2022年10月31日月曜日

 ちょっと俳諧の方はお休みになってしまった。
 昨日は寄(やどりき)まで歩いて、そこから宮地山に登った。
 寄自然休養村管理センターから登る道は道が消えかかっていて、最初の方は草に埋もれていて、そこを過ぎてもかろうじて何となくここが道かなという所を登って行ったが、滑りやすい上にきが倒れて塞がってたりした。低い山だからと甘く見ていた。
 ようやく頂上に辿り着いて田代橋の方へ降りると、道ははっきりしていて、ちょっと下るとすぐに林道に出た。
 帰りにさとうちのシフォンケーキを買って帰った。

 今日は箱根の岡田美術館と星の王子さまミュージアムに行った。
 今朝の富士山はかなり雪が解けて荷葉皺になっていた。
 岡田美術館は五階まであって、それに庭園もあってかなり広かった。
 陶器の方は中国、韓国、日本のものがあった。中国が緻密な文様のものが多いのに対し、日本のは皿の上下がはっきりした具象画が多かった。中国ではみんなで大皿を囲むから、どの向きでも良いように作られているのかもしれない。日本は一人一人それぞれのお膳に置くから、必ず一方向から見ることになる。
 絵画の方は応挙の犬、若冲の鶏など、おなじみのものがあった。
 歌麿の雪月花は雪と花には猫が描かれていたが、品川の月には猫は見つからなかった。
 庭園の紅葉は先の方が赤くなっていた。緑と赤のグラデーションは、これはこれで悪くない。
 そのあと星の王子さまミュージアムに行った。フランスの街並みを模した建物で、日本人には受けるけど、外国人向けではないかな。残念ながら来年春で閉館だという。
 王様、うぬぼれやの星、のんだくれ、実業家、点灯人、地理学者の辺りの物語って、今思うと揶揄するようなものではなく、みんなそれなりに一生懸命生きて、それぞれに悩みを抱えているというのがわかってくる。まあ、歳のせいかな。
 点灯人は、

 五月雨や龍灯揚る番太郎   芭蕉

の句を思い出した。雨の日も風の日も本当に苦労して灯りを灯して回ってみんなの役に立っているのに卑賤視され、だから笑わないでほしいな。
 帰りは乙女峠を越えて御殿場に出た。富士山の雪は溶けてしまったかほんの僅かになっていた。足柄の道は事故で渋滞していた。

 

2022年10月29日土曜日

  こっちに来てから秦野市俳句協会の句会ろ入門講座に出席して、入会申込書も出してきた。
 秦野だけなのか全国的な傾向なのかはよくわからないが、写生説が既に時代遅れだと認識され、伝統回帰の流れが生じているなら、この流れに乗りたいものだ。
 できれば俳諧の復興のために何かできたらいいな。別に作者としてランクを上げようとかそういうのではなく、俳諧を盛り上げる活動のお手伝いができたらと思う。
 俳諧を広めるのに必要なのは、神経質な芸術、それも西洋崇拝的な芸術論ではなく、本来の俳諧の笑いを競うゲームだという原点に戻したい。
 俳味というのは特殊な笑いがあるわけではなく、あくまで質の高い笑いということだと思う。シモネタや人を見下した揶揄ではなく、あるあるネタ、シュールネタ、パロディーネタなどの芭蕉が切り開いた高度な笑いの世界は今日の漫才でも漫画・アニメ・ラノベの中にも生きている。それを俳諧に取り戻したい。

 それでは「革足袋の」の巻の続き。
 初裏、九句目。

   ひつぱがれぬるあけぼのの空
 うき世町枕のかねをふきあげて  松臼

 うき世町は名だたる遊郭というよりは、場末の怪しげな売春窟であろう。一夜の枕に散々金をむしり取られた挙句、朝には裸で放り出される。
 十句目。

   うき世町枕のかねをふきあげて
 わすれぬ恋の荷持歩行持     執筆

 荷持(にもち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「荷持」の解説」に、

 「① 荷物を持ち運びする人。運搬人。また、その人を卑しんでいう語。〔羅葡日辞書(1595)〕
  ※浮世草子・世間胸算用(1692)五「大坂旦那廻りの太夫どのにやとはれ荷持(ニモチ)をいたせし時」
  ② 家財道具を多く持っている人。
  ③ 建築で、上の荷重を受ける材。」

とある。歩行持(かちもち)は歩いて運ぶ荷持。
 昔は大商人だったが、遊郭で散財して今は歩行持をして暮らしている。
 十一句目。

   わすれぬ恋の荷持歩行持
 しのぶ山しのびてかよふ駕籠も哉 在色

 お忍びの恋と言いながらも駕籠に乗って通う人には、付き従う歩行持がいる。本当は俺も好きだったのにと、『源氏物語』の惟光・良清のポジション。
 十二句目。

   しのぶ山しのびてかよふ駕籠も哉
 人のこころのかたき岩茸     一鉄

 岩茸は崖に生える茸で採集が難しい。
 こっそり通うのは岩茸を取りに行くようなもので危険が大きい。前句の「しのぶ山」から恋を山の茸に喩える。
 十三句目。

   人のこころのかたき岩茸
 松の葉の露をがてんの隠家に   志計

 「松の葉の露」は松露のことか。後に『続猿蓑』の表題となる、

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

の句が読まれることになる茸で、美味で香りも良い。
 松露に合点していた隠れ家に、もっと入手困難な岩茸が現れる。
 十四句目。

   松の葉の露をがてんの隠家に
 なる程せばき窓の月影      雪柴

 松の枝ぶりが気に行って住んだ隠れ家だが、松の木が邪魔で月の光があまり入らない。切りたくもあり切りたくもなし、という古典的なネタ。
 十五句目。

   なる程せばき窓の月影
 ふいごより雲に嵐の音す也    正友

 ふいごは狭い出口から風を吹き出す。前句の「なる程せばき」をふいごの口の「鳴る程せばき」にして、月影の窓に嵐のような音がする。
 十六句目。

   ふいごより雲に嵐の音す也
 あん餅をうるかづらきの山    一朝

 これは、

 うつりゆく雲に嵐の声すなり
     散るかまさきの葛城の山
              飛鳥井雅経(新古今集)

の歌によって葛城山を出す。巡礼者のために餡餅を売っている。
 十七句目。

   あん餅をうるかづらきの山
 ふりにける豊等の寺の御開帳   卜尺

 豊等(とゆら)の寺はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「豊浦寺」の解説」に、

 「奈良県高市郡明日香村豊浦にあった寺。欽明天皇一三年(五五二)蘇我稲目が百済の聖明王から献上された仏像・経巻を自宅に安置し、向原(むくはら)寺と呼ばれたのが始まりと伝えられる。のち、推古天皇元年(五九三)に豊浦宮(とゆらのみや)の地を賜わり、堂宇が建立されて豊浦寺と呼ばれた。遺跡地に浄土真宗本願寺派の向原寺(こうげんじ)がある。とよら。とよらのてら。小墾田(おはりだ)寺。」

とある。
 秘仏の御開帳とあれば大勢人が集まり、露店が並ぶ。餡餅も当然あることだろう。

 ふりにける跡ともみえず葛城や
     豊浦の寺の雪のあけぼの
              よみ人しらず(続千載集)

の歌による。
 十八句目。

   ふりにける豊等の寺の御開帳
 善の綱うらそよぐ竹の葉     松意

 善の綱はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「善の綱」の解説」に、

 「(善所にみちびく綱の意)
  ① 本尊開帳・常念仏・万日供養などのとき、結縁(けちえん)のため仏像の手などにかけ、参詣者などに引かせる綱。五色の糸を用いるのが常である。
  ※曾我物語(南北朝頃)一〇「つけたる縄は、孝行のぜんのつなぞ。おのおの結縁にてかけ候へ」
  ② 葬式のとき、棺に付けて引く白布の綱。縁の綱。
  ※新撰長祿寛正記(15C後か)「同八月八日の暁、高倉の御所にて御他界あり〈略〉御力者十二人御棺を舁奉る。〈略〉将軍家も、ぜんのつなを御肩に置せ玉」

とある。
 御開帳なので善の綱を引くと、竹の葉がそよぐ。
 十九句目。

   善の綱うらそよぐ竹の葉
 灯明やそれより出て飛蛍     一鉄

 そよぐ竹の葉が善の綱なら、そこから出てきて飛ぶ蛍は灯明になる。
 二十句目。

   灯明やそれより出て飛蛍
 物おもふ身のこもる神前     松臼

 蛍は身を焦がす恋の情を持つもので、そこから物思う身を導き出す。神前に籠って祈りを捧げる女とする。
 二十一句目。

   物おもふ身のこもる神前
 血の泪扨は並木の花の雨     一朝

 血の泪は、

 見せばやな雄島のあまの袖だにも
     濡れにぞ濡れし色は変らず
              殷富門院大輔(千載集)

の歌に「血の涙」という直接的な言葉はないけど、袖の色が変わる涙ということで描かれていて、恋の言葉になる。「血の涙」という言葉の用例は、

 ちの涙おちてぞたぎつ白河は
     君が世までの名にこそ有りけれ
              素性法師(古今集)

の哀傷歌に見られる。
 前句の「物おもふ身」に血の涙と展開するが、花の定座なのでこの桜並木の花散らしの雨も血の涙なのか、とする。
 二十二句目。

   血の泪扨は並木の花の雨
 親はそらにて鳥の巣ばなれ    在色

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『善知鳥』の、

 「親は空にて血の涙を、親は空にて血の涙を、降らせば濡れじと菅簑や」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2670). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。前句の花の雨の血の涙を親鳥が空で流す涙とする。
 ただ、謡曲の殺生の罪ではなく、ただ子供の巣立ちの悲しみとする。

2022年10月28日金曜日

 それでは冬になったということで引き続き『談林十百韻』の「革足袋」の巻、「雪おれや」の巻と一気にコンプリートしたいと思う。
 発句。

 革足袋のむかしは紅葉踏分たり  一鉄

 革足袋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「革足袋」の解説」に、

 「〘名〙 染革や燻革(ふすべがわ)で仕立てた足袋。《季・冬》 〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「革足袋のむかしは紅葉踏分たり〈一鉄〉 尤頭巾の山おろしの風〈在色〉」

とある。燻革(ふすべがわ)は「精選版 日本国語大辞典「燻革」の解説」に、

 「〘名〙 (「ふすべかわ」とも) 松葉などの煙でいぶして地を黒くし、模様の部分を白く残した革。また、その革でつくられたもの。一説に、わらの煙で、ふすべて茶褐色にした鹿のもみがわ。くすべがわ。
  ※嵯峨の通ひ(1269)「侍従、州浜のふすべがは。大夫、桜の散り花の藍縬」

とある。革足袋の鹿革は生きている頃は、

 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声
     聞くときぞ秋は悲しき
              猿丸太夫(古今集)

のように、紅葉を踏み分けていたのだろう。
 脇。

   革足袋のむかしは紅葉踏分たり
 尤頭巾の山おろしの風      在色

 革足袋が紅葉踏み分けた鹿なら、この頭巾の山からも山おろしの風が吹くことだろう。
 鹿に山おろしは、

 山おろしに鹿の音高く聞こゆなり
     尾上の月に小夜やふけぬる
              藤原実房(新古今集)

の歌がある。
 第三。

   尤頭巾の山おろしの風
 おほへいに峰の白雪めにかけて  雪柴

 「めにかけて」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「目に掛ける」の解説」に、

 「① 目にとめる。また、めざす。
  ※月清集(1204頃)下「はるかなるみかみのたけをめにかけていくせねたりぬやすのかはなみ」
  ② (多く上に「御」を付けて) 見せる。御覧に入れる。→御目(おめ)に掛ける。
  ③ ひいきにする。特別に面倒を見る。
  ※大乗院寺社雑事記‐文明二年(1470)六月二〇日「取分懸レ目者如レ此間可レ被レ加二扶持一者、可レ為二喜悦一者也」
  ④ 秤(はかり)に掛ける。
  ※俳諧・鷹筑波(1638)四「目にかけてみる紅葉葉やしゅてんひん〈盛成〉」

とある。
 前句の頭巾から横柄な老人を登場させ、峰に積る白雪に目を止めて、なるほど山おろしの冷たい風が吹くのも尤もだと納得する。
 四句目。

   おほへいに峰の白雪めにかけて
 春ゆく水の材木奉行       志計

 横柄と言えば役人で、峰の白雪に目を止めているので材木奉行とする。
 峰の白雪に春ゆく水は、

 千曲川春行く水は澄みにけり
     消えて行くかの峰の白雪
              順徳院(風雅集)

の歌を本歌とする。
 五句目。

   春ゆく水の材木奉行
 青柳の岸のはね橋八年ぶり    一朝

 刎橋(はねばし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「撥橋・刎橋・跳橋」の解説」に、

 「① 城門などの要害に設け、通行しないときは綱や鎖などでつり上げておけるように造られた橋。また、両岸に橋脚の設置が困難な時、橋台の中腹から角材を上方斜めに突き出し、この上に数層の梁を結合して最上層に桁を渡した橋。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「春ゆく水の材木奉行〈志計〉 青柳の岸のはね橋八年ぶり〈一朝〉」
  ② 船が通行するとき、船の上部がぶつからないように、その半分、または全部をはね上げる構造にした橋。跳開橋(ちょうかいきょう)。
  ※雑俳・蝶番(1731)「飜(ハネ)橋を引かれて岸を恋の闇」

とある。①の後半部分は甲州街道の猿橋のような、

 「岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる。」(ウィキペディア)

のようなものをいう。猿橋はこの『談林十百韻』の翌年の延宝四年に架け替えられている。
 吊り上げ開閉タイプの跳橋が八年ぶりに開くというのはあまりありそうもないので、材木奉行の尽力で八年ぶりに刎橋が復活したとした方がいいかもしれない。
 青柳の岸は、

 風吹けば波の綾織る池水に
     糸引き添ふる岸の青柳
              源雅兼(金葉集)

などの歌に詠まれている。
 六句目。

   青柳の岸のはね橋八年ぶり
 又落書にかへるかりがね     正友

 新しく橋ができるとまたすぐに落書きする人がいる。落書きは行き交う旅人の伝言板の役割を果たしていたのかもしれない。「帰る雁金」は「青柳の岸」へのあしらい。
 七句目。

   又落書にかへるかりがね
 朧夜の月をうしろに負軍     松意

 軍に負けて撤収する姿を雁の列に喩える。
 八句目。

   朧夜の月をうしろに負軍
 ひつぱがれぬるあけぼのの空   卜尺

 負けた兵士は装備を剝ぎ取られる。

2022年10月27日木曜日

 今年はコロナ明けの行動制限のないハローウィン。盛り上がってほしいね。
 十月と言えば昔は恵比須講。恵比須様が神々の留守を預かったが今は、留守番はジャック・オ・ランタン神無月。
 今の日本はあまりにも平和すぎるけど、中国が動けば一気に第三次世界大戦も十分ありうる。貴重な時間なんだなと思う。

 それでは「夜も明ば」の巻の続き、挙句まで。
 名残裏、九十三句目。

   波も色なる蛤の露
 状箱のかざしにさせる萩が花   一鉄

 海辺からの便りが届き、その状箱に萩の花が添えてある。前句は手紙の内容の比喩になる。
 蛤に「かざしにさせる」は、

 山吹をかざしにさせばはまぐりを
     井出のわたりのものと見るかな
              源俊頼(夫木抄)

の歌がある。前句が秋なので山吹を萩に変える。
 九十四句目。

   状箱のかざしにさせる萩が花
 ようこそきたれ荻の上風     松臼

 荻の上風に萩は、

 秋は猶夕間暮れこそただならね
     荻の上風萩の下露
              藤原義孝(和漢朗詠集)

の歌があり、決まり文句になっている。
 状箱の萩を見てならば荻の上風も来い、ということになる。
 九十五句目。

   ようこそきたれ荻の上風
 夕暮の空さだめなき約束に    在色

 秋の空の変わりやすさに約束も忘れられて、と恋に転じる。

 色変わる心の秋の時しもあれ
     身に染む暮の荻の上風
              俊成女(新後撰集)

の心か。
 九十六句目。

   夕暮の空さだめなき約束に
 日もかさなりてはらむと云か   卜尺

 結婚の約束も果たされないままでも、ずるずる長く付き合っていると子供ができてしまう。
 「か」は「かな」と同じ。
 九十七句目。

   日もかさなりてはらむと云か
 そちに是を旅宿の名残小脇指   一朝

 旅宿の遊女を呼んだところ、妊娠していることを言われて、哀れに思ってこれでも売って何かの足しにと小脇指を置いて行く。
 九十八句目。

   そちに是を旅宿の名残小脇指
 落られまいぞ尋常に死ね     松意

 追手がすぐそばまで迫っていて、これ以上逃げられないと、ここで腹を切る覚悟を決める。
 ずっとお供をしてくれた者がいたのだろう。小脇指を渡し、共に死んでくれというところか。
 九十九句目。

   落られまいぞ尋常に死ね
 同じくは花に対して酔たふれ   雪柴

 これが最後と花の下で宴をする。
 挙句。

   同じくは花に対して酔たふれ
 麁相に鐘を春の日はまだ     志計

 麁相は後先考えずに飲めるだけ飲んでしまったことを指す。
 花の下で酔いつぶれてみんな倒れてしまったから、今日はこれまでとまだ早いけど入相の鐘を鳴らす。

2022年10月26日水曜日

 今日は朝から晴れた。
 午後から松田のコキアの里へ行った。富士山が白かった。

 それでは「夜も明ば」の巻の続き。
 名残表、七十九句目。

   京都のかすみのこる吸筒
 重の内みなれぬ鳥に雉子の声   一朝

 雉は元禄七年の「松風に」の巻二十三句目に、

   陽気をうけてつよき椽げた
 幸と猟の始の雉うちて      雪芝

のように狩猟の対象となっていたから、食用にもなっていた。許六の『俳諧問答』にも、

 「火鉢の焼火に並ぶ壺煎
といふ処に遊ぶ。雉子かまぼこを焼たる跡ハ、かならず一献を待。」

とある。
 ただ、なかなか食べられるものでもなく、京で食事をしたら見慣れぬ鳥が出てきて、雉ではないかと盛り上がるところなのだろう。
 八十句目。

   重の内みなれぬ鳥に雉子の声
 焼野の見廻いはれぬ事を     松意

 見廻は「みまひ」とルビがある。
 雉に焼野は、「焼野の雉夜の鶴」という諺の縁で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「焼野の雉夜の鶴」の解説」に、

 「雉は巣を営んでいる野を焼かれると、わが身を忘れて子を救おうと巣にもどり、巣ごもる鶴は霜などの降る寒い夜、自分の翼で子をおおうというところから、親が子を思う情の切なることのたとえにいう。焼野の雉。夜の鶴。
  ※謡曲・丹後物狂(1430頃)「焼け野の雉夜の鶴、梁(うつばり)の燕に至るまで、子ゆゑ命を捨つるなり」

とある。
 「いはれぬ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「言ぬ」の解説」に、

 「① 言ってはならない。筋の通らない。わけのわからない。むちゃな。
  ※竹取(9C末‐10C初)「国王の仰せごとを、まさに世に住み給はん人の承(うけたまはり)たまはでありなんや。いはれぬことなし給ひそ」
  ※無名抄(1211頃)「この難はいはれぬ事なり。たとひ新しく出来たりとても、必ずしもわろかるべからず」
  ② 言わなくてもよい。余計な。無用の。いわれざる。
  ※寛永刊本蒙求抄(1529頃)二「かふある時は、本書と蒙求がちがうたと云て、なをさうもいわれぬことぞ」

とある。
 雉も焼野の見回りに来て撃たれてしまったか。余計のことをして。
 八十一句目。

   焼野の見廻いはれぬ事を
 塗垂に妻もこもりて恙なし    雪柴

 塗垂(ぬりたれ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「塗垂」の解説」に、

 「〘名〙 (「ぬりだれ」とも) 土蔵からひさしを出して塗家(ぬりや)にしたもの。〔易林本節用集(1597)〕
  ※俳諧・類柑子(1707)上「西北にならべる塗垂の間に一株の柳あり」

