2020年8月31日月曜日

 曇りがちで涼しくなった。
 日本でBlack Lives Matterが盛り上がらないのは、一つには人権派の人たちが日本人は加害者だということを強調するあまりに、ああいう警官が黒人を撃つ場面を見ても、自分は加害者なんだ、あの警官の方なんだという意識が刷り込まれていて、ついつい警官の方に同情してしまうのではないかと思う。
 被害者意識の安易さをあまりに糾弾するもんだから、被害者に同情できなくなってしまったのではないか。
 七十年代くらいまでは日本人はみんな戦争でひどい目にあった、俺たちは被害者だと思っていた。それが駄目だ、日本は加害者だというようになってから、反戦運動も急速に衰退したのではなかったか。
 ひどい目にあった上に、加害者としての罪まで背負わされる。いじめに関してもそれは言える。
 それでは「しほらしき」の巻の続き。

 初裏。
 九句目。

   雨に洲崎の嵒をうしなふ
 鳥居立松よりおくに火は遠く  觀生

 前句が洲崎の祇園宮だとしたら、鳥居の連想は自然の成り行き。海辺に鳥居が立っていても、宮島を別にすれば神社は波のかぶらない陸の奥の方にあることが多い。
 十句目。

   鳥居立松よりおくに火は遠く
 乞食おこして物くはせける   曾良

 神社ネタ二句続いちゃったから、曾良としてもここで神道家らしい薀蓄というわけにはいかず、神社で雨露しのぐ乞食を付ける。梵灯の『梵灯庵道の記』に「ただ蒲団を枕とし、衾を筵としてぞ、ふるき堂などには夜を明し侍し。」とあったのを思い出す。
 十一句目。

   乞食おこして物くはせける
 螓の行ては笠に落かへり    北枝

 螓は「なつぜみ」と読む。裏返しになって落ちている蝉は、死んでるのかと思って触るといきなり大きな鳴き声を上げてぶつかってきたりする。これを今日では蝉爆弾だとか蝉ファイナルだとか言う。
 乞食を起こそうとしたら落ちている蝉に触ってしまい、笠にぶつかってきたのだろう。
 十二句目。

   螓の行ては笠に落かへり
 茶をもむ頃やいとど夏の日   芭蕉

 「茶をもむ」というのは抹茶ではなく、唐茶とも呼ばれる隠元禅師がもたらした明風淹茶法で、『日本茶の歴史』(橋本素子、ニ〇一六、淡交社)には、

 「『唐茶』には、中国から伝えられた茶の意味があるものと見られ、元禄十年(一六九七)に刊行された宮崎安貞の『農業全書』に、その作り方が記されている。そこには、鍋で炒る作業と、茣蓙・筵などの上で揉む作業とを交互に行うとある。
 このように、隠元の茶については一次史料が残されてはおらず、はっきりとはわからないが、後世の展開状況からさかのぼって考えると、『鍋で炒る』と『揉む』行程を交互に行い製茶した『釜炒り茶』と同様のものではないかと見られる。」(p.143)

とある。
 唐茶は新しもの好きの俳諧師に好まれたのではないかと思われる。
 茶の収穫は八十八夜前後に限らず、夏を通して行われる。蝉の鳴くころでも別におかしくない。
 十三句目。

   茶をもむ頃やいとど夏の日
 ゆふ雨のすず懸乾にやどりけり 斧卜

 「ゆふ雨」は「ゆうだち」のこと。「すず懸(かけ)」は山伏の着る上衣で、夕立でびしょぬれになった山伏が製茶をしている小屋で雨宿りをして、篠懸を乾かす。
 十四句目。

   ゆふ雨のすず懸乾にやどりけり
 子をほめつつも難すこしいふ  北枝

 雨宿りして、そこの家の子どもを誉めてやるのだが、どうも一言多い人のようだ。
 十五句目。

   子をほめつつも難すこしいふ
 侍のおもふべきこそ命なり   皷蟾

 お侍さんは人の生死を預かる仕事なので、子供を育てるにも厳しく育てる。ただ、いきなり𠮟りつけるのではなく、最初は褒めてそのあとで欠点を指摘するというのは、今でも教育者が推奨すること。
 十六句目。

   侍のおもふべきこそ命なり
 そろ盤ならふ末の世となる   觀生

 「末の世」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①将来。後世。
  出典枕草子 頭の中将の
  「いと悪(わろ)き名の、すゑのよまであらむこそ、口惜しかなれ」
  [訳] まことにひどいあだ名が後世まで残るとしたらそれは、残念である。
  ②晩年。
  出典源氏物語 藤裏葉
  「残り少なくなりゆくすゑのよに思ひ捨て給(たま)へるも」
  [訳] (命が)残り少なくなってゆく晩年にお見捨てなさるのも。
  ③末世(まつせ)。
  出典源氏物語 若紫
  「いとむつかしき日の本(もと)の、すゑのよに生まれ給ひつらむ」
  [訳] たいそうわずらわしい日本の、末世にお生まれになったのだろう。」

 前句の「命なり」を「命なりけり佐夜の中山」のような、年取ってまだ生きていたんだという意味の「命なり」とし、②の意味の晩年になって算盤を習うことになるとは、とする。
 元禄の頃にはさすがに戦国時代の生き残りはいなかっただろうけど、ここにいる連衆の子どものころぐらいなら、まだ戦国のいくさをかいくぐってきたつわものがいて、平和な時代で算盤の練習をしている姿もあったのかもしれない。

2020年8月30日日曜日

 クソリプというのもひょっとしたら役に立っているのかもしれない。
 ネット上からヒットラーのような独裁者が現れるのを防ぐには、何か受けのいいこと言って多くのフォロアーを集めてゆく段階で、芽を摘む必要もある。
 アンチな人間がどうでもいいようなことで反論したりして、炎上を繰り返せば、こうした野望をくじくこともできるかもしれない。
 とにかくネット上の言論は極力規制すべきではない。反論されることなしに何でも言える空間ができれば、それこそ独裁者になろうとするものにとっては願ったりだ。
 独裁者のいる国では当然ネット上に言論の自由はない。ただ押さえつけるだけではなく、むしろ国民の世論形成に積極的にネットを利用する。これによって、海外から来る情報を単にシャットアウトするだけではなく、こうした情報に不快感を催すように大衆を操作してゆく。こうした国に対して、よその国がいかにネット上で抗議活動を行ってもほとんど効果はない。
 工作員によるネットの操作を防ぐ意味でも、ネット上は常に様々なノイズに溢れてなくてはならない。
 それでは「しほらしき」の巻の続き。

 第三。

   露を見しりて影うつす月
 躍のおとさびしき秋の数ならん 北枝

 盆踊りも遠くで音だけ聞いていると寂しく聞こえる。
 四句目。

   躍のおとさびしき秋の数ならん
 葭のあみ戸をとはぬゆふぐれ  斧卜

 「葭(よし)のあみ戸」は葭を編んだ扉だから、多分葭戸(葭簀を張った扉)とはまた違うのだろう。草庵の扉で、世間は盆踊りで盛り上がっていても一人寂しく過ごす。
 五句目。

   葭のあみ戸をとはぬゆふぐれ
 しら雪やあしだながらもまだ深 塵生

 人が訪れないのを深い雪のせいだとする。
 六句目。

   しら雪やあしだながらもまだ深
 あらしに乗し烏一むれ     志格

 嵐の風でやってきた烏の黒い姿が一面の白雪に映える。
 七句目。

   あらしに乗し烏一むれ
 浪あらき磯にあげたる矢を拾  夕市

 磯に打ち上げられた矢を拾って巣でも作るのか。自分を狙ったかもしれない矢でも何でも利用する。
 八句目。

   浪あらき磯にあげたる矢を拾
 雨に洲崎の嵒をうしなふ    致益

 「嵒」は岩のこと。
 「洲崎の岩」は臼杵湾の洲崎岩ヶ鼻にあった祇園宮のことか。キリシタン大名の大友宗麟に弾圧され、場所を転々としていたが、慶長三年にようやく臼杵市の今の八坂神社の場所に落ち着いた。明治の神仏分離で名前が八坂神社になった。
 この場合の雨は矢の雨か。

2020年8月28日金曜日

 安部首相辞任ということで、一つの時代が終わるんだろうな。江戸中期の田沼時代のように、後の人は安部時代と呼ぶかも。田沼時代は天明の飢饉や浅間山の噴火のあともわずかに続いたが、安部時代はコロナによって終わった。アベノミクスのもとに作られた成長戦略が、コロナによって息の根を止められ、修正や変更を迫られているなら、政権交代は必要だろう。古い政策をいつまでも引きずっていてもしょうがない。
 ただ、安倍政権は他にいないからという理由で永らえてきたところがあるから、ポスト安部といっても、その「他」の人たちなわけで。誰がなってもそんな長くは続きそうもない。コロナの難問はそのままだし、誰かが画期的な解決策を持っているというわけでもない。
 官邸はもう長いことサイレントマジョリティーの声を聞くことができなくなっている。まあ、官邸に限らず、この声を聞くことができたなら、すぐにでも選挙で大躍進して総理の座も夢じゃないだろうけど。
 聞こえてくるのは選挙区の様々な団体の声、経済界の様々な業界の声、マスコミの捏造するせいぜい十五パーセントくらいの「国民の声」。そんなもので政治が動いていれば、誰がやっても迷走するに決まっている。
 ネット上も一握りのパヨクのプロパガンダと、それよりもはるかに少数でありながらアカウントをたくさん持っているネトウヨの書き込み、パヨクやネトウヨを装った海外の工作員が紛れているかもしれないし、さらにそれらと無関係な膨大な数のクソリプに埋め尽くされて、そこから本当の声を拾い上げるのは難しい。
 まあ、政治家にあまり期待しない方がいいんだろうな。
 それでは俳諧の方を。
 さて、七月二十三日に宮の腰に遊んだ芭蕉は、翌二十四日には金沢を離れ、小松に着く。そして翌二十五日、
 「廿五日 快晴。欲小松立、所衆聞テ以北枝留。立松寺へ移ル。多田八幡ヘ詣デテ、真(実)盛が甲冑・木曾願書ヲ拝。終テ山王神主藤井(村)伊豆宅へ行。有会。 終テ此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折々降ル。」

 多太八幡宮を詣でたことは、『奥の細道』にも、

 「此所太田(ただ)の神社に詣。真盛が甲・錦の切あり。往昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらさぶらひ)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊から草のほりもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形打(くわがたうっ)たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて此社にこめられ侍るよし、樋口の次郎が使ひせし事共、まのあたり縁紀ぎみえたり。

 むざんやな甲の下のきりぎりす」

とある。
 このあと山王神主藤井(村)伊豆宅へ行き、「有会」とある。これは「有俳」と同じで、俳諧興行があったことを示す。それが、『奥の細道』だと前後逆になるが、

  「小松と云いふ所にて
 しほらしき名や小松吹ふく萩すすき」

を発句とした世吉(よよし:四十四句)興行だった。
 発句。

 しほらしき名や小松ふく萩芒  芭蕉

 この発句については面倒なので、昔書いた『奥の細道─道祖神の旅─』をコピペしておく。

 「しほらしき…」の句は小松での俳諧興行での句。小松という地名に掛けて小さな松を秋風が吹いているようでしおらしいと詠んだもの。「しほ(を)らし」は「しをる」から来た言葉で、花が萎れるように本来は悲しげなものだった。それが転じて、はかない、控えめな弱々しい美しさ表わす言葉となり、芭蕉は「さび」と並ぶ「しほり」を俳諧の一つの理想の体とした。「萩すすき」は「萩の上露、荻の下風」を思わせるもので、本来なら「しおらしき名の小松を吹く萩すすきの風」となるべきところを省略したものだ。初案は「萩すすき」ではなく「荻すすき」だった。この方が意味はわかりやすいが、萩の方が花がある。萩の露を散らし、すすきの葉を鳴らす秋風に吹かれる小さな松は、小町の面影か。

 この発句は、曾良の『俳諧書留』では「荻薄」とあることから、ここでは初案としていたが、寛政四年刊の『草のあるじ』所収の四十四句中三十七句の発句は「萩芒」となっている。興行の時既に萩芒だったとすれば、曾良の書き間違いの可能性もある。
 脇は山王神主藤井(村)伊豆(俳号皷蟾:こせん)が付ける。

   しほらしき名や小松ふく萩芒
 露を見しりて影うつす月    皷蟾

 萩といえば露なので、この興行の発句は「荻」ではなく「萩」だったのは間違いないだろう。影は光の意味もある。月の光で露がきらめいている様に、露のような私に芭蕉さんが光を照らしてくれる、という寓意を含ませている。

2020年8月27日木曜日

 今朝は急に雨が強く降ったかと思うとすぐに止んだ。
 コロナの第二波もとりあえずピークアウトし、重症者数もそろそろ頭打ちになっている。第一波の時と違って、PCR検査数が増えたせいか、感染者数の割には重症者数が少なかった。死者もこれからそれほど大きく増えることはないだろう。
 感染者数が急増したあたりから、夜の街や外食、旅行、パーティーなどの自粛ムードが広まり、それに加えて検査数の増加によって多くの無症状者をホテルや自宅に隔離できたのも功を奏したのではなかったかと思う。そうして減少傾向になったころ、ちょうどお盆休みも重なって産業が止まったことから、一気に収束に向かうことができた。
 第一波の時にもゴールデンウィークがあり、大型連休が味方してくれたが、秋に第三波が来た時には正月まで大型連休がないのがやや不安だ。
 お盆明けで生活が元に戻り、収束ムードから緩みが出てくると、すぐに第三波がやってくる。インフルとのダブルも心配だが、インフルではないただの風邪が発症の引き金にならないかという心配もある。小生も秋から冬への季節の変わり目には必ず扁桃腺が腫れる。ひょっとしたらその時みんなとお別れになるかも。思えばつまらない何もない人生だったなあ。女房には謝らないとなあ。
 まあ、賢明な日本国民のことだから、再び感染者数が増加に転じたら、それなりの自粛をしてくれるとは思うし、国が何もしなくても、さらに対策を緩めたとしても、国民の行動にそれほど影響はないと思う。大晦日になって死者が二千人を越えてなければ、とりあえず今年一年は勝利ということでいいのではないか。
 コロナ対策とインフル対策は被る所も多いので、案外インフルの死者も大きく減るような追加効果があるかもしれない。
 一番心配なのは気の緩みなので、多少は恐怖を煽る発言をして喝を入れる人がいなくてはならない。それを自由に言える雰囲気は残していかなくてはならない。
 麻雀に喩えるなら東場東二局の終了ということで、まだまだ長丁場だから頑張ろう。
 それでは俳諧の方だが、『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)には、「残暑暫」の巻の次に「西濱にて」の表六句があるので、それを見てみよう。
 発句。

   西濱にて
 小鯛さす柳すずしや海士が妻   芭蕉

 季語が「すずし」で季節が夏に戻っている。そこから、この句は当座で詠んだのではなく、夏に作った発句を流用した可能性がある。夏に詠んだとすれば酒田あたりだろうか。
 小鯛を柳の枝の串に刺してあぶって食べたのだろう。西の浜では海に日が沈むころで、涼しい海風が吹いてくる。もっとも、「すずし」は発句の場合社交儀礼で、本当は夕凪で暑かったのかもしれないが。「残暑暫」の句も、『奥の細道』に収録するときには、

 秋涼し手毎にむけや瓜茄子    芭蕉

に直している。
 脇。

   小鯛さす柳すずしや海士が妻
 北にかたよる沖の夕立      名なし

 作者の名前が不明になっている。
 沖の夕立の雲も北の方へそれていい天気ですね、といったところだろうか。「かた」を潟に掛けているとすれば、象潟の吟である可能性もある。はるばるこんな北の象潟にまで寄ってくれて、という意味が込められているとすれば、六月十七日、曾良の『旅日記』に、

 「朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山蚶弥(満)寺へ行。道々眺望ス。帰テ所ノ祭渡ル。過テ、熊野権現ノ社へ行、躍等ヲ見ル。夕飯過テ、潟へ船ニテ出ル。加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。弥三郎低耳、十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々ヘ随身ス 。」

とある、この加兵衛(俳号玉芳)の可能性もある。
 第三。

   北にかたよる沖の夕立
 三日月のまだ落つかぬ秋の来て  小春

 ここからが西浜での吟だろう。『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注には、『奥細道附禄』に金沢の西、宮の腰とする説があり、曾良の『旅日記』の、七月二十三日の、

 「廿三日 快晴。翁ハ雲口主ニテ宮ノ越ニ遊。予、病気故、不行。江戸へノ状認。鯉市・田平・川源等へ也。徹ヨリ薬請。以上六貼也。今宵、牧童・紅爾等願滞留。」

とあるこの日ではないかという。確かにこの表六句に曾良の名前はないし、発句以外は『俳諧書留』に書き留めてない。『奥細道附禄』所収の表六句の四句目に雲江とあるのは雲口の間違いと思われる。あとは北枝・牧童の兄弟が参加している。
 宮の腰は犀川の河口付近の金石(かないわ)海岸とされている。
 「三日月のまだ落つかぬ」は暑くて空気も秋らしい澄んだ空気ではないということだろう。北で夕立が鳴っているのだからまだまだ湿っぽい。
 四句目。

   三日月のまだ落つかぬ秋の来て
 いそげと菊の下葉摘ぬる     雲江

 これが雲口さんになる。どちらも「うんこう」と読める。
 ようやく秋の始まる文月三日頃から、長月九日の重陽へ向けて菊を育てる。
 五句目。

   いそげと菊の下葉摘ぬる
 ぬぎ置し羽織にのぼる草の露   北枝

 重陽の当日とし、正装の羽織をしばし脱いでは菊の最後の手入れをする。せっかくの羽織も草露にまみれてしまう。それほど菊が気になってしょうがない。
 六句目。

   ぬぎ置し羽織にのぼる草の露
 柱の四方をめぐる遠山      牧童

 挙句の体ではないので六句目とする。「柱の四方」は「四方の柱」のことで、相撲の土俵ではないかと思う。相撲を取るために羽織袴を脱ぐ。
 『奥細道附禄』はここで終わっている。続きがあったのかもしれない。なかったのかもしれない。わからない。

2020年8月25日火曜日

 今日は旧暦の七夕。ほぼ半月の月が出ていた。
 前に「人権の概念」の見直しということを言ったが、人権を批判する人に一応言っておきたいが、「人権思想」という一つの思想があるわけではない。近代の歴史の中でいろいろな思想家が人権について考えてきたが、そこには様々な思想家の思想はあっても、人権思想という一つの思想があるわけではない。人権はいろいろな人に様々に解釈されて今に至っている。
 だから今でもこの種の問題に一つの答えがあるわけではない。人権派と称する人に聞いても答えはばらばらだと思う。組織に属していて組織の理論しか知らない人は別として、普通に自分で何かを考えていれば、一つとして同じ思想はない。
 前にもどこかで書いたが、概念というのは生得的なものではなく、耳にしたり書物で目にした様々なその言葉の用例から、各自それぞれ自分の頭の中で構造化して理解しているだけだ。同じDaseinという概念でもカントとハイデッガーでは全く別物であるように、哲学用語というのも哲学者によって全く違う意味に用いられる。思想というのはそういうものだ。
 だから、あたかも「人権思想」なるものがあるかのように批判しても、大体は的外れになる。それは誰かの人権思想には当てはまるかもしれないが、別の人の人権思想には当てはまらなかったりする。
 人権思想を乗る越えるとすれば、特定の思想体系を批判するのではなく、根底となる古い非科学的な説を始末するところから始めた方がいいだろう。たとえば白紙説やサピア・ウォーフ仮説のような。人権思想を否定するのではなく、古い科学や古い形而上学的独断を捨て、今の科学と今の現実に乗せ換える作業の方が大事だ。
 霊肉二元論(精神と肉体の二元論)のようなものを今どき復活させて一体何になるというのか。それは西洋理性の覇権主義を復活させ、異民族の異文化やマイノリティーの様々な可能性を、結局肉体の多様性と精神の単一性に還元し、口では多様性と言いながら、単一の思想に服従させようというものだ。
 もちろん人はそれぞれみんな違うのだから、単一の思想は不可能。ただ、共産圏がそうだったように、単一の思想の持つ強力な権力をめぐって、暴力がはびこり、最終的には暴力が世界を支配する最悪の結果を生む。
 大事なのは理性もまた人間の多様な肉体の産物であり、理性も多様で唯一無二の思想などは存在しない。多様な思想を調和させる文化のみが要求されなくてはならない。
 多様なものは多様なままにしておくべきだ。それを一つにしようとすれば必ず熾烈な権力闘争が生じる。そして、飢餓と粛清で崩壊する。
 人権は理性や思想や文化習慣を含めた多様性として理解されるべきだというのは、別に新しい思想ではない。ただ、それがなかなか徹底されることがなかっただけだ。
 国家というのも人倫の最高の統一ではなく、多様性の一つの区切りにすぎない。一つの区切りとして尊重されるべきものだ。そしてその多様性を損なわない限りにおいて国家主権というものが存在しなくてはならない。
 まあ、堅苦しい話になってしまったが、この辺で俳諧の方へ戻ろう。
 「残暑暫」の巻の続き、挙句まで。

 十三句目。

   をのが立木にほし残る稲
 ふたつ屋はわりなき中と縁組て  一泉

 「わりなし」の良い意味と悪い意味があり、宮本注は良い方に解しているが、干し残した稲が残っている辺りは、そんなに仲が良さそうに思えない。たまたま家が隣だったために無理やりくっつけられてしまったのではないか。
 十四句目。

