まあ、久々にコロナの話でもしようかな。
オミクロン株からの新たな変異株がヨーロッパで急拡大して、それを追うように日本にも第八波が来るのは間違いない。
ただ、感染者の人数だけが急速に増えると、マス護美はその数だけ大々的に報道して、またそれを政権を強請るネタにするのは間違いない。
第七波の第六波の十倍の感染者を出しても、死者数が第六波より多少多いくらいで済んだように、感染力が高まるとともに弱毒化が進むという流れは第七波も基本的に変わらないと見ていい。
ここで注意しなくてはならないのは、
①死亡率が低くても現実にたくさんの人が死んでいる。
という一見正論に見える主張で中国流のゼロコロナに誘導しようという人たち。
そして同じ口で、
②行動規制は人権侵害。
③ワクチンは危険。
この二つの主張によっていかなるコロナ対策もできないように縛り付けてしまうやり方だ。コロナの脅威を煽るだけ煽って、対策を妨害することで政府を身動きできなくする。これはコロナが始まった後の最初の冬頃から延々と左翼とマス護美が使ってきた手口だ。当然ながら第七波でもこれを繰り返してくるだろう。
先ず印象操作に気をつけよう。
コロナが不安なはずがないから、世論調査は当然ながらコロナが取るに足らないという結果にはならない。ただその不安の度合いが初期の頃にくらべると格段に下がっている。それを世論調査は測定しない。これはモリカケ桜にオリンピック国葬と延々と繰り返してきたことだ。
国民にとってそれほど大きな関心事ではなくても、確かに「疑惑が残っている」だとか「取り合えず穏便に」という消極的反対が多くを占めていたのは確かだが、「何を差し置いても徹底追及しろ」だとか「断固反対」という声ではなかった。それはごく少数、多くて15パーセントといった所だ。
だから、こうした世論調査は国政選挙では全く反映されなかった。それは左翼政党の支持率が下がり続けていることを見ればわかる。国民の投票行動に影響を与えない世論調査を、いかにも天下国家の一大事であるかのように印象操作してただけだ。
保守層は大体四割はかなり手堅いから、内閣支持率がそれを割るというのは、左翼マス護美に配慮しすぎた内閣に保守層が反発していると見ていい。だから、内閣支持率が大きく下がっても、左翼政党が勝利することはない。
コロナに対してもコロナに不安を感じるかと言われれば、多くの人が不安だと答える。政府の対策に不満はないかと問われれば、コロナの封じ込めが不十分だという人とコロナよりももっと経済を優先しろという人もどっちも「不満がある」という方に計測される。
この世論調査を根拠に、国民は断固たる厳しいコロナ対策を求めているかのように印象操作し、その一方でワクチンに不安があるだとか、マンボウは困るだとかいうもう一方の世論調査を突きつければ、政府を追い詰めることができるという目論見があるのかもしれないが、それは今までだって成功しなかったから、これからも成功しないし、させてはいけない。
ただ、安倍さん菅さんと違って今の政権はマスゴミに媚びすぎているから、そっちの方が危険だ。
コロナは終わってないだとか、コロナの危険は去ってないと主張する連中は、おそらくコロナの死者が一人しかいなくても、一人の命は地球より重いという論を展開してくるだろう。
コロナウィルスそのものがなくなるわけではないし、インフルもまだあるし、亦新型の風邪が流行る可能性は否定できないとなると、永遠にコロナは終わらない。
ただ、ある程度弱毒化して、多くの人がコロナを恐れて自粛するよりも日常生活を元に戻すと判断したなら、コロナは終わらせるべきだ。
コロナは終わらせなければ永遠に終わらない。
いつの時代だって危険な病気は必ずあるもので、ただそれは程度の問題だ。病気をゼロにすることはできない。適度の安全が確保できたなら、緊急時の行動制限は終わらせなくてはいけない。
