今日は暑かった。三十五度を超えたか。
コロナの重症者数はじわじわと増えてはいるが、急激に増えてはいない。感染者数が増えると、それだけみんな危機感を持って、それが行動に影響するから、特に何の対策がなくても鈍化する傾向にあるのだろう。
この調子でお盆休みがゴールデンウィークの再現みたいに、駅も空港もがらがらになれば、八月中はそれほど心配ないかもしれない。
それでは「めづらしや」の巻の続き。挙句まで。
二裏。
三十一句目。
温泉かぞふる陸奥の秋風
初雁の比よりおもふ氷様 露丸
「氷様(ひのためし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙
① 氷室(ひむろ)に収められている氷の厚さなどを模して石で作ったもの。氷様の奏の時に、天覧に供される。《季・新年》
※内裏式(833)会「冰様進牟止、宮内省官姓名叩レ門故爾申」
※太平記(14C後)二四「先正月には〈略〉氷様(ヒノタメシ)・式兵二省内外官の補任帳を進る」
② 「氷様(ひのためし)の奏(そう)」の略。
※無言抄(1598)下「氷様(ヒノタメシ) 同元日なり。こほりの以厚薄豊年凶年をしるなり」
とある。「氷様(ひのためし)の奏(そう)」は同じく「コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「元日(がんにち)の節会の時に、宮内省から昨年の氷室の収量や氷の厚薄、一昨年との増減などを奏し、あわせて氷様を天覧に供する儀式。〔江家次第(1111頃)〕」
とある。
これは、
都をば霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関
能因法師(後拾遺集)
の逆パターンであろう。秋風に陸奥を発てば氷様(ひのためし)の奏の頃には都に戻れるだろうか、となる。
三十二句目。
初雁の比よりおもふ氷様
山殺作る宮の葺かへ 曾良
「山殺(やまそぎ)」はよくわからないが、神社の千木には「縦そぎ」「横そぎ」があり、この場合の「そぎ」は「削」という字を当てるのが普通だが「殺」という字を当てる場合もある。
ひょっとしたら縦殺ぎでも横殺ぎでもない山殺ぎというのがあったのかもしれない。
ちなみに氷室神社の祭神は闘鶏稲置大山主(つけのいなきおおやまぬし)で千木は水平の雌千木(横殺ぎ)になっている。男の神様なのに雌千木というあたりから来たマニアックな発想だったか。
三十三句目。
山殺作る宮の葺かへ
尼衣男にまさる心にて 重行
山殺ぎが雌千木でも雄千木でもない山形に削った特殊な千木というネタだとしたら、男勝りの尼で雄とも雌ともつかぬ千木をと意味は通じる。
三十四句目。
尼衣男にまさる心にて
行かよふべき歌のつぎ橋 露丸
「つぎ橋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 橋脚となる柱をところどころに立て、その上に幾枚もの橋板を継ぎ足して渡した橋。
※万葉(8C後)一四・三三八七「足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の都芸波思(ツギハシ)止まず通はむ」
※神楽歌(9C後)明星「(末)葛城や渡る久米路の津支橋(ツギはし)の心も知らずいざ帰りなむ」
[語誌]挙例の「万葉集」の「葛飾の真間」(現、市川市真間町)が早く、平安後期には「かきたえし真間のつぎ橋ふみ見ればへだてたる霞も晴て迎へるがごと〈源俊頼〉」〔千載‐雑下〕のように歌枕として定着する。しかし、この他にも挙例の「神楽歌」等における「久米路」(大和)など、さまざまな土地のものが詠まれている。」
とある。
いそぎしもこし路のなごのつぎはしも
あやなくわれやなげきわたらん
和泉式部(夫木集)
の「なご」は芭蕉がこれから行く那古の浦にあったとされる継橋で、男勝りの尼は和泉式部のイメージだったのか。
『源氏物語』末摘花巻に登場する大輔の命婦は、若い頃の和泉式部がモデルだったかもしれない。末摘花
は清少納言であろう。
三十五句目。
行かよふべき歌のつぎ橋
花のとき啼とやらいふ呼子鳥 芭蕉
呼子鳥は和歌に詠まれてはいるものの謎の鳥とされてきた。二〇一六年十月三十日の鈴呂屋俳話で湯山三吟の九十四句目、
わりなしやなこその関の前わたり
誰よぶこどり鳴きて過ぐらん 肖柏
のところでツツドリではないかとしたが、長年にわたって謎の鳥とされている。「花のとき啼とやらいふ」と、当時の人はその程度に認識していたのだろう。
前句の「歌のつぎ橋」を古今伝授のこととし、古今伝授の三鳥の秘事の一つである呼子鳥を出す。
挙句。
花のとき啼とやらいふ呼子鳥
艶に曇りし春の山びこ 曾良
「艶」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、
「日本文学における美意識の一つ。上品なあでやかさ,つやのあるはなやかな美などをいう。『天徳歌合』『源氏物語』をはじめ,室町時代にいたるまで,物語,随筆,歌論にみられる。室町時代には心敬が「氷ばかり艶なるはなし」 (『ひとりごと』) といい,内面的に深化した艶に美の理想をみた。」
とある。氷が何であでやかでつやがあるのかはよくわからない。
「艶」というと、貞享三年刊の『蛙合』の、
ここかしこ蛙鳴ク江の星の数 其角
の評の所に、
「月なき江の辺リ風いまだ寒く、星の影ひかひかとして、声々に蛙の鳴出たる、艶なるやうにて物すごし。青草池塘処々蛙、約あつてきたらず、半夜を過と云ける夜の気色も其儘にて、看ル所おもふ所、九重の塔の上に亦一双加へたるなからんかし。」
とあり、この艶にも通じるように思える。月のない星のピカピカと光る夜、風もまだ寒く、そんな中に鳴く蛙は、月夜の蛙のような華やかさもなく、殺風景で、もうひとつ何か欲しい、という評になっている。
近代だと満天の星空はそれだけで美しいものとされるが、当時星月夜は闇のイメージだった。満天の星空は当時の人としてはあまりにありふれた光景で、特に気に留めることもなかったのだろう。ある意味其角の感性が近代を先取りしていたのかもしれない。
艶は表向きの華やかさではなく、むしろ隠された秘められた美しさを表していたのではないかと思う。それがうまく伝わらないと「艶なるやうにて物すごし」になるのではないかと思う。
曾良の「艶に曇りし」は前句の花を受けて、花の雲の連想から、山が花で白く染まる様を「艶に曇りし」と言ったのではないかと思う。そして曇るのは山だけでなく、呼子鳥の声のやまびこも曇る。花鳥の華やかさを「雲」のイメージの中に隠してこそ「艶」だったのだろう。
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