日本の左翼の革命至上主義も、基本的には西洋コンプレックスから来るものなんだろうと思う
マルクスが社会主義革命を予言し、それが歴史の終局とされたことで、非西洋圏の人達は西洋に先立っていち早く社会主義革命を起こせば西洋を追い抜ける、という思いがあったんだと思う。
ロシア人は社会主義革命を起こしたが、結局それが失敗に終わった。だから今度はポストモダンを持ち出して、ハイデッガーの予言した西洋社会のダス・マンに頽落した社会に対して本来的現存在のフォルク(村社会)を実現しようと、西洋社会の破壊に踏み切ったのかもしれない。
ただ、ドゥーギンはこのフォルクをナロッドと呼び、ロシア的なそれは基本的に西洋的なプラトン的ロゴスとロシア正教に服従する哲人独裁の共同体にすぎなかった。ロシア人は我々のような独自文化の共同体を持たないため、ダス・マンへの頽落を生み出す近代的ゲゼルシャフトから逃れようとするときに、中世的な共同体への回帰しか思いつかなかったようだ。
我々からすれば異世界のような、光と闇と暗黒の属性の論理による哲人(異世界的には賢者)の独裁を呼び戻し、残虐な戦争を日常とする世界に退行させようとしている。ウクライナ戦争はリアル異世界との衝突がもたらしたリアル・ジェノサイドというわけだ。
ハイデッガーの現存在(Dasein)は戦後の実存主義者は人間存在と同義で扱ってきた。それはむしろサルトルの側から解釈したもので、道具存在でも事物存在でもない人間存在という意味で用いてきた。
人間存在という用語は戦前から既に和辻哲郎が用いてきて、そこには人と人との間の存在という意味を持っていた。この考え方は戦後の廣松渉の共同主観に受け継がれている。
実存主義者は現存在を「その都度私の物である」(Sein und Zeit"p.42)という『存在と時間』の規定から、個人的なものとして解釈してきた。他の誰のものでもないたった一人の人間としての現存在は社会に対立するものであり、それは「死への存在」が誰にも取って代わることのできない自分自身の死であることとともに、孤立の実存と解釈されてきた。
ただ、ハイデッガーは大きく理論を展開することもなかったが、本来的現存在の共同体としてのフォルク(Volk)への言及があり、ドゥーギンはそこに着目する。
Heidegger says:
Selbst is not exclusively a determination of the ego, 'I' (ich). That si the fundmental error of modernity. Selbst is not determined from the ego, 'I' (ich). On the contrary, the Selbst-dharacter is also inherent in 'you [singular].' 'we,' and 'you [plural].' Selbst is mysterious in some new sense. The Selbst-character does not belong exclusively only to 'you,' 'me,' 'us,' but to all equally in a primordial way.
「ハイデガーは次のように述べています。
自分(Selbst)は、自我「私(ich)」 の決定だけではありません。それは近代の根本的な誤りです。自分は自我「私(ich) 」からは決定されません。それどころか、「あなた[単数形]」にも自分性が内在している。「私たち」と「あなたたち[複数形]」。自分は新しい意味で神秘的です。自分性は、「あなた」、「私」、「私たち」だけに排他的に属するのではなく、原始的な方法で等しくすべてに属します。」
自分という日本語は集団の中での分け持った部分というニュアンスがあり、そこには社会の中での与えられた分限があり、他人にも同様の自分と異なる分限があることを含んでいる。
そのため自分は他人と同じではない。他人と区別されて自分になる。だが、自分と他人はそれぞれの役割の違いで分かたれているため、そのまま社会的存在になる。
ハイデッガーの場合は「現存在というこの存在者にはおのれの存在において存在へとかかわりゆくことが問題であるのだが、そうした存在は、そのつど私のものである。」(Sein und Zeit"p.42)というところから自分自身であるという意味でこのSelbstを用いているのかもしれない。
ただ、ここではそれは自我によっては決定されない、他の何かから規定されていることが仄めかされている。それは何らかの共同体でありVolkをイメージしていると考えられる。
ドゥーギンは言う。
Selbst thus precedes both the singular and the collective, being a common basis for both. So we can very well set ourselves the task of studying the Selbst of society That entails an entirely peculiar approach to it.
Such a society will be an existential society, and Heidegger uses a special world precisely for society understood in that way: Volk.
