実朝がリチャードだった?って大河ドラマだが、「薔薇王の葬列」のような内面に深く切り込むものもなく、ただネタにしただけって感じだ。義時をバッキンガムみたいにして恋仲になって裏切られてとかすれば、もう少し盛り上がりそうだけど。
現代劇としては面白くても、何か歴史を感じさせない。時代考証の人選の段階でもめたりしたけど、やっぱそれが響いてるんだろうな。
あと、「アレクサンドル・ドゥーギン『政治的プラトニズム』を読む」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは「峰高し」の巻の続き、挙句まで。
名残裏、九十三句目。
住持の数寄の山ほととぎす
橘の喜内と申小姓衆 一鉄
喜内は人名に時折使われているが、東百官に起源がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「東百官」の解説」に、
「① 京都の官名にならって、天正~慶長(一五七三‐一六一五)以来、関東武士の用いた通称。左内、右内、兵馬、大弐、小弐、典膳、頼母の類。
※随筆・貞丈雑記(1784頃)二「今世に云東百官の号は将門が作りしにはあらず」
とある。伊織(いおり)、数馬(かずま)は今日でも名前に用いられている。有名な所では平賀源内の源内(げんない)もある。近代の時代小説の丹下左膳は丹下も左膳も両方とも東百官。
橘は姓だとすると立派過ぎるから、通称か自称であろう。路通も忌部の姓を名乗っていたようだが。
まあ、何となく小姓にいそうな名前だったのだろう。
住持はそっちの方も好きだったようだ。
九十四句目。
橘の喜内と申小姓衆
きのふはたれが軒の宿札 正友
売春の小姓とする。
宿札はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「宿札」の解説」に、
「① 旅宿で誰が宿泊しているかを示す札。江戸時代には、大名や貴人などの宿泊の標識として「何々様御泊」と記し、宿駅の出入口と本陣の前に立てた札。長さ三尺半(約一メートル)、幅一尺(約三〇センチメートル)ほどの木札を、一丈半(約四・五メートル)程度の竹の先につけて、大大名の時は三枚、それ以下の大名は二枚を立てた。特別な場合や旗本・陪臣の宿泊の際には、奉書紙をもって本陣に貼ることもあった。関札(せきふだ)。泊札(とまりふだ)。しゅくさつ。
※太平記(14C後)八「我前に京へ入て、よからんずる宿をも取、財宝をも官領せんと志て、宿札(ヤドフダ)共を面々に、二三十づつ持せて」
② 氏名などを記して門口に掲げ、その人の住居であることなどを示す札。表札。門札。家札(やふだ)。
※俳諧・埋草(1661)一「鶯の宿札か梅に小短尺〈貞盛〉」
とあり、この場合は①で、上級武士の宿泊する宿に出没しては稼いでいる。
九十五句目。
きのふはたれが軒の宿札
洪水の流てはやき大井川 松臼
大井川は東海道の大井川、京都嵯峨野の大井川、江戸川の辺りもかつては大井川だった。特にどこのということではなく、洪水で家が流されて、昨日の軒の表札も今はない。
九十六句目。
洪水の流てはやき大井川
嵯峨丸太にて丸にたふるる 一朝
嵯峨丸太はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「嵯峨丸太」の解説」に、
「① 京都嵯峨で陸揚げされた丹波産の丸太。丹波の奥山で切り出された丸太を筏(いかだ)に組んで大堰川(おおいがわ)に流し、その沿岸である嵯峨で陸揚げしたところからいう。
※俳諧・桜川(1674)夏「蚊はしらのたつやうき世の嵯峨丸太〈為勝〉」
② (尼は色恋になれていないで堅いところから) 京都嵯峨の尼。また、売春をする尼のこと。
※雑俳・尚歯会(1722)「正法にげに節木(ふし)なき嵯峨丸太」
とある。
前句の大井川を嵯峨野の大井川(桂川)として、洪水のあとで嵯峨丸太が丸々倒れて流されたとする。
九十七句目。
嵯峨丸太にて丸にたふるる
ぬかり道足にまかせて行ほどに 雪柴
「足にまかせて」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「足に任せる」の解説」に、
「① 乗物に乗らないで、歩いて行く。足を頼りに行く。また、足の力の続くかぎり歩く。
※平家(13C前)一二「北条、馬にのれといへども乗らず〈略〉足にまかせてぞ下りける」
② はっきりした行先もなく、また、特に目的も定めないで歩く。あてもなく気ままに歩きまわる。
※虎明本狂言・八尾(室町末‐近世初)「足にまかせて行程に、六道の辻に着にけり」
とある。この場合は①であろう。ぬかり道を歩いて行くと嵯峨丸太につまずいて転ぶ。
九十八句目。
ぬかり道足にまかせて行ほどに
作麼生かこれ畳の古床 在色
作麼生(そもさん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「作麽生・什麽生」の解説」に、