   ふたつ屋はわりなき中と縁組て
 さざめ聞ゆる國の境目      芭蕉

 ここで良い意味に転じたのではないかと思う。国境までその噂が聞こえるほどの仲の良い二人に取り成す。
 十五句目。

   さざめ聞ゆる國の境目
 糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろも  北枝

 「恋衣」は「凉しさや」の巻の七句目にも出てきた。

   影に任する宵の油火
 不機嫌の心に重き恋衣      扇風

 この時も引用したが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① (常に心から離れない恋を、常に身を離れない衣に見立てた語) 恋。
  ※万葉(8C後)一二・三〇八八「恋衣(こひごろも)着奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし吾が恋ふらくは」
  ② 恋する人の衣服。
  ※風雅(1346‐49頃)恋二・一〇六五「妹待つと山のしづくに立ちぬれてそぼちにけらし我がこひ衣〈土御門院〉」

とある。
 「不機嫌の」の句の時とは違い、「糸かりて」「ぬふ」と明確に衣服を縫う場面なので②の意味になる。
 国の境目で、他国へ駆け落ちするところか。もっともこの時代で「駆け落ち」というと別に恋とは限らず失踪することを意味していたが。
 十六句目。

   糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろも
 あしたふむべき遠山の雲     雲口

 旅立つ恋人のために衣服を縫う場面とする。『伊勢物語』二十三段「筒井筒」の、

 風吹けば沖つ白波たつた山
     夜半にや君がひとり越ゆらむ

の心か。
 十七句目。

   あしたふむべき遠山の雲
 草の戸の花にもうつす野老にて  浪生

 野老(ところ)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「ヤマノイモ科の蔓性(つるせい)の多年草。原野に自生。葉は心臓形で先がとがり、互生する。雌雄異株。夏、淡緑色の小花を穂状につける。根茎にひげ根が多く、これを老人のひげにたとえて野老(やろう)とよび、正月の飾りに用い長寿を祝う。根茎をあく抜きして食用にすることもある。おにどころ。《季 新年》「―うり声大原の里びたり/其角」

とある。『笈の小文』の伊勢菩提山神宮寺の荒れ果てた姿を見ての句に、

    菩提山
  此山のかなしさ告げよ野老掘(ところほり) 芭蕉

の句がある。
 野老には山で採れる田舎の素朴さと長寿のお目出度さの両面がある。
 この句の場合は正月飾りの野老に花の春を感じさせるとともに、草庵に住む老人のまた旅に出る姿とが重ね合わされている。
 芭蕉が後に『猿蓑』の「市中は」の巻で詠む、

   ゆがみて蓋のあはぬ半櫃
 草庵に暫く居ては打やぶり    芭蕉

に影響を与えていたかもしれない。
 挙句。

   草の戸の花にもうつす野老にて
 はたうつ事も知らで幾はる    曾良

 人徳のせいか近所の人がいろいろ援助してくれて、働かなくても生活できる修行僧なのだろう。それはまあ目出度いことだ。

2020年8月24日月曜日

 何となく少し涼しくなったかな。
 「残暑暫」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   小桶の清水むすぶ明くれ
 七より生長しも姨のおん     雲口

 「ななつよりひととなりしもおばのおん」と読む「姨(おば)」は姨捨山のように単に老女の意味する場合もある。この場合も七つよりで生まれた時からではないから、何らかの事情で途中から老女に育てられたということだろう。水を汲んだり苦労して育ててくれたんだ、と人情句。
 八句目。

   七より生長しも姨のおん
 とり放やるにしの栗原      乙州

 「とり(鳥)放つ」は放生会の時だけでなく、葬式の時にも行われることがある。コトバンクの放鳥の意味として「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 死者の供養のために、鳥を買って放すこと。また、その鳥。はなちどり。
  ※浮世草子・好色二代男(1684)八「三拾文はなし鳥(ドリ)三羽」

とある。
 自分を一人前に育ててくれた姨の葬儀に、放鳥を行う。
 栗は西の木と書くので、西の栗原というと何となく葬儀場っぽい。
 九句目。

   とり放やるにしの栗原
 読習ふ歌に道ある心地して    如柳

 読み習った歌というのはもしかして、

 心なき身にもあはれはしられけり
     鴫立つ沢の秋の夕暮
               西行法師

かな。飛び立ってゆく鴫が歌の道なら、放生会で飛び立ってゆく鳥にもその心は通じるのではないか。
 十句目。

   読習ふ歌に道ある心地して
 ともし消れば雲に出る月     北枝

 歌の心というと月花の心。灯りを消すと雲の間から月が出て明るく照らしてくれるなら、心ある月といえよう。
 十一句目。

   ともし消れば雲に出る月
 肌寒咳きしたる渡し守      曾良

 「はださむみしわぶきしたる」と読む。月が出たから船が出せると、それとなく咳をして誰かに知らせているのだろうか。
 十二句目。

   肌寒咳きしたる渡し守
 をのが立木にほし残る稲     流志

 「をの」は小野だろう。前句を普通に肌寒くて咳をしたとして、渡し場の景を付ける。

2020年8月23日日曜日

 さて、秋になり昨夜は北の空が雷鳴もなく光って見えた。夕立は夏、稲妻は秋ということで、稲妻や夜に現る雲の崖。
 夜中に雨が降ったらしい。今日は朝から曇り。昼前から雨になって午後には上がる。
 それでは秋の俳諧ということで、まだ旅気分を残しながら、芭蕉の『奥の細道』の旅の途中、金沢での半歌仙を見てみよう。曾良の『旅日記』七月二十日のところにこうある。

 「廿日 快晴。庵ニテ一泉饗。俳、一折有テ、夕方、野畑ニ遊。帰テ、夜食出テ散ズ。子ノ刻ニ成。」

 天気は良かったが残暑厳しい頃だ。一泉は金沢の人で犀川の畔に松玄庵を構えていたという。暑い中を一折、つまり初の懐紙の表裏のみを巻いた。半歌仙とはいえ、芭蕉を含め十三人、北枝、乙州等も参加したにぎやかな興行だった。夕方には野畑を散歩し、夜食を食べてから解散したが、子の刻というから真夜中だった。
 発句は、

   少幻菴にて
 残暑暫手毎にれうれ瓜茄子    芭蕉

 で、『奥の細道』では、

   ある草庵にいざなはれ
 秋涼し手毎にむけや瓜茄子    芭蕉

に改められている。
 十五日に芭蕉は加賀の一笑の死を聞かされる。一笑は元禄二年刊の『阿羅野』にその名が見られるが津島の一笑もいるため、紛らわしい。加賀と明示されている句は、

 元日は明すましたるかすみ哉   一笑
 いそがしや野分の空の夜這星   同
 火とぼして幾日になりぬ冬椿   同
 齋に来て庵一日の清水哉     同

の四句ある。元禄五年刊句空編の『北の山』には、亡人の句として、

 珍しき日よりにとをる枯野哉   一笑

の句が収められている。三十五歳(数えで三十六)でまだこれからというときに亡くなった一笑を惜しみ、折からの初盆に一笑の墓に参り、七月二十二日の追善会で、

 塚も動け我泣声は秋の風     芭蕉

の句を詠む。誇張なしの号泣だったのだろう。
 そういう事情でお盆という季節柄もあって、興行もまた追善興行にならざるを得なかった。
 瓜や茄子は故人へのお供え物で、精霊棚にみんなそれぞれ皮をむいて故人に供え、故人と一緒に食べましょうということだろう。キュウリやナスで馬を作るようになったのは多分もっと時代の下った後のことだろう。
 実際には送り火も過ぎて精霊棚はなかっただろう。それでも気持ちとして今日は故人とともにこの興行を行いましょうという意味だろう。
 「れうれ」は料理(れうり)を「料(れう)る」と動詞化した命令形で、名詞の動詞化は今日でも色々見られる。昔筆者が書いた『奥の細道─道祖神の旅─』には「メモれ、コピれ、テプれ」なんて書いたが、さすがに今となっては古い。八十年代のビートきよしのネタだったか。「みんなメモれ、コピれ」はスチャダラパーの『今夜はブギーバック』にもあるから、九十年代くらいまではよく用いられていた。さすがにカセットテープの時代は終わっていたか「テプれ」はないが。
 まだ残暑の厳しい折だが、みんな一笑さんに手毎に瓜茄子を剥いてあげましょう、というこの発句に、亭主の一泉さんはこう和す。

   残暑暫手毎にれうれ瓜茄子
 みじかさまたで秋の日の影    一泉

 秋の日はまだそんなに短くもなってなく、まだまだ残暑が厳しいというの表向きの意味だが、「みじかさまたで」には若くして世を去った一笑への追善が含まれている。秋の日の短くなるのを待たずに逝ってしまった故人の影が偲ばれます、というのがもう一つの意味になる。
 第三。

   みじかさまたで秋の日の影
 月よりも行野の末に馬次て    左任

 秋で前句に天象もあるから、ここは月を出すしかない。
 秋の日の影も短さを待たずに沈んでゆき、それと入れ替わるかのように月が登れば、自らの旅路も行野の末で馬を乗り換えることになる。
 四句目。

   月よりも行野の末に馬次て
 透間きびしき村の生垣      丿松

 「丿」は「べつ」と読む。右から左へ戻るという意味で、「丿乀(へつぽつ)」だと船が左右に揺れる様だという。丿松は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注に、一笑の兄とある。
 馬を乗り次いで旅をしていると、やけに生垣の立派で厳めしい村に着く。これでは月が見えないのでは。
 五句目。

   透間きびしき村の生垣
 鍬鍛冶の門をならべて槌の音   竹意

 やけに生垣が立派だと思ったら、鍬鍛冶が何軒も軒を並べている。燕三条のように代官が政策的に鍛冶職人を集め、領民の副業として推奨していたのだろう。燕三条は釘鍛冶を集めたが、ここでは鍬鍛冶にしている。
 六句目。

   鍬鍛冶の門をならべて槌の音
 小桶の清水むすぶ明くれ     語子

 鍛冶屋がたくさんあれば、それだけ大量の水を消費する。

2020年8月19日水曜日

 今日から秋。空には筋雲があり、赤とんぼが飛び、ツクツクホウシの声がする。
 種名としてはツクツクボウシなのだろう。図鑑だと「ボ」になっている。ただ鳴き声は「ほーしーつくつく」としか聞こえないし、それに法師を掛けた名前だったと思う。
 コトバンクではツクツクホウシでも出てくる。「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「翅目セミ科の昆虫(イラスト)。ツクツクボウシともいう。…以下略…」

とある。
 それでは「富貴艸」の巻、挙句まで。

 十三句目。

   二度めの婚とや婚とやとせず
 醫師ながら少占方も心得て    等盛

 「少占方」は「ややうらかた」と読む。
 江戸時代前期から中期までは離婚率も高く、再婚も珍しくなかったようだ。
 醫師も今日のような国家資格などないから、誰でも開業でき、後は腕次第というか実績を積み重ねるしかないといったところだろう。漢籍に通じているから、易経とか読んでいてもおかしくはないし、占い師も資格があるわけではないから、医者と易者と両方兼ねていてもおかしくない。
 前句の「婚とや婚とやとせず」多分占いの結果なのだろうけど、よくわからない。「二度目の婚とや坤とやとせず」か。
 十四句目。

   醫師ながら少占方も心得て
 通事居ぬ間に絹地さし出ス    等般

 「通事」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 通訳。特に、江戸時代、外国貿易のために平戸・長崎に置かれた通訳兼商務官。唐通事・オランダ通詞があった。通弁。
  2 民事訴訟で、言葉の通じない陳述人のために通訳を行う者。刑事訴訟では通訳人という。
  3 間に立って取り次ぐこと。また、その人。
  「お手が鳴らば猫までに―させよ」〈浮・男色大鑑・八〉」

とある。漢文に精通している医者なら、唐通事のいない間にこっそりと絹織物の取引をするということもあったか。
 十五句目。

   通事居ぬ間に絹地さし出ス
 月雪の箱ねを越て一休      助叟

 この場合の通事は単なる取次のこととして、無視してかまわないということか。
 箱根越えも雪が降れば難儀するが、月に照らされた雪の箱根の美しさはまたひとしおであろう。絵師であればぜひとも絵に描いてほしいし、俳諧師であれば一句揮毫を願いたいものだ。マネージャーを兼ねた御伴の者がいない間に、絹地を差し出して一筆願う。
 十六句目。

   月雪の箱ねを越て一休
 やつと提たる鴻の羽箒      桃隣

 「羽箒(はぼうき)」は茶道具で、埃や煤を掃うために用いる羽で、鴻の羽が用いられることもある。
 一休みで茶をたてようというところか。
 十七句目。

   やつと提たる鴻の羽箒
 人斗ル升や有覧花の席      桃秀

 花の下での宴会といえば升酒だが、それに興味を示さない人は茶人だろう。
 挙句。

   人斗ル升や有覧花の席
 色も分ン也飯蛸の飯       等盛

 升酒を配る花の席の主催者を見れば、気前のいい太っ腹な人柄も分かるし、飯蛸の釜めしが出てくれば趣味の良さも分かる。蛸は八本足で末広がり、縁起良くこの一巻は締めくくられる。

2020年8月18日火曜日

 長かった夏もようやく今日で終わり。
 ふと思ったんだが、ナチスのホロコーストって、もしナチスが戦争を起こさなかったらずっと続いてたんではないか。戦争があったから、連合軍がドイツ国内に入って収容所を開放することができたが、戦争がなければ今のウイグルと同じで手を付けられないばかりか、調査すらできなかったのではないか。
 中国も北朝鮮も戦争をギリギリのところで回避することで、誰も手を出せなくなっている。香港も独立政府でも作って中国から出れば、他の国も介入の余地があるが、今の状態では中国国内の問題で手が出せない。
 トランプは軍隊を動かさずとも経済制裁だとかトレーディングで解決できるのではないかとやってみたが、今となっては無力さばかりが残ってしまった。
 国際的な難問も経済で解決できるのではないかという希望をまだアメリカ人が持っているなら、トランプは再選するだろう。絶望ならアメリカを再び世界の警察に戻す方に向かう。
 皮肉なことだが人権思想は独裁国家も守ってしまったようだ。人権の概念も国家主権の概念も、何か根本的な見直しが必要なように思える。ネトウヨ・パヨクはいても独創的な思想家がいない。マルガブは単なるパヨクでがっかり。
 それでは「富貴艸」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   鶉目がけた鼠落けり
 思ふまま軒の瓢に実の入て    等秀

 前句を貧家として『源氏物語』の夕顔の俤で付けたか。「月」「鶉」と秋の句なので夏の夕顔ではなく秋の瓢の実とする。
 八句目。

   思ふまま軒の瓢に実の入て
 箔の兀たる佛さびしき      等盛

 「兀」は「はげ」と読む。
 夕顔、瓢の貧相な雰囲気で、忘れ去られたようなお寺に場面を転じる。当初は黄金色に輝いていた仏像も、今ではすっかり箔が剥げてしまっている。
 九句目。

   箔の兀たる佛さびしき
 誰殿も行脚の内は乞食也     等般

 まあたとえば西行法師は藤原秀郷の八世孫で鳥羽院の北面武士でもあった佐藤義清だが、行脚に出れば乞食坊主と呼ばれることにもなる。
 芭蕉は農人の子だしその親族と言われる桃隣もそれほどの身分ではなかったが、芭蕉に同行した曾良は武士で神道家だった。芭蕉行脚の時の身分の高い人との取次も曾良あってのことだったのだろう。桃隣も黒羽に行ったときには、芭蕉との待遇の差を感じたかもしれない。
 箔の剥げた仏像は寂しげだが半端に金箔が残ってたりすると、余計寂しい。完全に剥げ落ちたら、そこにはまた違った美があるものだ。
 十句目。

   誰殿も行脚の内は乞食也
 旬じやといへば時鳥啼      助叟

 望帝杜宇の故事による付けか。
 望帝と称した杜宇は農耕を指揮したが、やがて長江の反乱を抑える力のある開明に位を譲り隠棲した。死ぬとその魂は杜鵑となり農耕を始める季節を知らせるようになる。
 「旬じゃ」はここではその農耕を始める時だという意味になる。
 十一句目。

   旬じやといへば時鳥啼
 投やりに俎流す磯清水      桃隣

 「旬じゃ」をごく普通に魚の旬とする。投げやりで魚をとらえようとしたら俎板が流れて行ってしまった。
 十二句目。

   投やりに俎流す磯清水
 二度めの婚とや婚とやとせず   等秀

 再婚だとぞんざいな扱いを受けているのだろう。やる気なさげに(なげやりに)俎板を洗う。

2020年8月17日月曜日

 今日は旧暦の六月二十八日。まだまだ夏は終わらない。
 仕事も始まり、旅の方はちょっと一休みして、また俳諧を見ていこうと思う。
 『陸奥衛』巻四「無津千鳥」の所に「於奥州石川丹内氏興行」の半歌仙があったので、それをちょっと見てみよう。桃隣が須賀川を出て小名浜に行く途中、石川という所での興行だ。
 発句。

 あたらしき宿の匂いや富貴艸   桃隣

 富貴艸(ふっきそう)は曲亭馬琴編『俳諧歳時記 栞草』の夏の所に、

 「[周茂叔愛蓮説]牡丹ハ花ノ富貴ナル者也。[書言故事]多く富貴の家、彫欄丹檻の中にあり。故に花ノ富貴なる者といふ。」

とある。フッキソウというツゲ科の植物もあるが、ここでは牡丹のことと思われる。丹内氏の丹もあることで、会場となった丹内氏の屋敷を立派なのを誉めて発句と思われる。
 脇。

   あたらしき宿の匂いや富貴艸
 初卯花を見たる生垣       等秀

 脇を詠んでいることから、この家の主ではないかと思われる。初卯花は、

 なく声をえやは忍ばぬほととぎす
     初卯の花の影にかくれて
              柿本人麿(新古今集)

の歌に詠まれている。この歌を埋み句にするなら、宿の生垣の初卯の花の向こうからホトトギスの声がしのびもせずに聞こえてきます、という意味になる。ホトトギスはもちろん来客である桃隣のこととなる。
 第三。

   初卯花を見たる生垣
 べらべらと岨道牛に打乗て    等盛

 「べらべら」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「③のんびりしているさま。のんきにぶらぶらしているさま。 「半兵衛は蔵に-何してゐやる/浄瑠璃・宵庚申 下」

の意味が記されている。
 牛に乗るというと老子が連想される。山の中の道を牛に乗ってのんびりと行く老子のような人物は初卯の花の咲く生垣に心を止める。
 等盛は巻一「陸奥衛」に、

 雲連て原にひろがる霞哉     等盛
 暮六ッにじつと落着柳哉     同

の句が見られる。
 四句目。

   べらべらと岨道牛に打乗て
 近付ふゆる温泉の言伝      等般

 「温泉」はこの場合「でゆ」と読むのか。前句の「べらべら」をべらべら喋るの意味に取り成したのだろう。
 温泉からの伝言は近づくにつれていろいろ尾ひれがついて長くなる。
 等般は巻一「陸奥衛」に、

 難波津や明の星咲としの花    等般

 巻二「むつちとり」に、

 川風や撫子一ッ動き初      同

などの句が見られる。
 五句目。

   近付ふゆる温泉の言伝
 油じむ枕奪合夜半の月      助叟

 温泉ではやはり昔から枕投げだったか。油じむは汚れたという意味。奪合は「はひあふ」と読む。
 助叟は桃隣の旅に同行の伴。
 六句目。

   油じむ枕奪合夜半の月
 鶉目がけた鼠落けり       桃隣

 一巡して桃隣に戻る。
 「田鼠化して鶉と為る」という言葉が『礼記』にあるという。枕を奪い合っていると天井から鼠が落ちてきて、さては鶉になって飛ぼうとしたか。

2020年8月16日日曜日

 お盆休みも今日で終わり。
 お盆休みということもあってコロナの新規感染者数は減っている。ただ重症者数と死者数はじわじわと増えていて、四月の半ばくらいのレベルになってきている。
 休み明けで、今のところ何の対策もなく平常通りの日常が始まるとすれば、また上昇に転じる。九月が怖い。そして涼しくなればインフルエンザとのダブルがまた怖い。正しく恐れることが大事だ。
 それでは「舞都遲登理」の続き。

 「小名濱ヨリ二里來て湯本アリ。山は權現堂、麓は町家、温泉數五十三、家々の内に有。勝手能諸事自由にて、近國より旅人不絶、此所半里來て白水と云所アリ。海道ヨリ十六丁、左へ入、阿彌陀堂、則平泉光堂の寫し也。秀衡妹徳尼御前建立、奥院、弘法大師、尤女人禁制。
 岩城山・千手觀音・彌生山・麝香石・此邊也。此外舊跡ありといへども、少時の滞留見殘し侍る。」(舞都遲登理)

 藤原川に沿って登ってゆくと湯本に出る。山は観音山で権現堂は神仏分離で今は温泉神社になっているのだろう。麓に町があって温泉宿が五十三軒とかなり賑わっていた。
 現代ではここに「さはこの湯公衆浴場」があるが、飯坂温泉を訪れた西行法師が、

 あかずして別れし人のすむ里は
     左波子(さばこ)の見ゆる山の彼方か
                 西行法師

と呼んだことから「さばこの湯」という歌枕になったのを、例の磐城平の殿様が領内に持ってきたため、ここも「さばこの湯」と呼ばれていた。
 飯坂温泉は芭蕉も『奥の細道』の旅で訪れているのだが、名前が飯塚に変えられて、旅の苦しさを語る一場面として用いられてしまった。
 さらに北へ行くと白水という所がある。白水阿弥陀堂がある。永暦元年(一一六〇年)奥州三代の三代藤原秀衡の妹徳姫(徳尼)によって開かれた。ウィキペディアに、

 「阿弥陀堂は方三間(正面・側面とも柱が4本立ち、柱間が3間となる)の単層宝形造で屋根はとち葺。堂内は内陣の天井や長押、来迎壁(本尊背後の壁)などが絵画で荘厳されていたが、現在は一部に痕跡を残すのみである。内陣の須弥壇上には阿弥陀如来像を中心に、両脇侍の観音菩薩像と勢至菩薩像、ならびに二天像(持国天像、多聞天像)の5体の仏像が安置されている。東北地方に現存する平安時代の建築は、岩手県平泉町の中尊寺金色堂、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、当堂の3棟のみである。」