「したがって、自分(Selbst)は単数形と集合形の両方に先行し、両方の共通の基盤となっています。ですから、私たちは、社会の自分(Selbst)について研究するという課題をうまく設定することができます。それには、社会に対するまったく独特のアプローチが必要です。
そのような社会は実存論的な社会であり、ハイデガーはVolkというそのように理解された社会のために、まさに特別な世界を用いています。」
このフォーク(ドゥーギンはナロッドと呼ぶ)は憂慮(Solge)と死への存在である本来的な現存在の社会になる。それは存在を忘却してない者の社会ということを意味する。これがどういうことなのかは難しいが、原因結果だとか手段目的だとか、そういうカント的な理性によって表現される世界ではなく、よりメンタルに、よりエモーショナルに表現される世界であり、そこにおいて存在の意味やロゴスの価値が再定義可能な世界ということになる。
ゾルゲや死への存在はまさに今の言葉で言えば「エモ」に近い。ドゥーギンはそれをディオニソス的な「闇」と呼んだ。
このあとそれを西洋の社会(ゲゼルシャフト)と対比してドゥーギンはこう言う。
We see clearly here the unity of the philosophical and sociological conception of Dasein. Heidegger describes the fate of Western Dasein as the gradual cooling-off of the question of being, as the forgetting of being, but the decision (Entscheidung) to remember being (Sein) or to forget it, to think about it or to focus on beings (Seiende), is made always and only by Dasein itself.
「ここに、現存在の哲学的および社会学的概念の統一がはっきりと見られます。ハイデッガーは、西洋の現存在の運命を、存在の問題の漸進的な冷却、存在の忘却として説明しているが、存在を思い出すか、それを忘れるか、それについて考えるか、それに集中するかの決定 (Entscheidung) として説明しているような存在者は、常に現存在自身によってのみ作られています。」
これは作られる(made)というよりは存在を思い出すことも忘れることも可能な存在者のことを現存在と定義していると言って良い。そして存在忘却の歴史をここでドゥーギンが「西洋の現存在(Western Dasein)」と限定していることに注意する必要がある。存在忘却、ダス・マンへの頽落を西洋社会の固有の現象として捉えている。
確かにこう考えると、我が国の和辻哲郎がなぜハイデッガーの言う本来性・非本来性が逆だと考えたか理解しやすくなる。
つまり日本の村社会(Volk)は元から西洋のゲゼルシャフトとは異なっているから、日本の社会はそのまま本来的で、西洋的な社会が非本来的と考えるのは自然なことだった。
人間が組織の歯車となって、打算的で計算的に扱われ、和辻はむしろそうした社会を「個人」の私欲によって成り立つ社会と捉えていた。
日本的共同体は本来互いを気遣い(solgen)、そして葬儀などを執り行い、死への存在を共有する。特に「死への存在」は仏教の教えが絶えずそれを意識させる。その結びつきはメンタルでもありエモーショナルでもある。そこに理性は支配していない。
日本人はキリスト教のような永遠の命を信じていないし求めてすらいない。イワナガヒメではなくコノハナサクヤヒメを妻として選んだ時から、短い限りある人生を受け入れて生きている。
しかし、ロシアにその文化的伝統はなく、あるのは西洋と同じキリスト教だった。カトリックか正教かの違いはあれ、永遠の命の存在を前提としている。
死への存在は永遠の命の希求であり、その永遠の命を与えるものとしての神のロゴスが支配している。
結局ドゥーギンはこうした伝統の中でいかにしてディオニソス的な闇属性を取り戻すかという難問に突き当たってしまうことになる。そこで混沌(カオス)の再定義へと向かう。
とまあ、続きはまた何れということにして、「髪ゆひや」の巻の続きに行くとする。
三裏、六十五句目。
小歌三味線田鶴鳴わたる
妹にこひ松原越て一をどり 志計
本歌は、
天平十二年十月伊勢國に行幸し給ひける時
妹に恋ひわかの松原見わたせば