とある。塗家造りはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「塗家造」の解説」に、

 「〘名〙 外壁を土や漆喰で厚く塗り、柱を塗り込んだ家の造り。また、その家。防火用の建築。
  ※歌舞伎・月梅薫朧夜(花井お梅)(1888)二幕「本舞台四間塗家造(ヌリヤヅクリ)、上手三間常足の二重六枚飾り」

とある。
 焼野になったところに見舞いに来たが、防火建築の中に籠っていたので無事だった。余計なことだったか。
 八十二句目。

   塗垂に妻もこもりて恙なし
 三年味噌の色ふかき中      志計

 塗家造の家に妻とずっと籠っていれば、三年味噌のように熟成した仲になる。
 八十三句目。

   三年味噌の色ふかき中
 この程のかたみの瘡気おし灸   松臼

 瘡気は梅毒のこと。三年連れ添った女は梅毒を残して死んでしまった。
 八十四句目。

   この程のかたみの瘡気おし灸
 それ者を立し末の松山      正友

 それ者(しゃ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「其者」の解説」に、

 「① その道によく通じている人。専門家。くろうと。
  ※仮名草子・可笑記(1642)五「此のたぐひかならずすきき過して、それしゃのやうになる物なり」
  ② (特に、くろうとの女の意で) 遊女。芸者。娼婦。商売女。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「この程のかたみの瘡気おし灸〈松臼〉 それ者を立し末の松山〈正友〉」
  [語誌]その道の専門家の意だが、特に遊里の遊びに慣れていて、その道によく通じた、いわゆる「粋人(すいじん)」を指していうことが多い。「評・色道大鏡‐一」には、「粋(すい)」「和気(ワケ)しり」も同意と説明がある。」

とある。
 形見に末の松山は、

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ
     末の松山波こさじとは
              清原元輔(後拾遺集)

で、百人一首でも知られている。
 遊女との別れの形見に梅毒をもらったとする。
 八十五句目。

   それ者を立し末の松山
 仕出しては浪にはなるる舟問屋  卜尺

 仕出しは多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「仕出」の解説」に、

 「① 作り出すこと。趣向をこらすこと。また、そのもの。工夫。流行。新案。
  ※わらんべ草(1660)二「一代の仕出の上手のまねは、にせべからず、三代、五代もつづきたる人は猶以古法をまもるべし」
  ※俳諧・鶉衣(1727‐79)後「さもなき調度のたぐひ、是は仕出しの風流なり、これは細工の面白しなどいひて」
  ② (形動) よそおい。いでたち。おめかし。おしゃれ。また、流行にのって美しくよそおうさま。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)七「浅黄のあさ上下に茶小紋の着物、小脇指の仕出し常とはかはり」
  ※浮世草子・世間妾形気(1767)一「まれなる博識に、上京風のいたり仕出しな男ぶり」
  ③ 生き方。生活の仕方。
  ※浮世草子・風流曲三味線(1706)三「堅いしだしの時代親仁。一生女の肌をしらず、朝暮小判を溜る事をのみ面白き業に思ひ」
  ④ 仕事をはじめること。またその結果、財産をつくり出すこと。身代を大きくすること。また、その人。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)六「是らは近代の出来商人(できあきんど)三十年此かたの仕出しなり」
  ⑤ 身許をあずかっている人や雇人に食事を出すこと。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ⑥ 料理などを、注文に応じて調理して届けること。また、その料理。〔多聞院日記‐天正一六年(1588)一〇月一一日〕
  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「下々(したじた)をば町中よりしだしに仕れとて、献立をいださるる」
  ⑦ 役者などの所作、身ぶり、演技のしかた。
  ※評判記・役者口三味線(1699)江戸「にくげのないげいのし出し」
  ⑧ 歌舞伎で、幕明きなどに、場面の雰囲気を作ったり、主役の登場までのつなぎをしたりするための端役。また、その役者。しだしの役者。
  ※歌舞伎・助六廓夜桜(1779)「女郎買の仕出し」
  ⑨ 建造物の外側に突き出して構えた所。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ⑩ 近世の大型和船の外艫(そとども)の上に設けたやぐら。尻矢倉、船頭矢倉、出(だし)矢倉、見送りなど多様の呼称がある。」

とある。
 恋の文脈からすれば②の意味であろう。舟問屋が舟そっちのけでいそいそとめかし込んで遊郭に通い、遊女にに入れ挙げてその末の松山(別れ)、となる。

 霞立つ末の松山ほのぼのと
     波にはなるる横雲の空
              藤原家隆(新古今集)

の歌を逃げ歌にする。
 八十六句目。

   仕出しては浪にはなるる舟問屋
 秤の棹に見る鷗尻        一鉄

 前句の仕出を④の意味にして、一財産造ったから舟問屋をやめてどっか行ってしまったとする。
 鷗尻はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鴎尻」の解説」に、

 「① 太刀の鞘尻(さやじり)を上にそらせるように帯びること。伊達(だて)な様子。
  ※長門本平家(13C前)二「こがね作りの太刀かもめじりにはきなして」
  ② 秤竿(はかりざお)の端が上にはねあがる程、はかり目を十分にすること。目方の多いこと。
  ※俳諧・ゆめみ草(1656)冬「かもめ尻にはぬるやはかり棹の池〈正定〉」
  ③ =かもめづと(鴎髱)
  ※俳諧・誹諧発句帳(1633)「かしらよりはねあがりけり鴎尻〈立圃〉」

とある。稼いだ金が多くて天秤棹が跳ね上がるという意味だが、前句の「浪にはなるる」を受けて、鷗が尻を向けて飛び去るイメージとも重なる。
 八十七句目。

   秤の棹に見る鷗尻
 白鷺に香を濃に割くだき     松意

 ネット上の石橋健太郎さんの「『改正香道秘伝』(上巻)の翻刻」の「雪月花集」五十種之内のところに「白鷺」が含まれている。「雪月花集」は「香道用語読み方辞典」に、「三条西実隆の作と伝えられる名香目録」とある。
 高価な香だったのだろう天秤が跳ね上がる。
 八十八句目。

   白鷺に香を濃に割くだき
 釜の湯たぎる雪の明ぼの     在色

 白鷺の香を焚いて雪の曙に茶の湯を嗜む。

 あさぼらけ野沢の霧の絶え間より
     たつ白鷺の声の寒けさ
              藤原忠良(夫木抄)

の歌に寄ったか。
 八十九句目。

   釜の湯たぎる雪の明ぼの
 神託に松の嵐もたゆむ也     志計

 探湯(くがだち)だろうか。中世では湯起請と呼ばれていた。釜で湯を炊く神事はその名残とも言われている。
 雪の朝で手が凍り付いていると良い結果が出やすいとか、あったのかもしれない。
 九十句目。

   神託に松の嵐もたゆむ也
 岩根にじつと伊勢の三郎     一朝

 伊勢の三郎は伊勢義盛のことで、ウィキペディアに、

 「伊勢 義盛(いせ よしもり)は、平安時代末期の武士で源義経の郎党。『吾妻鏡』では能盛と表記されている。源義経・四天王のひとり。伊勢三郎の名でも知られる。出身は伊勢或は上野国といわれる。」

とある。
 特に神託を受けたとかいう本説はなく、伊勢神宮での連想であろう。
 九十一句目。

   岩根にじつと伊勢の三郎
 夕月夜二見が浦の鮑とり     正友

 伊勢の海人の鮑取りの三郎だった。
 九十二句目。

   夕月夜二見が浦の鮑とり
 波も色なる蛤の露        雪柴

 月に「波も色なる」は、

 あすもこむ野路の玉川萩こえて
     色なる浪に月やどりけり
              源俊頼(千載集)

による。

2022年10月25日火曜日

 今日は急に寒くなって塔ノ岳の山頂付近に雪が積もってた。
 家の床の改修工事で日中外に出られなかったから富士山は見なかったが、真っ白になっていたようだ。
 今日は旧暦十月一日。冬の始まる日。
 あと、鈴呂屋書庫の「このサイトについて」に「そもそも芸術とは」と「歴史の終焉」を追加したのでよろしく。
 それでは「夜も明ば」の巻の続き。
 三裏、六十五句目。

   談義の場へすでに禅尼の
 ねがはくはかの西方へ撞木杖   松臼

 談義の庭に取っ手のT字になった杖を突いてやって来た禅尼は、西方浄土へ行くことを願う。
 六十六句目。

   ねがはくはかの西方へ撞木杖
 世は山がらの一飛の夢      正友

 山雀は籠で飼われて芸を仕込まれる。元禄五年秋の「青くても」の巻十一句目に、

   翠簾にみぞるる下賀茂の社家
 寒徹す山雀籠の中返り      嵐蘭

の句がある。籠の中の止まり木を撞木杖に見立てて、ここから出て飛び立つことを夢見る。
 六十七句目。

   世は山がらの一飛の夢
 露むすぶ柿ふんどしもわかい時  卜尺

 山雀はお腹と首が柿色なので、その形から柿ふんどしと言われていた。延宝六年春の「さぞな都」の巻七十一句目に、

   日用をめして夕顔の宿
 山がらのかきふんどしに尻からげ 信徳

の句がある。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注には「遊治郎が結んだ」とある。
 遊治郎(ゆうやらう)はコトバンクjの「精選版 日本国語大辞典「遊冶郎」の解説」に、

 「〘名〙 酒色におぼれ道楽にふける男。放蕩者。遊び人。道楽者。
  ※文明論之概略(1875)〈福沢諭吉〉三「又去年の謹直生は今年の遊冶郎に変じて其謹直の跡をも見ずと雖ども」 〔李白‐采蓮曲〕」

とある。
 六十八句目。

   露むすぶ柿ふんどしもわかい時
 相撲におゐては信濃のたて石   一鉄

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は「長野県。つるし柿が有名」とある。
 前句の柿ふんどしを相撲のまわしとして、老いた相撲取が信濃の地で亡くなったとする。
 立石はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「立石」の解説」に、

 「① 庭などに飾りとしてまっすぐ立てるように置いた石。横石に対していう。
  ※宇津保(970‐999頃)楼上上「たていしどもは、さまざまにて反橋のこなたかなたにあり」
  ② 墳墓の標石。道しるべに立ててある石。
※読本・椿説弓張月(1807‐11)続「石碣(タテイシ)地に埋れて、虎豹の臥せるがごとし」

とある。
 六十九句目。

   相撲におゐては信濃のたて石
 風越山爰なる木の根に月落て   松意

 長野県飯田市にある風越山は歌枕で、

 風越を夕越えくれば郭公
     麓の雲の底に鳴くなり
              藤原清輔(千載集)
 白妙の雪吹き下ろす風越の
     峰より出る冬の夜の月
              藤原清輔(続後撰集)

などの歌に詠まれている。
 相撲は月夜などに行われる。前句の相撲取はかつて風越山で相撲を取っていた。今はこの根っこに月が沈むかのように、そこに立石が立っている。
 七十句目。

   風越山爰なる木の根に月落て
 雲は麓にかよふ斧音       一朝

 前句の木の根に麓の木こりの斧の音を付ける。
 七十一句目。

   雲は麓にかよふ斧音
 すは夜盗野寺の門に朝朗     志計

 朝朗は「あさぼらけ」とルビがある。
 野寺に斧の音がして、野党が来たかと思ったら、もう夜が明ける頃で木こりが通う時間になっていた。
 七十二句目。

   すは夜盗野寺の門に朝朗
 日比ためたる金仏あり      在色

 金仏(かなぼとけ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「金仏」の解説」に、

 「〘名〙 銅などの金属で造った仏像。かなぶつ。
  ※史記抄(1477)一一「瑚璉は〈略〉宗廟の器で貴い物なれども、余の処へは不用ものぞ。よい金仏と云と同ものぞ。別の用には不立ぞ」
  ※仮名草子・都風俗鑑(1681)二「そんりゃうのかり小袖にて、金仏(カナボトケ)のごとく荘厳して」

とある。貯めたる金に金仏と掛詞になる。あのお寺の坊さんはお金をためて立派な銅の仏像を買ったことが噂になって、夜盗が嗅ぎつけてきた。
 七十三句目。

   日比ためたる金仏あり
 古郷へは錦のまもり肌に付て   正友

 「故郷に錦を飾る」という言葉は今でもよく用いられるが、謡曲『実盛』に、

 「宗盛公に申すやう故郷へは錦を着て、帰るといへる本文あり。実盛生国は、越前の者にて候ひしが、近年、御領に附けられて、武蔵の長井に居住仕り候ひき。この度北国に、罷り下りて候はば、定めて、討死仕るべし。老後の思出これに過ぎじ御免あれと望みしかば、赤地の錦の直垂を下し賜はりぬ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.903). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。これも本文とあるから何かの引用だったのだろう。かなり古い言葉だったようだ。
 ここでは前句の金仏は比喩であろう。たくさん貯めた金を仏に喩え、そのお守りの錦を着て故郷に錦を飾る。
 七十四句目。

   古郷へは錦のまもり肌に付て
 田薗将に安堵の御判       雪柴

 安堵(あんど)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「安堵」の解説」に、

 「① (━する) 垣の内に安んじて居ること。転じて、土地に安心して住むこと。家業に安んずること。また、安住できる場所。
  ※続日本紀‐和銅二年(709)一〇月庚戌「比者、遷レ都易レ邑。揺二動百姓一。雖レ加二鎮撫一、未レ能二安堵一」
  ※古今著聞集(1254)一二「其より八幡にも安堵せずなりて、かかる身と成りにけるとぞ」 〔史記‐高祖紀〕
  ② (━する) 心の落ち着くこと。安心すること。
  ※保元(1220頃か)下「今度の合戦、思ひのほか早速に落居して、諸人安堵のおもひをなして」
  ※寛永刊本蒙求抄(1529頃)三「功をないた者には所領を取せいと云付るぞ。群臣━まうあんとぢゃと云ふたぞ」
  ③ (━する) 中世、幕府や戦国大名が御家人・家臣の所領の領有を承認すること。特に、親から受けついだ所領の承認を本領安堵という。
  ※吾妻鏡‐治承四年(1180)一〇月二三日「或安二堵本領一。或令レ浴二新恩一」
  ※太平記(14C後)三五「所帯に安堵(あんト)したりけるが、其恩を報ぜんとや思ひけん」
  ④ 以前本人またはその父祖が領有していた土地を取り戻すこと。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ⑤ 「あんどじょう(安堵状)」の略。
  ※上杉家文書‐明徳四年(1393)一一月二八日・足利義満安堵下文「去永徳二年十二月廿六日所レ給安堵紛失云々」

とある。
 「田薗将に」は陶淵明の『帰去来辞』の「田園將蕪胡不歸」を本説として陶淵明の隠棲とする。
 ただ、陶淵明もちゃんと保証された所領を持っていてそこに引き籠るのだから、当然③の意味の本領安堵なのだろう。
 七十五句目。

   田薗将に安堵の御判
 境杭子々孫々に至まで      一鉄

 幕府の安堵の判のある所領なら、この領地の境界線の杭も子々孫々に至るまで安泰だろう。
 七十六句目。

   境杭子々孫々に至まで
 舟着見する松の大木       松臼

 木を境杭の代りとするのはよくあることだったのだろう。第五百韻「くつろぐや」の巻四十九句目にも、

   庄屋九代のすへの露霜
 花の木や抑これはさかい杭    在色

の句がある。ここでは船を止める杭の代りに用いられている松の木になっている。
 七十七句目。

   舟着見する松の大木
 志賀の山花待ち得たる旅行の暮  在色

 志賀の山は散る花を詠むことが多い。

 嵐吹く志賀の山辺のさくら花
     散れば雲井にさざ浪ぞたつ
              三条公行(千載集)
 春風に志賀の山越え花散れば
     峰にぞ浦の浪はたちける
              藤原親隆(千載集)

などの歌がある。三井寺の後にある長等山をいう。
 「待ち得たる旅行の暮」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『兼平』の、

 ワキ:船待ち得たる旅行の暮。
 シテ:かかる折にも近江の海の、
 シテ・ワキ:矢橋を渡る舟ならば、それは旅人の渡舟なり。
 (野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.918). Yamatouta e books. Kindle 版.)

を引いている。前句を志賀の矢橋の船着き場として、長等山の花見客がやってくる。
 七十八句目。

   志賀の山花待ち得たる旅行の暮
 京都のかすみのこる吸筒     卜尺

 吸筒(すひづつ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「吸筒」の解説」に、

 「〘名〙 酒や水などを入れて持ち歩いた、竹筒または筒型の容器。水筒。
  ※俳諧・鷹筑波(1638)二「さとりて見ればからき世の中 すひ筒に酒入てをくぜん坊主〈時之〉」

とある。空の水筒には京都の霞が入っている。

2022年10月24日月曜日

 それでは「夜も明ば」の巻の続き。
 三表、五十一句目。

   入日をまねく酒旗の春風
 燕や水村はるかに渡るらん    松意

 酒旗に水村が杜牧の詩の縁で付く。
 春風に燕も渡ってくる。
 五十二句目。

   燕や水村はるかに渡るらん
 川浪たたく出シの捨石      一朝

 出(だ)シはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「出」の解説」に、

 「① 城の一種。出城(でじろ)、出丸(でまる)のこと。
  ※立入左京亮入道隆佐記(17C前)「城の大手のだしにおき申女房にて候故」
  ② 建物などの外に張り出しているもの。
  ※言継卿記‐永祿一二年(1569)四月二日「又南巽之だしの磊出来、只今東之だし沙二汰之一」
  ③ 指物(さしもの)などの棹(さお)の頭につける飾り物。
  ※雑兵物語(1683頃)下「指物のまっ先に出しと云物が有。旦那が出しはさかばやしだぞ」
  ④ 端午の飾り鎧(よろい)の上などに付ける経木(きょうぎ)や厚紙の装飾。
  ※日葡辞書(1603‐04)「ホロノ daxi(ダシ)」
  ⑤ =だしかぜ(出風)
  ※物類称呼(1775)一「越後にて東風をだしといふ」
  ⑥ =だしじる(出汁)
  ※大草家料理書(16C中‐後か)「生白鳥料理は〈略〉味噌に出を入て、かへらかして、鳥を入候也」
  ⑦ 自分の利益や都合のために利用する人や物事。方便。口実。→だしに使う。
  ※浄瑠璃・右大将鎌倉実記(1724)一「旦那の病気を虚託(ダシ)にして栄耀ぢゃな」
  ⑧ 「だしがい(出貝)」の略。
  ※雍州府志(1684)七「合レ貝為二遊戯一〈略〉右貝称レ地而並二床上一左貝称レ出(ダシ)毎二一箇一而出二置中央之隙地一」
  ⑨ (「かきだし(書出)」の略) 請求書。勘定書。
  ※雑俳・川柳評万句合‐天明八(1788)満二「げせぬ事めでたくかしくだしへ書き」
  ⑩ 邦楽の用語で、「唄い出し」「語り出し」の略。現在はあまり使われない。」

とある。捨石はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「捨石」の解説」に、

 「① 道ばたや、野や山にころがっている、誰も顧みない岩石。また、平生直接の用には立たないが、おかれている石。
  ※俳諧・七柏集(1781)雲中庵興行「市の七日に手帋七度〈柳苔〉 馬繋ぐ捨石ひとつ軒の下〈蓼太〉」
  ② 築庭で、風致を添えるために程よい場所にすえておく石。
  ※俳諧・宗因七百韵(1677)「扨こそ清水の流れ各別〈禾刀〉 落滝津山石捨石物数奇に〈如見〉」
  ③ 堤防、橋脚などの工事で、水底に基礎を造り、堤防の崩壊を防ぎ、また水勢をそぐために水中に投入する石。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「川浪たたく出しの捨石〈一朝〉 人柱妙の一字にとどまりて〈志計〉」
  ④ 歌舞伎の大道具の一つ。戸外の場の舞台に置いておく石の作り物。
  ※歌舞伎・小袖曾我薊色縫(十六夜清心)(1859)五立「武太夫捨石へ腰をかけ」
  ⑤ 囲碁で、より以上の効果を得るために、わざと相手に取らせる石。シボリ、シメツケ、目欠きの筋などでよく用いられる。
  ※家(1910‐11)〈島崎藤村〉下「碁で言へば、まあ捨石だ。俺が身内を助けるのは、捨石を打ってるんだ」
  ⑥ 今すぐには効果はなく、むだなように見えるが、将来役に立つことを予想してする投資や予備的行為など。
  ※浮世草子・けいせい伝受紙子(1710)一「大身も事に臨で命を捨石(ステイシ)」
  ※故旧忘れ得べき(1935‐36)〈高見順〉一〇「残した足跡は小さかったにしても、彼も地固めのための捨石になったとは言ひ得るだらう」
  ⑦ 鉱山で、採掘、掘進などの際に捨てられる無価値の岩石。ぼた。廃石。」