少なくとも死亡率が急激にオミクロン株BA.1レベルまで戻るようなことがないのであれば、たとえ第八波でどれだけ感染者数が増えようともコロナは終わらせるべきだ。
それでは「峰高し」の巻の続き。
三表、五十一句目。
名主を爰にまねく瓜鉢
府中より武蔵野分て籠見廻 一朝
武蔵野だから東海道の府中ではなく甲州街道の府中であろう。かつて武蔵国の国府があった。見廻(みまひ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「見舞・見廻」の解説」に、
「① 見回ること。見回り。巡察。巡視。
※天草本伊曾保(1593)イソポの生涯の事「デンバタヲ mimaini(ミマイニ) イデラレタレバ」
② 訪問すること。とぶらうこと。挨拶に行くこと。
※古文真宝彦龍抄(1490頃)「我一期の間奉公せいでは叶まいが、捨之父を見まいに行よ」
※大英游記(1908)〈杉村楚人冠〉本記「此の曠世の詩人が生れたといふ家を見舞(ミマ)ひ」
③ 医者が病人の様子を見て回ること。往診。
※仮名草子・竹斎(1621‐23)下「門より典薬衆見まひとあり」
④ 病気、災難などにあった人を慰めるために訪れたり、書面で問い慰めたりすること。また、そのための訪問や書状、贈物など。
※古活字本毛詩抄(17C前)一九「骨ををらるるらうと云て見まいに来」
※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「あるもの、火事にあひけるを、見舞(みマヒ)に行きければ」
⑤ 好ましくない物事が襲うこと。
※相撲講話(1919)〈日本青年教育会〉力士の階級と給金「出世すべき力士一同が〈略〉土俵に登り、森厳な儀式があるのだが、其道々でばたばたお祝の拳骨や平手の見舞(ミマヒ)を受ける」
とある。本来は見て回ること全般を言った。今日では④と⑤の意味になっている。④の不吉さから⑤の意味に拡張されたのであろう。
昔の国府のイメージで役人が武蔵野を見廻りすると瓜で歓迎を受けるとしたか。
五十二句目。
府中より武蔵野分て籠見廻
むかひの岡の公事の頭取リ 雪柴
「むかひの岡」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「文京区本郷」とあるが、この場合は武蔵野だから玉川の南側の向ヶ丘ではないか。ウィキペディアに、
「『新編武蔵風土記稿』巻之五八橘樹郡之一に「向ヶ岡」の名が登場しており(ここでは山の名前として紹介されている)、この山には金程・細山・菅・高石・菅生・長尾・作延(かつては一つの村であったが後に上作延・下作延に分かれる)・久本・末長の 9村があるとしている[17]。つまり、かつては一地域の地名としてではなく、「多摩の横山」などと同様に、より広い地域にこの名が使われていたことを示唆している(向丘村については#旧橘樹郡向丘村の節を参照)。」
とある。
武蔵野の向かいの岡の草なれば
根を訪ねても哀れとぞ思ふ
小野小町(新勅撰集)
など、歌枕になっている。元は府中の国府から見て多摩川の対岸にある岡の意味だったか。
頭取はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「頭取」の解説」に、
「① 音頭を取る人。音頭取。
(イ) 雅楽の合奏で、各楽器特に、管楽器の首席演奏者。音頭(おんどう)。
※楽家録(1690)一三「調子一名品玄、奏楽毎調始奏レ之、畧之時音取也 〈略〉至二于終句一止レ之法、絃管共頭取一人奏二終之一」
(ロ) 能楽・歌舞伎で「翁(おきな)」「三番叟」を演奏するとき、小鼓方三人のうちの中央の主奏者。小鼓方の統率者。
※四座役者目録(1646‐53)「子へ、忝も、観世の頭取、不二相替一被二仰付一」