汐の干潟にたづ鳴きわたる
聖武天皇(新古今集)
で、それを今風に伊勢踊りにする。
六十六句目。
妹にこひ松原越て一をどり
ほほへさし込文月の影 一朝
「ほほ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「懐」の解説」に、
「ほほ【懐】
〘名〙 ふところ。懐中。
※仮名草子・竹斎(1621‐23)上「文を受け取ほほに入」
とある。
文と文月を掛けて盆踊りの時に密かに懐へ恋文を差し入れる。
六十七句目。
ほほへさし込文月の影
後朝の露をなでたる鬢鏡 雪柴
前句を文との掛詞にせずに、単に月の光が差し込むとして、後朝の情景を付ける。
六十八句目。
後朝の露をなでたる鬢鏡
挙屋の手水かけまくもおし 在色
舞台を遊郭の揚屋として遊女の朝とする。
六十九句目。
挙屋の手水かけまくもおし
心ざし起請の面にたつた今 正友
「心ざし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「志」の解説」に、
「④ 死者への追善供養。冥福を祈るための仏事。
※曾我物語(南北朝頃)二「国王、未来の因果を悲みて多くの心ざしを尽くして、かの苦をまぬかれ給ひけるとかや」
⑤ 気持を表わすための金品。
(イ) 謝意や好意を表わすために贈ったり奉納したりする金品。お礼の品。
※土左(935頃)承平五年二月一六日「いとはつらく見ゆれど、こころざしはせんとす」
(ロ) 故人の追善供養のための金品。喜捨。布施(ふせ)。
※浮世草子・好色一代男(1682)五「夜もあけて、別れさまに、旅の道心者の、こころざし請度(うけたき)といふ」
とある。
起請文を書いてやって、これでまた通ってきてくれるかなと思ったら訃報が届く。せっかく情けを掛けてあげたのに。
七十句目。
心ざし起請の面にたつた今
五人の子ども田地あらそひ 卜尺
子供が多いと必ず相続争いが起きる。前句の「起請」は財産を与えるという約束とするが、遺言状が何通も出てくるというのは今でもよくある話だ。
七十一句目。
五人の子ども田地あらそひ
草分の名主も終には老にほれて 松臼
草分はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「草分」の解説」に、
「① 草深いところを、分けながら行くこと。また、そういう場所。
※浄瑠璃・日本武尊吾妻鑑(1720)二「蘆屋潟、ちろりがたつく草分の、道を早みて里を過」
② 土地を開拓して、一村一町の基礎をきずくこと。また、その人。
※俳諧・談林十百韻(1675)下「五人の子ども田地あらそひ〈卜尺〉 草分の名主も終は老にほれて〈松臼〉」
③ 初めて物事を創始すること。また、その人。創始者。
※ノリソダ騒動記(1952‐53)〈杉浦明平〉八「二十二、三年昔から福江湾のノリソダの種付をやっております。わしらが草分けでさあ」
④ =くさわき(草脇)
※源平盛衰記(14C前)三六「殿原、草分(クサワケ)のかふ・そじしのはづれ・肝のたばね・舌の根、鹿の実には能き処ぞ」
とある。ここでは②の意味で、③の意味への転用は近代のことか。
「ほれて」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「耄」の解説」に、
「〘自ラ下一〙 (「ほれる(惚)」の変化した語)
① 年老いてぼんやりする。ぼける。
※浄瑠璃・菖蒲前操弦(1754)四「老に耄(ボレ)てや気違かと」
② 酒に酔う。
※俳諧・其便(1694)「耄(ホレ)てさへ孫に土産を思ひ出す〈紫紅〉」
とある。
土地を開墾した名士も晩年には認知症になれば、相続でもめるはずだ。
「惚れて」に取れば、愛人がいて財産を横取りしようとするという意味にもなるかもしれない。
七十二句目。
草分の名主も終には老にほれて
御伝馬役に駑馬をさす也 一鉄
御伝馬役はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「伝馬役」の解説」に、
「〘名〙 戦国時代から江戸時代にかけて、諸街道の宿駅で公用貨客の逓送に従事することを義務づけられた課役。戦国時代、軍役にならぶ重要な役として主に名主層が負担したが、江戸時代に最も発達し、慶長六年(一六〇一)幕府は東海道の宿駅に三六匹ずつの伝馬を常備させ、宿場居住者から馬と人夫とを徴発した。これがのち五街道にひろまり、東海道各宿一〇〇人一〇〇匹、中山道五〇人五〇匹、その他の街道二五人二五匹の常備人馬を原則とした。これは馬役と歩行役に分かれたが、交通量の増大にともない常備人馬では需要に応じきれず、助馬・助郷の制を生むにいたった。伝馬。〔信濃国諏訪社家文書(古事類苑・政治八五)〕」
