凡兆)宛書簡に見られる。「名月散々草臥、発句もしかじか案じ不申候」とあり、八月十五日の句ではないようだ。
 歌仙もこの形で、享保七年刊の『夕がほの歌』に収録されている。尚白との両吟で、表六句は以下のとおり。

 月見する座にうつくしき顔もなし    芭蕉
   庭の柿の葉みの虫になれ      尚白
 火桶ぬる窓の手際を身にしめて     仝
   別当殿の古き扶持米        芭蕉
 尾頭のめでたかりける塩小鯛      仝
   百家しめたる川の水上       尚白

 書簡は興行について触れてないが、八月十八日より後の可能性もある。
 許六の写し持っていた歌仙の発句の上五が「月見する」だったのか「名月の座にうつくし」と直されていたようだ。芭蕉自身が直したのか、定かではない。
 公刊されたのは風国編の『初蝉』が最初で、

「名月や兒たち並ふ堂の橡       芭蕉

とありけれと此句意にみたすとて

 名月や海にむかへは七小町      仝

と吟しても尚あらためんとて

 明月や座にうつくしき皃もなし    仝

といふに其夜はさたまりぬ
   これにて翁の風雅にやせられし事を
   しりて風雅をはけまん人の教なるへ
   しと今茲に出しぬ」

とある。
 三句とも『初蝉』が初出なので、この記述を信じるしかないだろう。芭蕉が興行の前に発句をいくつか作ってその中の一つを選ぶことは、「此道や」の句と「人声や」の二句を支考に選ばせた例でも知られる。尚白との両吟興行の前に、三句候補を作ったことは十分考えられる。
 ただ、このとき成立した句の上五は「月見する」で、「明月や」は後に芭蕉が作り直したものであろう。
 『三冊子』「あかさうし」にも、

 「明月や座にうつくしき貌もなし
 此句、湖水の名月也。名月や兒達並ぶ堂の縁、としていまだならず。名月や海にむかへば七小町、にもあらで、座にうつくしき、といふに定まる。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.117)

とある。
 名月か明月かについての議論は、『去来抄』にも見られる。

 「去来曰、許六と明月の明の字を論ず。
 予は第一、八月十五夜婁宿也。清明を用ゆる。
 第二、和歌にも今宵清明を詠メり。
 第三、詩にも清明の字有あり。
 第四本朝の習ならひ字儀叶ふをかり用る事有。
 富士を不二、吉野を芳野と書るがごとし。先達も明の字書れたる多し。

明の字書て苦しからじといふ。
 許六曰いはく、明月と八月十五夜とは和歌題格別也。名月は良夜の事也ことなり。名月に明の字は未練といふ。此論至極せり。若し明月の題を得て、中秋の月を作せば放題なるべし。名月に明の字を書間敷事必せり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.57)

 明月は清明の頃の月で秋の月に用いられたことはあったのだろう。これに対し「名月」は八月十五日の中秋の名月に限定される。許六の論はそこに極まる。
 ただ、芭蕉の「明月に」の句が八月十五日の興行ではなかったとしたら、「名月」ではない。書簡からそのことは確認できる。ゆえに「明月」でOKとしたい。
 問題は「明月や」の「や」の切れ字のほうだが、確かに「皃(かほ)もなし」を結んで「や」は変な感じがする。許六の言うとおり、

 明月の座にうつくしき皃もなし

の方が収まりが良い。この形のほうが芭蕉らしい感じがする。
 ただ、許六が書き写したという情報だけで、証明するとなると難しい。今は「明月や」の形で通っているが、後に真蹟が発見されれば定説が覆る可能性はある。
 「うつくしき皃もなし」は両吟の発句と見れば、「二人っきりだね」という意味になる。稚児たちがいなくても、七小町がいなくても、君がいればいいんだよって、芭蕉さんそれは‥‥。
 尚白はこのとき四十。当時としては初老で、まあ「うつくしき顔」ではないだろうけど。

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