とある。奥院とあるのは真言宗智山派の願成寺のことか。
 岩城山も磐城平の殿さまがあの弘前の岩木山に見立てたもので、今は石森山になっている。白水阿弥陀堂の北東にある。榧の大木を切って千手観音を彫り、開山したと伝えられている。彌生山・麝香石もあったようだが、桃隣も多分麓から眺めただけで見て確認はしてない。

 「城下を立て三坂村へ八里、行々て奥道日和田ヘ出ル。此所四丁行て道端、右の方に淺香山。南都若艸山の俤有。名有山とは見えたり。巓に少キ榎三本有。往來貴賤登ルと見えて徑アリ。梺ヨリ四十三間、梺ノ廻リ貳百六十八間。
    〇五月女に土器投ん淺香山」(舞都遲登理)

 石森山の南側には磐城平城があり城下町になっている。これが磐城平の殿様、内藤家の居城だ。三坂村はそれより北西の山の中へ入った方で今は三和町という地名になっている。三坂城跡がある。そこを越えてゆくとやがて仙台道の日和田宿に出る。今の郡山市で東北本線に日和田駅がある。大体今の国道49号線の前身となる道ではなかったかと思う。
 その少し先右側に安積山公園がある。今は公園だが、昔は奈良の若草山のような風情だったのだろう。
 
 五月女に土器投ん淺香山     桃隣

 「土器」は「かわらけ」と読む。ウィキペディアには、

 「かわらけ投げ(かわらけなげ、土器投げ、瓦投げ)は、厄よけなどの願いを掛けて、高い場所から素焼きや日干しの土器(かわらけ)の酒杯や皿を投げる遊びである。」

とある。
 小高い浅香山に登れば、「かわらけ投げ」をしてみたくなる。
 浅香山の麓はかつて浅香沼という巨大な沼があったというが、芭蕉や桃隣が来た頃には田んぼになってしまっていた。そのためかわらけ投げは外の五月女に向かって投げることになる。

 「此山ヨリ未申ノ方、山際に帷子と云村に、采女塚、山ノ井も此邊、賤の根に葎おほひて底も見えわかず。
    〇山の井を覗けば答ふ藪蚊哉」
 淺香の沼は田畠となり、かつみ草・花蔣、いづれともしれず、只あやめなりといひ、眞菰成といひ、説々おほし。菖蒲池と云は此所にあり。」(舞都遲登理)

 浅香山公園から南西の方角、磐越西線や東北自動車道を越えた向こう側の片平町に山の井公園と采女神社がある。ウィキペディアには、

 「我が身を犠牲にして地方民の困窮を救った采女伝説の主人公、春姫の霊を慰めるため、1956年(昭和31年)4月に片平村教育委員会、婦人会、傷痍軍人会、青年団が発起として、采女神社建設委員会が組織された。村内外有志400名余より寄付金約30万円を集め、1957年(昭和32年)5月1日この神社が完成した。建立場所である山ノ井農村公園には、春姫が亡き恋人を追って身を投げたと伝わる「山ノ井清水」や、「采女塚」がある。祭神は王宮伊豆神社より分祀された。」

とある。

 安積香山影さへ見ゆる山の井の
     浅き心を吾が思はなくに
             よみ人知らず(万葉集巻十四)

という歌で知られていて、さらに俳諧師の間では季吟編の『山之井』のタイトルでも知られていた。芭蕉の宗房時代の句は同じ季吟編の『増山の井』に入集している。
 この頃の山の井は葎茂る中に埋もれて水もあるかないかわからない状態だった。そこで一句。

 山の井を覗けば答ふ藪蚊哉    桃隣

 山の井は藪蚊の棲家だった。
 浅香山の周りにはかつて浅香沼という大きな沼があったが、今は五月女が田植えをしていると、前にも書いたが、すっかり田畠となり、かつみ草・花蔣(はなかつみ)のことはわからなかった。
 『奥の細道』にも、

 「等窮が宅を出て五里計、檜皮の宿を離れてあさか山有あり。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやや近うなれば、『いづれの草を花かつみとは云ぞ』と、人々に尋侍ども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端はにかかりぬ。」

とある。
 ただ、桃隣は菖蒲池があるとは言っても「沼多し」とは言ってない。曾良の『旅日記』には、

 「町はづれ五、六丁程過テ、あさか山有。壱リ塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いずれの谷にも田有。 いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ(道ヨリ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、帷子ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。古ノにや、ふしん也。」

とある。これが一番正確なところだろう。なお、山の井が本物かどうか疑っている。
 花かつみは、

 みちのくのあさかのぬまの花かつみ
     かつ見る人にこひやわたらむ
               よみ人知らず(古今集)

の歌で知られているが、古来謎の花とされていて、ウィキペディアによれば、能因は真菰と言い、前田利益はカキツバタだと言ったという。
 明治九年(一八七七年)の明治天皇の巡幸の際、ヒメシャガが花かつみとして叡覧に供された。まあ、天皇陛下が偽物を見たとするわけにもいかないので、今日ではヒメシャガということにしておくのがいいだろう。

 「二本松城下にさしかかり、龜が井、町より半里、阿武隈の川端に、彼黑塚有。邊は田畑也。此あたりをさして安達原と云。
    〇塚ばかり今も籠るか麥畠」(舞都遲登理)

 亀が井は今の二本松駅の近くの亀谷であろう。仙台道はここで昔の街道によくある枡形になっていて阿武隈川とは反対の方向に亀谷坂を登ることになる。ここからしばらく仙台道は阿武隈川から離れてしまうので、ここで右に入りというか、おそらく街道が左に折れるところを直進し、阿武隈川の方へ降りてゆく。今だと橋を渡った所に黒塚がある。
 この黒塚については、『奥の細道』は

 「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福嶋に宿る。」

とだけある。岩屋は塚の近くの観世寺にある。鬼婆がここに籠ったという伝承がある。二本松市観光連盟のホームページには、

 「昔、京都の公卿屋敷に「岩手」という名の乳母がいて、姫を手塩にかけて育てていました。その姫が重い病気にかかったので易者にきいてみると「妊婦の生き肝をのませれば治る」ということでした。そこで岩手は生き肝を求めて旅に出て、安達ケ原の岩屋まで足をのばしました。
 木枯らしの吹く晩秋の夕暮れ時、岩手が住まいにしていた岩屋に、生駒之助・恋衣(こいぎぬ)と名のる旅の若夫婦が宿を求めてきました。その夜ふけ、恋衣が急に産気づき、生駒之助は産婆を探しに外に走りました。 この時とばかりに岩手は出刃包丁をふるい、苦しむ恋衣の腹を割き生き肝を取りましたが、恋衣は苦しい息の下から「幼い時京都で別れた母を探して旅をしてきたのに、とうとう会えなかった・・・」と語り息をひきとりました。ふとみると、恋衣はお守り袋を携えていました。それは見覚えのあるお守り袋でした。なんと、恋衣は昔別れた岩手の娘だったのです。気付いた岩手はあまりの驚きに気が狂い鬼と化しました。
 以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」として広く知れわたりました。」

とある。妊婦の生き胆は今の中国だったら法輪功から簡単に手に入りそうなものだが。

 塚ばかり今も籠るか麥畠     桃隣

 塚は当時麦畑に埋もれていたようだ。

 「福嶋より山口村へ一里、此所より阿武隈川の渡しを越、山のさしかかり、谷間に文字摺の石有。石の寸尺は風土記に委見えたり。いつの比か岨より轉落て、今は文字の方下に成、石の裏を見る。扇にて尺をとるに、長さ一丈五寸、幅七尺余、檜の丸太をもて圍ひ、脇よりの目印に杉二本植、傍の小山に道祖神安置ス。右の山口村へ戻り、海道へ出る。行戻二十丁有。
    〇文字摺の石の幅知ル扇哉」(舞都遲登理)

 『奥の細道』には、

 「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋たづねて忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に、石半土に埋てあり。里の童部の来たりて教ける、『昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして此石を試侍るをにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり』と云。さもあるべき事にや。
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺」

とある。これではいかにもぞんざいに扱われてきたような印象を受ける。
 曾良の『旅日記』には、

 「一 二日 福嶋ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、イガラベ(五十辺)村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七、八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七、八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ(文字摺)石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六、七本有。」

 「柵フリテ有」は桃隣の「檜の丸太をもて圍ひ」と一致するが、杉二本は杉桧六、七本に増えていて、道祖神は観音堂になっている。まあ、一応史跡として保存されていたようだ。
 五十辺村はウィキペディアに、

 「特に五十辺と呼ばれる範囲は、国道4号(奥州街道)、国道115号(中村街道)、阿武隈川、松川に囲まれたエリアを指す。」

とある。仙台道を行く場合、今の競馬場の所を過ぎ、国道115号を越え、松川を渡らないあたりが五十辺村になる。今なら国道115号の文字摺橋で阿武隈川を越える所だが、昔はこのあたりに渡し船があったのだろう。川の反対側には岡部という地名が残っている。
 文字摺石は今は普門院(文知摺観音)の中にあり、寺院の庭園の中にある。福島民友新聞のホームページには、

 「文知摺石は縦横約5メートル、高さ約2・5メートルの火成岩。地中に埋まっていたが、1885(明治18)年、信夫郡長柴山景綱(県令三島通庸の義兄)が周辺住民千人余りを集め発掘した。このため今は、三方が石垣になったくぼ地の底にある。「日記」に記された柵は、10年ほど前に取り払われた。文知摺観音(普門院)の横山俊邦住職は「正岡子規が訪れた時『あの柵は何だ』と不評だったらしい。代わりにモミジを植えた」と話す。」

とある。古い柵がそのまま残っていたわけではないが、ただネット上には鉄格子の扉のついた石と鉄の柵に囲まれている写真が多数ある。
 それで気になる大きさだが、桃隣の扇を使った計測によると「長さ一丈五寸(約3.2メートル弱)、幅七尺余(2.1メートル強)」。小さめなのは半分埋まってたせいだろう。発掘されて角度も変わったから比較はしにくいが、当時の状態としては正確だったと思う。

 文字摺の石の幅知ル扇哉     桃隣

 なお、この文知摺観音の付近に福島市山口という地名が残っている。

 「一里行、左の方徑より佐葉野と云所、二里分入、瑠璃光山醫王寺。寶物品々有。中に義経の笈・辨慶手跡・大盤若アリ。佐藤庄司舊跡、丸山城跡アリ。南殿櫻・夜の星(是名水の井也)。庄司墓所・一門石塔・次信・忠信の石塔有。
    〇星の井の名も頼母しや杜若
    〇丸山の橋も武き若葉哉」(舞都遲登理)

 五十辺に戻り、仙台道を一里行くと多分今の瀬上町本町のある辺りから左に入っていったのだろう。このあたりに瀬上(せのうえ)宿があった。曾良の『旅日記』には、「瀬ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。」とある。佐場野古屋という地名はあるが、多分佐場野(佐葉野)はもっと広い地域を表していて、瑠璃光山醫王寺のあたりも含まれていたのだろう。
 瑠璃光山醫王寺に伝わる宝物は曾良の『旅日記』だと、「寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由。」で、判官義経の笈と弁慶の手跡(書のこと)は一致している。笈は今だとあの『鬼滅の刃』の竈門炭治郎が背負ってるああいうものを想像すればいいかもしれない。あれも一種の笈だと思う。「大般若」は大般若経のこと。
 境内には今も佐藤基冶・乙和の墓碑、佐藤継信と忠信の墓碑がある。医王寺のホームページによると、

 「佐藤継信と忠信の墓碑に関しては、中世に広く見られた板碑と呼ばれる供養塔で、石塔の角が無いのはかつて熱病の際に飲むと治るという言い伝えがあり削られたためで、2人のような勇猛な武士にあやかりたいとする信仰がありました。」

とのこと。
 丸山城は今は大鳥城と呼ばれ、舘ノ山公園になっている。医王寺からは川を渡った向こう側にある。東水の手、西水の手という井戸の跡があるが、夜の星なのかどうかは不明。
 『奥の細道』だと、

 「月の輪のわたしを越て、瀬せの上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半計に有あり。飯塚の里、鯖野と聞ききて、尋々行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。梺に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞きこえつる物かなと袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。寺に入いりて茶を乞へば、爰に義経の太刀たち・弁慶が笈をとゞめて什物とす。
 笈も太刀も五月さつきにかざれ帋幟」

 これだと丸山城のすぐそばに医王寺があるかのように錯覚する。また、笈は弁慶のものになっているし、義経の太刀が付け加わっている。
 さて、丸山城にて二句。

 星の井の名も頼母しや杜若    桃隣
 丸山の橋も武き若葉哉      同

 特に説明することもないだろう。

 「此所ヨリ飯坂へ出、奥海道桑折へ出る。是ヨリ藤田村へかかり、町を出離て、左の方へ二丁入、義経腰掛松有。枝葉八方に垂、枝の半は地につき、木末は空に延て、十間四方にそびえ、苺の重り千歳の粧ひ、暫木陰に時をうつしぬ。
    〇辛崎と曾根とはいかに松の蟬」(舞都遲登理)

 丸山城は今は福島市飯坂町になっていて、それだけ飯坂温泉は近い。芭蕉と曾良はここで一泊しているが、桃隣はスルーする。いわき湯本の方は詳しく書いているが、本家の飯坂の方はあまり見るものがなかったのだろうか。
 桑折と藤田は東北本線では一駅だ。ちなみにその次が貝田になる。義経の腰掛松は藤田と貝田の中間にある。今は三代目の小さな松があるという。この松については『奥の細道』にも『旅日記』にも記載がない。雨が降っていたのと芭蕉の持病の再発のせいで、寄り道をしたくなかったか。

 辛崎と曾根とはいかに松の蟬   桃隣

 辛崎の松は大津の琵琶湖岸にあり、

 辛崎の松は花より朧にて     芭蕉

の句でも知られている。
 曽根の松は兵庫の曽根天満宮にある。いずれも遠くにあるので、この義経腰掛松で鳴いている蝉にとっては何のことやら。

 「經塚山此所なり。又海道へ出るに、國見山高クささえ、伊達の大木戸構きびしく見ゆ。是ヨリ才川村入口に鐙摺の岩アリ。一騎立の細道也。歩行て右の方に寺有、小高キ所、堂一宇、次信・忠信兩妻軍立の姿にて相双びたり。外に本尊なし。
    〇軍めく二人の嫁や花あやめ」(舞都遲登理)

 この義経腰掛松のあたりが経塚山だったのか、近くに厚樫山のきれいな三角形が見える。かつては国見山とも呼ばれていた。かつて頼朝軍と奥州藤原氏の軍とが戦った阿津賀志山の戦いがあったところだ。
 仙台道に戻って少し行くと国見峠になり、この辺りに伊達の大木戸があった。伊達の大木戸というからには扉が閉まるような立派な門が建っていたかと思ったが、どうもそうではなくこの峠自体がそう呼ばれていたようだ。
 曾良の『旅日記』には、

 「桑折トかいた(貝田)の間ニ伊達ノ大木戸 (国見峠ト云山有)ノ場所有。コスゴウ(越河)トかいたトノ間ニ 福嶋領(今ハ桑折ヨリ北ハ御代官所也)ト仙台領(是ヨリ刈田郡之内)トノ堺有。」

とある。「越河と書いた戸の間に」と読みそうになったが、「越河と貝田との間に」が正しい。伊達の大木戸は桑折と貝田の間にあり、実際の福嶋領と仙台領の境は貝田と越河の間にあるという意味。
 『舞都遲登理』の「構きびしく」も何らかの構造物があるように思ってしまうが、「きびしく」は道の険しさのことを言う場合もある。
 越河を過ぎると斎川(才川)になる。鐙摺(あぶみずり)の岩は曾良の『旅日記』では「アブミコワシト云岩有」となっている。そこから少し入ったところに堂があったようだ。曾良の『旅日記』には「次信・忠信ガ妻ノ御影堂有」となっている。今は甲冑堂という名の堂が建っていて、桃隣の句碑があるという。

 軍めく二人の嫁や花あやめ    桃隣

 二人の妻のことは、『奥の細道』では医王寺の所に記されている。

 「又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。」

 この二人の妻は二人の息子を失った義母を慰めるために、甲冑を着て、息子が帰って来たかのように演技したという。別に甲冑を着て戦ったわけではないようだ。

2020年8月15日土曜日

 今日は終戦記念日だが、相変わらず歴史がどうのこうのとやかましい。
 歴史は過去の資料から想像を楽しむもので、政治利用はご免こうむりたい。
 過去と今とは状況が違うのだから、過去の事例は今の世の中の参考程度にしかならないし、むしろ今後についてのいろいろな可能性を想定するうえで役立てるべきだと思う。
 歴史を忘れた民族に未来はないというのは、歴史は未来に様々な可能性を与えてくれるからで、過去にこだわることではない。
 過去は既に無く、未来は未だ無い。その「無い」ものを思い描く能力が人間の想像力だ。過去を豊かに想像できるその能力は未来をも豊かにする。歴史はみんながああだこうだと自由に議論できる場でなくてはならないし、たった一つの正解なんてものは存在しない。たった一つの過去しか思い描けない民族は未来も一つしか描けない。その一つが挫折したらどん詰まりだ。
 神話だってさまざまな異聞があるように、歴史も一つではない。「諸説あり」が最も自然な状態だ。
 連歌や俳諧も過去の遺物だと言われればそれまでだが、想像をたくましくして行けば、未来の可能性が何かしら開けるのではないかと思う。
 それでは「舞都遲登理」の続き。

 芭蕉の『奥の細道』の旅には曾良が同行したが、当時は一人旅は避けるのが普通なので桃隣にも同行者がいたと思われる。
 『陸奥衛』巻二「むつちどり」に仙台杉山氏興行の四十四(よよし)が収録されているが、ここで第三を詠んでいる助叟の名があるが、伊達郡桑折田村氏の所での歌仙興行でも第三を詠んでいる。
 また、巻四「無津千鳥」でも、

   一とせ芭蕉、須ヶ川に宿して驛の
   勞れを養ひ、田植歌の風流をのこ
   す。予其跡を慕ひ、關越ルより例
   の相樂氏をたづね侍り。
 踏込て清水に耻つ旅衣      桃隣
   章哥とはれてあぐむ早乙女  等躬
 鑓持のはねたる尻や笑ふらん   助叟

   白河の關を越る
 卯花に黑みやうつす影法師    助叟
   けふは扇の入天氣にて    桃隣
 業平を思ふか鄙の都鳥      等躬

   對兩雅
 折に來て手足よこすな蔣草    等躬
   道筋聞ケば鳧の飛方     助叟
 夏の月亭の四隅の戸を明て    桃隣

の句が記されている。
 奥の田植歌を聞こうとついつい清水を濁してしまった旅人に、田植歌の歌詞を聞かれて戸惑う早乙女は「何このおっさん」って感じか。それとは場面を変え大名行列に転じて、鑓持ちが鑓を勇ましく振り立てる時に尻が丸出しになるのを笑う早乙女とする。
 白河の関では芭蕉の「早苗にも我色黒き日数哉」の句を踏まえ、白い卯の花にも自分の黒くなった姿が影法師のように映ると発句する。
 巻四「武津致東利」には、芭蕉の「秣負ふ」の巻の次に、

  「けふは那須の篠原まで、送り出んと約諾し
   て、竹筒など認けるに、未明より卯花くだ
   し外も覗かれず、をのづからの滞留、をの
   をのめでくつがへり餞別をなしぬ。
 剛力に成て行ばや湯殿山     桃賀
   布子袷の跡は帷子      桃隣
 芝屋根も南東を引請て      翅輪
   いやといふまで朝茶汲出す  助叟
 今の間に霧の晴たる峯一ッ    桃水
   星の備へを崩す有明     桃雫

を表六句とする歌仙が収められている。これは黒羽を発つときの餞別で、

   留別
 山蜂の跡覺束な白牡丹      桃隣

はその返事だったのだろう。
 ここには芭蕉の「秣負ふ」の巻にも参加した翅輪の名前がある。「此所に芭蕉門人有て尋入」が翅輪だった可能性もある。翠桃も蕉門ではあるが、嵐雪を介してのつながりだったという。
 後の参加者はみんな桃がつくことから翠桃・桃雪のつながりであろう。桃隣としては桃つながりで嬉しいかもしれないが。
 ところでこの巻四「武津致東利」に収録された「秣負ふ」の巻だが、曾良の『俳諧書留』とくらべるとあちこち直されている。最後の五句は全く別物になっていて二寸の句が消滅していて翅輪の句が一句増えている。この辺はいつか詳しく見てみたい。

 それでは巻五「舞都遲登理」本文に戻る。

 「此所山を越白河に出、宗祇戻しへ掛り、加嶋・櫻ヶ岡・なつかし山・二形山・何も順道也。是より關山へ登ル。峯ニ聖觀音・聖武帝勅願所・成就山・滿願寺・坊の書院よりの見渡し白河第一の景勝也。
    〇奥の花や四月に咲を關の山
 此所往昔の關所と也。本道二十丁下りて、城下へ出、關を越る。
    〇氣散じや手形もいらず郭公」(舞都遲登理)

 このルートだと奥州街道に戻ったのではなく、那須温泉神社から最短コースで今の新白河の方に出る道があったのではないかと思われる。奥州街道を行ったなら境の明神(関明神)の記述があってもよさそうだ。白河に入ると一気に今の白河市旭町にある宗祇戻しにまで飛んでいる。
 そこから桃隣は東へ向かう。加嶋は阿武隈川渡ったところにある鹿嶋神社、櫻ヶ岡は不明、なつかし山は阿武隈川を下って行ったところに左右に小高い山があり、南側は新地山羽黒神社がある。これが「わすれず山」で、北川が「なつかし山」になる。二つ合わせて二方の山と言うので「二形山」は二方の山のことだろう。ここまでは阿武隈川に沿って道なりに行けばよかったのだろう。
 このあたりのことは曾良の『旅日記』にも見られる。