とある。
駑馬はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「駑馬」の解説」に、
「① 足のおそい馬。にぶい馬。
※令義解(718)厩牧「細馬一疋。中馬二疋。駑馬三疋。〈謂。細馬者。上馬也。駑馬者。下馬也〉」
※高野本平家(13C前)五「騏驎は千里を飛とも老ぬれば奴馬(ドバ)にもおとれり」 〔戦国策‐斉策五〕
② 才能のにぶい人のたとえ。
とある。
馬のこととも人のこととも取れる。
七十三句目。
御伝馬役に駑馬をさす也
旗の文かく行とかかれたり 松意
行は「おこなふ」とルビがある。「旗の文」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、「罪人引廻しの際、捨札または紙幟に罪科の次第を書いた」とある。
前句を比喩として、部下の愚行で主にまで罪が及んだとしたか。
七十四句目。
旗の文かく行とかかれたり
木の下かげにおくるゑきれい 志計
ゑきれいはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「疫癘」の解説」に、
「〘名〙 悪性の流行病。疫病。えやみ。時疫。
※日本後紀‐延暦二四年(805)七月壬辰「勅。如レ聞。疫癘之時。民庶相憚。不レ通二水火一」
※浮世草子・懐硯(1687)四「明の春は疫病(エキレイ)はやり、丸之助夫婦相はてしより」 〔論衡‐命義〕」
とある。「えやみ」の旧仮名は「ゑやみ」になる。
疫病退散の儀式などは天帝に訴えるという形をとって公事を模すことが多い。
七十五句目。
木の下かげにおくるゑきれい
山伏や清水を垢離にむすぶらん 一朝
垢離はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「垢離」の解説」に、
「仏教用語。水で清めてあかを取去ること。山伏や修験者が神仏に祈願するとき,冷水や海水を浴びて身を清めることをいう。」
とある。山伏が清水で身を清めるのは普通のことなのだろう。
疫癘が収まったので、あの清水で身を清めた山伏が疫癘を払ってくれたのだろうか、という推量の句となる。
七十六句目。
山伏や清水を垢離にむすぶらん
そこなる岩を火打つけ竹 雪柴
つけ竹はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「付竹」の解説」に、
「〘名〙 竹の先端に硫黄などを塗って付け木としたもの。火口(ほくち)。
※源平盛衰記(14C前)一六「燧付茸(ツケダケ)硫黄など用意して、燧袋にしつらひ入れ」
とある。山伏なら、山の中の手近な岩で付竹を擦って火をつけそうだ。
ちなみに近代のマッチもウィキペディアによれば、
「頭薬
塩素酸カリウム、硫黄、膠、ガラス粉、松脂(まつやに)、珪藻土、顔料・染料
しばしば頭薬にリンが使われているという表記が散見されるが、少なくとも20世紀半ば頃以降は軸部分にリンを用いていない。
側薬
赤燐(せきりん)、硫化アンチモン、塩化ビニルエマルジョン」
とあり、硫黄が用いられている。
七十七句目。
そこなる岩を火打つけ竹
さかむかへ関をへだてて花莚 卜尺
「さかむかへ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①平安時代、新任の国司が任国へ入るとき、国府の役人が国境まで出迎えて酒宴を催すこと。
②旅から郷里に帰ってくる人を、国境・村境まで出迎えて酒宴を催すこと。特に、京の人が旅から帰ったとき、逢坂(おうさか)の関で迎えること。「さかむかひ」とも。」
とある。逢坂の席で火を焚き花莚を敷いて酒宴の準備をする。
七十八句目。
さかむかへ関をへだてて花莚
家中の面々雲霞のごとし 正友
雲霞(うんか)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「雲霞」の解説」に、
「〘名〙 (「霞」は本来は「朝焼け、夕焼け雲」の意)
① 雲とかすみ。
※明衡往来(11C中か)下末「八月十五夜雲霞若晴、忝可レ有二光儀一」 〔謝霊運‐石壁精舎還湖中作詩〕
② 大衆、兵士など、人の多く群がり集まるさまをたとえていう語。
※太平記(14C後)一四「彼の逆徒等、雲霞の勢を以って押し寄する間」
とある。
出迎えに一族大勢集まってくる。
0 件のコメント:
コメントを投稿