とある。②の建物に水害を防ぐ炒めの③が置かれている。水村にありがちな風景であろう。
 五十三句目。

   川浪たたく出シの捨石
 人柱妙の一字にとどまりて    志計

 人柱は今で言えば都市伝説に属するもので、その存在をうわさされているにすぎない。
 そういった一つの伝説で、あの捨石は人柱の跡で、水害が絶えなかった所をある高僧が自ら人柱になって、その妙の一字にその後ぱったり水害が起こらなくなった、といった類の話であろう。
 五十四句目。

   人柱妙の一字にとどまりて
 まじなひの秘事物いはじとぞ   在色

 人柱のことは秘密にしておけ、ということ。
 五十五句目。

   まじなひの秘事物いはじとぞ
 桃李今枝もたははにぶらさがり  正友

 前句を豊作祈願の秘事とした。花咲じじい的なものか。
 五十六句目。

   桃李今枝もたははにぶらさがり
 猿手をのばす谷川の月      雪柴

 猿が水面の月を取ろうとする図は伝統絵画の定番の画題で、かなわぬ望みを抱くことを喩えている。桃李がたわわに実っているのに、それでも月を欲しがるとは。
 五十七句目。

   猿手をのばす谷川の月
 杣人にたかる虱の声もなし    一鉄

 前句を「猿手をのばす」で切る。
 猿が手を伸ばして山の木こりの虱を取ってくれるので虱は声もない。谷川の月は単なる背景になる。
 五十八句目。

   杣人にたかる虱の声もなし
 やまひの床の縄帯の露      松臼

 縄帯はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「縄帯」の解説」に、

 「〘名〙 縄を帯の代用として腰に巻くこと。また、そのもの。
  ※浮世草子・好色二代男(1684)二「二十四五なる男、布地の柿染に、縄帯(ナワオビ)をして」

とある。
 病気で死にかけていると虱も逃げて行く。
 五十九句目。

   やまひの床の縄帯の露
 鍋底にねるやねり湯の割の粥   一朝

 割の粥はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「割の粥」の解説」に、

 「細かくひき割った米で作った粥。主として、病人の食事に用いる。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

とある。粒すらない完全な流動食になる。
 ねり湯はコトバンクの「和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典「練り湯」の解説」に、

 「懐石で最後に出す、湯の子が入り薄い塩味のついた湯。本来は飯を炊いた釜の底に残った焦げ飯に湯を注いで作る(「取り湯」という)が、米をいったものを軽く煮て作る(「焦がし湯」という)こともある。◇「焦げ湯」ともいう。湯桶(ゆとう)に入れて出されるので「湯桶」ともいう。」

とある。韓国のヌルンジ(누룽지)はお茶同様の日常の飲み物になっている。
 病人に食べさせるためにお焦げを細かく砕いて割の粥にする。
 六十句目。

   鍋底にねるやねり湯の割の粥
 せつかい持て行は誰が子ぞ    卜尺

 「せつかい」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切匙・狭匙・刷匙」の解説」に、

 「① 飯杓子(めししゃくし)の頭を縦に半切りにしたような形のもの。擂鉢(すりばち)の内側などに付いたものをかき落とすのに用いる。うぐいす。せかい。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※浄瑠璃・長町女腹切(1712頃)中「用意摺子鉢(すりこばち)・せっかい・摺子木(すりこぎ)しゃにかまへ」
  ② 一種の鉾(ほこ)や薙刀(なぎなた)の小さなもの。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

とある。
 割の粥を上から掬わないで、鍋の横や底にこびりついている塊を剥がして食おうとする。まあ、頭が良いというか。
 六十一句目。

   せつかい持て行は誰が子ぞ
 さび長刀木の丸殿に何事か    在色

 長刀は「なぎなた」。木の丸殿はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「木丸殿」の解説」に、

 「[1] 〘名〙 削ったりみがいたりしない質素な丸木造りの宮殿。黒木造りの御所。とくに福岡県朝倉郡朝倉町にあった斉明天皇の行宮のこと。きのまるどの。
  ※神楽歌(9C後)明星・朝倉「〈本〉朝倉や 支乃万呂止乃(キノマロドノ)に 我が居れば 〈末〉我が居れば 名宣りをしつつ 行くは誰」
  [2] ((一)の「神楽歌」の例を「新古今和歌集」では天智天皇の作としており、その歌にちなんでいう) 天智天皇の異称。
  ※雑俳・柳多留‐八四(1825)「曲りなり木の丸殿の御造営」

とある。

 朝倉や木の丸殿に我が居れば
     名乗りをしつつ行は誰が子ぞ
              天智天皇(新古今集)

の歌をいう。
 前句の「誰が子ぞ」にこの歌を本歌にして付ける。
 前句の切匙を錆び落としに用いたか。
 木の丸殿が長刀の錆を落とすのに切匙を持って来させる。
 六十二句目。

   さび長刀木の丸殿に何事か
 やせたれど馬立し神垣      松意

 「いざ鎌倉」ならぬ「いざ木の丸殿」にする。
 神垣は、

 神垣は木の丸殿にあらねども
     名乗りをせねば人咎めけり
              藤原惟規(金葉集)

の縁による。
 六十三句目。

   やせたれど馬立し神垣
 散銭は障子のあなたにからりとす 雪柴

 障子の向こうの神馬にお賽銭をする。「あなた」は彼方の意味。
 六十四句目。

   散銭は障子のあなたにからりとす
 談義の場へすでに禅尼の     志計

 場は「には」とルビがある。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、

 「北条時頼の母、松下禅尼が、障子の切り張りをして倹約を教えた故事。」

とある。
 前句の散銭を散財として、「障子の穴だに」に取り成す。散財しないように障子の穴を自分でからりと張って直す。

2022年10月23日日曜日

 昨日の夜投稿する予定だったが忘れてた。
 夜が明けると中国の台湾進攻の可能性が高まったことが話題になっている。
 ロシアのウクライナ侵略が始まった時にも、これで中国が台湾に同時侵攻したら第三次世界大戦になるというようなことを書いたと思う。欧米の自由主義国の軍隊を導入しても、ロシアとウクライナの両面で戦うのはかなり苦しい。となると、このチャンスを逃すかとばかりに他の反米諸国が一斉に動き出す可能性があるからだ。
 それだけでなく、欧米諸国にいる反米勢力、日本では統一教会で騒いでる連中だが、こうした連中は世界中にいて、一斉に反戦デモと称してロシアと中国の侵略を容認し、早期の降伏を求めるデモが起る可能性も高い。軍事的にいくら優位にあっても、欧米自由主義諸国の政権そのものがゆすぶられれば、大きな足かせになる。
 もっとも、生産性の高い資本主義経済を潰して、前近代の生産性の低い社会に引き戻してでもという戦争では、結局ロシアにもウクライナにも勝機はない。武器はおろか、兵糧も確保できなくなり、やがて自滅する。
 この戦争で一番危険なのは、勝てないなら世界を破滅させるという道を指導者が選択する可能性だ。
 人はみな自分のささやかな幸せを守るために生きているのではない。ごく一部ではあるが、自分の生活を犠牲にしてでも歴史の終結のために戦うという人たちがいることだ。
 歴史の終結はトロツキー的な永久革命かもしれないし、世界征服かもしれない。自分の生活を顧みない人にとって、人生は勝利のみを目的としてゲームにすぎない。敗色濃厚ならリセットボタンを押す可能性がある。
 アメリカが最終的に勝者になるなら、一度リセットして世界史をやり直すというとんでもない選択肢を、核のボタンを握る人間は持っている。いつでも自分のデスクにリセットボタンがある二人の人物がいる。
 ロシアのウクライナ侵略も経済的利益を度外視した抽象的なゲームのような戦争だった。利益のための戦争なら妥協の余地がある。利益のないただのゲームは勝つか負けるかしかない。

 それでは「夜も明ば」の巻の続き。
 二裏、三十七句目。

   ちやかぼこの声絶し揚り場
 水道や水の水上崩るらん     正友

 江戸の低地では井戸を掘っても水に塩分があるため、早くから水道が整備された。それが水上の方で崩れたりすると泥水が入り込んだり、水が来なくなったり大変なことになる。さっきまで賑わっていた風呂場もみんないなくなってしまった。
 三十八句目。

   水道や水の水上崩るらん
 立付あをる川おろしの風     雪柴

 川の方から強い風が吹いてきて、建付けの悪い扉がバタバタする。川上の水道が心配だ。
 三十九句目。

   立付あをる川おろしの風
 一駄荷の下知して曰ク舟に乗   一鉄

 「乗」に「のれ」とルビがある。
 一駄荷はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「一駄荷」の解説」に、

 「〘名〙 一頭の馬につける定量の荷物。江戸時代、伝馬制での本馬は一駄四〇貫目(一六〇キログラム)、軽尻は一駄二〇貫目とされていた。普通の一駄荷は、四斗俵の米二俵(三二貫目)。一駄。
  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)二「ふなちんは、一駄荷(ダニ)ののりかけは料足十五疋なり」

とある。
 伝馬で荷物を運ぶように命じた役人が、川おろしの風に船の方が早く着くと見て舟に乗せるように命令を変更しに来る。荒々しく戸を開け閉めするあたるは役人風をいうべきか。
 四十句目。

   一駄荷の下知して曰ク舟に乗
 東国方より出し商人       松臼

 前句を偉そうにふるまう商人として、こういうのは大阪商人ではなく吾妻者やな、となる。
 四十一句目。

   東国方より出し商人
 わらんべをかどはさばやと存じ候 一朝

 これは謡曲『自然居士』の本説で、

 「かやうに候者は、東国方の人商人にて候。われこの度都に上り、数多人を買ひ取りて 候。又十四五ばかりなる女を買ひ取りて候が、昨日少しの間暇を乞ひて候程にやりて候が、未だ帰らず候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2484). Yamatouta e books. Kindle 版. )

から取っている。
 四十二句目。

   わらんべをかどはさばやと存じ候
 みだれたる世はただ風車     卜尺

 児童誘拐のまかり通る世はまさに乱世。
 風車は、

 人住まぬ不破の関屋の板廂
     荒れにしのちはただ秋の風
              藤原良経(新古今集)

の「秋の風」を童だから「ただ風車」に変える。実質「秋風」の抜けと見ていい。
 この歌は保元の乱以降の乱世を象徴する歌でもあった。
 今では乱世というと戦国時代のイメージだったが、王朝を中心とした昔の歴史観では、王朝時代の終わり、武家政治の始まりが乱世だった。
 王朝時代の皇位継承は整然と規則にのっとったもので、後継争いで血なまぐさい事件が起きることもなく、ただ皇子へ娘を嫁がせるための恋の争いにすぎなかった。
 皇族の生活が税を基本として荘園の収入をプラスするだけの物で、安定していたのに対し、武家は所領からの収入で生活していて、その所領を相続をめぐって絶えず血で血を洗う相続争いが起きていた。
 思うに平安時代の平和が荘園開発による右肩上がりの経済に支えられていたのに対し、こうした開墾事業が飽和状態になった頃から、他人の所領を暴力で奪う事件が多くなり、それが武家の台頭ということになったのではないかと思う。
 その武家も子孫が増えればそれだけ多くの所領を必要とするものの、農地そのものの絶対面積はこれ以上増やせない状態だったため、戦争が常態化する乱世に陥っていった。
 四十三句目。

   みだれたる世はただ風車
 其比は寿永の秋の影灯籠     在色

 乱世の始まりということで治承・寿永の乱ということになる。寿永二年の秋は木曽義仲が入洛した頃になる。
 くるくる回る影灯籠は風車のように目まぐるしく、まさに走馬灯だ。
 四十四句目。

   其比は寿永の秋の影灯籠
 法然已後の衣手の月       松意

 法然も寿永の時代を生きた人だった。
 衣手の月は、

 衣手はさむくもあらねど月影を
     たまらぬ秋の雪とこそ見れ
              紀貫之(後撰集)

あるいは、

 月見れば衣手寒し更科や
     姨捨山の嶺の秋風
              源実朝(続千載集)

だろうか。
 まあとにかく寿永以降の乱世は、心も寒いということ。
 四十五句目。

   法然已後の衣手の月
 見渡ば霊岸嶋の霧晴て      雪柴

 江戸の霊岸島には浄土宗の霊巌の建立した霊巌寺があったが、明暦三年(一六五七年)の大火で深川に移転した。
 四十六句目。

   見渡ば霊岸嶋の霧晴て
 三俣をゆくふねをしぞ思ふ    志計

 三俣は隅田川から東に小名木川、西に箱崎川が分かれる所で船が盛んに行き来していた。後に芭蕉庵もこの近くに建てられることになる。
 前句の霧から、

 ほのぼのとあかしの浦の朝霧に
     島隠れゆく舟をしぞ思ふ
              柿本人麻呂(和漢朗詠集、金玉和歌集)

の歌を本歌として「ゆくふねをしぞ思ふ」と結ぶ。
 四十七句目。

   三俣をゆくふねをしぞ思ふ
 全盛を何にたとへん夕涼み    松臼

 三俣を多くの船が行き交い、今まさに天下繁栄の全盛期を迎えている。この辺りの河辺は夕涼みに来る人も多い。
 四十八句目。

   全盛を何にたとへん夕涼み
 中に名とりの大夫染きて     正友

 今を時めく遊女の大夫がやってきて、その夕涼みする姿は何に喩えん。
 四十九句目。

   中に名とりの大夫染きて
 かたばちに花をさかせてぬめりぶし 卜尺

 「かたばち」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「片撥」の解説」に、

 「① 太鼓などの一対の撥のうちの一方。また、それで打つこと。能楽で太鼓の特殊な打ち方として、右手の撥だけで太鼓を打つこと。
  ※俳諧・玉海集(1656)付句下「一にぎりある夕立の雲 かたはちで太皷うつほど神鳴て〈貞徳〉」
  ※浮世草子・男色大鑑(1687)二「今春太夫が舞に、清五良が鞁(つづみ)、又右衛門がかた撥(バチ)、いづれか天下芸」
  ② 三味線の奏法の名称。撥の片面だけで弾くもので、すくうことをしない方法。テレン、トロンなどと、弾いてすぐすくう諸撥(もろばち)に対していう。片撥節(かたばちぶし)。
  ③ 江戸初期の流行歌(はやりうた)の一つ。寛永(一六二四‐四四)の頃から遊里で流行した。
  ※仮名草子・ぬれぼとけ(1671)中「かたばち もろきは露と誰がいひそめた我身も草におかぬばかりよ よし野」
  [2] 三味線組歌の曲名。(一)②を取り入れて、組歌風に作り直した曲。破手片撥(はでかたばち)。」

とある。この場合は②であろう。片撥の華やかな演奏に乗せてぬめり節を謡う。
 ぬめり節はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「滑歌」の解説」に、

 「① 江戸時代、明暦・万治(一六五五‐六一)のころ、遊里を中心に流行した小歌。「ぬめり」とは、当時、のらりくらりと遊蕩する意の流行語で、遊客などに口ずさまれたもの。ぬめりぶし。ぬめりこうた。
  ※狂歌・吾吟我集(1649)序「今ぬめり哥天下にはやること、四つ時・九つの真昼になん有ける」
  ② 歌舞伎の下座音楽の一つ。主に傾城の出端に三味線、太鼓、すりがねなどを用いて歌いはやすもの。
  ※歌舞伎・幼稚子敵討(1753)口明「ぬめり哥にて、大橋、傾城にて出る」

とある。
 五十句目。

   かたばちに花をさかせてぬめりぶし
 入日をまねく酒旗の春風     一鉄

 早く日が暮れて夜にならないかなと、酒の旗をはためかせ、三味線にぬめり節を唄って客を待っている。
 酒旗の春風は言わずとしてた、

   江南春望   杜牧
 千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
 南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中

 千里鶯鳴いて木の芽に赤い花が映え
 水辺の村山村の壁酒の旗に風
 南朝には四百八十の寺
 沢山の楼台をけぶらせる雨

の詩による。

2022年10月20日木曜日

 それでは「夜も明ば」の巻の続き。
 二表、二十三句目。

   そりやこそ見たか蛇柳の陰
 消やらで罪科ふかき雪女     一朝

 柳の陰に幽霊というのは柳が境界を表すという意味があったのだろう。ここでは蛇柳の陰で現れるのは雪女になる。
 この時代ではなくもう少し後の貞享二年刊の洛下旅館著『宗祇諸国物語』では、二月のやや雪の溶けた頃、東の方の一反ほどの竹薮の北の端に背丈一丈(約3メートル)の肌が透き通るように白く、白い一重の着物を着た美女の姿を見た話が収録されている。
 近づくと消えてしまい、光だけが残って辺りを照らし、やがて暗くなっていった。
 それだけの話で、これといった物語があったわけではない。当時の人の雪女のイメージは、後の日本昔話的なストーリーはなく、単なる目撃談だけで終わる都市伝説に近いものだったのだろう。
 宗祇が越後で稀に見る大雪に見舞われたことは宗長の『宗祇終焉記』にもあり、ネタ元になっていたのだろう。
 柳は土地の境界に植えられたり、門の前に植えられたり、境界を示す木という性質を持っているから、それが現実と異界との境にもなって、怪異が起るというのは、昔の人の自然な発想だったのだろう。『宗祇諸国物語』では二月の真ん中、つまり仲春であり、東の方角に雪女が現れる。これは十二支では卯の方角で、柳は木偏に卯と書く。東は夜明けの方角であり卯の刻は夜と朝との境になる。竹薮と光はかぐや姫のパターンを引きずっている。
 そういうわけで前句の蛇柳に雪女は自然な発想だったと言える。本来ならすぐ消えてしまう雪女も、蛇の化身の蛇柳の雪女だから、罪業が深くて成仏できないでいる。
 二十四句目。

   消やらで罪科ふかき雪女
 悋気つもつて山のしら雲     松意

 雪の積もるに掛けて、嫉妬心も積もり積もって山の白雲のようにあたりを白く包み込む。前句の罪科を嫉妬によるものとする。
 二十五句目。

   悋気つもつて山のしら雲
 通い路は遠き竜田の奥座敷    在色

 前句の山の白雲を龍田山の奥の白雲とする。

 葛城や高間の桜咲きにけり
     竜田の奥にかかる白雲
              寂蓮(新古今集)

の歌を本歌とする。
 葛城山は仁徳天皇が他に女を作ったことに嫉妬して、葛城山の高宮に籠って仁徳天皇にあうことを拒んだという記紀に描かれた物語も踏まえていて、ここではその葛城の高宮が竜田の奥座敷に移動している。
 二十六句目。

   通い路は遠き竜田の奥座敷
 けふも蜜談さほ鹿の声      卜尺

 蜜談は密談の事。竜田山の奥では鹿が密談している。「奥座敷」というのはしばしば密談に使われたのだろう。
 竜田にさほ鹿は、

 竜田山峰のもみぢ葉散りはてて
     嵐に残るさを鹿の声
              寂蓮(夫木抄)