 「〇忘ず山ハ今ハ新地山ト云。但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行。阿武隈河ノハタ。
  〇二方ノ山、今ハ二子塚村ト云。右ノ所ヨリアブクマ河ヲ渡リテ行。二所共ニ関山ヨリ白河ノ方、昔道也。二方ノ山、古歌有由。
    みちのくの阿武隈川のわたり江に人(妹トモ)忘れずの山は有けり
  〇うたたねの森、白河ノ近所、鹿島の社ノ近所。今ハ木一、二本有。
    かしま成うたたねの森橋たえていなをふせどりも通はざりけり(八雲ニ有由)
  〇宗祇もどし橋、白河ノ町より右(石山より入口)、かしまへ行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしまにて連歌有時、難句有之。いづれも三日付事不成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被聞之て、其所ヘ被趣時、四十計ノ女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方へ」と問。右ノ由尓々。女「それハ先に付侍りし」と答てうせぬ。
   月日の下に独りこそすめ
 付句
 かきおくる文のをくには名をとめて
と申ければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝 。」

 芭蕉と曾良は奥州街道境の明神(関明神)の先から右へ折れて、今の白河神社のある白河関跡を訪ね、そこから関山に向かっている。忘れず山の方を通ったかどうかはわからない。聞いた話を記す場合もある。
 これに対し桃隣は先に忘れず山の方へ行き、そこから南へ折れて関山の南側に出たのではないかと思う。
 山頂からの眺めは良い。成就山・滿願寺は成就山滿願寺で成就山という山があるのではない。昔は峯ニ聖觀音・聖武帝勅願所・坊の書院などもあって栄えていたのだろう。今の外にある石の観音像がいつのものかはよくわからない。

 奥の花や四月に咲を關の山    桃隣

 みちのくの桜は遅く旧暦卯月にまだ咲いていたようだ。筆者もニ〇一三年四月二十八日に白河へ行ったが、桜が所々まだ残っていた。
 桃隣はここが白河の関だと思ったのだろう。関山を越えるとそのまま白河の城下に戻った。

 氣散じや手形もいらず郭公    桃隣

 「気散じ」は気楽ということ。現役の関ではないので手形はいらない。

 「阿武隈川は白河町の末、流れは奥の海へ落る。板橋百間余、半ニ馬除アリ。橋世に替りて見所有。影沼、白河と須ヶ川の間、道端也。須ヶ川ヨリ二十七丁白河の方也。」(舞都遲登理)

 阿武隈川は北へ流れて仙台と相馬の間の岩沼市のあたりで太平洋にそそぐ。
 「板橋百間余」というのは仙台道の阿武隈川を渡るところに長さ百八十メートルの長い橋がかけられていたということか。今の田町大橋のあたりだろう。
 影沼は鏡沼のことだという。『奥の細道』に「かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。」とある。今の鏡石の先左側で、今は田んぼになっている。ここらか須賀川まで二十七丁(三キロ)もうすぐだ。

 「須ヶ川此所一里脇、石川の瀧アリ。幅百間余、高さ三丈に近し。無双ノ川瀧、遙に川下ヨリ見れば、丹州あまのはしだてにひとし。
    〇比も夏瀧に飛込こころ哉」(舞都遲登理)

 石川の滝は乙字ケ滝のことで、桃隣は須賀川の等躬の所の所に顔を出して桃隣、助叟、等躬の三人で三つ物を三つ詠んだあと、ここに向かったのだろう。等躬の所には、このあと東北を一巡りした後再び立ち寄っている。
 この滝は『奥の細道』には描かれてない。曾良の『旅日記』には、

 「廿九日 快晴。巳中尅、発足。石河滝見ニ行(此間、ささ川ト云宿ヨリあさか郡)。須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。 歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハバ百二、三十間も有之。滝ハ筋かヘ二百五六十間も可有。高サ二丈、壱丈五六尺、所ニヨリ壱丈計ノ所も有之。」

とある。芭蕉と曾良も石川の滝は(乙字ケ滝)見ていると思われる。ところが、同じ曾良の『俳諧書留』には、

   須か川の駅より東二里ばかりに、
   石河の滝といふあるよし。行きて
   見ん事をおもひ催し侍れば、此比
   の雨にみかさ増りて、川を越す事
   かなはずといいて止ければ
 さみだれは滝降りうづむみかさ哉 芭蕉

という句が記されている。
 芭蕉と曾良は四月二十一日に白河関跡のある旗宿を出て関山を越え、白河を過ぎて矢吹に泊まる。翌二十二日に影沼を通り須賀川に入る。この日に「廿二日 須か川、乍単斎宿、俳有。」とあり、「風流のはじめや奥の田植うた 芭蕉」を発句とする興行がなされる。
 二日後の四月二十四日、「一 廿四日 主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。会席、そば切、祐碩賞之。雷雨、暮方止。」とあり、「隠家やめにたたぬ花を軒の栗 芭蕉」を発句とする興行をしている。
 石河の滝の句は『俳諧書留』ではこの後に記され、そのあとに、

   この日や田植の日也と、めなれぬことぶ
   きなど有て、まうけせられけるに
 旅衣早苗に包食乞ん       ソラ

の句が記されている。二十四日に「主ノ田植」とあり、石河の滝を断念したのが「この日」だとすれば、「かくれ家や」の興行の後行く予定で雷雨で中止したのではなかったかと思われる。可伸庵は今の須賀川市本町にあり、滝までは「壱里半計」だから日の長い夏だったら興行が四時くらいに終われば行って帰ってこれただろう。雷もあるし、田植の祝いなどが重なり会の時間が押してしまったこともあるかもしれない。
 ともあれ芭蕉も二十九日にようやく石川の滝を見ることができた。
 石川の滝(乙字が滝)はウィキペディアには「落差六メートル、幅百メートル。」とある。桃隣は「幅百間余、高さ三丈(幅百八十メートル、高さ九メートル)」とほぼ五割増し、曾良は「川ハバ百二、三十間も有之。滝ハ筋かヘ二百五六十間も可有。高サ二丈、壱丈五六尺、所ニヨリ壱丈計ノ所も有」と細かいが、高さは大体今の知識と一致するものの幅は桃隣よりも長い。乙の字の形に曲がっているから、曲線として測れば合っているのかもしれない。
 ここで桃隣の一句。

 比も夏瀧に飛込こころ哉     桃隣

 まあ夏だし、涼しそうだし、飛び込んでみたくなるのもわかる。
 ここから桃隣は意外な方向に向かう。

 「爰より石川の郡へ入て、一郡誹士アリ。少時滞留、岩城へ山越ニ通ル。此道筋難所と云、萬不自由、馬不借、宿不借、立寄べき辻堂もなし。一夜は洞に寐て、明れば小名濱へたどりつく。岩城平領也。所は東海を請て、出崎々の氣色、沖は獵船、磯は鹽を焼、陸は人家滿て、繁花の市、牛馬に道をせばむ。
    〇初鰹さぞな所は小名の濱」(舞都遲登理)

 滝の名前も「石川の滝」だったし、これより東は水郡線の磐城石川駅のある方やあぶくま高原道路の石川母畑インターのある辺りを含めて、広く石川郡だったのだろう。ここを南東に行けば小名浜に出る。
 街道筋から外れるので馬もなければ宿屋もなく、洞穴で一夜を過ごした。
 石川郡の一郡誹士(俳士)を訪ねるのも一つの目的だったのだろう。『陸奥衛』春部に「奥州石川等盛」「仝等般」の名が見える。等がつくから等躬の流れだろうか。
 とはいえ小名浜は人口も多く活気あふれる街だったようだ。

 初鰹さぞな所は小名の濱     桃隣

 鹿島神宮以来ずっと内陸部の旅だっただけに、ここで食う初鰹はまたひとしおだったに違いない。

 「此所少行て、緒絶橋・野田玉川・玉の石。いづれも同あたり也。古人の歌を引合て思へば、海邊といひ、けしきさある事にて感を催す。
    〇橋に来て踏みふまずみ蝸牛
    〇茂れ茂れ名も玉川の玉柳」

 「緒絶(おだえ)橋」は『奥の細道』に、松島を見た後

 「十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝ききつたへて、人跡稀に、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往ゆきかふ道、そこともわかず、終に路たがえて、石の巻という湊に出いづ。」

とある。

 みちのくの緒絶の橋やこれならん
     ふみみふまずみ心まどはす
             左京大夫道雅(後拾遺集)

の歌に詠まれた歌枕だが、どうして小名浜に、というところだ。桃隣の句の「踏みふまずみ」もこの歌から取っている。
 「野田玉川」も『奥の細道』に壺の碑のあと、末の松山へ向かう途中、

 「それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て末松山(まつしょうざん)といふ。」

とある。これも、

 ゆふされは汐風越て陸奥の
     野田の玉河千鳥なくなり
             能因法師(新古今集)

の歌に詠まれた歌枕だ。それがどうして小名浜に。
 答えが「歌枕いわき版 - 鄙の香り」というブログにあった。コピペは避けたいが、それによると桃隣も「岩城平領」と書いていたが、その磐城平の殿様、内藤家二代忠興三代義概は風流が好きで奥州の歌枕を自分の領内に置き換えて作ってみたらしい。まあ、何とか銀座は日本中にあるし、何とか八景も至る所にあるように、この小名浜にも野田の玉川や緒絶の橋があってもいいじゃないか、ということなのだろう。
 そういうわけで、ここにあるのは小名浜の野田玉川、小名浜の緒絶橋だったわけだ。他にも「勿来の関」も作ったため、オリジナルの方がよくわからず(ウィキペディアによれば宮城県宮城郡利府町森郷字名古曽という説がある)こちらの方が有名になり、今でも観光地になっている。
 この件には宗因も絡んでいるらしい。
 そういうわけで桃隣も確信犯でそれぞれ一句詠む。このあと宮城に行ったとき、オリジナルの方も訪ねている。

 橋に来て踏みふまずみ蝸牛    桃隣

 左京大夫道雅の歌を踏まえながらも、踏むか踏まないか迷ってたのがカタツムリがいたからだと落ちにする。

 茂れ茂れ名も玉川の玉柳     桃隣

 春の柳の繊細な糸ではなく、あえて茂れ茂れと言う。
 ちなみに、小名浜の緒絶橋、野田玉川は藤原川を遡っていったところ、常磐線の泉と湯本の中間あたりで、玉川という地名は今も残っている。

2020年8月14日金曜日

 今日も心の中は栃木県を旅している。日光から黒羽の道は歩いたこともあるので、思い出すこともある。

 「日光坊中墓所、骨堂、盤石を切抜、髪骨ヲ納。」(舞都遲登理)

 日光坊中墓所、まだ調べがついていない。わからない。

 「中禪寺、日光ヨリ三里登ル。馬返迄二里、上一里ハ難所、嶺ニ權現堂・立木觀音・牛石・神子石・不動坂・清瀧・湖水・黑髪山則此所也。三四月にも雪降。
    〇花はさけ湖水に魚は住ずとも
    〇鶯は雨にして鳴みぞれ哉
    〇雪なだれ黑髪山の腰は何」(舞都遲登理)

 中禅寺湖まで三里。馬返しは今の第一いろは坂の途中にある大谷川と般若瀧・方等瀧から来る川との分岐点の先にある、女人堂のあたりだという。ここまでは馬で来れたのだろう。月山でいう合清水のような場所だったのだろう。ここまでが二里。ここから先は山道になり一里といっても険しい急な坂で難所だった。
 立木観音は中禅寺湖の東岸にある中禅寺の御本尊十一面千手観世音菩薩で、勝道上人が桂の立木に彫ったという。「嶺ニ權現堂」は不明。
 牛石は中禅寺湖の北岸にある二荒山神社中宮祠にあり、女人禁制の禁を犯した巫女(神子)は巫女石(神子石)に牛は牛石になったといわれている。馬はだめでも牛は登れたのか。
 不動坂は馬返しの先にかつて中の茶屋があり、ここから先を不動坂という。
 清瀧は憾満ガ淵の先で大谷川を渡ったところにあり、清瀧神社と清瀧寺がある。湖水は中禅寺湖のことか。黒髪山は今の男体山のこと。この辺りは三月、四月でも雪が降るという。
 さて発句の方だが、

 花はさけ湖水に魚は住ずとも   桃隣

 中禅寺湖は火山でできた湖で、華厳の滝が魚の遡上を阻んだため、魚のいない湖と言われていた。明治以降さまざまな魚が放流されている。「花はさけ」というからまだここでは桜は咲いてなかったのだろう。それともまさか魚はいなくても「花は鮭」という駄洒落?

 鶯は雨にして鳴みぞれ哉     桃隣

 三四月に雪が降ると言っていたが、この日はみぞれだったのだろう。雨なら鶯が鳴いただろうに残念ということか。

 雪なだれ黑髪山の腰は何     桃隣

 謎かけみたいな句だが、男体山という別名から、腰の何かを想像させようというものか。

 「寂光寺、日光ヨリ一里。本尊辨財天、外ニ権現堂、左の方に瀧有。
    〇千年の瀧水苔の色青し」(舞都遲登理)

 寂光寺は清瀧まで戻った後、田母沢川を登っていったところにある。弘仁十一年(八二〇年)弘法大師の開基。明治の廃仏毀釈で今は若子神社になっている。若光の滝がある。

 千年の瀧水苔の色青し      桃隣

 これは特に言うことはないだろう。

 「此所から半里戻り、又奥山へ分入。日光四十八瀧十八瀧の中第一の瀧あり。遙に山を登て、岩上を見渡せば、十丈余碧潭に落。幅ハ二丈に過たり。窟に攀入て、瀧のうらを見る。仍うらみの瀧とはいへり。水の音左右に樹神して、氣色猶凄し。
    〇雲水や霞まぬ瀧のうらおもて」(舞都遲登理)

 裏見の滝は芭蕉も訪れ、

 暫時(しばらく)は滝に籠るや夏の初 芭蕉

の句を詠んでいる。
 ウィキペディアには落差十九メートル、幅二メートルとある。十丈だと三十メートル、幅二丈は六メートルだから、やはりさばを読んでいる。十間(十八メートル)、二間(三・六メートル)ならまだわかる。幅は水量によって変化する。まあ、正確に測ったわけでないからこんなもんなのだろう。
 なお、芭蕉は『奥の細道』に「百尺、千岩の碧潭に落たり。」と記している。百尺=十丈だし、「碧潭に落」の文言が一致しているから、ぱく…ではなく引用した?『奥の細道』素龍本は元禄七年に完成しているから、読んだ可能性はあるし、読んだからこうして足跡を巡っているのだろう。
 ここで日光についての記述は終わるわけだが、ついに華厳の滝は出てこなかった。宗長の『東路の津登』にも出てこない。勝道上人が発見したと言われているから、その存在が知られてなかったわけではないのだろう。ただ、周囲の山が険しいために幻の滝になっていたのかもしれない。そうなると『梵灯庵道の記』に出てきた滝も華厳の滝の可能性は低い。
 さて、発句。

 雲水や霞まぬ瀧のうらおもて   桃隣

 雲水はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①飛び行く雲と流れる水。行雲流水。水雲。
  ②〔空行く雲や流れる水の行方が定まらないように諸国を巡るところから〕 行脚(あんぎゃ)僧。雲衲(うんのう)。水雲。 〔特に、禅宗の僧についていう〕
  (雲や水のように)ゆくえが定まらないこと。うんすい。 「上り下るや-の身は定めなき習ひかな/謡曲・船弁慶」

とある。芭蕉の『鹿島詣』では宗波のことを「ひとりは水雲の僧」と紹介している。水雲もweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に「雲水(うんすい)に同じ。」とある。
 こうやって行方もない旅をしている身には、滝の裏も表も霞むことはない、澄み切った心になることができる、とやや自賛気味の句だ。

 「日光ヨリ今市ヘ出、太田原へかかりて、那須の黒羽に出る。
 此所に芭蕉門人有て尋入。
      卯月朔日雨
    〇物臭き合羽やけふの更衣
      はてしなき野にかかりて
    〇草に臥枕に痛し木瓜の棘
      道より便をうかがひて
    〇黒羽の尋る方や青簾
 行々て、館近、浄坊寺桃雪子に宿ス。
      翌日興行
    〇幾とせの槻あやかれ蝸牛」(舞都遲登理)

 日光から今市を経由して大渡(おおわたり)へ行き、ここで鬼怒川を渡り、船生(ふにゅう・)玉生(たまにゅう)・矢板・大田原を経て黒羽に行くのが本来の道だったのだろう。芭蕉と曾良は今市を通らず、仏五右衛門の案内で大谷川の北側へと渡り、瀬尾、川室を経て大渡に出る近道を通っている。あるいは旧大谷川を船で下ったのかもしれない。
 さて、黒羽では芭蕉の門人に会う。誰かはわからない。浄坊寺桃雪子は浄法寺図書高勝(鹿子畑高勝)で、『奥の細道』の旅の時には秋鴉の号で「秣おふ」の巻で三十五句目の花の句だけ呼んでいる。
 浄法寺は『奥の細道』に「黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る」とあるから桃隣もそれを読んで「浄坊寺桃雪子」と書き誤ったのだろう。
 この興行では弟の翠桃が中心になり、脇も詠んでいる。山梨のサイトでは元禄五年に亡くなったとあるが、大田原市のホームページでは鹿子畑翠桃(寛文2年から享保13年・1662から1728)とある。存命だったなら「芭蕉門人有て尋入」は翠桃のことで、兄の桃雪を紹介してもらったのだろう。
 桃隣、桃雪、翠桃、みんな芭蕉庵桃青の「桃」の字を受け継いでいる。(黒羽にはもう一人桃里がいる。)
 さて、発句の方を見てみよう。

   卯月朔日雨
 物臭き合羽やけふの更衣     桃隣

 衣替えで新しい服を着るものの、あいにくの雨で合羽は元のまんま。

   はてしなき野にかかりて
 草に臥枕に痛し木瓜の棘     桃隣

 これは那須野を歩いた印象だろう。ここで野宿したりすると木瓜の棘が痛いだろうな。

   道より便をうかがひて
 黒羽の尋る方や青簾       桃隣

 青簾(あおすだれ)は新しい簾。新しい畳が青いのと同じ。衣替えで簾まで新しくする立派な家柄の人なのだろうな。

   翌日興行
 幾とせの槻あやかれ蝸牛     桃隣

 浄法寺図書高勝亭での興行。庭に大きな欅の木があったのだろう。そんな立派な庭にやってきた自分はカタツムリのようなものだとへりくだって言う。

 「與市宗高氏神、八幡宮ハ館ヨリ程近し。宗高祈誓して扇的を射たると聞ば、誠感應彌增て尊かりき。
    〇叩首や扇を開き目を閉」(舞都遲登理)

 那須の与一はウィキペディアに「改名 宗隆(初名)→資隆、別名宗高」とある。
 あの有名な屋島合戦の場面は、『平家物語』に、

 「与一、目をふさいで南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須のゆぜんの大明神、願わくはあの扇の真ん中射させてたばせ給え。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二たび面を向かうべからず。今一度本国へ向かえんと思し召さば、この矢外させ給うなと心のうちに祈念して、目を見開ひたれば、風もすこし吹き弱り、扇も射よげにぞなったりける。」

とある。
 発句の方もそのまんまだ。

 叩首や扇を開き目を閉      桃隣

 「叩首」は「ぬかづく」と読む。「額突く」と書く方が一般的で、額を地面に擦り付けてお祈りすることをいう。
 浄法寺図書高勝亭は今の芭蕉公園にあり、そこから那須与一ゆかりの金丸八幡宮は一里あるかないかで、そう遠くない。余瀬の翠桃亭からだとその半分以下の距離になる。明治六年に那須神社に改称され、今では道の駅があり那須与一伝承館が建っている。余談だが那須与一伝承館へ行くと、しきりにロボット人形劇を見るように勧めてくる。相当金かけたのだろうな。

 「玉藻の社・稲荷宮、此所那須の篠原、犬追ものの跡有、館より一里計行。
    〇法樂 木の下やくらがり照す山椿
      黒羽八景の中
    〇鵜匠ともつかふて見せよ前田川
    〇夏の月胸に物なし飯縄山
    〇笠松や先白雨の迯所
    〇籠らばや八塩の里に夏三月
      行者堂に詣
    〇手に足に玉巻葛や九折
      留別
    〇山蜂の跡覺束な白牡丹」(舞都遲登理)

 玉藻の社・稲荷宮は今は玉藻稲荷神社になっている。このあたりはかつては篠原だったか。今は田んぼの中だが。
 犬追ものの跡はそれよりも近い。ここも今は田んぼの中にある。ともに芭蕉と曾良が訪れて、『奥の細道』に、「犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。」と記されている。
 それでは発句だが、「法楽」は神仏を楽しませるために芸能などをささげることで、ここでは神となった玉藻前に捧げるということか。