「〘副〙 中国、近世の口語。いかに。どのように。さあどうだ。日本ではとくに禅僧の問答の際の語として広まった。
※正法眼蔵(1231‐53)仏性「この宗旨は作麽生なるべきぞ」
※読本・雨月物語(1776)青頭巾「やがて禅杖を拿(とり)なほし『作麽生(ソモサン)何所為ぞ』と一喝して」 〔景徳伝燈録‐道信大師旁出・崇慧禅師〕」
とある。
床はいろいろな意味があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「床」の解説」に、
「① 人の座する台。高さ一尺くらいで土間に用いる。
※新撰字鏡(898‐901頃)「 止己」
※延喜式(927)三四「牀〈長八尺、広五尺、高一尺三寸、厚二寸四分〉長功十人」
② 寝所として設ける所。ねどこ。ふしど。
※古事記(712)中・歌謡「をとめの 登許(トコ)のべに 我が置きし つるぎの太刀 その太刀はや」
※源氏(1001‐14頃)末摘花「心やすきひとりねのとこにてゆるひにけりや」
③ ふとんを敷いたねどこ。また、男女の共寝。
※評判記・野郎虫(1660)伊藤古今「床(トコ)にいりての後は、あぢものじゃといふ」
④ ゆか。
※読本・雨月物語(1776)蛇性の婬「然(さて)見るに、女はいづち行けん見えずなりにけり。此床(トコ)の上に輝輝(きらきら)しき物あり」
⑤ 畳(たたみ)のこと。現代では畳の心(しん)を、畳表と区別していう。
※大乗院寺社雑事記‐寛正三年(1462)一月一三日「長床二帖」
⑥ 牛車(ぎっしゃ)の人の乗る所。車の床。車箱(くるまばこ)。
※三代実録‐貞観一七年(875)九月九日「吾欲レ令二此牛不一レ行、乃以レ手拠二車床一、閉レ気堅坐不レ動」
⑦ =とこのま(床間)②
※玉塵抄(1563)一一「軸の物と云が座敷のかざりに床(トコ)の上に台にのせておかるるぞ」
⑧ 桟敷(さじき)。涼みどこ。
※俳諧・己が光(1692)四条の納涼「夕月夜のころより有明過る比まで、川中に床をならべて、夜すがらさけのみものくひあそぶ」
⑨ 葭簀(よしず)ばりにゆかを張るなどして、常時は人の住めない簡単な店。渡船場などの休息所。とこみせ。
※浄瑠璃・鑓の権三重帷子(1717)下「床(トコ)の陰に身を潜め、甚平が爰に有からは、市の進も此辺にゐらるるはひつぢゃう」
⑩ (以前は「とこみせ」程度であったところから) 髪結床(かみゆいどこ)。床屋。
※浄瑠璃・夏祭浪花鑑(1745)三「床(トコ)の衆今日のお払ひ者いかふ遅うござるの」
⑪ 和船の最後部の船梁で、舵(かじ)を保持する床船梁(とこふなばり)の略称。〔和漢船用集(1766)〕
⑫ 犂(からすき)の底の地面にふれる部分の名称。いさり。〔訓蒙図彙(1666)〕
⑬ 「なえどこ(苗床)」の略。
⑭ 「かなとこ(鉄床)」の略。
[語誌](1)元来、土間に用いられた①が、住宅・寺院が板敷になるに伴ってその上に置かれ、室町時代には⑤のように畳を意味するようにもなった。
(2)床は一段高い所で、その上段の間には押板がつけられるのが普通であったが、茶室の発生とともに、上段と押板が縮小されて一つになり、今日いう⑦の「床の間」となった。」
とある。延宝の頃はまだ畳は高級品だったと思われる。まあ、板敷の部屋の多かった時代には一段高くなった所というイメージもあっただろう。
ぬかり道も心を澄ませば、古くはあるが畳の上を歩いているようなもの、ということか。
九十九句目。
作麼生かこれ畳の古床
山寺を仕まふ大八花車 卜尺
山寺からの引越しに、大八車に古畳を積んで運び出す。これも当時は古畳とはいえ一財産というイメージがあったのだろう。それゆえ花車になる。
挙句。
山寺を仕まふ大八花車
鳶口帰る春の夕暮 松意
鳶口(とびくち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳶口」の解説」に、
「① 棒の先端に、鳶のくちばしに似た鉄製の鉤(かぎ)を付けたもの。物をひっかけたり、引き寄せたりするのに用いる。
※俳諧・生玉万句(1673)「鴟口のさきとがる三ケ月〈正春〉 秋かぜをおききゃるかとて木やりして〈重故〉」
② =とび(鳶)の者
※東京日日新聞‐明治七年(1874)七月二六日「鳶口も長髷となり、依然として旧の如し」
③ (①が物を引き寄せる道具であるところから) 欲深く物を取り込むこと。
※評判記・吉原すずめ(1667)下「さだまりたる手のよきとびぐちは、くるしかるまじき事也」
とある。②は用例が近代だが、ここでも鳶口を持った人が帰るということで②の意味でいいと思う。
近代でも国鉄の貨物便などロープで縛ってある荷物を鳶口を使って持ち上げたりしてたと記憶する。昔の引越しには欠かせないものだったのだろう。
無事引越しも終わり、一巻は目出度く終了する。
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