などの歌がある。
 二十七句目。

   けふも蜜談さほ鹿の声
 あの人にやらふらるまひ姫萩を  雪柴

 萩は鹿の妻だと和歌には詠まれている。

 秋萩の咲くにしもなど鹿の鳴く
     うつろふ花はおのが妻かも
              能因(後拾遺集)
 宮城のの萩や牡鹿の妻ならん
     花さきしより声の色なる
              藤原基俊(千載集)

などの歌がある。
 家のヒメハギをあの牡鹿にやるかやらないか、鹿が密談している。
 二十八句目。

   あの人にやらふらるまひ姫萩を
 何百石の秋の野の月       志計

 箱根の仙石原はウィキペディアに、

 「仙石原のことを、古くは「千穀原」とも書いた。地名の由来については複数の説があり、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名、豊臣秀吉の最古参家臣仙石秀久に由来する説や、源頼朝が雄大な原野を眺めて「この地を開墾すれば米千石はとれるだろう」と言ったのを由来とする説などがある。」

とある。この秋の野も開墾すれば何百石にもなる。萩の姫君はそんな薄が原に嫁がせるべきか否か。
 二十九句目。

   何百石の秋の野の月
 詠むれば道具一すぢ露分て    松臼

 道具はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「道具」の解説」に、

 「① 仏道修行のための三衣一鉢など六物(ろくもつ)、十八物、百一物などといった必要品。また、密教で、修法に必要な法具をいう。仏家の器具。〔御請来目録(806)〕 〔梵網経菩薩戒本疏‐六〕
  ② 物を作ったり仕事をはかどらせたりするために用いる種々の用具。また、日常使う身の回りの品々。調度。
  ※讚岐典侍(1108頃)上「ひるつかたになるほどに、道具などとりのけて、皆人人、うちやすめとておりぬ」
  ③ 武家で槍。また、その他の武具。
  ※狂歌・新撰狂歌集(17C前)下「ゆうさいより長原殿へ当麻のやりををくられける時 お道具をしぜんたえまに持せつつおもひやりをぞ奉りける」
  ④ 身体にそなわっている種々の部分の称。
  ※虎寛本狂言・三人片輪(室町末‐近世初)「某は道具も有り合点が行まい。何共合点の行ぬ躰じゃ」
  ⑤ 能狂言や芝居の大道具・小道具。
  ※わらんべ草(1660)一「面、いしゃう、其外の道具も、まへかどにこしらへおくべし」
  ⑥ 他の目的のために利用されるもの。また、他人に利用される人。
  ※俳諧・雑談集(1692)上「もと付合(つけあひ)の道具なるを、珍しとおもへるは、未練なるべし」

とある。この場合は③で、何百石の殿様の行列が通り、槍持ちが露払いをする。
 三十句目。

   詠むれば道具一すぢ露分て
 はり付柱まつ風の音       正友

 付には「つけ」とルビがあり、磔(はりつけ)のこと。前句の槍を刑場で死刑を執行する槍とする。
 三十一句目。

   はり付柱まつ風の音
 江戸はづれ磯に波立むら烏    松意

 刑場には死体に群がる鴉が集まってくる。鈴ヶ森刑場は昔は東京湾のすぐそばだった。
 三十二句目。

   江戸はづれ磯に波立むら烏
 御殿山より明ぼのの空      一鉄

 御殿山は鈴ヶ森よりは北のJR品川駅の方になる。太田道灌の館があったところで、ここもかつては海に近かった。
 三十三句目。

   御殿山より明ぼのの空
 木枕に掃除坊主の夢を残し    卜尺

 木枕はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「木枕」の解説」に、

 「① 木でつくった枕。籾殻(もみがら)などを布で包んだ円筒状のものを木製の台の上にのせて用いたものをもいった。箱枕。こまくら。《季・夏》
  ※虎明本狂言・枕物狂(室町末‐近世初)「ことわりや枕の跡よりこひのせめくれば、やすからざりし身のきゃうらんは、きまくらなりけり」
  ※俳諧・毛吹草(1638)五「ぬる鳥の木枕なれや花の枝〈作者不知〉」
  ② 江戸時代、楊弓場で、矢を立てるのに使用した台。
  ※雑俳・柳多留‐二七(1798)「矢をひろっては木枕へ立て出し」

とある。木の台に乗せた円筒状の枕は身分のある人の使うもので、前句の御殿に応じる。
 掃除坊主が勝手に主人の枕で寝ちゃったんだろう。一時お殿様になった夢を見る。
 三十四句目。

   木枕に掃除坊主の夢を残し
 小姓の帰るあとのおもかげ    一朝

 掃除坊主は小姓と一夜を伴にし、小姓は朝になって帰って、俤だけがの枕に残る。
 三十五句目。

   小姓の帰るあとのおもかげ
 下帯の伽羅の烟を命にて     志計

 小姓の下帯には伽羅の烟が炊き込んであった。
 三十六句目。

   下帯の伽羅の烟を命にて
 ちやかぼこの声絶し揚り場    在色

 ちゃかちゃかはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ちゃかちゃか」の解説」に、

 「〘副〙 (「と」を伴って用いることもある) 動作に落ち着きがなく、さわがしいさまを表わす語。また、言動が派手でにぎやかなさまをもいう。
 ※縮図(1941)〈徳田秋声〉素描「ちゃかちゃかしないで落着いてゐるのよ」

とあり、ぼこぼこはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ぼこぼこ」の解説に、

 「[1] 〘副〙 (「と」を伴って用いることもある)
  ① 中空のものをたたく音を表わす語。
  ② 水が泡立って流れたり、水中から物が浮き上がる音やさまを表わす語。また、連続して物や事が生じたり、押し寄せて来たりするさまを表わす語。
※落語・阿七(1890)〈三代目三遊亭円遊〉「『覚悟は宜(い)いか』と念仏諸共(もろとも)隅田川へザブーリと飛込んで、此奴が、情死(しんじう)と来て土左衛門がボコボコ浮上り」
  ③ 咳の音を表わす語。
  ※面影(1969)〈芝木好子〉二「絵を描きながらぼこぼこ咳をしていたが」
  ④ ゆっくりと歩く音、また、そのさまを表わす語。
  ※熊の出る開墾地(1929)〈佐左木俊郎〉「馬車はぼこぼこと落葉の上を駛(はし)った」
  ⑤ くぼみや穴がたくさんあるさまを表わす語。
  ※犬喧嘩(1923)〈金子洋文〉一「店にぢっと坐って、ふけのやうな塵埃(ほこり)で白くてぼこぼこした街路を眺めてゐることは」

とある。
 当時のサウナ風呂であろう。風呂場は騒がしい音がするが、揚り場に出ると皆一心に体を拭いたり着物を着たりして静かになる。

2022年10月19日水曜日

 朝の散歩で太平洋クラブ相模コースの裏を歩いてたら、二頭の鹿に遭遇した。さすがに大きいし近寄るのは怖い。自発的に山に入ってゆくのを待った。
 それでは「夜も明ば」の巻の続き。
 初裏、九句目。

   仮名実名山ほととぎす
 お尋を草の庵の帳に見て     雪柴

 草庵にも宿帳のようなものがあって、来訪者の名を記していたのか。僧は実名を記す。
 十句目。

   お尋を草の庵の帳に見て
 奉加の金は大儀千万       執筆

 庵の帳を奉加帳とする。お金のことはやはりきちっと管理しなくてはならない。
 十一句目。

   奉加の金は大儀千万
 わる狂ひさとれば同じ此世界   松臼

 遊郭に金をつぎ込むのも宗教に金をつぎ込むのも似たようなもの。なのに世間の扱いは全然違う。
 十二句目。

   わる狂ひさとれば同じ此世界
 女房どもをとをくさる事     正友

 遊女も女房も、女なんてみんな逃げてくだけさ。
 十三句目。

   女房どもをとをくさる事
 手負かと立より見るに股をつき  松意

 「股をつき」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』に、「男色の誓約に股を刃物で傷つけること」とある。
 それがバレてともに女房は去って行く。
 十四句目。

   手負かと立より見るに股をつき
 恋の重荷の青駄也けり      一朝

 青駄はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「箯輿」の解説」に、

 「〘名〙 (編板(あみいた)の変化した語)
  ① 長方形の板の回りに竹で編んだ縁をつけた手輿(たごし)。罪人、戦死者、負傷者などを運ぶのに用いた。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ② 左右に畳表を垂れた、粗末な駕籠(かご)。町駕籠として用いた。
  ※禁令考‐前集・第五・巻四九・寛文五年(1665)二月「町中にて籠あんたに乗候者有之由に候」

とある。この場合は①であろう。股を突いて負傷者として青駄で運ばれてゆく。
 十五句目。

   恋の重荷の青駄也けり
 旅衣思ひの山をそろりそろり   卜尺

 前句の青駄を②の意味に転じる。感傷旅行に出ると失恋の傷が重荷になって、町駕籠もゆっくりになる。
 十六句目。

   旅衣思ひの山をそろりそろり
 一首の趣向うき雲の空      一鉄

 前句の「思ひ」を歌を案じているとし、何か浮んで来たのか、それに夢中になってうわの空になる。
 十七句目。

   一首の趣向うき雲の空
 初雁は余情かぎりに羽をたたき  志計

 「羽をたたき」というのは、

 白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の
     数さへ見ゆる秋のよの月
              よみ人しらず(古今集)

であろう。月呼出しになる。
 十八句目。

   初雁は余情かぎりに羽をたたき
 大まな板にのする月影      在色

 ここで普通に月に行ってしまうと、本歌を三句に跨らせることになる。雁に月の付け合いは残して、俎板に乗せられた雁が暴れている姿とする。
 十九句目。

   大まな板にのする月影
 水桶に秋こそかよへ御本陣    正友

 大まな板から大量の料理を作る大名行列などの宿泊する御本陣とし、月影の中を水桶もそこに通う、とする。
 二十句目。

   水桶に秋こそかよへ御本陣
 いかに面々火用心火用心     雪柴

 御本陣でボヤ騒ぎがあったか、水桶で何とか消し止め、みんなを集めて火の用心を戒める。
 二十一句目。

   いかに面々火用心火用心
 此所けしからずふく花に風    一鉄

 風が強いと早く類焼するので火の用心を訴える。
 二十二句目。

   此所けしからずふく花に風
 そりやこそ見たか蛇柳の陰    松臼

 蛇柳はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蛇柳」の解説」に、

 「[一] 高野山の奥の院へ通じる道の渓流のほとりにあったという柳の木。弘法大師の法力でヘビが化身したものという。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「此所けしからずふく花に風〈一鉄〉 そりゃこそ見たか蛇柳の陰〈松臼〉」

とある。
 風が吹けば柳の枝が暴れて蛇のようになる。

2022年10月18日火曜日

 最近あまりウクライナのニュースが流れないのは、まあ、便りがないのは良い便りというところか。
 世界は一つにはならない。ただ科学とグローバル市場を共通言語とした多様性社会へ、再び前進を始めることだろう。ロシアが負ければ中国が最後の砦となる。
 経済を犠牲にしてでも戦争を起こすというのが、いかに馬鹿げたことか、すぐにも証明されるだろう。経済を犠牲にしたら武器も買えないし、兵隊の給料も払えない。
 最初はどうなることかと思ったが、市場の勝利は揺るがなかった。マクドナルドの黄金のアーチは正しかった。マクドナルドに逃げられた国は負ける。
 国内でも国葬、統一、マイナカードとあの連中はガンガン攻めているようでも、それが支持率に結びつかずに閉塞感を強めている。
 安倍元首相暗殺の時はテロを非難する余裕があったが、今はそれすらなくなり、出所した元テロリストの重信房子を持ち上げたりしている。沖縄戦に投入されるらしいが、かつての玉砕の地だ。
 かといってあの連中が今さらテロをするかというと、その若さもなさそうだ。老兵は死なず、ただ消えてゆくのみ。
 ギャーギャー騒いでる連中を無視していけば、このまま穏やかな時代に戻ってゆくような気がする。コロナも事実上終わっている。

 今日は旧暦九月二十三日で、まだまだ秋は終わらないということで、続けて『談林十百韻』の第八百韻を読んでいこう。
 発句。

 夜も明ばけんぺきうたんから衣  正友

 「けんぺき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「痃癖・肩癖」の解説」に、

 「① 首すじから肩にかけての筋のひきつるもの。肩凝り。打肩。けんびき。〔文明本節用集(室町中)〕
  ※仮名草子・仁勢物語(1639‐40頃)下「太刀担やい火数多に据へぬれば絶へぬ薬にけんべきもなし」
  ② 肩から首筋にかけての辺り。けんぺきどころ。けんびき。
  ※歌舞伎・鳴神(日本古典全書所収)(1742か)「一帳羅をらりにしたわいの。ほんに、けんぺきまで濡れたわいなう」
  ③ (肩の凝りを治すところから) 按摩(あんま)の術。けんびき。
  ※浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)野崎村「艾(もぐさ)も痃癖(ケンペキ)も大掴みにやってくれ」
  ④ (形動) 思案にくれ肩が凝るほどの心配事。また、心配なさま。けんびき。
  ※雑俳・柳多留‐六(1771)「よし町のけんへきに成るいろは茶や」

とある。

 夜通し砧を打っていれば、夜の明ける頃には肩が痛くなるから、肩も叩かなくてはならない。
 「夜も明ば」は『伊勢物語』十四段の陸奥の女の歌、

 夜も明けばきつにはめなでくたかけの
     まだきに鳴きてせなをやりつる

の歌に用例がある。夜が明けたら狐に食わすぞ糞鶏まだなのに鳴いて彼氏帰らせ、といったところか。
 脇。

   夜も明ばけんぺきうたんから衣
 ちりけもとより秋風ぞ吹     松臼

 「ちりけもと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「身柱元」の解説」に、

 「〘名〙 (「ちりげもと」とも) ちりけのあたり。えりくびのあたり。くびすじ。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「夜も明ばけんぺきうたんから衣〈正友〉 ちりけもとより秋風ぞ吹〈松臼〉」

とある。前句の肩癖に応じる。肩癖は片の内側の筋を言い、身柱元は肩の外側の襟との間を言う。
 凝った肩の辺りに秋風が吹く。
 唐衣に秋風は、

 花薄おほかる野辺は唐ころも
     たもと豊かに秋風ぞ吹く
              宗尊親王(続古今集)
 唐衣袖も草葉もおしなべて
     秋風吹けば露ぞこほるる
              西園寺実兼(続後拾遺集)

などの歌がある。
 第三。

   ちりけもとより秋風ぞ吹
 化もののすむ野の薄穂に出て   一朝

 前句の襟元の秋風を、幽霊の気配にぞくっとする感覚に取り成す。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、

 旅人のいる野の薄穂に出て
     袖の数そふ秋風ぞ吹く
              西園寺実氏(新後撰集)

の歌を引いている。言葉の続き具合をそのまま取っている。
 四句目。

   化もののすむ野の薄穂に出て
 毛のはへた手のきりぎりす鳴   松意

 きりぎりすはコオロギのことでコオロギの足には小さな毛がある。ススキの穂の綿毛に応じたものであろう。
 薄にきりぎりすを詠んだ歌は見つからなかったが、薄に虫の音は、

 虫の音もほのかになりぬ花薄
     秋の末には霜や置くらむ
              源実朝(続古今集)

の歌がある。
 五句目。

   毛のはへた手のきりぎりす鳴
 大力ふけゆく月の枕引      一鉄

 大力(だいぢから)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「大力」の解説」に、

 「〘名〙 非常に強い力。また、その持主。怪力。だいりき。
  ※平家(13C前)五「互におとらぬ大(ダイ)(高良本ルビ)ぢからなりければ、上になり下になり」

とある。
 枕引(まくらひき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「枕引」の解説」に、

 「〘名〙 (「まくらびき」とも) 木枕の両端を二人が指先でつまんで引き合う遊戯。枕を引き取った方を勝ちとする。まくらっぴき。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「大力ふけゆく月の枕引〈一鐵〉 ゑいやゑいやに又かねのこゑ〈卜尺〉」

とある。
 前句の毛の生えた手を枕引きをする怪力男の手とする。
 六句目。

   大力ふけゆく月の枕引
 ゑいやゑいやに又かねのこゑ   卜尺

 「かね」と平仮名標記で、明け方の鐘をあえて金と掛けるというのは、枕引きで金をを賭けていたからだろう。
 七句目。

   ゑいやゑいやに又かねのこゑ
 雲かかる尾上をさして何千余騎  在色

 前句を陣鐘とする。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「陣鐘」の解説」に、

 「古代、軍防令(ぐんぼうりょう)にある、中国の軍制に倣った「鉦(しょう)」に由来する合図の軍器。軍勢を召集、進退させ、威武のために太鼓、法螺(ほら)貝とともに使用する釣鐘(つりがね)、伏鐘(ふせがね)、銅鑼(どら)などの打ち鐘で、集団戦を主とする戦国時代に普及した。古くは『続日本紀(しょくにほんぎ)』に騎兵を鉦で布陣させた記録があり、令制では官専用の軍器として、鼓、角(大角(はらふえ)・小角(くだぶえ))とともに私蔵を禁じた。中世、寺鐘の臨機の使用はあるが、軍記、絵巻にはみえず、わずかに『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』に、蒙古兵が太鼓とともに銅鑼を打つさまがみえる。戦国時代には、指令・示威にさまざまの鐘を打ち鳴らし、城郭内に鐘突(かねつき)堂を設け(『太閤記(たいこうき)』)たり、寺鐘を転用したりして、近世、軍陣専用の陣鐘という呼称を生じた。」

とある。
 八句目。

   雲かかる尾上をさして何千余騎
 仮名実名山ほととぎす      志計

 仮名実名は「けみやうじつみやう」とルビがある。ウィキペディアには、

 「仮名(けみょう)は、江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のこと。」

とある。
 江戸時代は名前を幾つも持つのが普通で、近代のいわゆる戸籍上の「本名」の概念はない。諱(いみな)は僧の法名以外は死後用いられるもので、それに対して普通に用いられている名前は仮名になる。
 つまり何千余騎も合戦で死者と生者に分かれてゆき、血反吐見せてなくというホトトギスの恨みの声がする。

2022年10月17日月曜日

 実朝がリチャードだった?って大河ドラマだが、「薔薇王の葬列」のような内面に深く切り込むものもなく、ただネタにしただけって感じだ。義時をバッキンガムみたいにして恋仲になって裏切られてとかすれば、もう少し盛り上がりそうだけど。
 現代劇としては面白くても、何か歴史を感じさせない。時代考証の人選の段階でもめたりしたけど、やっぱそれが響いてるんだろうな。
 あと、「アレクサンドル・ドゥーギン『政治的プラトニズム』を読む」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「峰高し」の巻の続き、挙句まで。
 名残裏、九十三句目。

   住持の数寄の山ほととぎす
 橘の喜内と申小姓衆       一鉄

 喜内は人名に時折使われているが、東百官に起源がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「東百官」の解説」に、

 「① 京都の官名にならって、天正~慶長(一五七三‐一六一五)以来、関東武士の用いた通称。左内、右内、兵馬、大弐、小弐、典膳、頼母の類。
  ※随筆・貞丈雑記(1784頃)二「今世に云東百官の号は将門が作りしにはあらず」

とある。伊織(いおり)、数馬(かずま)は今日でも名前に用いられている。有名な所では平賀源内の源内(げんない)もある。近代の時代小説の丹下左膳は丹下も左膳も両方とも東百官。
 橘は姓だとすると立派過ぎるから、通称か自称であろう。路通も忌部の姓を名乗っていたようだが。
 まあ、何となく小姓にいそうな名前だったのだろう。
 住持はそっちの方も好きだったようだ。
 九十四句目。