 木の下やくらがり照す山椿    桃隣

 「山椿」は山に自生する椿。玉藻前の塚のあたりに鬱蒼と木が茂っていて、そこに山椿が咲いていたのだろう。
 黒羽八景は瀟湘八景になぞらえて作られたものだろう。

 鵜匠ともつかふて見せよ前田川  桃隣

 これは平沙落雁であろう。前田川は今の松葉川か。

 夏の月胸に物なし飯縄山     桃隣

 これは洞庭秋月であろう。飯縄山神社は黒羽城から見て松葉川の対岸にある。

 笠松や先白雨の迯所       桃隣

 これは瀟湘夜雨であろう。笠松は笠のような形に横に枝を広げた松のこと。黒羽のどこにあったのかは不明。

 籠らばや八塩の里に夏三月    桃隣

 八塩は松葉川と那珂川の合流する辺りの東岸の山が迫る辺り。今はゴルフ場がある。山市晴嵐か。あるいは瑞巌寺の鐘の音が聞こえるということで煙寺晩鐘か。

   行者堂に詣
 手に足に玉巻葛や九折      桃隣

 行者堂は修験光明寺にあった。翠桃亭のすぐそばで、『奥の細道』にも「修験光明寺と云ふ有り。そこにまねかれて行者堂を拝す。」とある。
 発句の方は蔦の絡まった仏像でもあったのか。つづら折りの山道のように霊山に連れて行ってくれると詠む。

   留別
 山蜂の跡覺束な白牡丹      桃隣

 留別は餞別の反対で旅立つ方が贈る物。
 自らを山蜂に例え白牡丹のもとを飛び立ってゆく。

 「那須温泉 黒羽ヨリ六里余、湯壷五ッ、四町ノ間ニアリ。權現八幡一社ニ籠ル。麓に聖觀音。
  八幡寶物 宗高扇・流鏑・蟇目・乞矢・九岐ノ鹿角・(温泉アリト人ニ告タル鹿也。)守護ヨリ奉納ノ笙、他に縁起アリ。
  殺生石  此山割レ殘りたるを見るに、凡七尺四方、高サ四尺余、色赤黒し。鳥獣虫行懸り度々死ス。知死期ニ至りては、行達人も損ず。然る上、十間四方ニ圍て、諸人不入。邊の草木不育、毒氣いまだつよし。
    〇哀さや石を枕に夏の虫
    〇汗と湯の香をふり分る明衣哉」(舞都遲登理)

 那須温泉は那須温泉(ゆぜん)神社周辺の温泉で、曾良の『旅日記』には、

 「宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、温也ノ由、所ノ云也。」

とある。「不出」とあるのを除けば五つになる。
 権現八幡一社は温泉神社が誉田別命を祀っているところから温泉神社は権現八幡とも呼ばれていたのではないかと思う。
 麓の聖観音は不明。聖観音は多面多臂などの超人間的な姿ではない一面二臂の観音像で、今では那須三十三所観音霊が行われていて、聖観音を本尊とするお寺がたくさんあるが、芭蕉や桃隣の時代がどうだったかはわからない。
 八幡宝物は曾良の『旅日記』にも、

 「神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的躬残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。」

とある。
 「宗高扇」が「与一扇ノ的躬残ノカブラ壱本」、「蟇目」が「蟇目ノカブラ壱本」、「乞矢」が「征矢十本」、「他に縁起」が「正一位ノ宣旨・縁起」とある程度は一致する。たくさんあった中の記憶に残ったものであろう。今は公開されてないようだ。
 殺生石は今も公開されている。注連縄をつけて岩がありすぐ近くには寄れないが散策路がある。

 哀さや石を枕に夏の虫      桃隣

 実際に虫が死んでいるのを見たのではなく、伝説でそう作ったのだろう。芭蕉はここで、

   殺生石
 石の香や夏草赤く露あつし    芭蕉

の句を詠んでいる。曾良の『旅日記』の方にある句で、これは見たものをそのまま詠んだと思われる。当時はまだ地面が熱を持っていて、ガスも濃く、箱根大涌谷のような感じだったのか。

2020年8月13日木曜日

 『奥の細道』の出羽三山、『梵灯庵道の記』、桃隣の「舞都遲登理」と、いろいろその土地についてネットで調べていると、結構時間を忘れる。家にいてもGo On a Journey、行く先は今ではなく昔の日本だ。
 それでは「舞都遲登理」の続き。

 「麓ヨリ二里登ル、かたのごとく難所、岩潜・岩の立橋・千尋の谷・春夏の中嶺ニ茶屋五軒、魚肉酒禁断。馬耳峯の間十丁余有、頂上ニ登て四方を見るに眺望不斜。
 右の外、霊山の気瑞おほし。
    〇土浦の花や手にとる筑波山
    〇筑波根や辷て轉て藤の華」(舞都遲登理)

 岩潜は母の胎内くぐりだろうか。岩の立橋は弁慶七戻りだろうか。千尋の谷は特にどこというわけではないのかもしれない。石岡側から登ったからおそらく今のおたつ石コースに近いのではないかと思う。
 山頂付近に茶屋が五件あるが霊場なので魚肉酒はない。
 男体山・女体山の二つの嶺は馬の耳に例えられていた。眺望不斜の「不斜」は「ななめならず」で要するに半端ねーっということ。
 句の方は、

 土浦の花や手にとる筑波山    桃隣

 麓の土浦の桜まで手に取るように見える。それだけ眺望不斜ということ。

 筑波根や辷て轉て藤の華     桃隣

 「辷て轉て」は「すべってこけて」と読む。藤は臥すに通じる。岩が多く、這って進まなければならないところも多かったということだろう。

 「峯より山越の細道アリ。うしろへ下りて、椎尾山・西光寺・本尊・薬師・桓武帝勅願所。所は自然の山を請て、瀧は木の間より落ル。
    〇赤松の小末や乗垂花の滝」(舞都遲登理)

 下山は反対側の薬王院コースになる。太郎山(坊主山)から尾根を下り、標高ニ五六メートルの椎尾山に出る。その山腹に椎尾山薬王院がある。延暦元年(七八二年)最仙上人の開基で桓武天皇の勅願によるものだった。「西光寺」はよくわからないが、そう呼ばれてた時期もあったのか。薬王院の本尊は薬師如来で鎌倉時代に作られた金銅仏の座像だという。近くに不動滝という小さな滝がある。

 赤松の小末や乗垂花の滝     桃隣

 「乗垂」は「のたる」と読むが、意味はよく分からない。「乗りたる」ということか。赤松の小梢に垂れる藤の花を瀧に見立てたのかもしれない。

 「一里行て櫻川、明神アリ。しだの浮嶋此邊也。此川下龜熊橋渡り行ば、小栗兼高館、則小栗村とて旅人泊ル。
    〇汲鮎の網に花なし櫻川」(舞都遲登理)

 椎尾山から一里くらいの所の明神というと歌姫明神のことだろうか。かつて歌垣が行われた場所だというが、今は小さな社があるだけだ。「しだの浮嶋」は稲敷市の浮島のことで、ここからはかなり離れていて、霞ケ浦の方に戻ってしまう。
 亀熊橋はそこから北へ行った真壁支所のあるあたりで、今は亀熊大橋がある。桜川を渡る。
 小栗兼高館は小栗城のことであろう。亀熊橋から北西に行き、水戸線新治駅を過ぎた先に小栗という地名がある。小栗城跡はは小貝川の脇にある。
 発句は亀熊橋のあたりだろう。

 汲鮎の網に花なし櫻川      桃隣

 汲鮎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 川上へのぼる鮎を網の中に追い入れ、小さい柄杓(ひしゃく)または叉手(さで)などですくい上げること。また、その鮎。《季・春》 〔俳諧・増山の井(1663)〕」

とある。
 鮎を取る網に花は掛かっていない。網の目からすり抜けるという意味で、逆説的に桜川に花筏ができていることを言っているのだろう。

 「是ヨリ宇都宮へ出て日光山。
 御山へ登れば案内連ル。神橋。山菅橋と云。
   御祭禮四月十七日東照宮、九月十七日光宮。
 石ノ花表・二王門・御馬屋・御水屋・輪蔵・上御蔵・中御蔵・下御蔵・赤銅華表(御祓アリ)・皷樓・鐘樓・撞鐘(朝鮮ヨリ献上)・火灯(同斷)・陽明門(外矢大臣)内(水天風天)・廻樓・神樂所・神輿舎・護摩堂・唐門。
  御本社   御廟上ノ山ニ有。御本地堂(後ニ)赤銅ノ双林塔・三佛堂・常行堂・頼朝堂・本宮権現
    〇東照宮奉納 花鳥の輝く山や東向」(舞都遲登理)

 今の筑西市にある小栗の里から宇都宮はそう遠くない。真岡から鬼怒川を渡れば宇都宮だ。そこからは日光街道の杉並木になる。ここまで、鹿島から日光へほぼ最短距離で直線的に抜けてきたことになる。
 日光ではガイドが付いたようだ。
 神橋は山菅橋とも山菅の蛇橋とも呼ばれる。ウィキペディアには、

 「奈良時代末、勝道上人の日光開山に際して、深砂大王が2匹の大蛇をして橋となし、その上に菅が生じたとされる。橋の異称はこの伝承による。また、この伝承からこの頃に創建されたと考えられているが、詳しくはわかっていない。
 室町時代の旅行記『回国雑記』や『東路の津登』に記載があり、当時には認知されていた橋であり、構造は刎橋であったと考えられている。
 東照宮造営と同時に架け替えられ、それ以前の刎橋の構造から、現在の石造橋脚を有する構造となった(当時は素木造)。これ以後一般の通行は禁じられ、架け替えの際に下流側に設けられていた仮橋を一般の橋「日光橋」とした。」

とある。
 宗長の『東路の津登』は『梵灯庵道の記』の所でも引用したが、

 「坂本の人家は数もかわず続つづきて福地とみゆ。京鎌倉の町ありて市のごとし。爰よりつづら折なる岩を伝ひてうちのぼれば、寺の様哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原のね幾重ともなし。左右の谷より大なる河流出たり。落あふ所の岩の崎より橋有。長さ四十丈にも余たるらん。中をそらして柱をも立ず見へたる。山菅の橋と昔よりいひわたりたるとなん。」

とある、この四十丈(約百二十メートル)の橋というのがそれだろう。今の神橋が二十八メートルだから宗長の記述に誇張があるのか、それとも別のもう少し広い場所に架かっていたのかもしれない。「左右の谷より大なる河流出たり」とあり、これが大谷川と稲荷川との合流地点だとすると、今の車道の神橋よりも下手にあったのかもしれない。
 「刎橋(はねばし)」というのは、ウィキペディアに、

 「刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる。」

とある。山梨県大月市の猿橋は約三十メートル(十丈)、かつて大井川にあったという井川刎橋は四十から五十五間と言われていて、一間は六尺、一丈は十尺だから五十五間だとしても三百三十尺、三十三丈ということになる。四十丈はやはり誇張だろう。
 日光東照宮の「御祭禮」は今日では五月十七日に春季例大祭、十月十七日に秋季祭が行われている。明治政府によって旧暦の行事が禁止されたため、月遅れで行われている。
 次に「石ノ花表・二王門・御馬屋・御水屋・輪蔵・上御蔵・中御蔵・下御蔵・赤銅華表(御祓アリ)・皷樓・鐘樓・撞鐘(朝鮮ヨリ献上)・火灯(同斷)・陽明門(外矢大臣)内(水天風天)・廻樓・神樂所・神輿舎・護摩堂・唐門。」だが、石ノ花表(とりい)は今の石鳥居(一の鳥居)、二王門は表門、御馬屋は三猿で有名な神厩舎、御水屋は御水舎、輪蔵は御水舎の近くにある。ここまでは表門から陽明門へ行くクランク状の通路の左側にある。右側には下御蔵(下神庫)・中御蔵(中神庫)・上御蔵(上神庫)がある。
 この先に赤銅華表(唐銅鳥居)があり、正面に陽明門が見える。石段を上ると右に鐘楼、左に鼓楼がある。鐘楼とは別に、その手前に撞鐘がある。朝鮮(チョソン)第十六代国王仁祖(インジョ)より、寛永二十年(一六四三年)、竹千代(後の四代将軍家綱)誕生の際に朝鮮通信使が香炉、燭台、花瓶(三具足)とともに持参したという。重かっただろうな。
 「火灯(同斷)」はおそらく同じ寛永二十年(一六四三年)にオランダから贈られた廻転灯篭のことだろう。
 そして東照宮と言えば陽明門。「陽明門(外矢大臣)」は陽明門の外側を向いて弓矢を持った左右の大臣の随身像があるということだとわかるが、そのあとの「内(水天風天)」は何だろうか。内側に向いて狛犬があるが、それのことだろうか。水天も風天も仏教の十二天だが、そのような像があったのか、よくわからない。あるいは狛犬の青が水天で緑が風天を表しているのだろうか。
 廻樓は、拝殿を取り囲むように陽明門の左右から建っていて、東回廊の坂下門の上に眠り猫がある。神樂所(神楽殿)は陽明門を入って右側、神輿舎は左側にある。護摩堂は祈祷殿のことか、神仏分離でいまは祈祷殿なのだろう。唐門は拝殿の入り口にある。
 「御本社 御廟上ノ山ニ有」は奥宮のことか。
 「御本地堂(後ニ)」は東照宮を垂迹とした場合、輪王寺が本地となる。東照宮の後ろというよりはむしろ西側にあるといった方がいいか。
 赤銅ノ双林塔は青銅製の相輪塔のことであろう。総本堂は三佛堂と呼ばれている。ここだと東照宮を出て一度参道に戻ることになる。常行堂はそこから北西へ行ったところにある。
 頼朝堂は不明。二荒山神社は古くは頼朝公の寄進によって栄えたという。常行道は摩多羅(マタラ)神が祀られていて、これが頼朝のことだともいう。
 本宮権現は明治の神仏分離によって今の本宮神社になった。神橋を渡ったところの右側にある。頼朝堂も明治の神仏分離でわからなくなったのかもしれない。
 最後に桃隣は一句奉納する。

 花鳥の輝く山や東向       桃隣

 最大限の賛辞といっていいだろう。

 「瀧尾権現・中宮・三本杉・鐡塔・普賢・子種石(井伊少将造営)、御手洗・石天神・八幡別所・中宮別所。此所に百貼綴ギセル棒 手水アリ。」(舞都遲登理)

 瀧尾権現も明治の神仏分離で今は瀧尾神社になっている。修験の地だった。東照宮の裏側の白糸の滝の所にある。
 瀧尾神社は田心姫命(たごりひめのみこと)を祀り、女体中宮とも呼ばれている。神仏習合時代は普賢菩薩と習合していたか。
 三本杉もそのの境内にある。桃隣の訪れた三年後の元禄十二年にはその一本が倒れてしまう。子種石もここにある。鉄塔は不明。
 御手洗・石天神・八幡別所・中宮別所など、かつてはかなり大きな神社でありお寺だったと思われる。百貼綴ギセル棒も不明。
 宗長の『東路の津登』にも瀧尾権現は描かれている。

 「あくる日、堂権現拝見して滝尾といふ別所あり。滝のもとに不動堂あり。右に滝のかみに楼門あり。回廊右にみなぎり落たる河あり。松吹風、岸うつ波、何れともわきがたし。寺より二十余町の程大石をたためり。なべて寺の道石をしきてなめらかなり。是より谷々を見おろせば、院々僧坊五百坊にも余りぬらんかし。」

 ただ、神橋の所で四十丈というのがあったから、宗長は若干話を盛る癖があったのかもしれない。

 「カンマンノ淵・慈雲寺淵・岩上ニ石不動立。」(舞都遲登理)

 憾満ガ淵(含満ガ淵)は芭蕉も訪れている。曾良の『旅日記』に「一 同二日 天気快晴。辰の中剋、宿ヲ出。ウラ見ノ滝(一リ程西北)・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈須・大田原ヘ趣。」とある。
 憾満ガ淵は大谷川の反対側にある。慈雲寺はその入り口にある。慈雲寺淵というのが別にあるのではないのだろう。かつては対岸に二メートルの不動明王の石像があったという。

2020年8月12日水曜日

 さて、夏はまだ終わらない(まだ旧暦六月二十三日)。もう少し旅を続けよう。Go To TravelならぬGo On a Journeyキャンペーンだ。
 そこで、次に読むのが桃隣編『陸奥衛』五巻の「舞都遲登理」。桃隣自身の元禄九年、『奥の細道』の足跡を辿る旅を記した文章を読んでみよう。
 まず前書きから。

 「元禄二巳三月十七日、芭蕉翁行脚千里の羇旅に趣く。」

 芭蕉の『奥の細道』への旅立ちは本文に「弥生も末の七日」とあり、三月二十七日が正しい。曾良の『旅日記』にはなぜか三月二十日とあるが、これは書き間違いであろう。

 「門葉の曾良は長途の天、杖となり、松嶋・蚶泻を經て、水無月半ば湯殿に詣、北國にかかれば、九十里の荒磯・高砂子のくるしさ、親しらず子しらず・黒部四十八ヶ瀬、越中に入ありそ海、越前に汐越の松、月をたれたると讀れしは西上人、是を吟じて炎暑の勞をわすれ、敦賀より伊賀に渡り足も休めず、遷宮なりとて、蛤のふたみに別れ行秋ぞ と云捨、伊勢に残暑を凌ぎ、又湖水に立歸り、名月の夜は三井寺の門をたたき、時雨るる日は智月がみかの原をすすめ、兎角すれど爰にも尻を居へず、未の十月下旬東武に趣き、都出て神も旅寐の日數哉 と吟行して、深川の草扉を閉、ひそかに門を覗ては、初雪やかけかかりたつ橋の上 など獨ごちて、閑に送るもたのし。」

 「蚶泻」は「きさかた」と読む。順番としては象潟より湯殿の方が先になる。
 「敦賀より伊賀に渡り」も順序が違う。芭蕉が伊賀に戻るのは伊勢の後になる。
  また名月の夜は元禄三年、四年とも木曽塚義仲寺で月見の会をしている。
 「時雨るる日は智月がみかの原をすすめ」は不明。
 「都出て」の句は元禄四年十月下旬、江戸へ向かう途中沼津で詠んだ句。

   長月の末都を立ちて、初冬の晦日ちかきほど、
   沼津に至る。旅館のあるじ所望によりて、
   風流捨てがたくて筆を走らす
 都出でて神も旅寝の日数哉    芭蕉(俳諧雨の日数)

 神無月だから、神も今頃出雲から帰る旅をしていることだろう、という句。
 「初雪や」の句は、元禄六年冬の句。

   深川大橋、半かかりける頃
 初雪や懸けかかりたる橋の上   芭蕉(其便)

 深川の隅田川にかかる新大橋は元禄六年十二月七日に完成したが、その少し前に初雪が降ったのであろう。同じ頃の句に、

 雪の松折れ口見ればなほ寒し   杉風(炭俵)
 雪や散る笠の下なる頭巾まで   同(継ばし)

の句があり、橋が完成した時には、

   新両国の橋かかれば
 皆出でて橋を戴く霜路哉     芭蕉(泊船集書入)

の句を詠んでいる。

 「然ども老たるこのかみを、心もとなくてや思はれけむ、故郷ゆかしく、又戌五月八日、此度は四國にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴ぬ人の詞も聞んなどと、遠き末をちかひ、首途せられけるを、各品川まで送り出、二時斗の余波、別るる時は互にうなづきて、聲をあげぬばかりなりけり、駕籠の内より離別とて扇を見れば、麦の穂を力につかむ別哉 行々て尾州荷兮が宅に汗を入、世を旅に代かく小田の行戻り と年来の竟界を云捨、唯一生を旅より旅にして栖定まらず、しかもむすび捨たる草菴は鄙にあり、都にあり、終に身は三津の江の芦花に隠れて、五十年の夢枯野に覺ぬ。」

 「戌五月八日」は元禄七年五月八日だが、実際に出発したのは五月十一日とされている。『炭俵』には、

   翁の旅行を川さきまで送りて
 刈こみし麥の匂ひや宿の内    利牛

とあり、送っていった本人の証言だとしたら、こちらの方が正しいことになる。一方で品川説は路通の『芭蕉翁行状記』にもあるからどちらとも言えない。人によって品川まで送った人と川崎まで行った人がいたとしてもおかしくない。曾良は箱根まで送り、

   箱根まで送りて
 ふつと出て関より帰る五月雨   曾良

の句を詠んでいる。
 五月二十二日に名古屋の荷兮宅に泊まる。二十四日には十吟歌仙興行が行われ、その時の発句が、

   戌の夏、荷兮亭
 世を旅に代掻く小田の行き戻り  芭蕉

だった。
 二十五日に名古屋を発つ。『続猿蓑』には、

   元禄七年の夏、はせを翁の別を見送りて
 麥ぬかに餅屋の見世の別かな   荷兮

の句がある。
 そして十月十二日、芭蕉はこの世を去る。桃隣は芭蕉の最後に詠んだ発句、

   病中吟
 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る  芭蕉

の句を人生五十年の夢と解釈し、死をもってその夢から覚めたとする。

 「其頃は其角おりあひて枯尾花に體を隠し、百ヶ日は美濃如行一集を綴る。」

 芭蕉の死に際して、其角は『枯尾花』を編纂し、「芭蕉翁終焉記」を記した。美濃の如行は『後の旅』を編纂し、芭蕉の百ヶ日追善を行った。

 「一周忌は嵐雪、夢人の裾をつかめば納豆哉 とあぢきなき一句を吐。」


 嵐雪の『玄峰集』に

   元禄乙亥十月十二日一周忌
 夢人の裾を掴めば納豆かな    嵐雪

とある。「夢人」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙
  ① 夢に見た人。夢の中で会う人。
  ※謡曲・海人(1430頃)「今は帰らん徒波の、夜こそ契れ夢びとの、開けて悔やしき浦島が、親子の契り朝潮の」
  ② 夢のように、はかなく思われる人。恋しく思っている人。
  ※仮名草子・古活字版竹斎(1621‐23頃)上「かやうに、文をしたためて、ゆめ人さまへ参」

とある。
 夢に芭蕉さんが現れて、去ってゆく裾をつかもうとしたら目が覚めて、気づくと早朝にやってきた納豆売りの着物の裾をつかんでいた。いとあぢきなし(むなしい)。