② 転じて、一般に頭(かしら)だつ人。
(イ) 集団の長である人。首領。頭領。頭目。かしら。
※三河物語(1626頃)一「信忠も聞召て、其中に頭取(トウトリ)之族を御手討に被レ成ければ」
(ロ) 歌舞伎劇場で、奥役の下に楽屋内の庶務の取締りを兼ねる役者。名題下の役者ではあるが、物わかりよく顔の売れた古参の役者が選ばれた。その詰めている所を頭取座という。楽屋頭取。
※浮世草子・嵐無常物語(1688)上「頭取(トウドリ)に断りいひて帰りさまに」
(ハ) 相撲で、力士を統轄して興行に参加する者。年寄。
※古今相撲大全(1763)下本「頭取は、往古禁廷にて、相撲番行はせ給ふとき、相撲長と称するもの是なり」
(ニ) 銀行・会社などで、取締役の首席で、その代表者となって業務執行の任に当たる者。
※大新ぱん浮世のあなさがし(1896)「会社の頭取が其会社の事を知らぬがある」
(ホ) 議長。
※英政如何(1868)五「ミニストル方の組は下院に於ては、スピーケル(頭取)の椅子の右側に坐し」
とある。②の(イ)の意味であろう。向かいの岡の訴訟を指揮する。
五十三句目。
むかひの岡の公事の頭取リ
伐たふす松のいはれをながながと 在色
土地の境界線に松を植えることはよくあったのだろう。裁判で境界線が変わった時には伐り倒される。反対派の代表はなおもその松の謂れを滔々と訴える。
五十四句目。
伐たふす松のいはれをながながと
尉と姥とが臼のきね歌 卜尺
松の謂われは杵歌となって語り継がれていた。
杵歌はコトバンクに「精選版 日本国語大辞典「杵歌」の解説」に、
「〘名〙 穀物や餠などをつく時、杵の動きの調子をとるためにうたう労働歌。きうた。
※文明本節用集(室町中)「隣有レ喪舂不レ相(ウスヅクトキニキネウタウタハズ)、里有レ殯不二巷歌一〔礼記〕」
搗く人と捏ねる人とのタイミングを取るための掛け合い歌だったか。松を伐る時に尉と姥が掛け合いで歌う。
五十五句目。
尉と姥とが臼のきね歌
むかしざつと隣の嫁の名を立て 志計
「ざつと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ざっと」の解説」に、
「① 風や雨などがにわかに勢いよく吹いたり降ったりするさまを表わす語。
※金刀比羅本平治(1220頃か)中「一むら雨ざっとして、風ははげしく吹(ふく)間」
※中華若木詩抄(1520頃)下「軽風かざっと吹たれは、宿雨かとくとくと落て」
② 動作が勢いよく急なさまを表わす語。
※金刀比羅本保元(1220頃か)中「鏑はざっとわれてはらりと落(おつ)」
③ ある作業をおおまかにするさまを表わす語。簡略に。
※玉塵抄(1563)一五「さいしょにざっとたいめんして口をきいたれば」
※思出の記(1900‐01)〈徳富蘆花〉六「今一二年は学校の生活をするかも知れぬと云ふことをざっと話した」
④ 数量、状態、程度などのおおよそのさまを表わす語。あらまし。ほぼ。大体。
※雲形本狂言・木六駄(室町末‐近世初)「よいやよいや、扨々面白い事ぢゃ、ざっと酒盛になった」
※滑稽本・古朽木(1780)三「ざっと五十両の損と見ゆれば」
とあり、この場合は④の意味で正確な時期をぼかす言い方で昔話に用いられる。今の「ざっくり」とも関係があるのか。
姥は元々尉の隣に住む女房で不倫関係にあって、という暴露話にする。
五十六句目。
むかしざつと隣の嫁の名を立て
なすび畠の味な事見た 松意
「味な」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「味」の解説」に、
「② 妙味のある行為や状態についていう。
(イ) 気のきいていること。手際のいいこと。また、そういうさま。→味にする・味をやる。
※評判記・難波物語(1655)「雲井〈略〉逢(あふ)時はさもなくて、文にはあぢをかく人なり」