   橘の喜内と申小姓衆
 きのふはたれが軒の宿札     正友

 売春の小姓とする。
 宿札はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「宿札」の解説」に、

 「① 旅宿で誰が宿泊しているかを示す札。江戸時代には、大名や貴人などの宿泊の標識として「何々様御泊」と記し、宿駅の出入口と本陣の前に立てた札。長さ三尺半(約一メートル)、幅一尺(約三〇センチメートル)ほどの木札を、一丈半(約四・五メートル)程度の竹の先につけて、大大名の時は三枚、それ以下の大名は二枚を立てた。特別な場合や旗本・陪臣の宿泊の際には、奉書紙をもって本陣に貼ることもあった。関札(せきふだ)。泊札(とまりふだ)。しゅくさつ。
  ※太平記(14C後)八「我前に京へ入て、よからんずる宿をも取、財宝をも官領せんと志て、宿札(ヤドフダ)共を面々に、二三十づつ持せて」
  ② 氏名などを記して門口に掲げ、その人の住居であることなどを示す札。表札。門札。家札(やふだ)。
  ※俳諧・埋草(1661)一「鶯の宿札か梅に小短尺〈貞盛〉」

とあり、この場合は①で、上級武士の宿泊する宿に出没しては稼いでいる。
 九十五句目。

   きのふはたれが軒の宿札
 洪水の流てはやき大井川     松臼

 大井川は東海道の大井川、京都嵯峨野の大井川、江戸川の辺りもかつては大井川だった。特にどこのということではなく、洪水で家が流されて、昨日の軒の表札も今はない。
 九十六句目。

   洪水の流てはやき大井川
 嵯峨丸太にて丸にたふるる    一朝

 嵯峨丸太はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「嵯峨丸太」の解説」に、

 「① 京都嵯峨で陸揚げされた丹波産の丸太。丹波の奥山で切り出された丸太を筏(いかだ)に組んで大堰川(おおいがわ)に流し、その沿岸である嵯峨で陸揚げしたところからいう。
  ※俳諧・桜川(1674)夏「蚊はしらのたつやうき世の嵯峨丸太〈為勝〉」
  ② (尼は色恋になれていないで堅いところから) 京都嵯峨の尼。また、売春をする尼のこと。
  ※雑俳・尚歯会(1722)「正法にげに節木(ふし)なき嵯峨丸太」

とある。
 前句の大井川を嵯峨野の大井川(桂川)として、洪水のあとで嵯峨丸太が丸々倒れて流されたとする。
 九十七句目。

   嵯峨丸太にて丸にたふるる
 ぬかり道足にまかせて行ほどに  雪柴

 「足にまかせて」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「足に任せる」の解説」に、

 「① 乗物に乗らないで、歩いて行く。足を頼りに行く。また、足の力の続くかぎり歩く。
  ※平家(13C前)一二「北条、馬にのれといへども乗らず〈略〉足にまかせてぞ下りける」
  ② はっきりした行先もなく、また、特に目的も定めないで歩く。あてもなく気ままに歩きまわる。
  ※虎明本狂言・八尾(室町末‐近世初)「足にまかせて行程に、六道の辻に着にけり」

とある。この場合は①であろう。ぬかり道を歩いて行くと嵯峨丸太につまずいて転ぶ。
 九十八句目。

   ぬかり道足にまかせて行ほどに
 作麼生かこれ畳の古床      在色

 作麼生(そもさん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「作麽生・什麽生」の解説」に、

 「〘副〙 中国、近世の口語。いかに。どのように。さあどうだ。日本ではとくに禅僧の問答の際の語として広まった。
※正法眼蔵(1231‐53)仏性「この宗旨は作麽生なるべきぞ」
※読本・雨月物語(1776)青頭巾「やがて禅杖を拿(とり)なほし『作麽生(ソモサン)何所為ぞ』と一喝して」 〔景徳伝燈録‐道信大師旁出・崇慧禅師〕」

とある。
 床はいろいろな意味があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「床」の解説」に、

 「① 人の座する台。高さ一尺くらいで土間に用いる。
  ※新撰字鏡(898‐901頃)「 止己」
  ※延喜式(927)三四「牀〈長八尺、広五尺、高一尺三寸、厚二寸四分〉長功十人」
  ② 寝所として設ける所。ねどこ。ふしど。
  ※古事記(712)中・歌謡「をとめの 登許(トコ)のべに 我が置きし つるぎの太刀 その太刀はや」
  ※源氏(1001‐14頃)末摘花「心やすきひとりねのとこにてゆるひにけりや」
  ③ ふとんを敷いたねどこ。また、男女の共寝。
  ※評判記・野郎虫(1660)伊藤古今「床(トコ)にいりての後は、あぢものじゃといふ」
  ④ ゆか。
  ※読本・雨月物語(1776)蛇性の婬「然(さて)見るに、女はいづち行けん見えずなりにけり。此床(トコ)の上に輝輝(きらきら)しき物あり」
  ⑤ 畳(たたみ)のこと。現代では畳の心(しん)を、畳表と区別していう。
  ※大乗院寺社雑事記‐寛正三年(1462)一月一三日「長床二帖」
  ⑥ 牛車(ぎっしゃ)の人の乗る所。車の床。車箱(くるまばこ)。
  ※三代実録‐貞観一七年(875)九月九日「吾欲レ令二此牛不一レ行、乃以レ手拠二車床一、閉レ気堅坐不レ動」
  ⑦ =とこのま(床間)②
  ※玉塵抄(1563)一一「軸の物と云が座敷のかざりに床(トコ)の上に台にのせておかるるぞ」
  ⑧ 桟敷(さじき)。涼みどこ。
  ※俳諧・己が光(1692)四条の納涼「夕月夜のころより有明過る比まで、川中に床をならべて、夜すがらさけのみものくひあそぶ」
  ⑨ 葭簀(よしず)ばりにゆかを張るなどして、常時は人の住めない簡単な店。渡船場などの休息所。とこみせ。
  ※浄瑠璃・鑓の権三重帷子(1717)下「床(トコ)の陰に身を潜め、甚平が爰に有からは、市の進も此辺にゐらるるはひつぢゃう」
  ⑩ (以前は「とこみせ」程度であったところから) 髪結床(かみゆいどこ)。床屋。
  ※浄瑠璃・夏祭浪花鑑(1745)三「床(トコ)の衆今日のお払ひ者いかふ遅うござるの」
  ⑪ 和船の最後部の船梁で、舵(かじ)を保持する床船梁(とこふなばり)の略称。〔和漢船用集(1766)〕
  ⑫ 犂(からすき)の底の地面にふれる部分の名称。いさり。〔訓蒙図彙(1666)〕
  ⑬ 「なえどこ(苗床)」の略。
  ⑭ 「かなとこ(鉄床)」の略。
  [語誌](1)元来、土間に用いられた①が、住宅・寺院が板敷になるに伴ってその上に置かれ、室町時代には⑤のように畳を意味するようにもなった。
  (2)床は一段高い所で、その上段の間には押板がつけられるのが普通であったが、茶室の発生とともに、上段と押板が縮小されて一つになり、今日いう⑦の「床の間」となった。」

とある。延宝の頃はまだ畳は高級品だったと思われる。まあ、板敷の部屋の多かった時代には一段高くなった所というイメージもあっただろう。
 ぬかり道も心を澄ませば、古くはあるが畳の上を歩いているようなもの、ということか。
 九十九句目。

   作麼生かこれ畳の古床
 山寺を仕まふ大八花車      卜尺

 山寺からの引越しに、大八車に古畳を積んで運び出す。これも当時は古畳とはいえ一財産というイメージがあったのだろう。それゆえ花車になる。
 挙句。

   山寺を仕まふ大八花車
 鳶口帰る春の夕暮        松意

 鳶口(とびくち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳶口」の解説」に、

 「① 棒の先端に、鳶のくちばしに似た鉄製の鉤(かぎ)を付けたもの。物をひっかけたり、引き寄せたりするのに用いる。
  ※俳諧・生玉万句(1673)「鴟口のさきとがる三ケ月〈正春〉 秋かぜをおききゃるかとて木やりして〈重故〉」
  ② =とび(鳶)の者
  ※東京日日新聞‐明治七年(1874)七月二六日「鳶口も長髷となり、依然として旧の如し」
  ③ (①が物を引き寄せる道具であるところから) 欲深く物を取り込むこと。
  ※評判記・吉原すずめ(1667)下「さだまりたる手のよきとびぐちは、くるしかるまじき事也」

とある。②は用例が近代だが、ここでも鳶口を持った人が帰るということで②の意味でいいと思う。
 近代でも国鉄の貨物便などロープで縛ってある荷物を鳶口を使って持ち上げたりしてたと記憶する。昔の引越しには欠かせないものだったのだろう。
 無事引越しも終わり、一巻は目出度く終了する。

2022年10月16日日曜日

 マイナカードは最初の段階で申し込んだんだが、その時は受け取りが平日のみだったし、カードを貰いに行くためにわざわざ有休もと思って受け取りに行かなかったが、今年の春にポイントがもらえるというのであらためて作ってもらった。転居やそのための不動産取引に用いる住民票や印鑑証明書がコンビニで取れたのは有り難かったが、自治体同士の連携がまだ不十分で、スムーズとはいかなかった。
 マイナカードの持ち歩きはちょっと緊張するが、落しちゃいけないのは免許証だってキャッシュカードだってクレカだって同じだから馴れだろう。健康保険証だって子供の頃学校の旅行で持って行くという時に、親からさんざん無くさないように念を押された記憶がある。
 まあ、マイナカードができるはるか前から国民総背番号制に反対していたのがどういう人たちかは知っている。「ネットで大量の反対署名」というのも例のChange.orgのいつもの連中だろう。
 山上の減刑嘆願署名に比べれば大量と言えるかもしれない。さすがに左翼でもあからさまな暗殺テロの肯定には躊躇する人も多い。
 基本的に絶対に正しいニュースなんてものは存在しない。目の前で目撃した人ですら、その人の視点で見えたものした知らないし、時が経てばあっという間に記憶は変容する。さらには思い込みや勘違いが加わり、目撃証言すら絶対に正しいとは言えない。
 ましてその目撃証言をまた聞きで報道するジャーナリストにどの程度の真実があるのか。不確かな目撃証言に、更にジャーナリスト自身のバイアスが加わり、それがニュースとなって流れる。
 ファクトチェックもまた、チェックする人自身のバイアスが余計に加わるため、元のニュース以上に真実から遠ざかる可能性の方が高い。
 大事なのは「無知を知る」ことだ。情報を過信しないこと。自分だけが正しい情報を持っているなんて思い上がりは危険極まりない。ヘラクレイトスも言っている。

 「Ὕβριν χρὴ σβεννύναι μᾶλλον ἢ πυρκαϊήν.
 ≪思いあがり〔量りそこない〕は、火事よりも先に消す必要がある。≫  (『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.37)

 ジャーナリストに必要なのは、いつでも自分は知らず知らずのうちにフェイクニュースを流しているかもしれないという自戒だ。それのない奴は「護美」だ。マスタベーション護美。

 それでは「峰高し」の巻の続き。
 名残表、七十九句目。

   所望かしよまうかうぐいすの声
 手本紙おそらく残ンの雪の色   雪柴

 書の練習用の手本紙を書いては見たが、今日は生徒が来ない。手本紙が残雪のように取り残され、鶯だけが鳴いている。
 八十句目。

   手本紙おそらく残ンの雪の色
 がつそうあたま春風ぞふく    在色

 「がつそうあたま」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「兀僧頭」の解説」に、

 「① 男の髪形で、月代(さかやき)を剃らないで、全体の髪をのばし頭上で束ねたもの。また、その髪をした者。坊主、医者、老人などが主にした。また、束ねないで全体の髪を  のばして、垂れ下げた髪形もいう。総髪。がっそう。がっそうがしら。
  ※仮名草子・可笑記(1642)四「今其方のすがたを見るに、がっそうあたまにやつし、刀わきざしをもささず」
  ② 芥子(けし)を置かずに髪をのばし、まだ束ねるに至らない七、八歳ぐらいの小児の頭髪。がっそう。〔随筆・守貞漫稿(1837‐53)〕」

とある。この場合は①で、書の先生にありがちな髪型とする。
 八十一句目。

   がつそうあたま春風ぞふく
 青柳の糸もてまはる鎌つかひ   卜尺

 「鎌つかひ」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「鎖鎌のつかい手」とある。鎖鎌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鎖鎌」の解説」に、

 「〘名〙 武器の一つ。鎌に長い鎖をつけ、その先に分銅(ふんどう)をつけたもの。分銅を相手に投げつけて、武器にからみつかせ、引き寄せて、鎌で斬りつけたり首を掻いたりするもの。
  ※俳諧・二葉集(1679)「くさり鎌もれて出たる三ケの月 雲居に落る雁の細首〈芭蕉〉」
  ※浄瑠璃・彦山権現誓助剣(1786)七「直に踏込み打ちかくるを、くぐるは神力くさり鎌(ガマ)、ちゃうちゃうはっしと請止めて」

とある。用例は延宝六年の「わすれ草」の巻。
 兀僧頭で髪を束ねてなかったのだろう。風が吹くと青柳のようになり、鎌を振り回す釜使いのようだ。
 柳に春風は、

 佐保姫のうち垂れ神の玉柳
     ただ春風の梳るなりけり
              大江匡房(玉葉集)

などの歌に詠まれている。
 八十二句目。

   青柳の糸もてまはる鎌つかひ
 葛城山の草をたばぬる      志計

 鎌使いは葛城山の草刈をしていた。
 桂木山の草は、

 葛城や夏は裾野の草茂み
     雨に置く露を誰かわくらむ
              慈円(夫木抄)

の歌がある。
 八十三句目。

   葛城山の草をたばぬる
 岩橋の夜のちぎりに蚊をいぶし  松意

 葛城山の一言主大神はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「葛城の神」の解説」に、

 「奈良県葛城山の山神。特に、一言主神(ひとことぬしのかみ)。また、昔、役行者(えんのぎょうじゃ)の命で葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋をかけようとした一言主神が、容貌の醜いのを恥じて、夜間だけ仕事をしたため、完成しなかったという伝説から、恋愛や物事が成就しないことのたとえや、醜い顔を恥じたり、昼間や明るい所を恥じたりするたとえなどにも用いられる。
  ※清正集(10C中)「かづらきやくめのつぎはしつぎつぎもわたしもはてじかづらきのかみ」
  ※枕(10C終)一六一「あまりあかうなりしかば、『かづらきの神、いまぞずちなき』とて、逃げおはしにしを」

とある。
 このことは、

   大納言朝光下らふに侍りける時、
   女のもとにしのひてまかりて、
   あか月にかへらしといひけれは
 岩橋の夜の契もたえぬべし
     あくるわびしき葛木の神
              春宮女蔵人左近(拾遺集)

のように、恋の意味に転じて用いられることもある。
 前句の「草をたばぬる」を蚊遣火の草とする。
 八十四句目。

   岩橋の夜のちぎりに蚊をいぶし
 枕に汗のかかる美目わる     一鉄

 葛城の神は美目悪だったということだが、葛城の岩橋を恋に転じた趣向が三句に跨ってしまっているが、元の顔が醜いのではなく、蚊を燻す烟にむせて変な顔になっているとして、やや変化を加えている。
 八十五句目。

   枕に汗のかかる美目わる
 恋風や敗毒散にさめつらん    正友

 敗毒散はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「敗毒散・排毒散」の解説」に、

 「〘名〙 近世、広く愛用された売薬。人参・甘草・陳皮などをもって製し、頭痛、せき、かぜなどに効があった。
  ※蔗軒日録‐文明一六年(1484)四月一八日「与敗毒散五色」 〔玉機微義‐滞下治法〕」

とある。
 恋の病も敗毒散が効いて醒めてしまったか。
 八十六句目。

   恋風や敗毒散にさめつらん
 なみだは袖に一ぱい半分     松臼

 「一ぱい半分」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「敗毒散の服用量」とある。
 前句の「らん」を反語として、敗毒散に覚めたのではなく、一杯半の泪を流してあきらめたとする。
 八十七句目。

   なみだは袖に一ぱい半分
 夕まぐれ貧女がともす油皿    一朝

 前句の「一ぱい半分」を油の量として、前句の泪は貧しさからの泪とする。
 八十八句目。

   夕まぐれ貧女がともす油皿
 夜なべに籠をつくる裏店     雪柴

 裏店(うらだな)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「裏店」の解説」に、

 「〘名〙 (「たな」は家屋の意) 市街地の裏通りや、商家の背後の地所に建てられた家。とくに、裏通りに面して建てられた粗末な棟割長屋をいった。うらや。裏長屋。裏借屋(うらじゃくや)。裏貸屋(うらがしや)。⇔表店。
  ※御触書寛保集成‐三九・寛文二寅年(1662)九月「右之輩町屋表棚に差置申間敷候。裏店に宿借候共」

とある。
 前句の油皿をよなべ仕事のためのものとする。
 八十九句目。

   夜なべに籠をつくる裏店
 雪隠のあたりにすだく蛬     在色

 「すだく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「すだく」の解説」に、

 「〘自カ四〙 (古くは「すたく」) 呼吸が苦しくなる。あえぐ。〔文明本節用集(室町中)〕
  ※浄瑠璃・栬狩剣本地(1714)三「急げ急げといふ声も喘(スダキ)せぐりて」

とある。蛬(きりぎりす)はここではコオロギのことで、晩秋の虫の音も弱り息絶え絶えのコオロギであろう。
 夜なべで籠を作る手も寒い。
 九十句目。

   雪隠のあたりにすだく蛬
 りっぱに見ゆる萩垣の露     卜尺

 すだくコオロギで物悲しいのと裏腹に、どこの屋敷の雪隠か、立派な垣根がある。
 九十一句目。

   りっぱに見ゆる萩垣の露
 はき掃除尻からげして今朝の月  志計

 「尻からげ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「尻を絡げる」の解説」に、

 「① 着物の裾(すそ)をまくりあげて、端を帯にはさみこむ。〔伊京集(室町)〕
  ② (転じて、その走りやすい姿から) 早々に逃げ出す。
  ※談義本・根無草(1763‐69)前「聖人も父母の国を尻(シリ)引からげて去り給ふは」

とある。ここでは①の意味。
 垣根の辺りでは尻からげして掃除している人がいる。
 九十二句目。

   はき掃除尻からげして今朝の月
 住持の数寄の山ほととぎす    松意

 数寄は茶道の趣味によく用いられる。ここではもっと漠然とした風流好みということか。住持は朝の月にホトトギスの声を聞いて風流にひたっているが、その頃小坊主は掃除させられている。

2022年10月15日土曜日

 かつて民主党政権が誕生した時には、保守層の間に今の政権にお灸をすえねば、という意識があった。つまり政策が支持されてたわけではなかった。
 実際政権を取ってみると、公約だかマニフェストだとか、ほとんど実現しなかった。思いつきで言ったようなばら撒き公約は官僚に反対され、むしろ財源の不測から消費税増税を決めた。
 だが、民主党政権の一番の問題点は、党内を一つにまとめる能力がなかったという点に尽きる。同じ党内でここまで足の引っ張り合いをするかという状態で、政府として機能しなかった。
 今の立民も同じことを繰り返している。なぜそうなるのかというと、現実路線に舵を切ろうとすると、必ずそれを徹底的に叩こうとする連中がいるからだ。そういう声は日本共産党と連携して「民主主義革命」を求める声で、それが本当に立民の支持者なのかどうかは定かでない。
 この連中は常に組織的に行動し、マス護美とも連携している。いわゆる存在しない「統一教会」の問題で、立民の議員との関係が暴露されるようになったのも、立民の現実路線を阻止して革命路線に戻すための脅しと言って良い。
 立民は常にこうした勢力に振り回されている。現実路線を取ると必ず「野党らしい野党がなくなった」「自民党と変わらない」という声が上がってくる。
 立民が革命路線に縛り付けられると、革命至上主義の弊害として、日本国民を苦しめれば苦しめる程革命の日が近づくというとんでもない論理に陥って行く。自民党政治の足を引っ張り、いかなる改革も阻止することで、この国を貧しくすれば革命が起きる、という発想に陥って行く。
 この奇妙な革命至上主義の声がどこから来るのか、まあ大体見当はつくだろう。ツイッターのネットデモでもChange.orgでもコンスタントに五万件ほど集まるあの声だ。この声はマス護美が「ネットで炎上」だとか「大量の反対署名」だとか報道するあの声だ。