 「旣今年三回忌、亡師の好む所にまかせ、元禄九子三月十七日、武江を霞に立て、關の白河は文月上旬に越ぬ。
 凡七百里の行脚、是を手向草、所々の吟行、懷舊の百韻、此等は師恩を忘れず、風雅を慕のみなり。
 紀行の分は奥の細道といへる物に憚り、唯名所・古跡の順路をしるし侍る。
 尤見おとしたる隈々おほし。
 後の人猶あらたむべし」

 三回忌となる元禄九年(一六九六年、丙子)の十月十二日に先立って、この年の春三月十七日に桃隣は旅立つ。芭蕉に遠慮してかあえて紀行文にはせず、行程と名所古跡を記し、自らの発句などを交えて書いている。それだけに曾良の『旅日記』と並ぶ、当時のみちのくを知るのには貴重な資料といえよう。
 旅程は芭蕉の旅とはかなり異なる。まず最初に鹿島詣でをして筑波山を経て日光に向かう。この入り方は宗祇の『白河紀行』に近い。もっとも、『白河紀行』には「つくば山の見まほしかりし望をもとげ、黑かみ山の木の下露にも契りを結び」とだけしか書かれてないが。

 序文は終わり、旅に出ることになる。

 「江戸より行徳まで川船、木颪へ着。爰より夜舟にて板久へ上り、一里行て十丁の舟渡、鹿嶋の華表、海邊に建、神前まで二十四丁。
  華表  杉の丸木。
  樓門  内外龍神六体。
  本社  北向王城の鬼門を守給ふ第一也。春日 志賀一躰。
    〇奉納 額にて掃くや三笠の花の塵
      ひたちの帯の事 戀を祈て掛帯也。
  奥院  参詣の輩、音聲高ク上ル事不叶、正しき神秘也。
  御坐石 要石是也。子を祈ル者ハ此石の根を掘て、這出る虫の數によりて、吉凶など知ル。
    〇長閑成御代の姿やかなめ石
  御手洗 尤冷水也。此奥に末なし川。
    見日の神・告の宮・御寶蔵。
  高天原 神軍の跡。敵味方城有。
    〇鬼の血といふ其土が躑躅哉
  御物忌 伊勢ハ齋宮・加茂ハ齋院。
   香取・浮洲兩所共ニ鹿嶋ヨリ三里。鹿嶋ヨリ此所ヘ陸ヲ行バ名物ノ松有。」

 鹿島までの道筋はほぼ『鹿島詣』と同じ。江戸より小名木川、新川を通って行徳に出てそこから木下街道を行く。ただ、芭蕉と曾良と宗波は木下の手前の大森から左に折れて、布佐から船に乗ったが、桃隣はそのまま真っすぐ木下河岸から夜も明けぬうちに船に乗り、板久(潮来)で船を降り、そこから延方まで陸路を行き、鰐川を船で渡り鹿島神宮に着いた。ここに一の鳥居(水上鳥居)がある。
 「華表 杉の丸木」というのは二の鳥居であろう。震災後平成二十六年に再建された鳥居は杉の丸太で作られている。震災で崩れたのは石の鳥居だった。
 「樓門 内外龍神六体」は寛永十一年(一六三四年)建立で修復を経ながら今も残っている。龍神は鹿島神宮境内にも参道にも龍神社があって祀られていたが、今では参道の一社になっている。
 「本社  北向王城の鬼門を守給ふ第一也」とあるように、拝殿・本殿は北を向いている。今日では蝦夷から守るためとされている。
 「春日 志賀一躰」とあるのは鹿島神宮と奈良の春日大社と福岡の志賀島大明神が一体だということ。志賀島(しかのしま)、鹿島、確かに似ている。

 額にて掃くや三笠の花の塵    桃隣

 句の意味はよくわからないが、額の上に乗せた笠と春日の三笠山とを掛けて、その上に散った桜の花びらが乗って、それを祓うことで掃き清めるということか。
 「ひたち帯」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「昔、正月14日、常陸国鹿島神宮の祭礼で行われた結婚を占う神事。意中の人の名を帯に書いて神前に供え、神主がそれを結び合わせて占った。神功皇后による腹帯の献納が起源とされる。帯占。鹿島の帯。」

とある。
 「御坐石 要石是也」の要石は今日でもあるが、この占いのことは知らなかった。掘っていいんだ。

 長閑成御代の姿やかなめ石    桃隣

 要石は地下のナマズを抑えていて地震を防いでいてくれる。一見何の変哲もない石だが、何事もないのが長閑で平和の御代ということ。
 「御手洗 尤冷水也。此奥に末なし川。」とあるように、奥院のさらに奥に御手洗池がある。末なし川は、鹿島神宮の東方にって水の流れが地中にもぐってしまい末がわからないという謎の川だという。
 「高天原 神軍の跡」は鹿島神宮の東側の丘でそこに鬼塚がある。元は古墳だというが、武甕槌神の神が成敗した鬼の塚だという伝承がある。

 鬼の血といふ其土が躑躅哉    桃隣

 この塚に躑躅の花が咲いていたのだろう。躑躅という字づらが何となく髑髏を連想させてしまうが、よく見ると蜀しか共通するところはない。
 「御物忌 伊勢ハ齋宮・加茂ハ齋院。」というのは、鹿島神宮には「物忌(モノイミ)」という神に奉仕する女性がいて、これが伊勢の斎宮・加茂ハ斎院に相当する。
 「香取・浮洲兩所共ニ鹿嶋ヨリ三里。鹿嶋ヨリ此所ヘ陸ヲ行バ名物ノ松有。」の浮洲は息栖神社(いきすじんじゃ)のことであろう。三つ合わせて東国三社と呼ばれている。名物の松は不明。松飾りに使う鹿島松が栽培されているということか。

 「鹿嶋ヨリ舟ニテ玉造ヘ出、小川ヘ通ル。此間ニ霞山・霞の浦アリ。是ヨリ筑波へ順よし。
  筑波麓  十一面観音。門外ニ不動ノ濡佛。
  みなの川 此所峯ヨリ流れ落る。
  禪定   兩山男躰・女躰、此外小社廿八社。」

 玉造は北浦ではなく霞ケ浦の東岸で今は行方市になる。船は一度鰐川を下ってから霞ケ浦の入ったのだろう。霞山はよくわからない。養神台公園のあたりか。常陸國風土記が書かれた時代には香澄の郷と呼ばれていたと行方市のホームページにある。
 小川は今は小美玉市の一部になった旧小川町であろう。霞ケ浦の北で国道355線が通っている。このまま行くと石岡へ出る。
 筑波麓の十一面観音は石岡市のホームページに、

 「田島の金剛院の本尊である十一面観音坐像は,江戸時代の記録「府中雑記」によると,もとは近くの田島台にあった三面寺の本尊であると伝えている。
 運慶・快慶に代表される,いわゆる慶派仏師の典型的な作例であり,制作年代は13世紀中頃と考えられる。平成18年に県の有形文化財(彫刻)に指定された。」

とある。
 みなの川は男女川と書く。石岡とは反対側の今のケーブルカー乗り場の下の方にあった川で、今は田んぼになって失われているようだ。

 筑波嶺の峰より落つるみなの川
     恋ぞつもりて淵となりける
             陽成院(後撰集)

の歌で知られている。
 「禪定」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

  ①〘仏〙 〔禅と定。「定」を 梵 samādhi の訳語「三昧(さんまい)」とする説と,梵 dhyāna の訳語とする説がある〕 精神をある対象に集中させ,宗教的な精神状態に入ること。また,その精神状態。
  ②富士山・白山・立山などの霊山に登り,行者が修行すること。 「立山-申さばやと存じ候/謡曲・善知鳥」
  ③〔霊山の山頂で修行したことから〕 山の頂上。絶頂。 「この山の西の方より黒雲のにはかに-へ切れて/義経記 4」

とある。この場合は②の意味で、男体山女体山、それに二十八の神社で入山修行ができるという意味。

2020年8月11日火曜日

 コロナは間違いなく世界を変えるだろう。ただ、その変化についていけない人たちもたくさんいて、それが何としてでも世界を元通りにしようと頑張っていて、世界は右翼左翼関係なく、変えようとする人たちと元通りにしようとする人たちに分断され、これからしばらくこの戦いが続くのだろう。
 「コロナは風邪だ」と言う人たちは基本的には世界を元に戻したい人たちで、だからなぜコロナが安全かと聞くと、みんな言うことが違ってたりする。まず結論ありきで、後からいろいろ理由を探しているといっていいだろう。
 ただ言えるのは、時の流れに逆らって勝った人はいないということだ。
 あとやっぱり核兵器禁止条約の前に独裁政治禁止条約を作るべきだと思う。
 それでは「梵灯庵道の記」の続き。

 さて、この後梵灯は謎の湖へと向かう。

 「みちの國に乞食し侍し比、ひろき野邊の草高かりしを、はるばるとわけ過たるに湖水あり。汀に付て人の往来かとおぼえて、鳥の跡よりも猶かすかなるがたえだえ見え侍をたどりつつ、所がらのおもしろさに一足づつ前へ歩に、傍にさかしき谷をおりくだる人あり。鬢[髟酋]は雪よりもしろく、身には藤編る衣をきたり、此翁歩に近付て、いづくへ心ざし給ふ人ぞ、此すゑには道もあるべからず、われは此山に年ひさしく杣をとりて住侍る物なり、わが跡に附ておはしませ、人里までは日も暮なんとすといふにうれしくて、彼翁のもとにいたりぬ。
 げにも白地に板ども取かけたる杣木の中に、翁がたぐひなんめりとみえて、人ひとりふたりをとなふ。むかしは此湖のあたりに、人の往来事ありけるやと問に、さる事なし、心ざしありて住給はんに子細やはあるべきといふに、やがてかの翁がこと葉に取つきて、かすかなる庵をむすび、時々里に出て食をこひなんどして一夏を送侍し也。
 しらず仙郷にもやありけんとぞおぼえし。水四面の山をうつして、みがける鏡よりもかげいさぎよく、霊松の傾たるあり、崛木の央なるあり、浪丹青をうつして、畫圖のよそほひをなす。あざやかなる事千枝・経教が筆もをよぶがたくや。
 水底には金銀の沙をしけるかとみえて、鷺たち連おどれども、水濁事なし。朝には瑞雲岫を出て群あり、夕には白日の嶺に映徹せるかげ、すべて眺望一にあらず。水にむかへば天ここにあり。我はからず非想非々想に至かとうたがふ。
 かやうの霊地にこそしづかに残生をもをくりたく侍しに、かの翁あきの霧にやをかされけん、朝の露ときえ、夕の煙とたちのぼりぬ。あはれさいふばかりなし。
 いよいよたよりなくて、長月廿日比にいづくともなく吟出ぬ。ただ蒲団を枕とし、衾を筵としてぞ、ふるき堂などには夜を明し侍し。」

 まずこの湖がどこかということだが、金子金次郎は斉藤清衛博士の説に従い宮城県の伊豆沼を有力としている。確かに「ひろき野邊の草高かりしを、はるばるとわけ過たるに湖水あり」とあるから、仙台平野北部の伊豆沼は考えられる。それに加えて伊豆沼が有名な白鳥の飛来地でもあり、「鷺たち連おどれども」は白鳥のことではないかとしている。
 ただ、疑問がないでもない。一方では「傍にさかしき谷」だとか「水四面の山をうつして」「朝には瑞雲岫を出て群あり、夕には白日の嶺に映徹せるかげ」と山の中を示す言葉も見られる。
 また、白鳥の飛来は冬だが、「一夏を送侍」「長月廿日比いづくともなく吟出ぬ」と、旧暦九月二十日にはこの地を去っている。「水底には金銀の沙をしけるかとみえて、鷺たち連おどれども、水濁事なし」という記述も水が澄んでいるから、外から水の流れ込む平地の沼とは思えない。
 そこで一つ思いついたのが会津の五色沼。山の中だが火山地形で広い野辺もある。人里は遠いが、猪苗代湖の方に出れば猪苗代城もあり町もある。景色もまた仙郷と呼ぶにふさわしい。
 そう思って調べてみたが、このあたりの湖は一八八八年の磐梯山大噴火による山体崩壊によってできた湖だった。ただ、一つだけそれ以前からある湖がある。それが雄国沼だ。
 ウィキペディアによれば、

 「雄国沼は猫魔ヶ岳や雄国山、古城が峰、厩岳山などを外輪山にもつ、猫魔火山のカルデラにある湖沼である。以前は陥没カルデラに水が溜まったカルデラ湖と考えられていた、しかし現在では古猫魔火山が50万年前に北東方向へ山体崩壊することで爆裂カルデラを生じ、その内部に後の火山活動で猫魔ヶ岳峰の山体が形成され、そこにできた凹地に水が溜まって雄国沼が生まれたと考えられている。
 湖面は標高1,090mの位置にあり、周囲の山々はブナが多く、また、初夏にはレンゲツツジ、6月末から7月初めには沼の南の湿原地帯でニッコウキスゲの大群落が咲き誇り、この時期は多くのハイカーやカメラマンが沼を訪れる。また、近年は冬に山スキーやスノーシューで訪れる人も増えている。かつては沼の面積は現在の半分程であったが、江戸時代初期に大塩平左衛門がおこなった灌漑工事により面積が拡大した。」

だという。ここだと山を越えなくてはならないが黒川(今の会津若松)に出ることもできただろう。黒川城は至徳元年(一三八四年)に築城されたというから、この頃には既にあった。
 湖への道は「汀に付て人の往来かとおぼえて、鳥の跡よりも猶かすかなるがたえだえ見え侍」と獣道よりも心細いあるかないかの道で、そこで一人の老人に出会う。[髟酋]はフォントが見つからなかったが上が髟で下が酋で「しう」と読む。鬚(しゅ:あごひげ)のことか。鬢(耳の横の髪の毛)と頬から顎にかけての髭が真っ白で、多分頭頂部は禿げあがっているのかもしれないが、中世の人だから烏帽子を被っているはずだ。今で言えばサンタクロースのような風貌か。藤衣を着ている。
 その老人に、「この先は行き止まりじゃがどこへ行くのかのう。わしゃあもう長いこと木こりをやってるものでのう。ついてきなさい。今から人里へ行こうにも日が暮れるからのう。ほっほっほっ。」という感じで話しかけられ、ついていったのだろう。
 「白地」は道も区切りも何もない土地という意味だろう。板で作った掘立小屋にその老人は仲間と一緒に住んでいた。昔はこの辺りも人の往来があったのかと聞くと、そうではなく「心ざし」があってここに住んだと言う。何らかの事情で隠棲したのだろう。梵灯もここに庵を結び、時々里へ托鉢に出て一夏を過ごすことになる。
 会津といえばこの四十年くらい後に猪苗代湖東岸の小平潟天満宮付近で、あの猪苗代兼載が誕生することになる。兼載は六歳の時に会津黒川の真言宗自在院に引き取られて僧になる。
 その頃の会津黒川ではすでに連歌が盛んで、そんな環境の中で兼載は育つのだが、その種を蒔いたのは梵灯だったのかもしれない。
 さて、その仙人のような老人も秋の霜に、多分風邪をこじらせて肺炎にでもなったのだろう。あっという間に朝の露になってしまった。その夕方には火葬にして、煙となって天に昇っていった。そして長月二十日頃、梵灯も庵を出てゆくことになる。「吟出ぬ」というのは吟行に出ることで、どこへ行くともなく去ってゆくことを遠回しに言ったものであろう。それからもしばらくは一か所に留まることもなく、「ただ蒲団を枕とし、衾を筵としてぞ、ふるき堂などには夜を明し侍し。」という生活を続けた。ここでこの紀行文は終わる。

2020年8月10日月曜日

 今日も暑い一日だった。それでは「梵灯庵道の記」の続き。

 和歌の方は『山家集』に次の前書きとともに収録されている。

   東國修行の時、ある山寺にしばらく侍りて
 山高み岩ねをしむる柴の戸に
     しばしもさらば世をのがればや
                西行法師

 さて、梵灯の乞食行脚の旅は続く。

 「か様にただ心のままに乞食し侍し程に、眞の修行をしらず、或時は深山に入て居を卜に、青嵐木ずゑを拂て頻に暁の夢をやぶり、流水渓を廻て遥に漲れども、流に嗽人もなし。かやうのしづかなる處にも、眞の心ざしなければとどまりがたき浮世のならひ、愚なる身のはかなさも、今更おもひしられて、月日を送侍りき。」

 「眞の修行をしらず」とあるから、例の山寺に滞在はしたものの、探し求めているものはなかったようだ。
 「或時は深山に入て居を卜(しむる)に」と山奥に草庵を結んだり、これは昔はよくあったことなのだろう。江戸時代でも芭蕉が雲岸寺の仏頂和尚の「五尺にたらぬ草の庵」の跡を訪ねている。今ならテントを張ってキャンプするような感覚で、寝るためだけの簡単な庵を建てることは、こうした行脚の僧の間では普通に行われていたのかもしれない。「居を卜(しむる)」は「卜居」という言葉もあるように、居を定めること。
 「青嵐(せいらん)」は新緑の青葉を吹く夏の強風で、才麿の『椎の葉』の「立出て」の巻二十一句目に、

   麻の中出て気の広う成
 霍乱を吹だまされし青嵐(あおあらし) 才麿

という句がある。
 「流水渓を廻て遥に漲れども、流に嗽人もなし」は渓流の水はふんだんにあっても、誰も飲む人はいないということで、芭蕉の『野ざらし紀行』の「とくとくの清水」ほどわずかな水ではないが、

 とくとくと落つる岩間の苔清水
   くみほすほどもなきすまひかな
              伝西行法師

の「くみほすほどもなきすまひ」の心は共通している。
 こうしたところに草庵を結んでも、やはり留まることができないのは「浮世のならひ、愚なる身のはかなさ」としながらも、旅を続けることになる。それは連歌への思いなのか、それとも旅の魔力なのか。それとも「乞食行脚」とはいうものの、西行が勧進僧だったように、何らかの使命を担った旅だったのか。
 そしていつしかとある海浜をさすらうことになる。

 「或時は海邊に出て行脚し侍に、あらき浪舷をこえて、みちるしほここもと也けりとさはがしく、かの源氏の物がたりおもひよそらへて、枕を峙たるに、海のおもてはそこはかとなきに、月はただきらきらとみえて、暁出るふねどもの、いかりをあげ、ともづなをとく人のをとなゐ、まことにいそがはしげなり。
 さて「思々に漕別行梶音も猶かすかなるに、たく火のかげはほのぼのとみえて、うきぬしづみぬ遠ざかり侍に、やうやう興津しら浪よこ雲も一にあけわたりて、遠からぬすざきの松風、うきねの鳥の立つづく羽音、いづれも旅泊の夢をおどろかすかとぞおぼえし。もしほをたれ磯菜をつむ海士の子どものおもひおもひに囀る聲どもいとおかし。」

 この時代は丸木舟ではなく、底の平らな構造船の技術が確立され、遣明船などの大型船も作られていた。ただ、帆はまだ木綿ではなく筵だったという。海岸伝いに進む小型の貨物船が物流を支え、こうした船に便乗することもあったのだろう。
 日本海の夜の荒波で、しばしば浪が船縁を越える中、『源氏物語』の須磨から明石へ行く船旅を思い起こしたりもしたのだろう。
 やがて夜が明ける頃には静かな内海に入り、松風に水鳥に海藻を摘む子供たちの声を聞こえてくる。

 「海に望て仏閣あり、又社壇あり。この所をばなにといふぞと問侍に、きさがたとなん申侍と答。さて其霊場に詣てみるに、僧坊など甍をならべたるが、築地もくづれ門も傾などして、星霜いくひさしかとおぼゆ。白洲に鳥居あり。はるばると歩過て神殿を拝奉るに、扉に書たる哥あり。
 松嶋やをじまの磯もなにならず
     ただきさがたの秋のよの月
 西行法師と書たりしぞ、やさしくもあはれにも覚えし。」

 穏やかな内海は天然の港で、物流の拠点でもあったのだろう。その内海に面してまず目に入ってきたのが仏閣と神社で、ここはどこかと聞くと「象潟」という答えが返ってくる。僧坊の甍が並んでいるところから、それなりの大寺院だったのだろう。ただ、築地は崩れ、門も傾き、昔の栄華には及ばなかったようだ。
 仏閣は神功皇后の伝説のある皇后山干満珠寺で、内海への入り口の所で船を下りたとすると、南北両側に内海と外海を隔てる半島があってそこに僧坊や何かが並び、北西の方に島があって、そこに干満珠寺があった。蚶方神社も併設されていたようだ。おそらく島へ向かって白洲になっていて、そこに鳥居があったのだろう。
 神殿の扉に和歌が書きつけられていた。西行真蹟かどうかはわからない。
 和歌は『山家集』にある。

   遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて
 松島や雄島の磯も何ならず
     ただきさがたの秋の夜の月
               西行法師

 内海には他にもたくさんの小さな島が浮かび、波に洗われることのない穏やかな景色を形作っていて、外海の浪に洗われた松島のような荒々しさはない。
 象潟は元禄二年(一六八九年)芭蕉も『奥の細道』で訪れていて、「俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」と記している。
 その象潟も文化元年(一八〇四年)の地震で二十五メートルも隆起して、かつての内海は見る影もなくなり、やがて田んぼになった。
 瀧の山と象潟で西行法師の和歌にめぐり合えた後も旅は続く。

 「かやうにいづくともなく行脚し侍事十餘年。其後出羽国に山居し侍しに、其所の人草堂を一宇おもひ立事あり。もしさやうの故實有ば、とりたててたびなむやといふに、あなおもひよらずや、努々さやうの才覚なきよし返答し侍しを、仏法興隆は御身に帯してしかるべき事なりと、再三申侍し程に、心ならず一両年は彼山中にぞ逗留し侍し。今光明寺是也」

 明徳四年(一三九三年)に出家して行脚生活に入ってから十余年ということで一四〇三年以降のことであろう。
 金子金次郎の『連歌師と紀行』(一九九〇、桜風社)の解説では、