※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)二「黒き帽子にてかしらをあぢに包みたれば」
(ロ) 風流で趣があること。また、そういうさま。
※俳諧・曠野(1689)員外「峰の松あぢなあたりを見出たり〈野水〉 旅するうちの心寄麗さ〈落梧〉」
(ハ) 色めいていること。また、そういうさま。
※評判記・難波物語(1655)「若旦那とあぢあるよし」
※咄本・無事志有意(1798)稽古所「娘のあたっている中へ足をふみ込、ついあぢな心になって、娘の手だと思ひ、母の手を握りければ」
(ニ) わけありげなこと。何か意味ありげに感じられるさま。
※浮世草子・傾城色三味線(1701)京「あぢな手つきして、是だんな斗いふて、盃のあいしたり、かる口いふ分では」
※洒落本・風俗八色談(1756)二「人と対する時は作り声をしてあぢに笑ひ」
(ホ) 囲碁で、あとになって有利に展開する可能性のある手。また、そういうねらい。
(ヘ) こまかいこと。また、そのようなさま。
※咄本・楽牽頭(1772)目見へ「男がよすぎて女房もあぶなし、金もあぶなく、湯へ行てもながからうのと、あじな所へ迄かんを付て、いちゑんきまらず」
③ 人の意表に出るような行為や状態についていう。」
とある。(ハ)と(ニ)を合わせた意味で、ようするに茄子畑でイチャイチャしてるように見えたということで、名の立つ原因とする。
五十七句目。
なすび畠の味な事見た
夕㒵をしかとにぎれば五六寸 一鉄
五六寸は当時の男性の身長を考えれば歌麿級か。
五十八句目。
夕㒵をしかとにぎれば五六寸
うすばの疵に肝がつぶるる 正友
薄刃包丁は野菜を切るための包丁で、夕顔の実を伐りそこなって手に五六寸の傷ができてしまったら、そりゃ肝潰すわ。
五十九句目。
うすばの疵に肝がつぶるる
常々が麁相也けり納所坊 松臼
納所坊(なっしょぼん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「納所坊主」の解説」に、
「〘名〙 寺の会計や雑務を扱う下級の僧。納所ぼん。なっしょ。
※俳諧・西鶴大矢数(1681)第二七「今や引らん豆の粉の音 身の行衛納所坊主の塗坊主」
とある。
うっかり者の納所坊に料理をさせたか。
六十句目。
常々が麁相也けり納所坊
若衆のふくれもつとも至極 一朝
いつも周りに迷惑かけている納所坊。若衆が起るのももっともなこと。
六十一句目。
若衆のふくれもつとも至極
付ざしの酒にのまれて是は扨 雪柴
下戸だったのか、若衆の口移しの酒だけで酔っ払って倒れてしまい、不首尾に終わる。
六十二句目。
付ざしの酒にのまれて是は扨
巾着ふるふ後朝の鐘 在色
遊女の付けざしの酒にいい気になって大盤振る舞いしてしまったのだろう。気が付いたら巾着は空っぽ。
六十三句目。
巾着ふるふ後朝の鐘
女房に見付られたる月の影 卜尺
女房に遊郭通いがバレて、お金を取り上げられる。
六十四句目。
女房に見付られたる月の影
はらはんとせしもとゆひの露 志計
もとゆひ(元結)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「元結・鬠」の解説」に、
「〘名〙 髪の髻(もとどり)を結び束ねる糸、紐の類。古くは組糸または麻糸を用い、後世は糊で固く捻ったこよりで製したものを用いる。もとい。
※古今(905‐914)恋四・六九三「きみこずはねやへもいらじこ紫我もとゆひに霜はおくとも〈よみ人しらず〉」
とある。元結が月の光を反射して光ったので露があるとわかる。女房が見つけて露をはらってくれる。
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