 それでは「峰高し」の巻の続き。
 三裏、六十五句目

   はらはんとせしもとゆひの露
 そちがいさめいかにも聞えた虫の声 松意

 虫の声で元結の露に気付いた。
 六十六句目。

   そちがいさめいかにも聞えた虫の声
 野辺のうら枯後世をおどろく   一鉄

 虫の声に下を見ると、野辺の草の先の方が枯れてきたのをを見て無常迅速を悟る。虫が諫めてくれた。
 六十七句目。

   野辺のうら枯後世をおどろく
 見わたせば千日寺の松の風    正友

 千日寺は難波の法善寺。千日念仏が行われる。第三百韻の「いざ折て」の巻五十七句目にも、

   三昧原に夕あらしふく
 千日をむすぶ庵の露ふかし    松臼

の句がある。
 松風に野辺のうら枯れに千日念仏と来れば、発心の要素が揃っている。
 六十八句目。

   見わたせば千日寺の松の風
 常香のけぶりみねのうき雲    松臼

 常香はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「常香」の解説」に、

 「〘名〙 仏前にいつも絶やさないようにたく香。不断香。
  ※参天台五台山記(1072‐73)三「前立二常燈常花常香台一」
  ※滑稽本・浮世床(1813‐23)二「常香(ジャウカウ)もる間も忘れかねて、ほんにほんに泣かぬ間はなかった」

とある。千日念仏で香を焚き続ける。千日念仏をやる寺を法善寺ではなく、どこか山の方の寺とする。
 六十九句目。

   常香のけぶりみねのうき雲
 人中をはなれきつたる隠居住   一朝

 山の中の隠遁者とする。
 七十句目。

   人中をはなれきつたる隠居住
 岩井の流茶釜をあらふ      雪柴

 隠遁者を茶人とする。
 七十一句目。

   岩井の流茶釜をあらふ
 二三枚木の下たよる苔莚     在色

 山の中の野点とする。
 苔莚はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「苔筵」の解説」に、

 「① 苔が一面にはえたさまを、敷き物としてのむしろに見たてていう語。苔のむしろ。
  ※万葉(8C後)七・一一二〇「み吉野の青根が峯の蘿席(こけむしろ)誰か織りなむ経緯(たてぬき)無しに」
  ② 山に住む人や隠棲者あるいは旅人のわびしい寝床。苔のむしろ。
  ※千載(1187)雑中・一一〇九「宿りする岩屋の床(とこ)の苔莚いく夜になりぬ寝(ね)こそやられね〈覚忠〉」
  ③ (苔は、永遠、長久などのたとえに用いられる常滑(とこなめ)(水苔)を連想させるところから) 永遠の意のたとえ。
  ※長秋詠藻(1178)上「岩たたむ山のかたそのこけむしろとこしなへにもものを思哉」

とある。筵のような苔の意味にも苔のような筵の意味にも用いる。ここでは二三枚敷くから②の方。
 七十二句目。

   二三枚木の下たよる苔莚
 眠をさます蝉のせつきやう    卜尺

 木の下で野宿で、朝になると蝉が泣き出して起こされる。説教をするのだからつくつく法師だろうか。
 七十三句目。

   眠をさます蝉のせつきやう
 夕立のあとや凉しき与七郎    志計

 与七郎は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「寛永年間の大阪の説経浄瑠璃師」とある。コトバンクの「世界大百科事典内の与七郎の言及」に、

 「…このように説経節は本来,大道芸や門付芸であったが,その中から三味線を伴奏とし,人形をとり入れて操り芝居を興行するものがあらわれた。
[操り興行]
 《色道大鏡》(1678成立)巻八に〈説経の操は,大坂与七郎といふ者よりはじまる〉とあって,大坂では,伊勢出身というこの与七郎(説経与七郎)が寛永(1624‐44)ころ,生玉神社境内で操りを興行したと伝え,明暦~寛文(1655‐73)ころには説経七太夫も興行を行ったと伝える。この七太夫が江戸の佐渡七太夫の前身であろうとする説がある。…」

 「…説経語り。1639年(寛永16)の正本《山荘太夫》のはじめに,摂州東成郡生玉庄大坂,天下一説経与七郎とあるのは当人で,寛永年間(1624‐44)生玉境内で操り説経を上演したようである。《諸国遊里好色揃》(1692)の説に従うと,与七郎は伊勢出身の簓(ささら)説経の徒であったが,後に操り説経に転じて大坂で興行するようになったということである。…」

とある。
 夕立の跡の繰り芝居興行で、雨が止んで蝉の声もする中で行われる。
 七十四句目。

   夕立のあとや凉しき与七郎
 箒木の先のみじか夜の月     松意

 箒木は「ははき」とルビがある。
 そこいらの与七郎として、夕立で掃除も中止で、夕立が去れば箒を立ててのんびり月を見て涼む。
 七十五句目。

   箒木の先のみじか夜の月
 出来星は雲のいづこにきえつらん 一鉄

 出来星はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「出来星」の解説」に、

 「① 急に夜空に現われた星。
  ※俳諧・毛吹草(1638)六「出来星と見やはとがめぬ揚燈籠〈宗除〉」
  ② にわかに立身出世すること。急に大金持になること。また、その人。なりあがり。
  ※歌舞伎・夢結蝶鳥追(雪駄直)(1856)三幕「主膳といふは出来星(デキボシ)の此頃流行る人相見」

とある。前句の箒木をほうき星とする。
 彗星は現れたと思ったら去って行く。この前まで見えていたのにどこへいったやら。
 比喩としては、俄成金も宵越しの金は持たねえとばかりにあっという間に使い果たし、今はどこへ行ったやら。
 七十六句目。

   出来星は雲のいづこにきえつらん
 空さだめなき年代記也      正友

 年代記などには彗星の出現が記録されている。
 ウィキペディアによると、『鎌倉年代記』には「正安3年(1301年)に地球に接近したハレー彗星についての記事がある」という。
 七十七句目。

   空さだめなき年代記也
 風わたるからくり芝ゐ花ちりて  松臼

 からくり芝居はコトバンクの「デジタル大辞泉「絡繰り芝居」の解説」に、

 「絡繰り人形の芝居。元禄期(1688~1704)を中心に、寛文から寛延に至る90年間に盛行。大坂道頓堀の竹田近江掾たけだおうみのじょうの芝居が有名。竹田芝居。」

とある。
 からくり芝居は旅芸人で、花見の人が集まる所にやって来ては、どこへともなく消えてゆく。「年代記」は出し物の名前としたか。
 七十八句目。

   風わたるからくり芝ゐ花ちりて
 所望かしよまうかうぐいすの声  一朝

 所望はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「所望」の解説」に、

 「〘名〙 ある物を手に入れたい、ある事をしてほしいなどとのぞむこと。のぞみ。ねがい。注文。
  ※明衡往来(11C中か)上本「所望之事成敗難レ計」
  ※虚子俳句集(1935)〈高浜虚子〉昭和六年四月「花冷の汁のあつきを所望かな」 〔資治通鑑‐巻六五〕」

とある。
 所望はからくり芝居の人が「何を所望か」と客のリクエストを聞く場面で、花も散ると人も少なく、鶯の声が返ってくるだけ。 

2022年10月14日金曜日

 まあ、久々にコロナの話でもしようかな。
 オミクロン株からの新たな変異株がヨーロッパで急拡大して、それを追うように日本にも第八波が来るのは間違いない。
 ただ、感染者の人数だけが急速に増えると、マス護美はその数だけ大々的に報道して、またそれを政権を強請るネタにするのは間違いない。
 第七波の第六波の十倍の感染者を出しても、死者数が第六波より多少多いくらいで済んだように、感染力が高まるとともに弱毒化が進むという流れは第七波も基本的に変わらないと見ていい。
 ここで注意しなくてはならないのは、

 ①死亡率が低くても現実にたくさんの人が死んでいる。

という一見正論に見える主張で中国流のゼロコロナに誘導しようという人たち。
 そして同じ口で、

 ②行動規制は人権侵害。
 ③ワクチンは危険。

 この二つの主張によっていかなるコロナ対策もできないように縛り付けてしまうやり方だ。コロナの脅威を煽るだけ煽って、対策を妨害することで政府を身動きできなくする。これはコロナが始まった後の最初の冬頃から延々と左翼とマス護美が使ってきた手口だ。当然ながら第七波でもこれを繰り返してくるだろう。
 先ず印象操作に気をつけよう。
 コロナが不安なはずがないから、世論調査は当然ながらコロナが取るに足らないという結果にはならない。ただその不安の度合いが初期の頃にくらべると格段に下がっている。それを世論調査は測定しない。これはモリカケ桜にオリンピック国葬と延々と繰り返してきたことだ。
 国民にとってそれほど大きな関心事ではなくても、確かに「疑惑が残っている」だとか「取り合えず穏便に」という消極的反対が多くを占めていたのは確かだが、「何を差し置いても徹底追及しろ」だとか「断固反対」という声ではなかった。それはごく少数、多くて15パーセントといった所だ。
 だから、こうした世論調査は国政選挙では全く反映されなかった。それは左翼政党の支持率が下がり続けていることを見ればわかる。国民の投票行動に影響を与えない世論調査を、いかにも天下国家の一大事であるかのように印象操作してただけだ。
 保守層は大体四割はかなり手堅いから、内閣支持率がそれを割るというのは、左翼マス護美に配慮しすぎた内閣に保守層が反発していると見ていい。だから、内閣支持率が大きく下がっても、左翼政党が勝利することはない。
 コロナに対してもコロナに不安を感じるかと言われれば、多くの人が不安だと答える。政府の対策に不満はないかと問われれば、コロナの封じ込めが不十分だという人とコロナよりももっと経済を優先しろという人もどっちも「不満がある」という方に計測される。
 この世論調査を根拠に、国民は断固たる厳しいコロナ対策を求めているかのように印象操作し、その一方でワクチンに不安があるだとか、マンボウは困るだとかいうもう一方の世論調査を突きつければ、政府を追い詰めることができるという目論見があるのかもしれないが、それは今までだって成功しなかったから、これからも成功しないし、させてはいけない。
 ただ、安倍さん菅さんと違って今の政権はマスゴミに媚びすぎているから、そっちの方が危険だ。
 コロナは終わってないだとか、コロナの危険は去ってないと主張する連中は、おそらくコロナの死者が一人しかいなくても、一人の命は地球より重いという論を展開してくるだろう。
 コロナウィルスそのものがなくなるわけではないし、インフルもまだあるし、亦新型の風邪が流行る可能性は否定できないとなると、永遠にコロナは終わらない。
 ただ、ある程度弱毒化して、多くの人がコロナを恐れて自粛するよりも日常生活を元に戻すと判断したなら、コロナは終わらせるべきだ。
 コロナは終わらせなければ永遠に終わらない。
 いつの時代だって危険な病気は必ずあるもので、ただそれは程度の問題だ。病気をゼロにすることはできない。適度の安全が確保できたなら、緊急時の行動制限は終わらせなくてはいけない。
 少なくとも死亡率が急激にオミクロン株BA.1レベルまで戻るようなことがないのであれば、たとえ第八波でどれだけ感染者数が増えようともコロナは終わらせるべきだ。

 それでは「峰高し」の巻の続き。
 三表、五十一句目。

   名主を爰にまねく瓜鉢
 府中より武蔵野分て籠見廻    一朝

 武蔵野だから東海道の府中ではなく甲州街道の府中であろう。かつて武蔵国の国府があった。見廻(みまひ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「見舞・見廻」の解説」に、

 「① 見回ること。見回り。巡察。巡視。
  ※天草本伊曾保(1593)イソポの生涯の事「デンバタヲ mimaini(ミマイニ) イデラレタレバ」
  ② 訪問すること。とぶらうこと。挨拶に行くこと。
  ※古文真宝彦龍抄(1490頃)「我一期の間奉公せいでは叶まいが、捨之父を見まいに行よ」
  ※大英游記(1908)〈杉村楚人冠〉本記「此の曠世の詩人が生れたといふ家を見舞(ミマ)ひ」
  ③ 医者が病人の様子を見て回ること。往診。
 ※仮名草子・竹斎(1621‐23)下「門より典薬衆見まひとあり」
  ④ 病気、災難などにあった人を慰めるために訪れたり、書面で問い慰めたりすること。また、そのための訪問や書状、贈物など。
  ※古活字本毛詩抄(17C前)一九「骨ををらるるらうと云て見まいに来」
 ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「あるもの、火事にあひけるを、見舞(みマヒ)に行きければ」
  ⑤ 好ましくない物事が襲うこと。
  ※相撲講話(1919)〈日本青年教育会〉力士の階級と給金「出世すべき力士一同が〈略〉土俵に登り、森厳な儀式があるのだが、其道々でばたばたお祝の拳骨や平手の見舞(ミマヒ)を受ける」

とある。本来は見て回ること全般を言った。今日では④と⑤の意味になっている。④の不吉さから⑤の意味に拡張されたのであろう。
 昔の国府のイメージで役人が武蔵野を見廻りすると瓜で歓迎を受けるとしたか。
 五十二句目。

   府中より武蔵野分て籠見廻
 むかひの岡の公事の頭取リ    雪柴

 「むかひの岡」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「文京区本郷」とあるが、この場合は武蔵野だから玉川の南側の向ヶ丘ではないか。ウィキペディアに、

 「『新編武蔵風土記稿』巻之五八橘樹郡之一に「向ヶ岡」の名が登場しており(ここでは山の名前として紹介されている)、この山には金程・細山・菅・高石・菅生・長尾・作延(かつては一つの村であったが後に上作延・下作延に分かれる)・久本・末長の 9村があるとしている[17]。つまり、かつては一地域の地名としてではなく、「多摩の横山」などと同様に、より広い地域にこの名が使われていたことを示唆している(向丘村については#旧橘樹郡向丘村の節を参照)。」

とある。

 武蔵野の向かいの岡の草なれば
     根を訪ねても哀れとぞ思ふ
              小野小町(新勅撰集)

など、歌枕になっている。元は府中の国府から見て多摩川の対岸にある岡の意味だったか。
 頭取はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「頭取」の解説」に、

 「① 音頭を取る人。音頭取。
  (イ) 雅楽の合奏で、各楽器特に、管楽器の首席演奏者。音頭(おんどう)。
  ※楽家録(1690)一三「調子一名品玄、奏楽毎調始奏レ之、畧之時音取也 〈略〉至二于終句一止レ之法、絃管共頭取一人奏二終之一」
  (ロ) 能楽・歌舞伎で「翁(おきな)」「三番叟」を演奏するとき、小鼓方三人のうちの中央の主奏者。小鼓方の統率者。
  ※四座役者目録(1646‐53)「子へ、忝も、観世の頭取、不二相替一被二仰付一」
  ② 転じて、一般に頭(かしら)だつ人。
  (イ) 集団の長である人。首領。頭領。頭目。かしら。
  ※三河物語(1626頃)一「信忠も聞召て、其中に頭取(トウトリ)之族を御手討に被レ成ければ」
  (ロ) 歌舞伎劇場で、奥役の下に楽屋内の庶務の取締りを兼ねる役者。名題下の役者ではあるが、物わかりよく顔の売れた古参の役者が選ばれた。その詰めている所を頭取座という。楽屋頭取。
  ※浮世草子・嵐無常物語(1688)上「頭取(トウドリ)に断りいひて帰りさまに」
  (ハ) 相撲で、力士を統轄して興行に参加する者。年寄。
  ※古今相撲大全(1763)下本「頭取は、往古禁廷にて、相撲番行はせ給ふとき、相撲長と称するもの是なり」
  (ニ) 銀行・会社などで、取締役の首席で、その代表者となって業務執行の任に当たる者。
  ※大新ぱん浮世のあなさがし(1896)「会社の頭取が其会社の事を知らぬがある」
  (ホ) 議長。
  ※英政如何(1868)五「ミニストル方の組は下院に於ては、スピーケル(頭取)の椅子の右側に坐し」

とある。②の(イ)の意味であろう。向かいの岡の訴訟を指揮する。
 五十三句目。

   むかひの岡の公事の頭取リ
 伐たふす松のいはれをながながと 在色

 土地の境界線に松を植えることはよくあったのだろう。裁判で境界線が変わった時には伐り倒される。反対派の代表はなおもその松の謂れを滔々と訴える。
 五十四句目。

   伐たふす松のいはれをながながと
 尉と姥とが臼のきね歌      卜尺

 松の謂われは杵歌となって語り継がれていた。
 杵歌はコトバンクに「精選版 日本国語大辞典「杵歌」の解説」に、

 「〘名〙 穀物や餠などをつく時、杵の動きの調子をとるためにうたう労働歌。きうた。
  ※文明本節用集(室町中)「隣有レ喪舂不レ相(ウスヅクトキニキネウタウタハズ)、里有レ殯不二巷歌一〔礼記〕」

 搗く人と捏ねる人とのタイミングを取るための掛け合い歌だったか。松を伐る時に尉と姥が掛け合いで歌う。
 五十五句目。

   尉と姥とが臼のきね歌
 むかしざつと隣の嫁の名を立て  志計

 「ざつと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ざっと」の解説」に、

 「① 風や雨などがにわかに勢いよく吹いたり降ったりするさまを表わす語。
  ※金刀比羅本平治(1220頃か)中「一むら雨ざっとして、風ははげしく吹(ふく)間」
  ※中華若木詩抄(1520頃)下「軽風かざっと吹たれは、宿雨かとくとくと落て」
  ② 動作が勢いよく急なさまを表わす語。
  ※金刀比羅本保元(1220頃か)中「鏑はざっとわれてはらりと落(おつ)」
  ③ ある作業をおおまかにするさまを表わす語。簡略に。
  ※玉塵抄(1563)一五「さいしょにざっとたいめんして口をきいたれば」
  ※思出の記(1900‐01)〈徳富蘆花〉六「今一二年は学校の生活をするかも知れぬと云ふことをざっと話した」
  ④ 数量、状態、程度などのおおよそのさまを表わす語。あらまし。ほぼ。大体。
  ※雲形本狂言・木六駄(室町末‐近世初)「よいやよいや、扨々面白い事ぢゃ、ざっと酒盛になった」
  ※滑稽本・古朽木(1780)三「ざっと五十両の損と見ゆれば」

とあり、この場合は④の意味で正確な時期をぼかす言い方で昔話に用いられる。今の「ざっくり」とも関係があるのか。
 姥は元々尉の隣に住む女房で不倫関係にあって、という暴露話にする。
 五十六句目。

   むかしざつと隣の嫁の名を立て
 なすび畠の味な事見た      松意

 「味な」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「味」の解説」に、

 「② 妙味のある行為や状態についていう。
  (イ) 気のきいていること。手際のいいこと。また、そういうさま。→味にする・味をやる。
  ※評判記・難波物語(1655)「雲井〈略〉逢(あふ)時はさもなくて、文にはあぢをかく人なり」
  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)二「黒き帽子にてかしらをあぢに包みたれば」
  (ロ) 風流で趣があること。また、そういうさま。
  ※俳諧・曠野(1689)員外「峰の松あぢなあたりを見出たり〈野水〉 旅するうちの心寄麗さ〈落梧〉」
  (ハ) 色めいていること。また、そういうさま。
  ※評判記・難波物語(1655)「若旦那とあぢあるよし」
  ※咄本・無事志有意(1798)稽古所「娘のあたっている中へ足をふみ込、ついあぢな心になって、娘の手だと思ひ、母の手を握りければ」
  (ニ) わけありげなこと。何か意味ありげに感じられるさま。
  ※浮世草子・傾城色三味線(1701)京「あぢな手つきして、是だんな斗いふて、盃のあいしたり、かる口いふ分では」
  ※洒落本・風俗八色談(1756)二「人と対する時は作り声をしてあぢに笑ひ」
  (ホ) 囲碁で、あとになって有利に展開する可能性のある手。また、そういうねらい。
  (ヘ) こまかいこと。また、そのようなさま。
  ※咄本・楽牽頭(1772)目見へ「男がよすぎて女房もあぶなし、金もあぶなく、湯へ行てもながからうのと、あじな所へ迄かんを付て、いちゑんきまらず」
  ③ 人の意表に出るような行為や状態についていう。」