 「最上家の菩提寺の光明寺(時宗)ではなく、禅宗の光明寺である。惟肖得厳が梵灯伝で、『東羽陽に遊び、檀護の光明を開山するに際会し』と語るものである。」

とある。
 時宗の方の光明寺も開山の時期が近いために紛らわしい。「山形県の町並みと歴史建築」というサイトによると、時宗の方は、

 「光明寺は山形県山形市七日町5丁目に境内を構えている時宗の寺院です。光明寺の創建は永和元年(1375)、最上家の祖となった斯波兼頼が居城である山形城の城内に草庵を設けたのが始まりと伝えられています。伝承によると応安6年(1373)、領内の視察中に漆山の念仏堂に立ち寄ると、たまたま巡錫に訪れていた遊行10代上人元愚大和尚と出会い教化を受け、山形城に上人を招くと城内で出家し其阿覚就と号するようになったと伝えられています。
 康暦元年(1379)に兼頼が死去すると草庵に葬られ、跡を継いだ2代直家が寺院として整備し、兼頼の戒名『光明寺殿成覚就公大居士』に因み寺号を光明寺と名付けました。以来、歴代最上家から庇護され寺運が隆盛しました。」

とある。
 時期が二十年くらいずれるが、同時期に山形市のそう離れてないところに二つの光明寺が創建されたことになる。
 禅宗の方の光明寺は金子金次郎によると『扶桑五山記・二』に「光明寺、出羽州、東山、開山在中(中滝)禾上」とあり、今の山形市大字上東山・下東山のあたりの山中と推定している。立石寺と瀧の山の中間のやや立石寺寄りになる。

2020年8月9日日曜日

 今日は長崎の原爆忌。核兵器、なくなるといいね。でもそう思っている人同士が争っているうちは無理かもね。鈴呂屋は平和に賛成します。
 それでは本題。

 人間の記憶というのは、ともすると一昨日の夕飯すら思い出せなかったりするぐらいいい加減なもので、ましてや年月が経つと、嫌なこと苦しかったことは次第に忘れ、美しい思い出ばかりが残るものだ。
 ましてその人間の記憶を集めた「歴史」なるものはもっとあてにならないもので、いろんな人たちのそれぞれに思惑から、ある部分は思い切り誇張し、ある部分はなかったことにされる。
 こうして歴史はこれまで何度も書き換えられ、今日に至っている。歴史は風化するのではない。ただ利用されるのみだ。そしてその歴史への過信は、また新たな争いを生み出す。
 連歌というのもその何度も書き換えられた歴史の中で、さまざまにゆがめられ、さんざん罵倒されたうえ、忘却の彼方に去っていった。今や訪ねる人もまれな葎蓬茂れる里になっている。
 今日取り上げてみようと思うのは、中世の連歌師で、梵灯と呼ばれている朝山小次郎師綱(もろつな)という人の記した『梵灯庵道の記』だ。庵号がそのまま呼び名になる例は梵灯と芭蕉くらいで、それほど多くない。梵灯は『長短抄』という連歌書を記したということで、この俳話にも二回ほど登場している。
 梵灯は貞和五年(一三四九年)生まれで二条良基や救済が活躍した時代よりは遅く、心敬、行助の時代よりは早い、その二つの時代の中間の人だ。
 『梵灯庵道の記』については金子金次郎の『連歌師と紀行』(一九九〇、桜風社)を参照する。
 この紀行文が発表されたのは応永二十五年(一四一八年)で、一四〇六年生まれの心敬が十二歳の時ということになる。宗祇はまだ生まれていない。
 実際に旅をしたのは明徳四年(一三九三年)に出家して行脚生活に入っていた頃で、それ以上のことはわからないようだ。
 まずはその書き出し部分を見てみよう。

 「其比知識と聞えし人に、佛法のをきてさこそ律儀にも侍らんとおぼえて、真の心をこそしらずとも、知識の法度をも伺はんがために、或は一夏、或は半夏逗留せしかども、ただ江湖の僧五百人千人集りて、自他の褒貶のみにて、一坐の修行をも成しがたかりしかば、一往は智識の會下を捜事も侍しかども、後にはただ足にまかせ、心の行にしたがひて、浮雲流水を観じてさまよひありきし程に、漫々たる蒼海に出ては、友なし千鳥の類に身をなし、うはのそらに歩行に、峨々たる霊崛聳たるに、松柏の枝をかはせるあり。」

 「知識」というのは仏教を実際に支えている識者のことで、ウィキペディアには、

 「知識(ちしき・智識)とは、仏教の信者が善業を積み重ねるために寺院や仏像の建立や維持、写経や福祉などの事業のために金品などを寄進すること。また、寄進者や寄進物を指す場合もある。」

とあるが、この場合は寄進者の意味になる。
 その知識と呼ばれている人たちに仏法の掟や法度を学ぼうとして、寺院に籠って修行しようと一夏(陰暦四月十六日から七月十五日までの夏の九十日間の安居)半夏(六月十五日から始まる一週間の大摂心)などを行ってはみた。だがそこで見たのは江湖(もとは長江と洞庭湖を意味する言葉だったが、広く世間を意味する言葉として用いられていた)の僧が五百人、千人と集まり、「褒貶(ほうへん)」は褒めたり貶したりという意味だが、実際の所、派閥を作っては互いに自分たちを持ち上げ他を罵るばかりという状態だったのだろう。今のネット上のようなものだ。
 そんなわけで浮雲流水の行脚をしているうちに、とあるみちのくの山寺にやってきた。そこは「峨々たる霊崛聳たるに、松柏の枝をかはせる」ところだった。
 この寺が何という寺なのかは定かでない。ただ、西行法師もしばらく滞在したということであれば、

   又のとしの三月に出羽国にこえて滝の山と申す山寺に侍りけるに
   桜の常よりもうすくれないの色こき花にてなみたてるけるを
   寺の人々も見きようじければ
 たぐひなき思ひ出羽(いでわ)の桜かな
     薄くれなゐの花のにほいは
                 西行法師
 都路を思ひ出羽の瀧の山
     こきくれないの花の匂ひぞ
                 西行法師

の歌に詠まれた瀧の山だったかもしれない。山形にある醫王瀧山寺になる。
 仁寿元年(八五一年)慈覚大師によって開創されたこの寺は正嘉二年(一二五八年)に北条時頼によって閉山させられたというが、その後も何らかの形で引き継がれていたのかもしれない。江戸時代でも瀧山大権現と呼ばれていたようだが、明治の廃仏毀釈で瀧山神社となった。
 芭蕉も尾花沢から立石寺までは来たが、瀧山大権現はそれよりさらに南になる。
 では続きを読んでみよう。

 「見上侍るにいかさま霊仏霊神の居をしめ給かと覚て、葛折なる道處々にあり。ここかしこにやすみつつ上るほどに、夕陽もかさなれる山にかくれぬ。心ぼそきやうにてたどり行に、入會のかねの近々と聞え侍にぞ、さればこそとおぼえ侍し。
 佛菩薩はかかる清浄の地に住給んとてこそ、寄特をも人にみせしめ、衆生をも利益し給なれ、由来うちやりざまの事にあらず、よくぞくれぐれ上り侍ける。」

 「瀧の山」だったにしても、かつての大伽藍はすでに失われ、寂しげな山路だったのだろう。日も傾いたころに登るあたりは、『奥の細道』の立石寺のくだりにも似たところがある。一応芭蕉の文章も比較のために掲げておこう。

 「山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸(崖)をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
 閑さや岩にしみ入蝉の声」

 曾良の『旅日記』には「未ノ下剋ニ着」とあり、申の刻より少し前だが四時近かったであろう。時刻が遅いので、筆者はこの蝉の声はヒグラシだったのではないかと思っている。
 さて、『梵灯庵道の記』の方に戻る。

 「ただ足にまかせたる中にも、かかる寄特ありけりとおぼゆ。森々たる谷の深き水の流に付て尋入に、奥はいよいよ常盤木の木ぐらくて、心のままなる石どもの苔滑にて、踏ならす人もなかりけりとみゆ。
 ただ水のながれをしるべにてたどり行に、川上は猶水の音もかまびすしく、落葉ながれをせきて行なやむ處も侍り。名もしらぬ鳥のおどろおどろしき聲にて、はるかの梢に飛かふばかりぞかすかに聞えし。」

 落葉が流れて関に引っかかったたりするあたり、晩秋か初冬だろうか。

 山川に風のかけたるしがらみは
     流れもあへぬ紅葉なりけり
          春道列樹(はるみちのつらき)、古今集

を思わせる。鳥はよくわからないがツグミ、シロハラ、ジョウビタキなどだろうか。

 「あらぬ谷に大河あり、峯より雲を分て漲落る瀧あり、李白が三千尺も猶かぎりありとぞ覚る。」

 この滝の描写から、蔵王ではなく日光ではないかとする説もある。金子金次郎氏も宗長の『東路の津登』の日光の場面との類似を指摘している。そこにはこうある。

 「坂本の人家は数もかわず続つづきて福地とみゆ。京鎌倉の町ありて市のごとし。爰よりつづら折なる岩を伝ひてうちのぼれば、寺の様哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原のね幾重ともなし。左右の谷より大なる河流出たり。落あふ所の岩の崎より橋有。長さ四十丈にも余たるらん。中をそらして柱をも立ず見へたる。」

 つづら折りの道と大河は一致するが、『梵灯庵道の記』には京か鎌倉かというような街は登場しないし、『東路の津登』は橋の立派さが強調されているが滝の描写はなく、「中善寺とて四十里上に湖ありとかや。」と人づての話としているところから、華厳の滝までは行かなかったと思われる。
 つづら折りの道は山に行けばどこにでもあるし、途中で大河に出くわすこともそんな珍しいことでないなら、これは偶然の一致であろう。
 蔵王山だとすると、山形側なら不動滝だが高さ十五メートルは「峯より雲を分て漲落る瀧」というほどの感じはしない。宮城県側だと高さ九十七メートルの不帰の滝があるが、山を越えてそこまで行ったか。

 『梵灯庵道の記』はこの後伽藍についての記述になる。

 「やうやう薄雪杉の梢にむらむらみえて、寒嵐衣をふく、楼門を見つけてたづね入に、奥に僧坊あり。本堂の燈ほのかにかかげつつ閼伽盤・花籠など持たる法師の中に、いづくより詣来る人にかと問に、只此伽藍を拝し奉らん心ざし計なりと答て、今夜ハ此礼堂に通夜し侍らんゆるし給てんやと問に、何の子細か侍べきといふ。此寺の草創いつの比にかなど尋侍る次に、むかし西行上人も暫おはしけるとなんかたり侍き。」

 この西行が立ち寄ったが真実だとすれば、やはり「瀧の山」だったということになるだろう。あるいはこの文章が旅の後かなりの時間が経過してから綴られたもので、「瀧の山」の記憶に華厳の滝の記憶が混ざってしまったのかもしれない。

 「やうやう深行ままに、正面の柱によりかかりて眠居たるに、鈴の響谷々に聞えて物すごきに、暁のかね懺法の聲にたぐひて、何となく所がらにや身にしみて聞ゆるにぞ、佛法の尊さも一際ある心地せし。さて次の日佛を礼たてまつるに、内陣の柱に西行法師と書たる筆の跡あり。是をみるに、
 山たかみ岩ねをしむる柴の庵に
     しばしもさらば世をのがればや
 かやうの霊所には、元より縁に任たる事なれば、しばらく逗留せし事も侍し。其年は白地なる様にて冬をも過し、正月のすゑつかたに出侍しやらん。」

とこの山寺の場面は締めくくられる。

2020年8月7日金曜日

 自分の足で歩いて周りの景色が変わってゆくのも旅なら、汽車に乗って、自分は座っていて周りの景色が動いても旅になる。
 なら、家に籠っていても世界の方が急速に変化してゆくならそれも旅なのではないか。どこにいても、今の世界は旅だ。
 それでは「凉しさや」の巻の続き。

 四句目。

   黒がもの飛行庵の窓明て
 麓は雨にならん雲きれ     定連

 定連は長崎一左衛門と曾良の『俳諧書留』にある。どういう人かは知らない。
 「雲きれ」は雲の切れ間、あるいは千切れ雲のこと。
 ちぎれ雲はウィキペディアに「厚い雲の下を流れる断片雲のこと」とあり、

 「この雲は、空の雲が高層雲から乱層雲に替わり、やがて雨や雪が降り出す過程において、実際に雨や雪を降らせる雲の塊がやってくる直前に、その塊の断片として現れる雲である。」

とある。千切れ雲は雨の前兆でもある。黒鴨も雨を察知して飛び立ったか。
 五句目。

   麓は雨にならん雲きれ
 かばとぢの折敷作りて市を待  曾良

 「折敷(おしき)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「食器を載せる食台の一種で,四角でその周囲に低い縁をつけたもの,すなわち方盆のこと。その名は,上古に木の葉を折敷いて杯盤にしていたことが残ったものであるといわれる。高坏 (たかつき) や衝重 (ついがさね) よりは一段低い略式の食台として平人の食事に供されたもので,8寸 (約 24cm) 四方のものを「大角」または「八寸」,5寸 (約 15cm) 四方のものを「中角」,3寸 (約 9cm) 四方のものを「小角 (こかく) 」といい,角 (かど) を切らないものを「平折敷」,四隅の角を切ったものを「角 (かく) の折敷」あるいは「角」と呼び,ほかに足がつけられた「高折敷」「足付折敷」などの種類もみられた。普通の膳をおしきと呼ぶ例は中部・九州地方に残る。」

とある。盆の淵の所を曲輪で作るときはその曲げたものを山桜の皮で綴じる。これを樺綴じという。
 秋田大舘の大舘曲げわっぱは有名で、秋田杉を樺綴じにした曲げ物は下級武士の内職として奨励された。
 六句目。

   かばとぢの折敷作りて市を待
 影に任する宵の油火      任曉

 内職をするときは宵から油に火を灯す。
 任曉は曾良の『俳諧書留』に「かがや藤衛門」とある。
 七句目。

   影に任する宵の油火
 不機嫌の心に重き恋衣     扇風

 「恋衣」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① (常に心から離れない恋を、常に身を離れない衣に見立てた語) 恋。
  ※万葉(8C後)一二・三〇八八「恋衣(こひごろも)着奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし吾が恋ふらくは」
  ② 恋する人の衣服。
  ※風雅(1346‐49頃)恋二・一〇六五「妹待つと山のしづくに立ちぬれてそぼちにけらし我がこひ衣〈土御門院〉」

とある。
 この場合は具体的な衣類の描写がないから①と考えていいだろう。次の句では②に取り成す展開もありそうだが、残念ながらここで終わっている。

2020年8月6日木曜日

 今日は広島の原爆忌ということで、まあ現実は結局北朝鮮の核開発阻止に失敗し、経済制裁では核開発を止めることができないことが証明されてしまったようなもので、そうなると核兵器禁止条約の存在意義も問われてしまうことになる。
 違反した国に対してなすすべがないなら、結局あれは紳士協定に過ぎないのか。核開発を抑止する有効な手段が見つからない限り、核には核で対抗するしかなく、もはや核のない世界に戻ることはできない。
 広島市長の挨拶でもコロナのことに触れてたが、今怖いのは日本の場合、長期戦に対する心構えができてなくて、安易に「ジリ貧なら玉砕を」になってしまう危険があることだ。
 どうせ感染を抑止することできないのなら、さっさとみんなかかっちゃええばいいじゃないかみたいな方向で、コロナに向かって万歳突撃を始めるんじゃないか、それは心配だ。
 長期戦に備えるなら、とにかく地を這って泥水を舐めても生き残らなくてはならない。そして何十年かかってでも最後に笑えればいい。日本人にはなかなかそれができなくて、すぐに一億総自決の発想になってしまう。それは気を付けなくてはならない。
 まあともかくジリ貧より玉砕を選ぼうとする人がいたら、そういう人について行ってはいけない。小斉さんの「教訓I」という歌が4月ごろカバーされて話題になっていたが、あれもそういう歌ではないかと思う。とにかくみんな、生き残ろう。
 それでは「めづらしや」の巻は終わったけど、芭蕉と曾良の旅の続きを。

 六月十二日に「めづらしや」の巻を終えると芭蕉と曾良は六月十三日には船で坂田に向かう。この日の曾良の『旅日記』は去年の七月八日にも引用したが、もう一度示しておこう。

 「一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻ヨリ曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭ヘ音信、留守ニテ、明朝逢。」

 鶴岡を出るとき羽黒山から飛脚が来て浴衣二着と、

 忘るなよ虹に蝉鳴山の雪   会覚

の発句が届く。坂田に着いたが玄順(不玉)は留守で、どこか他に宿を取ったのだろう。
 翌十四日、『旅日記』にはこうある。

 「十四日 寺島彦助亭へ被招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。」

 曾良の『俳諧書留』には「六月十五日寺島彦助亭にて」と前書きした七句が記されている。『旅日記』だと十五日には象潟へと向かうが、雨のため吹浦に足止めされてしまうことになる。『俳諧書留』の方の「十五日」の日付は記憶違いと思われる。
 ではその時の発句、

 凉しさや海に入たる最上川  芭蕉

 本当は暑かったのだけど、社交辞令で「凉しさや」とする。この頃の発句や脇はこういうちょっと取り繕った挨拶が普通だった。それだけに『猿蓑』の、

 市中は物のにほいや夏の月  凡兆
   あつしあつしと門々の聲 芭蕉

は画期的だったのだろう。
 『奥の細道』ではこの発句は、

 暑き日を海にいれたり最上川 芭蕉

に改められている。やはり本音では「あつしあつし」だったようだ。
 脇。

   凉しさや海に入たる最上川
 月をゆりなす浪のうきみる  詮道

 詮道は寺島彦助のこと。「うきみる」は浮海松で波に浮かんだ海松(みる)という海藻のこと。
 芭蕉さんを月に例え、自分たちは浪の浮海松ですとへりくだるパターンはこの頃の脇のお約束といってもいい。
 十四日は満月に近いが、海は西側なので明け方でない限り浪の方に月は出ない。実景ではなく社交のための作りといっていい。
 このあと十九日の興行でも、

   温海山や吹浦かけて夕凉
 みるかる磯にたたむ帆筵    不玉

の脇があるから、海松は坂田の特産品だったか。
 第三。

   月をゆりなす浪のうきみる
 黒がもの飛行庵の窓明て    不玉

 「黒がも」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏の五月の所にある。

 「[仙覚万葉抄]黒鴨、一名かるといふは、鴨のたぐひなり。田舎の人は黒鴨といふ。」

 カルガモのことを言う。今日でいう「クロガモ」ではない。
 「飛行」は「とびゆく」で空飛ぶ庵があったわけではない。庵が川のそばにあって月に雁ならぬ黒鴨が飛んで行く。

2020年8月5日水曜日

 今日は暑かった。三十五度を超えたか。
 コロナの重症者数はじわじわと増えてはいるが、急激に増えてはいない。感染者数が増えると、それだけみんな危機感を持って、それが行動に影響するから、特に何の対策がなくても鈍化する傾向にあるのだろう。
 この調子でお盆休みがゴールデンウィークの再現みたいに、駅も空港もがらがらになれば、八月中はそれほど心配ないかもしれない。
 それでは「めづらしや」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   温泉かぞふる陸奥の秋風
 初雁の比よりおもふ氷様    露丸

 「氷様(ひのためし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙
  ① 氷室(ひむろ)に収められている氷の厚さなどを模して石で作ったもの。氷様の奏の時に、天覧に供される。《季・新年》
  ※内裏式(833)会「冰様進牟止、宮内省官姓名叩レ門故爾申」
  ※太平記(14C後)二四「先正月には〈略〉氷様(ヒノタメシ)・式兵二省内外官の補任帳を進る」
  ② 「氷様(ひのためし)の奏(そう)」の略。
  ※無言抄(1598)下「氷様(ヒノタメシ) 同元日なり。こほりの以厚薄豊年凶年をしるなり」

とある。「氷様(ひのためし)の奏(そう)」は同じく「コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「元日(がんにち)の節会の時に、宮内省から昨年の氷室の収量や氷の厚薄、一昨年との増減などを奏し、あわせて氷様を天覧に供する儀式。〔江家次第(1111頃)〕」

とある。
 これは、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
             能因法師(後拾遺集)

の逆パターンであろう。秋風に陸奥を発てば氷様(ひのためし)の奏の頃には都に戻れるだろうか、となる。
 三十二句目。

   初雁の比よりおもふ氷様
 山殺作る宮の葺かへ      曾良

 「山殺(やまそぎ)」はよくわからないが、神社の千木には「縦そぎ」「横そぎ」があり、この場合の「そぎ」は「削」という字を当てるのが普通だが「殺」という字を当てる場合もある。
 ひょっとしたら縦殺ぎでも横殺ぎでもない山殺ぎというのがあったのかもしれない。
 ちなみに氷室神社の祭神は闘鶏稲置大山主(つけのいなきおおやまぬし)で千木は水平の雌千木(横殺ぎ)になっている。男の神様なのに雌千木というあたりから来たマニアックな発想だったか。
 三十三句目。

   山殺作る宮の葺かへ
 尼衣男にまさる心にて     重行

 山殺ぎが雌千木でも雄千木でもない山形に削った特殊な千木というネタだとしたら、男勝りの尼で雄とも雌ともつかぬ千木をと意味は通じる。
 三十四句目。

   尼衣男にまさる心にて
 行かよふべき歌のつぎ橋    露丸

 「つぎ橋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 橋脚となる柱をところどころに立て、その上に幾枚もの橋板を継ぎ足して渡した橋。
  ※万葉(8C後)一四・三三八七「足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の都芸波思(ツギハシ)止まず通はむ」
  ※神楽歌(9C後)明星「(末)葛城や渡る久米路の津支橋(ツギはし)の心も知らずいざ帰りなむ」
  [語誌]挙例の「万葉集」の「葛飾の真間」(現、市川市真間町)が早く、平安後期には「かきたえし真間のつぎ橋ふみ見ればへだてたる霞も晴て迎へるがごと〈源俊頼〉」〔千載‐雑下〕のように歌枕として定着する。しかし、この他にも挙例の「神楽歌」等における「久米路」(大和)など、さまざまな土地のものが詠まれている。」