とある。(ハ)と(ニ)を合わせた意味で、ようするに茄子畑でイチャイチャしてるように見えたということで、名の立つ原因とする。
 五十七句目。

   なすび畠の味な事見た
 夕㒵をしかとにぎれば五六寸   一鉄

 五六寸は当時の男性の身長を考えれば歌麿級か。
 五十八句目。

   夕㒵をしかとにぎれば五六寸
 うすばの疵に肝がつぶるる    正友

 薄刃包丁は野菜を切るための包丁で、夕顔の実を伐りそこなって手に五六寸の傷ができてしまったら、そりゃ肝潰すわ。
 五十九句目。

   うすばの疵に肝がつぶるる
 常々が麁相也けり納所坊     松臼

 納所坊(なっしょぼん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「納所坊主」の解説」に、

 「〘名〙 寺の会計や雑務を扱う下級の僧。納所ぼん。なっしょ。
  ※俳諧・西鶴大矢数(1681)第二七「今や引らん豆の粉の音 身の行衛納所坊主の塗坊主」

とある。
 うっかり者の納所坊に料理をさせたか。
 六十句目。

   常々が麁相也けり納所坊
 若衆のふくれもつとも至極    一朝

 いつも周りに迷惑かけている納所坊。若衆が起るのももっともなこと。
 六十一句目。

   若衆のふくれもつとも至極
 付ざしの酒にのまれて是は扨   雪柴

 下戸だったのか、若衆の口移しの酒だけで酔っ払って倒れてしまい、不首尾に終わる。
 六十二句目。

   付ざしの酒にのまれて是は扨
 巾着ふるふ後朝の鐘       在色

 遊女の付けざしの酒にいい気になって大盤振る舞いしてしまったのだろう。気が付いたら巾着は空っぽ。
 六十三句目。

   巾着ふるふ後朝の鐘
 女房に見付られたる月の影    卜尺

 女房に遊郭通いがバレて、お金を取り上げられる。
 六十四句目。

   女房に見付られたる月の影
 はらはんとせしもとゆひの露   志計

 もとゆひ(元結)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「元結・鬠」の解説」に、

 「〘名〙 髪の髻(もとどり)を結び束ねる糸、紐の類。古くは組糸または麻糸を用い、後世は糊で固く捻ったこよりで製したものを用いる。もとい。
  ※古今(905‐914)恋四・六九三「きみこずはねやへもいらじこ紫我もとゆひに霜はおくとも〈よみ人しらず〉」

とある。元結が月の光を反射して光ったので露があるとわかる。女房が見つけて露をはらってくれる。

2022年10月12日水曜日

 それでは「峰高し」の巻の続き。
 二裏、三十七句目。

   文学その時うがひせらるる
 二日酔高雄の山の朝ぼらけ    志計

 文覚は高雄山神護寺で四十五箇條起請文を書いた。ここでは吉原の高尾太夫のこととして、高尾太夫を酔わせて起請文を書かせたとする。
 三十八句目。

   二日酔高雄の山の朝ぼらけ
 別にやせてとぎすとぞなく    松意

 「とぎす」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「とぎす」の解説」に、

 「① 昆虫「かまきり(蟷螂)」の異名。
  ② 転じて、かまきりのようにやせた人などをあざけっていう語。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「二日酔高雄の山の朝ぼらけ〈志計〉 別にやせてとぎすとぞなく〈松意〉」

とある。
 山の朝ぼらけに鳴くのはホトトギスだが、失恋痩せでトギスになる。
 三十九句目。

   別にやせてとぎすとぞなく
 思ひの火四花患門にさればこそ  一鉄

 四花患門はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四火関門・四花患門」の解説」に、

 「〘名〙 灸(きゅう)のつぼの一つ。腰に近い背中の部分で、四角な紙を貼って、その四隅に当たるところ。また、そこにすえる灸。しか。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「別にやせてとぎすとぞなく〈松意〉 思ひの火四花患門にさればこそ〈一鉄〉」
 ※談義本・根無草(1763‐69)後「薬よ、鍼(はり)よ、四花患門、祈祷立願残る方なく」

とある。失恋痩せには思い火のお灸が効く。
 四十句目。

   思ひの火四花患門にさればこそ
 終にかへほす人間の水      正友

 「かへほす」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「換乾」の解説」に、

 「〘他サ四〙 池、沼などの水を汲(く)みつくす。干す。さらえる。
  ※百丈清規抄(1462)四「痴人尚野塘水と云たは、底に魚があるかと思て、龍と化去たをば不レ知して、かへほすと云心ぞ」
  ※浮世草子・好色一代男(1682)一「うないこより已来(このかた)腎水をかえほしてさても命はある物か」

とある。
 干からびて干物みたいになってしまったか。
 四十一句目。

   終にかへほす人間の水
 世の中はごみに交る雑喉なれや  松臼

 雑喉は「ざこ」とルビがある。雑魚のこと。雑魚はその外の生ごみと一緒に捨てられて干からびてゆく。人の世というのはそういうもので、大勢の人が江戸に出て来るけど成功するのは一握りで、多くはスラムから抜け出せずにやがて悪の道に染まって命を落として行く。
 四十二句目。

   世の中はごみに交る雑喉なれや
 宮もわら屋もたてる味噌汁    一朝

 立派なお武家さんだって厳しい権力争いがあって、負ければ牢人となり、末は乞食同然になる。

 世の中はとてもかくても同じこと
     宮も藁屋もはてしなければ
              蝉丸(新古今集)

の歌にも詠まれている。生産力の停滞した社会では余剰人口は排除され、似たり寄ったりの運命をたどる。
 ただ、宮廷や将軍の料理でも庶民の食卓でも、汁物だけは変わらない。一汁一菜という言葉もある。貧しくても汁は一緒という発想は、のちに、

 木の下に汁も鱠も桜かな     芭蕉

の句に結実する。
 四十三句目。

   宮もわら屋もたてる味噌汁
 子取ばばとり上見れば盲目也   雪柴

 「宮もわら屋も」の歌を詠んだ蝉丸は、皇子でありながら目が見えないために逢坂山に蓑笠杖を与えられて捨てられた。
 そんな蝉丸を取り上げた産婆さんもいたのだろう。
 四十四句目。

   子取ばばとり上見れば盲目也
 右や左や隠密の事        在色

 隠密はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「隠密」の解説」に、

 「① (形動) (━する) 物事をかくしておくこと。また、そのさま。内密。秘密。
  ※東寺百合文書‐は・建武元年(1334)七月・若狭太良荘時沢名本名主国広代行信重申状「恐自科、雖令隠蜜彼状等、時行訴訟之時」
  ※太平記(14C後)三三「天に耳無しといへども、是を聞くに人を以てする事なれば、互に隠密(ヲンミツ)しけれ共」
  ② 中世の末から近世、情報収集を担当していた武士。幕府や各藩に所属し、スパイ活動をおこなった。「忍びの者」「間者(かんじゃ)」などの称がある。
  [語誌]室町時代末から江戸時代にかけて①から②が生じる一方で①の用法がすたれていくが、その背景には仏教語の「秘密」などが徐々に一般化し、①の用法をおかしていったことなどが考えられる。」

とある。ここでは①の意味。
 四十五句目。

   右や左や隠密の事
 くどきよる中は十六計にて    卜尺

 娘十六はこの時代ではやや売れ残り感があった。誰かが下手に口出しして破談にならないように黙って見守ろう。
 四十六句目。

   くどきよる中は十六計にて
 むずとくみふせ頬ずりをする   志計

 源氏十六の時、空蝉の部屋にいきなり押し入って組み伏せた。
 四十七句目。

   むずとくみふせ頬ずりをする
 色好みあつぱれそなたは日本一  松意

 組み伏せたくらいで「あっぱれ日本一」だから、江戸の男の立場は相当弱かったんだろうな。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『実盛』の、

 「あつぱれおのれは日本一の、剛の者とぐんでうずよとて、ぐんでうずよとて、」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.904). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 四十八句目。

   色好みあつぱれそなたは日本一
 蛍をあつめ千話文をかく     一鉄

 蛍雪の功という言葉もあるが、蛍を集めて夜通し何をしているかと思ったら千話文を書いていた。ラブレターのことだが、仮名草子の『恨之介』はかなり長文の恋文を書いている。
 四十九句目。

   蛍をあつめ千話文をかく
 月はまだお町の涼み花莚     正友

 お町はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御町」の解説」に、

 「① 江戸の遊里、吉原の通称。
  ※俳諧・江戸十歌仙(1678)八「いつも初音の いつも初音の〈春澄〉 御町にて其御姿は御姿は〈芭蕉〉」
  ② 広く、公許の遊里。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「恋せしは右衛門といひし見世守り〈志計〉 お町におゐて皆きせるやき〈一朝〉」

とある。遊郭の夕涼みは花莚に座り、蛍の明りで恋文を書く。
 五十句目。

   月はまだお町の涼み花莚
 名主を爰にまねく瓜鉢      松臼

 前句の「お町」を「おまち」のことにする。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御町」の解説」に、

 「① 江戸時代、町方(まちかた)に関する民政を行なった町年寄、町代(ちょうだい)などの町役人が使用した集会所。町会所(まちかいしょ)。
  ※浮世草子・好色盛衰記(1688)三「むかしなじみのお町に行て、門の役人を望みしに、各(をのをの)たはけの沙汰して」
  ② =おちょう(御町)」

とある。お町(まち)では鉢に入れた瓜を用意して名主を招待する。

2022年10月11日火曜日

 今日は松田のコキアの里に行った。七割がた赤くなっていた。富士山は雪がなかった。

 それでは「峰高し」の巻の続き。
 二表、二十三句目。

   草のまくらに今朝のむだ夢
 ばかばかと一樹の陰の出合宿   雪柴

 一樹の陰はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「いちじゅ【一樹】の陰(かげ)一河(いちが)の流(なが)れも他生(たしょう)の縁(えん)

  知らぬ者同士が、雨を避けて同じ木陰に身を寄せ合うのも、あるいは同じ川の水をくんで飲み合うのも、前世からの因縁によるものだということ。
  ※海道記(1223頃)西帰「一樹の陰、宿縁浅からず」
  ※平家(13C前)七「一樹の陰に宿るも、先世の契(ちぎり)あさからず。同じ流をむすぶも、多生の縁猶(なほ)ふかし」
  [語誌]仏教的な表現だが、漢訳仏典には用例がなく日本で作られたものか。「平家物語」(覚一本で四例)や謡曲に多く使われたため、中世・近世の文学に広まったと考えられる。」

とある。これをさらに拡大したのが「袖振り合うも他生の縁」か。十九世紀初めの歌舞伎に見られ、近代によく用いられる。
 出合宿(であひやど)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「出合宿」の解説」に、

 「〘名〙 男女が密会に使う家。出合屋。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「草のまくらに今朝のむだ夢〈一鉄〉 ばかばかと一樹の陰の出合宿〈雪柴〉」

とある。出合茶屋とも言い、ラブホの原型とも言える。昭和の頃は「連れ込み宿」とも言った。
 旅先での行きずりの恋に一時だけの虚しい夢を見る。
 「ばかばかと」は「莫々」から来た言葉だとするといかにも盛んな様子だが、「ばか」にはネジがバカになるみたいに緩い、締まらなという意味もあり、『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は「間の抜けたさま。うかうかと。」としている。
 二十四句目。

   ばかばかと一樹の陰の出合宿
 他生の縁の博奕うちども     正友

 賭場も見知らぬ人同士が集まる場所で、その筋の人とお知り合いになって泥沼にはまって行く。
 二十五句目。

   他生の縁の博奕うちども
 公儀沙汰かりそめながら是とても 卜尺

 公儀沙汰はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「公儀沙汰」の解説」に、

 「〘名〙 おおやけの沙汰。表沙汰。公事沙汰(くじざた)。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「他生の縁の博奕うちども〈正友〉 公儀沙汰かりそめながら是とても〈卜尺〉」

とある。この場合は今の言葉でいう警察沙汰に近いか。ちょっと出来心で遊んだつもりでも、たまたま手入れがあってお縄になる。
 二十六句目。

   公儀沙汰かりそめながら是とても
 覚書見て行使番         一朝

 覚書(おぼえがき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「覚書」の解説」に、

 「① 後々の記憶のために書いておくこと。また、その文書。メモ。
  ※芭蕉遺状(1694)「杉風方に前々よりの発句文章の覚書可レ有レ之候」

とある。使番(つかひばん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「使番」の解説」に、

 「① 織田・豊臣時代の職名。戦時には伝令使となり、また、軍中を巡視する役にも当たった。つかいやく。
  ※太閤記(1625)六「うたせようたせよと使番母衣之者を以て仰付られしかば」
  ② 徳川幕府の職名。若年寄の支配に属し、戦時は軍陣中を巡回・視察し、伝令の役を果たし、平時には諸国に出張して、遠国の役人の能否を監察したり、将軍の代替わりごとに大名の動きを視察したり、江戸市中に火災ある場合は、その状況を報告するなどの任に当たった。旧称は使役。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「公儀沙汰かりそめながら是とても〈卜尺〉 覚書見て行使番〈一朝〉」
  ※浮世草子・武道伝来記(1687)二「福崎軍平といへる人、御使番(ツカヒハン)を勤め」
  ③ 江戸時代、将軍家の大奥の女中の職名。また、大名の奥女中付の女。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)四「女臈がしら其一人、つかひ番の女を頼み」
  ④ 使い走りの役をする人。
  ※俳諧・独吟一日千句(1675)第一「方方へ雪のあしたの使ひ番 鍬をかたげて孝行の道」
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「茶の間の役、湯殿役、又は使(ツカヒ)番の者も極め」

とある。
 ②の用例にされているけど、この場合は④で良いのではないかと思う。些細な訴訟沙汰に呼び出される。
 二十七句目。

   覚書見て行使番
 門外にかし馬引よせゆらりと乗  松意

 貸し馬に乗って颯爽と出て行くのは「② 徳川幕府の職名。」の方の使番であろう。
 二十八句目。

   門外にかし馬引よせゆらりと乗
 まはれば三里朝熊の山      在色

 伊勢の朝熊山の金剛證寺はウィキペディアに、

 「神仏習合時代、伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」[1]とされ、伊勢・志摩最大の寺となった。 虚空蔵菩薩の眷属、雨宝童子が祀られており、当時は天照大御神の化現と考えられたため、伊勢皇大神宮の奥の院とされた。」

とある。後の『春の日』の「春めくや」の巻三十句目に、

   傘の内近付になる雨の昏に
 朝熊おるる出家ぼくぼく     雨桐

とある。「ぼくぼく」は馬にも用いられるが、

 一僕とぼくぼくありく花見哉   季吟

のように徒歩にも用いる。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「直に通へば一里八丁、廻らば三里」(落葉集)」とある。「直に」というのは宇治岳道のことか。山の稜線を行く。「廻らば」は鳥羽道を行って一宇田を登る道か。
 宇治岳道は険しい徒歩のルートで馬で行く場合は一宇田へ回ったのだろう。
 二十九句目。

   まはれば三里朝熊の山
 曇なき鏡の宮の境杭       一鉄

 鏡の宮は近鉄朝熊駅に近い五十鈴川と支流の朝熊川の合流にあった。ウィキペディアに、

 「社名「鏡宮」は元来、朝熊神社の異称の1つであった。朝熊神社で白と銅の2面の鏡を奉安していたことに由来する名で、寛文3年(1663年)に朝熊神社の御前社として鏡宮神社が再興された。朝熊神社・朝熊御前神社と鏡宮神社は直線距離では100mも離れていないが、朝熊川を公道の橋で渡るとかなりの距離を移動しなければならなかった。そのため祭祀の便宜を図り、歩行者しか渡れない程度の幅の狭い橋が架橋された。これにより約200mの移動で済むようになった。」

とある。小さな川を挟んで目と鼻の先にありながら、かつては一度鳥羽道に戻らなくてはならなかったのだろう。三里は大袈裟だが。
 三十句目。

   曇なき鏡の宮の境杭
 訴状をかづくむくつけ男     志計

 「むくつけ男」は今の言葉だと「キモ男」だろう。横着して頭に訴状を乗せて川を渡る。
 これも数少ない下七の四三の例。
 三十一句目。

   訴状をかづくむくつけ男
 御白洲へ御息所やめされけん   正友

 御白洲(おしらす)はこの場合、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「白州・白洲」の解説」の、

 「⑥ (白い砂が敷かれていたところからいう) 江戸時代、奉行所の法廷の一部。当時は身分により出廷者の座席に段階が設けられており、ここは百姓、町人をはじめ町医師、足軽、中間、浪人などが着席した最下等の場所。砂利(じゃり)。
  ※浮世草子・本朝桜陰比事(1689)四「夜中同じ事を百たびもおしへて又其朝もいひ聞せて両方御白洲(シラス)に出ける」
  ⑦ (⑥から転じて) 訴訟を裁断したり、罪人を取り調べたりした所。奉行所。裁判所。法廷。
  ※虎明本狂言・昆布柿(室町末‐近世初)「さやうの事は、此奏者はぐどんな者で、申上る事はならぬほどに、汝らが、お白砂(シラス)へまいって直に申上い」

であろう。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『恋重荷(こひのおもに)』の荘司の俤としている。恋重荷はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「恋重荷」の解説」に、

 「臣下の者(ワキ)が下人を従えて登場、御苑の菊作りの老人(前シテ)が女御(にょうご)(ツレ)に恋をしていることを述べ、老人を呼び出させる。作り物の重荷を持って百回も千回も回ることができたら、ふたたび女御の姿を拝ませようという提示に、老人は力を尽くして挑戦するが、巌(いわお)を錦(にしき)で包んだ重荷が上がろうはずもない。絶望と恨みに老人は自殺する。後段は、女御の不実を責める恐ろしげな老人の悪霊(後シテ)の出現だが、あとを弔うならば守り神になろうと心を和らげて消える。恨み抜いて終わる『綾鼓』とは、和解の結末が大きく異なっている。試練の米俵を楽々と担ぎ、主人の娘を手に入れる老翁(ろうおう)を描いた狂言の『祖父俵(おおじだわら)』は、『恋重荷』のパロディーである。」[増田正造]

とある。
 江戸時代の世だったら裁判になるということか。ストーカーに優しい時代だった。今なら逆だろう。
 三十二句目。

   御白洲へ御息所やめされけん
 題は今宵の月にまつ恋      松臼

 御白州を単なる白砂を敷き詰めた所として、邸宅の庭とする。歌会に御息所が召される。
 三十三句目。

   題は今宵の月にまつ恋
 なく泪持と定むべし雁の声    一朝

 歌合として「なく泪」の歌と「雁の声」の歌を持(ぢ:引き分け)とする。
 三十四句目。

   なく泪持と定むべし雁の声
 胸よりおこす霧雲のそら     雪柴

 雁は秋の霧に渡ってきて春の霞みに帰って行く。通ってくるようにと胸の恋心が霧を生み、愛しい人を通わせる。泣いてなんていられない。
 霧雲は、

 秋来ての見べき紅葉を霧曇り
     佐保の山辺の晴るる時なし
              大伴家持(家持集)

の用例がある。
 三十五句目。

   胸よりおこす霧雲のそら
 大竜やひさげの水をあけつらん  在色

 ひさげはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「提・提子」の解説」に、

 「〘名〙 (動詞「ひさぐ(提)」の連用形の名詞化。鉉(つる)があってさげるようになっているところからいう) 鉉と注ぎ口のついた、鍋に似てやや小形の金属製の器。湯や酒を入れて、さげたり、暖めたりするのに用いる。後には、そうした形で、酒を入れて杯などに注ぐ器具にもいう。
  ※宇津保(970‐999頃)蔵開中「おほいなるしろがねのひさげに、わかなのあつものひとなべ」

とある。
 空に雲霧がかかっているのは八大竜王が胸元に提子を抱えて水を注いでいるからだ。

 時によりすぐれば民の嘆きなり
     八大龍王雨やめたまへ
              源実朝(金槐和歌集)

の歌にも詠まれている。
 三十六句目。

   大竜やひさげの水をあけつらん
 文学その時うがひせらるる    卜尺

 文学は「もんがく」とルビがあり、文覚のことであろう。文覚は伊勢から伊豆へ向かう時に嵐に遭った時、

 「『竜王やある竜王やある』とぞ呼うだりける。『何とてかやうに大願起こしたる聖が乗つたる船をば、過またうとはするぞ。ただ今天の責め被ぶらんず竜神どもかな』」

と竜を𠮟りつけ、嵐を鎮めたという話が『平家物語』にある。
 以後、竜をテイムしてうがいの水を汲ませた、とする。

2022年10月10日月曜日

 今日は旧暦九月十五日の満月。
 ネトウヨの意味を辞書風にまとめると、こんなかな。

 ①少人数でたくさんのアカウントを駆使して多数派であるかのように装った右翼。
 ②左翼でない者。
 ③Jアノンのこと。
 ④統一教会のこと。

 筆者の場合②の意味ではネトウヨになる。

 それでは「峰高し」の巻の続き。
 九句目。

   出来合料理御こころやすく
 居つづけに是非と挙屋の内二階  松意

 居つづけはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「居続」の解説」に、

 「① 一つ所に長くいて、家に帰らないこと。引き続いて同じ所にいること。
  ※浮世草子・西鶴織留(1694)五「是程せつなくて、居つづけの奉公あるにも」
  ② 特に遊里などで遊び続けて帰らないこと。また、その客。流連。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「出来合料理御こころやすく〈在色〉 居つづけに是非と挙屋の内二階〈松意〉」
  ③ 遊里で、雪の降る朝は居続けする客が多いことから、朝の雪をしゃれていう。
  ※雑俳・柳多留‐四六(1808)「居つづけがちらつきんすと禿言」

とある。
 遊郭に入り浸っていると揚屋の中二階に出来合いの料理を持ってきてくれる。
 十句目。

   居つづけに是非と挙屋の内二階
 誓紙その外申事あり       執筆

 なかなか金払いのいい客だったのだろう。このままもう少しいてくださいと起請文を書いてきて、その他の用は身請けの相談か。
 十一句目。

   誓紙その外申事あり
 足利の何左衛門が役がはり    一鉄

 起請文は武家の忠誠の誓いとしても用いられていた。役替りの時にも起請文が要求されることがあったのだろう。
 十二句目。

   足利の何左衛門が役がはり
 御蔵にこれほど残ルそめ絹    志計

 前句を商家の役替りとする。蔵に売れ残った染絹の在庫を抱えていたのが配置換えの原因か。
 十三句目。

   御蔵にこれほど残ルそめ絹
 入札は他の国より通ひ来て    正友

 入札は「いれふだ」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「入札」の解説」に、

 「① 多数の買い手、工事請負人がある場合、それぞれの見積り価額を書いた紙を提出させ、その結果を見て買い手、請負人を決めること。また、その見積り価額を書いた用紙。にゅうさつ。競売。せりうり。
  ※慶長見聞集(1614)三「百両も二百両も積置皆入札を入、是を買とる」
  ② 江戸時代、村役人や住職などを選ぶ際、名前を記して投票した用紙。また、一般に投票すること。〔書言字考節用集(1717)〕
  ③ 頼母子(たのもし)(=無尽)で、二回目以後の取り人を決めるとき、各自の希望取り金額を書かせ、一番安い金額を書いたものに決定すること。主として関西で行なわれた方法。また、その取り金額を書いた用紙。
  ※徳川時代警察沿革誌(1884‐91)三「又者終り迄掛続兼候もの者相対次第入札いたし掛金高を請取相退」

とある。
 大量の染衣が蔵ごと競売に出されたのだろう。遠くからも競売にやってくる。
 十四句目。

   入札は他の国より通ひ来て
 一座をもれて伽羅の香ぞする   松臼

 伽羅はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「伽羅」の解説」に、

 「① (kālāguru (kālā は伽羅、黒の意、aguru は阿伽、沈香の意)の略。また、tāgara (多伽羅、零陵香と訳す)の略ともいう) 沈香の優良品。香木中の至宝とされる。〔伊京集(室町)〕
  ※評判記・色道大鏡(1678)二「傾城に金銀を遣す外に、伽羅(キャラ)を贈る事を心にかくべし」 〔陀羅尼集経‐一〇〕
  ② 優秀なもの、世にまれなものをほめていう語。極上。粋。
  ※俳諧・隠蓑(1677)春「立すがた世界の伽羅よけふの春〈蘭〉」
  ※浄瑠璃・十六夜物語(1681頃)二「姿こそひなびたれ、心はきゃらにて候」
  ③ 江戸時代、遊里で、金銀、金銭をいう隠語。〔評判記・寝物語(1656)〕
  ④ お世辞。追従。
  ※浄瑠璃・壇浦兜軍記(1732)三「なんの子細らしい。四相の五相の、小袖にとめる伽羅(キャラ)ぢゃ迄と仇口に言ひ流せしが」
  ⑤ 「きゃらぼく(伽羅木)」の略。
  ※田舎教師(1909)〈田山花袋〉一一「前には伽羅(キャラ)や躑躅や木犀などの点綴された庭が」

とある。まあ、江戸時代では遊女を連想させるものだったのだろう。遊女の人身売買の入札か。
 十五句目。

   一座をもれて伽羅の香ぞする
 酒盛はともあれ野郎の袖枕    一朝

 前句の伽羅の香を男娼のものとする。
 十六句目。

   酒盛はともあれ野郎の袖枕
 思ひみだるるその薩摩ぶし    雪柴

 薩摩節はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「薩摩節」の解説」に、

 「① 浄瑠璃節の一つ。薩摩浄雲が寛永(一六二四‐四四)の頃江戸で語りはじめ、多くの江戸浄瑠璃の流派を生んだ。硬派の江戸浄瑠璃の元祖。浄雲節。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「酒盛はともあれ野郎の袖枕〈一朝〉 思ひみだるるその薩摩ぶし〈雪柴〉」
  ② 元祿(一六八八‐一七〇四)頃流行した七七七五型の唄。
  ※歌謡・松の葉(1703)三・薩摩ぶし「さつまぶし。おやは他国に、子は島原に、桜花かや散りぢりに」
  ③ 文政(一八一八‐三〇)頃流行した薩摩の金山をうたった舟唄。それを少し改めたものが歌舞伎の下座や小唄に、「さつまさ」という曲名で歌われている。
  ※歌謡・浮れ草(1822)薩摩節「薩摩節。さつまさつまと急いで押せど、いやな薩摩に金山しょんがへ」
  ④ 薩摩国(鹿児島県)から産出する鰹節。形状が大きく土佐産とならび本場物とされる。」

とあり、この時代は①になる。「精選版 日本国語大辞典「浄雲節」の解説」には、

 「〘名〙 江戸初期の古浄瑠璃の一つ。寛永(一六二四‐四四)の頃、薩摩太夫浄雲が江戸で語り始めたもの。江戸浄瑠璃に大きな影響を与えた。薩摩節。〔随筆・本朝世事談綺(1733)〕」

とある。
 古浄瑠璃から人形芝居への移行期で、やがて元禄になると江戸浄瑠璃として確立される。初期の頃は野郎歌舞伎のような売春も行われていたか。
 十七句目。

   思ひみだるるその薩摩ぶし
 立わかれ沖の小嶋の屋形船    雪柴

 薩摩と沖の小嶋は、

 薩摩潟おきの小島に我ありと
     親にはつげよ八重の潮風
              平康頼(千載集)

の縁がある。喜界島に流された時の歌だが、それを江戸の屋形船にする。
 船は吉原から離れて佃島の方へ向かったか。屋形船では酒宴が行われ、薩摩節が唄われている。
 十八句目。

   立わかれ沖の小嶋の屋形船
 花火の行衛波のよるみゆ     卜尺

 両国では花火が打ち上げられていたが、この時代は各自が実費で勝手に花火で遊んでいる状態で、今のような花火大会になるのは享保十八年(一七三三年)の両国川開きからになる。
 この場合はねずみ花火のような、どこへ飛ぶかわからない花火であろう。
 花火は近代では夏の季語だが貞徳の『俳諧御笠』には、

 「正花を持也。春に非ず、秋の由也。夜分也。植物にきらはず。」

とある。正花なので花の定座の繰り上げになる。
 十九句目。

   花火の行衛波のよるみゆ
 いざや子ら試楽を照す秋の月   志計

 試楽(しがく)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「試楽」の解説」に、

 「〘名〙 (ためし試みる楽の意) 平安時代に楽舞の公式演奏の予行演習として行なう楽。石清水八幡宮や賀茂神社などの臨時祭の二日前に、宮中の清涼殿前庭で、東遊(あずまあそび)と神楽を天覧に供する行事をさすことが多い。
  ※九暦‐九暦抄・天徳三年(959)七月二六日「左右相撲司試楽」
  ※蜻蛉(974頃)中「十日の日になりぬ。ここにて、しがくのやうなることする」

とある。
 ここでは宮廷の試楽ではなく、秋祭り舞楽奉納の試楽であろう。
 二十句目。

   いざや子ら試楽を照す秋の月
 神慮にかなふ鈴虫の声      松意

 神社には鈴が付き物なので、鈴虫の神社にふさわしい。
 二十一句目。

   神慮にかなふ鈴虫の声
 金ひろふ鳴海の野辺のぬけ参   松臼

 前句の神慮をお伊勢参りの神慮とする。
 鈴虫に鳴海は、

 古里にかわらざりけり鈴虫の
     鳴海の野辺の夕暮れの声
              橘爲仲(詞花集)

の歌がある。
 二十二句目。

   金ひろふ鳴海の野辺のぬけ参
 草のまくらに今朝のむだ夢    一鉄

 金を拾ったと思ったら夢だった。

2022年10月9日日曜日

 沖縄の座り込みは、結局事実関係としては常時座り込んでるわけではないというのは双方とも認めていることで、大体工事のある日の搬入のある時刻しかやってはいない。
 ただ同じ事実をどう解釈するかの問題で、座り込みの有無にかかわらず闘争を継続しているから連続していると見るか、座り込んでない時間がかなり長く存在する以上そこで闘争は切れていると見るかの違いにすぎない。
 ただ、左翼があんなに怒っているのは、いかにもずっと座り込みを続けているかのような印象操作がバレたからなのは間違いない。
 基本的には左翼の方は人数も少なく高齢化していて、実際問題として四六時中座り込みを続けるわけにはいかないという事情があるのだろう。カメラが回っている時だけ大勢人がいて、というデモは少数派のデモとしては必然と言えよう。韓国の少女像前のデモも同じようなものだった。
 あと、「道くだり」の巻「秋の空」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「髪ゆひや」の巻の次は、同じく松意編延宝三年刊の『談林十百韻』第七百韻を行ってみようと思う。
 発句。

 峰高し上々めどをり松の月    志計

 「めどをり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「目通」の解説」に、

 「① 目の前。めさき。めじ。
  ※浮世草子・男色大鑑(1687)三「慰のためとて庭籠鳥を目通りへ放ちける」
  ② 目の高さ。目のあたり。目に触れるあたり。
  ※浮世草子・本朝二十不孝(1686)三「目通(トヲリ)より高く手をあげさせず」
  ③ 貴人の前に出てまみえること。身分の高い人にお目にかかること。お目通り。
  ※暁月夜(1893)〈樋口一葉〉四「目通(メドホ)りも厭やなれば疾く此処を去(い)ねかし」
  ④ 立ち木の太さにいう語。人が木の傍に立って、目の高さに相当する部分の樹木の太さ。目通り直径。
  ※俳諧・毛吹草(1638)四「大和 〈略〉松角 目通と云 書院木に用」

とある。
 眺めれば高い峰があって、その下の方の目の高さに見える松の木の辺りから月が昇る。
 月が峰にかかることなく早く昇って、早くから明るい夜になった。上々だ。
 脇。

   峰高し上々めどをり松の月
 揚て無類な岩の下露       一鉄

 発句の上々に「無類な」と応じ、峰に岩、月に露と四手に付ける。
 第三。

   揚て無類な岩の下露
 磯清水喉に秋もやくぐるらん   松臼

 磯清水は、

 いかにせむ世をうみ際の磯清水
     汐満ちくればからき棲家を
              源仲正(夫木抄)

の歌に詠まれている。
 前句の岩の下露を湧き水としその塩辛さに秋を感じるとする。五行説では秋は辛味になる。芭蕉にも、

 身にしみて大根からし秋の風   芭蕉

の句がある。
 四句目。

   磯清水喉に秋もやくぐるらん
 葛の粉ちらす浜荻のこゑ     正友

 葛粉は葛の根から採れる澱粉で、かつては救荒食糧とされていた。不作で葛粉を喉に通す。
 伊勢の浜荻は蘆のことで、前句の磯の応じる。
 五句目。

   葛の粉ちらす浜荻のこゑ
 海士の子がせんだく衣はり立て  雪柴

 葛粉は冷すと固まるので海士の子が洗濯糊の代りに用いる。
 六句目。

   海士の子がせんだく衣はり立て
 旅の幸便さだめかねつる     一朝

 幸便(かうびん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「幸便」の解説」に、

 「〘名〙 つごうがよいこと。よいついで。また、そのような時に人に手紙を託することが多かったので、手紙の書き出しの文句や添え書きのことばとしても用いる。
  ※言継卿記‐天文二年(1533)一一月紙背(高倉永綱書状)「一昨日幸便文を進レ之候をとりをとし」
  ※嵐蘭宛芭蕉書簡‐元祿四年(1671)二月一三日「幸便啓上」

とある。
 前句の海士の子の親は旅に出たのだろう。手紙も来なくて不安だ。
 七句目。

   旅の幸便さだめかねつる
 取あへず一筆令啓達候      卜尺

 令啓達候は「けいたつしめそろ」とルビがある。啓を達ししめ候で前句の幸便と合わせて手紙の書き出しの常套句とする。「とりあえず手紙を書きますが、うまく届くかどうかは分かりません」という意味になる。
 八句目。

   取あへず一筆令啓達候
 出来合料理御こころやすく    在色

 前句の「取あへず」から、取り合えず既に出来ている料理を届けますので、遠慮しないでください、とする。

2022年10月8日土曜日

 今日は十三夜。雲の合間に少し見えた。
 日本にも鈴木宗男みたいなのがいるが、アメリカにもイーロン・マスクがいる。ツイッターやめようかな。
 仮に地球に国境がなくなったとしても、様々な民族、様々な文化の人達がそれぞれの価値観や生活スタイルを守ろうとするのは当然のことだし、同一地域に二つのルールが共存したら当然ながら混乱する。車が右を走っても左を走っても自由だというようなものだ。それぞれの文化の異なるルールを共存させることはできない。そこには自ずと自然の国境が生じる。
 こうした様々な異なる価値観を持つ人たちが住む広い地球を、一つの政府が統治するなんて、自ずと無理がある。かといってそれぞれの独自性を認めれば、結局今と変わらないまとまりのない状態になる。
 世界が一つになるというのは、巨大な中央集権国家が支配するということだ。そうでないなら、たとえ国境がなくなっても世界は一つにはならない。ただ様々な価値観の異なる集団が何の障壁もなく民族大移動できる状態になるだけだ。それは近代以前の世界のように衝突し合うだろう。
 ディストピアか戦国時代かという究極の選択に迫られる。

 それでは「髪ゆひや」の巻の続き、挙句まで。

名残裏

九十三句目

   岩井の水にかしぐ斎米
 すりこぎの松のひびきに如是我聞 卜尺

 如是我聞はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「如是我聞」の解説」に、

 「〘名〙 (このように私は聞いたの意) 仏語。経の冒頭に書かれていることば。経典が編集された時、その経が間違いなく釈迦のことばであることを示そうとしたことば。また、聞いたことを信じて疑わないことを示したことば。
  ※今昔(1120頃か)四「然れば、阿難、礼盤に昇て如是我聞と云ふ」 〔仏地経論‐一〕」

とある。
 松風ではなく松の木でできた擂粉木の音に仏道を確信し、岩井の水で斎米を炊く生活に入った。

九十四句目

   すりこぎの松のひびきに如是我聞
 たたけばさとるせんだく衣    雪柴

 擂粉木を砧打ちの槌の代りにして叩けば洗濯物もたちまち仏道を悟ったかのようにしゃんとなる。

九十五句目

   たたけばさとるせんだく衣
 おもはくが故人なからん旅の空  在色

 「おもはく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「思わく」の解説」に、

 「① 心の中で考えている事柄。思うところ。
  (イ) (━する) こうだ、こうしようなどと考えている点。また、そう考えること。意図。
  ※狭衣物語(1069‐77頃か)四「打たれじと用意したるゐずまひ・をもはくどもも、おのおのをかしう見るを」
  ※洒落本・蕩子筌枉解(1770)絶句「この女郎の一客をおもわくはめて身うけさせ」
  (ロ) こうなるだろうという予想。見込み。また、こうだろうという推測。
  ※浮世草子・本朝二十不孝(1686)二「外よりの思はくには、五万両も有べきやうに見ゆべし」
  (ハ) ある人に対して、他の人が持っている考えや感じ。評判。気うけ。
  ※日葡辞書(1603‐04)「ヒトノ vomouacuga(ヲモワクガ) ハヅカシイ」
  ② ある人を恋い慕うこと。思いをかけること。
  ※評判記・役者評判蚰蜒(1674)序「今村のむらなきかいなにおもわくなんどをほり付」
  ③ 自分が思いをかけている相手。情人。愛人。
  ※仮名草子・都風俗鑑(1681)一「物ずきにまかせて以為(オモハク)をこしらへ」

とある。
 「故人なからん」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、

   送元二     王維
 渭城朝雨浥軽塵 客舎青青柳色新
 勧君更盡一杯酒 西出陽関無故人

の詩を引いている。故人はここでは親しい人の意味になる。
 自分で洗濯物の砧を打つと、愛しい人も去って行ってしまったんだと悟り旅に出る。要するに感傷旅行。

九十六句目

   おもはくが故人なからん旅の空
 一盃つくすひとりねの床     松意

 感傷旅行なので一杯の酒を飲んで早々に寝る。遊び歩いたり遊女を呼んだりしないのは「もう恋なんてしない」というところか。

九十七句目

   一盃つくすひとりねの床
 恋侘ておもきまくらの薬鍋    一鉄

 恋の病はどんな薬も効かないが、薬鍋の中身は酒じゃないだろうね。

九十八句目

   恋侘ておもきまくらの薬鍋
 うき中言の返事をうらむ     松臼

 中言(なかごと)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「中言」の解説」に、

 「① 両者の中に立って告げ口すること。なかごと。
  ※玉葉‐寿永二年(1183)一一月七日「義仲一人、漏二其人数一之間、殊成レ奇之上、又有二中言之者一歟」
  ② 他人のことばの途中に口をはさむこと。他人の談話中に話しかけること。ちゅうごん。
  ※滑稽本・続々膝栗毛(1831‐36)二「御中言(ごチウゲン)ではござりやすが、下十五日わたしのかたとおっしゃれば、もし小の月だと、此はう一千日の損」

とある。この場合は①の方で、第三者が何か良からぬことを言ったのだろう。それを真に受けるほうも受ける方で、はなから疑ってたのだろうけど。
 「返事を・うらむ」のような下句の四三留は和歌・連歌・俳諧問わず一般的に嫌われているが、万葉集と談林俳諧には時折見られる。

九十九句目

   うき中言の返事をうらむ
 咲花のあるじをとへば又留守じや 志計

 告げ口されたのを恨んでか、いつ行ってもいない。居留守だろう。

挙句

   咲花のあるじをとへば又留守じや
 すましかねたる金衣鳥なく    正友

 金衣鳥(きんえてう)は鶯の別名。金の字に掛けて、借金を返済できずに身を隠したとする。
 債権者には目出度くないが、借りた方としては借りたもん勝ちで一巻は目出度く終わる。