とある。

 いそぎしもこし路のなごのつぎはしも
     あやなくわれやなげきわたらん
             和泉式部(夫木集)

の「なご」は芭蕉がこれから行く那古の浦にあったとされる継橋で、男勝りの尼は和泉式部のイメージだったのか。
 『源氏物語』末摘花巻に登場する大輔の命婦は、若い頃の和泉式部がモデルだったかもしれない。末摘花
は清少納言であろう。
 三十五句目。

   行かよふべき歌のつぎ橋
 花のとき啼とやらいふ呼子鳥  芭蕉

 呼子鳥は和歌に詠まれてはいるものの謎の鳥とされてきた。二〇一六年十月三十日の鈴呂屋俳話で湯山三吟の九十四句目、

   わりなしやなこその関の前わたり
 誰よぶこどり鳴きて過ぐらん   肖柏

のところでツツドリではないかとしたが、長年にわたって謎の鳥とされている。「花のとき啼とやらいふ」と、当時の人はその程度に認識していたのだろう。
 前句の「歌のつぎ橋」を古今伝授のこととし、古今伝授の三鳥の秘事の一つである呼子鳥を出す。
 挙句。

   花のとき啼とやらいふ呼子鳥
 艶に曇りし春の山びこ     曾良

 「艶」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「日本文学における美意識の一つ。上品なあでやかさ,つやのあるはなやかな美などをいう。『天徳歌合』『源氏物語』をはじめ,室町時代にいたるまで,物語,随筆,歌論にみられる。室町時代には心敬が「氷ばかり艶なるはなし」 (『ひとりごと』) といい,内面的に深化した艶に美の理想をみた。」

とある。氷が何であでやかでつやがあるのかはよくわからない。
 「艶」というと、貞享三年刊の『蛙合』の、

 ここかしこ蛙鳴ク江の星の数  其角

の評の所に、

 「月なき江の辺リ風いまだ寒く、星の影ひかひかとして、声々に蛙の鳴出たる、艶なるやうにて物すごし。青草池塘処々蛙、約あつてきたらず、半夜を過と云ける夜の気色も其儘にて、看ル所おもふ所、九重の塔の上に亦一双加へたるなからんかし。」

とあり、この艶にも通じるように思える。月のない星のピカピカと光る夜、風もまだ寒く、そんな中に鳴く蛙は、月夜の蛙のような華やかさもなく、殺風景で、もうひとつ何か欲しい、という評になっている。
 近代だと満天の星空はそれだけで美しいものとされるが、当時星月夜は闇のイメージだった。満天の星空は当時の人としてはあまりにありふれた光景で、特に気に留めることもなかったのだろう。ある意味其角の感性が近代を先取りしていたのかもしれない。
 艶は表向きの華やかさではなく、むしろ隠された秘められた美しさを表していたのではないかと思う。それがうまく伝わらないと「艶なるやうにて物すごし」になるのではないかと思う。
 曾良の「艶に曇りし」は前句の花を受けて、花の雲の連想から、山が花で白く染まる様を「艶に曇りし」と言ったのではないかと思う。そして曇るのは山だけでなく、呼子鳥の声のやまびこも曇る。花鳥の華やかさを「雲」のイメージの中に隠してこそ「艶」だったのだろう。

2020年8月4日火曜日

 暑い日が続くけど、木槿が咲いているのを見ると秋も近いのかなと思う。
 木槿といえば韓国魂。しぶとくて下から上へと花を付け、無限に子々孫々栄えてゆく無窮花(ムグンファ)。最近韓国の方でディスられていると聞くが、何かの間違いだろう。
 それでは「めづらしや」の巻の続き。

 二十五句目。

   所々に友をうたせて
 千日の庵を結ぶ小松原     重行

 千葉県の小松原は日蓮上人が小松原法難を受けた場所で、二人の弟子が殺害された。
 ただ、ここでは日蓮上人の本説とはせず、比叡山や大峰山で行われる究極の荒行、千日回峰行のための庵を構えるとする。達成する人もまれな荒行と法難で仏道を極めることの過酷さを語る。
 二十六句目。

   千日の庵を結ぶ小松原
 蝸牛のからを踏つぶす音    露丸

 千日の行のために庵を結んではいても、カタツムリの殻を知らずに踏んでしまい、殺生の罪を犯す。
 二十七句目。

   蝸牛のからを踏つぶす音
 身は蟻のあなうと夢や覚すらん 芭蕉

 「うとし」はわずらわしい、うとましい、といった今日の「うざい」に近い意味もある。口語では形容詞の活用語尾は省略されるので。「あなうと」となる。今なら「ああうざっ」というところか。
 「あなうと」を導き出すのに「身は蟻の」と序詞を用い、カタツムリの殻を踏み潰す音に夢から覚める、となる。
 夢に愛しい人が訪ねてくるのを見たのだろう。でもカタツムリを踏んづけた所で目が覚める。何か少女漫画みたいだ。
 二十八句目。

   身は蟻のあなうと夢や覚すらん
 こけて露けきをみなへし花   重行

 をみなえし(女郎花)といえば、『古今集』の俳諧歌、

 名にめでて折れるばかりぞ女郎花
      我おちにきと人にかたるな
               僧正遍照

が思い浮かぶ。馬上で居眠りしていたら落馬して、女郎花の露まみれになったのだろう。意味は違うが「我おちにきと人にかたるな」となる。
 もちろん、裏に恋の意味を隠したとみてもいいだろう。ついつい出来心で女郎と遊んでしまったが、それが人に知れてしまって夢から覚めるような思いだ。穴があったら入りたい。
 二十九句目。

   こけて露けきをみなへし花
 明はつる月を行脚の空に見て  曾良

 こけたのは行脚の僧だった。
 三十句目。

   明はつる月を行脚の空に見て
 温泉かぞふる陸奥の秋風    芭蕉

 行脚を今まさにやっている『奥の細道』の旅のこととする。幾つ温泉(いでゆ)に入っただろうか。那須にも行っているし飯塚の湯はディスってるし、ついこの間は羽黒山や湯殿山の湯に入ったし。

2020年8月3日月曜日

 今日も暑くなったがここ何年かの猛暑までは行っていない。昼は猛暑日までいかず、夜も熱帯夜にならない。子供の頃の夏の暑さに近いかもしれない。
 それでは「めづらしや」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   旧の廊は畑に焼ける
 金銭の春も壱歩に改り      芭蕉

 芭蕉の得意な経済ネタであろう。江戸時代は金銀銭の三貨制度で、この三つの通貨が変動相場で動いていた。芭蕉の頃は銭一貫(一千文)が五分の一両くらいだったが、元禄後期になると金が暴落し四分の一両、つまり一分(一歩)くらいになった。
 関東では金の方が主流で、関西では銀がよく用いられたという。『猿蓑』の「市中は」の巻の五句目に、

   灰うちたたくうるめ一枚
 此筋は銀も見しらず不自由さよ  芭蕉

とあるが、これは『奥の細道』での旅の経験だったのかもしれない。ここでも「金銭」で「銀」が抜けている。
 壱歩は一分金のことだろう。一分は一歩と書くこともある。江戸後期になると一歩銀も登場するが、この時代にはまだない。
 かつて富貴を極めた者の廓(くるわ)も、一歩というから今の一万円くらいで、それこそ二束三文で買いたたかれて畑になったということか。
 宮本注には「一歩金など貨幣の新鋳も行われた意か」とあるが、貨幣の新鋳は元禄八年のこと。芭蕉の死後になる。
 二十句目。

   金銭の春も壱歩に改り
 奈良の都に豆腐始       重行

 豆腐は奈良時代に遣唐使が持ち込んだものとされている。富貴なものが銭を投げうって始めたということか。
 二十一句目。

   奈良の都に豆腐始
 此雪に先あたれとや釜揚て   曾良

 「釜揚」はウィキペディアに、「釜揚げ(かまあげ)とは、茹であがったまま何も手を加えない食材の事を指す。」とある。ここでは湯豆腐のことであろう。
 寒い雪の日に、まずは火にあたって温まれと囲炉裏の周りに人を集め、湯豆腐を食う。
 二十二句目。

   此雪に先あたれとや釜揚て
 寝まきながらのけはひ美し   芭蕉

 寝巻は寝るときに着る着物で、綿を入れた「布団」とも呼ばれる夜着とは異なる。上臈のイメージがあったのだろう。ここでは遊女か。「けはひ」は化粧のこと。鎌倉に「化粧坂(けわいざか)」がある。
 元禄三年の暮の京都で巻いた「半日は」の巻の三十二句目に、

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寝巻に匂ふ日の影     示右

の句がある。この次の句を去来が付けかねていた時、芭蕉が「能上臈の旅なるべし」とアドバイスし、

   あやの寝巻に匂ふ日の影
 なくなくもちいさき草鞋求かね  去来

ができたことが『去来抄』に記されている。
 二十三句目。

   寝まきながらのけはひ美し
 遥けさは目を泣腫す筑紫船   露丸

 宮本注は『源氏物語』の玉鬘の俤とするが、玉鬘の筑紫下国は四歳の時なのでさすがに無理がある。筑紫へ売られてゆく遊女ではないかと思う。
 二十四句目。

   遥けさは目を泣腫す筑紫船
 所々に友をうたせて      曾良

 宮本注によると「『せ』を受身に用いる例は、戦記物などに多い。」という。「友をうたせて」は「友を討たれて」という意味。平家の壇ノ浦に至る瀬戸内海の道のりか。

2020年8月2日日曜日

 今日は晴れて蝉も鳴く、梅雨明けらしい一日になった。
 アニメの「聲の形」だが、前半の所で胸糞になると、石田のいじめっ子の側面を見るかいじめられっ子の側面を見るかで、大きく分けて二つの方向に分かれてゆくようだ。
 石田のいじめっ子の方の側面を見ると、何であんな悪いことしたやつがちょっとくらい反省したふりして許されて、おまけに西宮硝子のような可愛い子と付き合って許せん、感動ポルノだ、となる。
 石田のいじめられっ子の方に感情移入してしまうと、川井みきの裏切りだけは絶対に許せない、という方向に行くようだ。

 「有難や」の巻のところで、今読み返すとかなり勘違いと混乱があって恥ずかしい限りだ。何とか修正して鈴呂屋書庫の方にアップした。
 あちこち書き直したので、とりあえずまとめ直す。

 三日は申の刻(四時ごろ)露丸宅に到着する。「本坊ヨリ帰リテ会ス。」は露丸が本坊から帰ってくるのを待ったのか。それから大石田平右衛門ヨリ状添の書状を露丸に預け、本坊若王寺別当執行代和交院(会覚)に渡してもらう。ふたたび露丸が帰ってきてから南谷へ行き、南谷に泊まる。
 四日は南谷から本坊の方へ行き会覚に会い、本坊で表六句を巻く。南谷に帰る。
 五日は夕飯の後、羽黒ノ神前に詣で、南谷に帰ってきて俳諧興行の続きを行い、初裏が完成する。
 六日は朝未明に南谷を出て昼には弥陀ヶ原に着く。四時ごろ山頂に着く。
 七日は朝早く湯殿山に向かい、御宝前の御神湯に入り昼までに月山山頂に戻り昼飯を食う。それから月山を下り、南谷に戻ったころには真っ暗だったと思われる。
 八日は南谷で休養。昼に会覚がやってきて、四時ぐらいに帰る。
 九日にも会覚がやってきて俳諧興行の続きを行い、四時ごろには終わった。

 それでは「めづらしや」の巻の続き。

 九句目。

   蘩無里は心とまらず
 粟ひえを日ごとの齋に喰飽て   芭蕉

 「齋(とき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (食すべき時の食の意)
  ① 僧家で、食事の称。正午以前に食すること。⇔非時(ひじ)。
  ※宇津保(970‐999頃)春日詣「ここらの年ごろ、露・霜・草・葛の根をときにしつつ」
  ② 肉食をとらないこと。精進料理。
  ※栄花(1028‐92頃)初花「うちはへ御ときにて過させ給し時は、いみじうこそ肥り給へりしか」
  ③ 檀家や信者が寺僧に供養する食事。また、法要のときなどに、檀家で、僧・参会者に出す食事。おとき。
  ※梵舜本沙石集(1283)三「種々の珍物をもて、斎いとなみてすすむ」
  ④ 法要。仏事。
  ※浄瑠璃・心中重井筒(1707)中「鎗屋町の隠居へ、ときに参る約束是非お返しと云ひけれ共、はてときは明日の事ひらにと云ふに詮方なく」
  ⑤ 節(せち)の日、また、その日の飲食。」

とある。ここでは毎日食うのだから①であろう。僧家は肉食しないから同時に②にもなる。
 粟や稗を毎日食って食い飽きたから、蓬が食べたくてしょうがない、ということか。
 十句目。

   粟ひえを日ごとの齋に喰飽て
 弓のちからをいのる石の戸    重行

 これは「石に立つ矢」のことだろう。以前「杜若」の巻八句目、

   捨かねて妻呼鹿に耳ふさぎ
 念力岩をはこぶしただり     安信

の所で触れたが、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「一心を込めて事を行えばかならず成就するとのたとえ。中国楚(そ)の熊渠子(ようきょし)が、一夜、石を虎(とら)と見誤ってこれを射たところ、矢が石を割って貫いたという『韓詩外伝(かんしがいでん)』巻6や、漢の李広(りこう)が猟に出て、草中の石を虎と思って射たところ、鏃(やじり)が石に突き刺さって見えなくなったという『史記』「李将軍伝」の故事による。「虎と見て石に立つ矢もあるものをなどか思(おもい)の通らざるべき」の古歌や、「一念(一心)巌(いわ)をも通す」の語もある。[田所義行]」

とあるように、信じる力があれば矢は石をも通すという。本当かどうかは知らんが。
 「念力」は仏道の信じる力を表す場合もあるから、日頃から精進料理を食べて仏道修行に励んできたのだから、そろそろ矢は石をも通すのではないかと石の戸に向かって試しているのであろう。
 十一句目。

   弓のちからをいのる石の戸
 赤樫を母の記念に植をかれ    曾良

 赤樫は木刀などの武具に用いられるが、弓に用いられないのは硬すぎてしならないからだろう。
 赤樫を弓にするというのではなく、赤樫を形見に植えるような母だから武人の家系ということか。
 十二句目。

   赤樫を母の記念に植をかれ
 雀にのこす小田の刈初      露丸

 昔は女性も不動産を所有していたが、母の残した田んぼは小さな田んぼにすぎず、あまり手入れもされてないのだろう。稲が実ってもなかなか刈りに来ず、雀が群がっている。
 十三句目。

   雀にのこす小田の刈初
 此秋も門の板橋崩れけり     重行

 小さな田んぼの主も亡くなり、生前に植えた稲だけが残っていて、門の板橋も崩れてしまっている。
 十四句目。

   此秋も門の板橋崩れけり
 赦免にもれて独リ見る月     芭蕉

 赦免はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙
  ① 罪を許し、刑罰を免除すること。また、課せられるべき責務などを免除すること。
  ※権記‐長保二年(1000)五月一八日「依二母后御悩一、行二赦免一之例可レ令二勘申一」
  ※平家(13C前)三「俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ」 〔史記‐淮南厲王伝〕
  ② あやまちを許すこと。
  ※狂言記・吟聟(1660)「ひまもゑませいでおそなはりましたる所。御しゃめんあられませい」
  ③ 束縛から解放してやること。自由の身にしてやること。
  ※天草本伊曾保(1593)イソポの生涯の事「フダイノ トコロヲ xamenxite(シャメンシテ)」

とある。
 この場合は蟄居(ちっきょ)を命じられたのであろう。他のものは許されたのに、自分だけがいまだに家から出られず、門の外の板橋を直すこともできない。
 十五句目。

   赦免にもれて独リ見る月
 衣々は夜なべも同じ寺の鐘    露丸

 自分は一人月を見ているのに隣では男女が親しんで、明け方には帰ってゆく。後朝は悲しいけど、それを内職で一夜を明かし横で見るのはジェラシー。ともに同じ鐘の音を聞く。
 十六句目。

   衣々は夜なべも同じ寺の鐘
 宿クの女の妬きものかげ     曾良

 同じ宿で働く女性でも、一人は仕事一人は恋。これもジェラシー。
 十七句目。

   宿クの女の妬きものかげ
 婿入の花見る馬に打群て     重行

 花の季節にこれまた華やかに馬に乗って婿入りする若武者の行列が宿場を通ると、宿場の女たちはみんな見に来るが、ひそかに恋心を抱いていた女は、嫉妬して物陰からチラ見するだけ。
 わざわざ婿養子に取るのだから、文武に秀でたみんなのあこがれだったのだろう。
 十八句目。

   婿入の花見る馬に打群て
 旧の廊は畑に焼ける       露丸

 花婿を外部から迎える家は、すっかり没落していたのだろう。家を建て直すために養子を取ったか。
 古い城郭は既に崩され、畑になっている。これからは城を立派にするよりも農業に力を入れるということか。

2020年8月1日土曜日

 今日は梅雨明けが発表された。そんなにきれいに晴れたわけでもなく、まだ実感がわかないが、でも久しぶりに夜の空に月が見えた。満月も近い。
 『聲の形』というアニメ、前にもテレビでやってたが、前半もあまり真剣に見てないけど、途中で見る気がしなくなる。2チャンネルで「胸糞」という言葉がいくつも並んでいて、何か安心したというか、救われた気がした。
 多分いじめの経験者ならわかる、トラウマを刺激するものがあるんだと思う。
 多分知らない人は「いじめには何か原因がある」と思ってしまうのだろう。まあ、そう考えた方が普通の視聴者にはわかりやすいのかもしれない。その原因というと、だいたいはマイノリティーであるか、本人が悪いかどちらかになってしまうものだ。
 だが実際にはいじめというのは小学校でも低学年の早い時期で、大体はそんな明確な理由があって始まるものではなく、「何となく違う」みたいな本能的な感覚からくるものだ。マイノリティーだからという理由づけも、後から大人に吹き込まれるもので、実際はそれ以前に何となく始まっているのが普通ではないかと思う。そうでない場合も、大体理由なんてないものだ。
 理由もわからないままいじめを受けていれば、そのやり場のない気持ちをまた闇雲にどこかに当たり散らす。結局は悪いことをやってしまう。そして「悪い奴だからいじめられて当然」となってゆく。
 だから、石田君がすでにいじめを受けていて、むしゃくしゃするから補聴器を壊したというなら、凄くよくわかる。でもこういうドラマはたいてい「いじめには必ず理由がなければいけない」とばかりに、補聴器を壊したことをいじめの原因としてしまう。そして、いじめは正当化され、本人は贖罪が要求される。
 そのあとは基本的に贖罪の物語で、まあ、クリスチャンなら悔い改めれば救われるという単純なドラマにも映るのだろう。でも、自分としては、いじめを受けたのはお前が悪いからだ、一生かけてでも償えと言われているように感じてしまう。
 まあ、こうした障害者差別をなくそうという啓蒙的な作品をディスると、それだけで人間性を疑われるから、あまり大きな声では言えないがね。
 前に見たときはあの事件の前だからそれほど感じなかったが、心に深い傷を抱えながらハルヒやらき☆すたやけいおん!で癒されてきた人たちがこの映画を見たらと思うと、ほんの少しだけ青葉容疑者の気持ちがわかったような気がした。
 前に見たときには「バルス、どうしてここに」と思ったが、今回は石田きゅんにもあんなお父さんがいたらなと思った。

 それでは「めづらしや」の巻の続き。

 十日にようやく一巡した「めづらしや」の巻は、三日がかりで完成している。曾良の『旅日記』にはこう記されている。

 「十一日 折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。
  十二日 朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。」

 十一日は月山・湯殿山の強行軍もあったせいか、芭蕉さんはダウンで、興行は昼までで終わり。何句目まで進んだかはわからない。
 それでは五句目。

   閏弥生もすゑの三ヶ月
 吾顔に散かかりたる梨の花    重行

 閏弥生ということで、梨の花を付ける。
 六句目。

   吾顔に散かかりたる梨の花
 銘を胡蝶と付しさかづき     芭蕉

 梨の花は梅や桜などの花と違い、殺風景な花とされてきた。その梨の花の散りかかる人物は、やはり名利を求めない隠士であろう。盃に荘子に由来する胡蝶の銘を打ち、せめても酒に生死を忘れようとする。
 「梨の花」と「胡蝶」は謡曲『楊貴妃』に縁がある。玄宗皇帝に命じられて楊貴妃の魂を探しに蓬莱宮にたってきた法士が、「梨花一枝。雨を帯びたるよそほひの、太液乃、芙蓉の紅未央の柳乃緑もこれにはいかで勝るべき。」という楊貴妃の霊が現れる。そして霓裳羽衣の曲を舞うと、「何事も、夢まぼろしの戯れや。あはれ胡蝶の、舞ならん」と述懐する。
 初裏。
 七句目。

   銘を胡蝶と付しさかづき
 山端のきえかへり行帆かけ舟   露丸

 別れの盃として、遠くへ去ってゆく舟を付ける。
 八句目。

   山端のきえかへり行帆かけ舟
 蘩無里は心とまらず       曾良

 「蘩」はここでは「よもぎ」と読むようだ。蓬生の里は『源氏物語』にも登場し、そこで末摘花を見つけて二条院に連れてくるが、蓬すらない里はただ通り過ぎるのみ。