今日は梅雨明けが発表された。そんなにきれいに晴れたわけでもなく、まだ実感がわかないが、でも久しぶりに夜の空に月が見えた。満月も近い。
『聲の形』というアニメ、前にもテレビでやってたが、前半もあまり真剣に見てないけど、途中で見る気がしなくなる。2チャンネルで「胸糞」という言葉がいくつも並んでいて、何か安心したというか、救われた気がした。
多分いじめの経験者ならわかる、トラウマを刺激するものがあるんだと思う。
多分知らない人は「いじめには何か原因がある」と思ってしまうのだろう。まあ、そう考えた方が普通の視聴者にはわかりやすいのかもしれない。その原因というと、だいたいはマイノリティーであるか、本人が悪いかどちらかになってしまうものだ。
だが実際にはいじめというのは小学校でも低学年の早い時期で、大体はそんな明確な理由があって始まるものではなく、「何となく違う」みたいな本能的な感覚からくるものだ。マイノリティーだからという理由づけも、後から大人に吹き込まれるもので、実際はそれ以前に何となく始まっているのが普通ではないかと思う。そうでない場合も、大体理由なんてないものだ。
理由もわからないままいじめを受けていれば、そのやり場のない気持ちをまた闇雲にどこかに当たり散らす。結局は悪いことをやってしまう。そして「悪い奴だからいじめられて当然」となってゆく。
だから、石田君がすでにいじめを受けていて、むしゃくしゃするから補聴器を壊したというなら、凄くよくわかる。でもこういうドラマはたいてい「いじめには必ず理由がなければいけない」とばかりに、補聴器を壊したことをいじめの原因としてしまう。そして、いじめは正当化され、本人は贖罪が要求される。
そのあとは基本的に贖罪の物語で、まあ、クリスチャンなら悔い改めれば救われるという単純なドラマにも映るのだろう。でも、自分としては、いじめを受けたのはお前が悪いからだ、一生かけてでも償えと言われているように感じてしまう。
まあ、こうした障害者差別をなくそうという啓蒙的な作品をディスると、それだけで人間性を疑われるから、あまり大きな声では言えないがね。
前に見たときはあの事件の前だからそれほど感じなかったが、心に深い傷を抱えながらハルヒやらき☆すたやけいおん!で癒されてきた人たちがこの映画を見たらと思うと、ほんの少しだけ青葉容疑者の気持ちがわかったような気がした。
前に見たときには「バルス、どうしてここに」と思ったが、今回は石田きゅんにもあんなお父さんがいたらなと思った。
それでは「めづらしや」の巻の続き。
十日にようやく一巡した「めづらしや」の巻は、三日がかりで完成している。曾良の『旅日記』にはこう記されている。
「十一日 折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。
十二日 朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。」
十一日は月山・湯殿山の強行軍もあったせいか、芭蕉さんはダウンで、興行は昼までで終わり。何句目まで進んだかはわからない。
それでは五句目。
閏弥生もすゑの三ヶ月
吾顔に散かかりたる梨の花 重行
閏弥生ということで、梨の花を付ける。
六句目。
吾顔に散かかりたる梨の花
銘を胡蝶と付しさかづき 芭蕉
梨の花は梅や桜などの花と違い、殺風景な花とされてきた。その梨の花の散りかかる人物は、やはり名利を求めない隠士であろう。盃に荘子に由来する胡蝶の銘を打ち、せめても酒に生死を忘れようとする。
「梨の花」と「胡蝶」は謡曲『楊貴妃』に縁がある。玄宗皇帝に命じられて楊貴妃の魂を探しに蓬莱宮にたってきた法士が、「梨花一枝。雨を帯びたるよそほひの、太液乃、芙蓉の紅未央の柳乃緑もこれにはいかで勝るべき。」という楊貴妃の霊が現れる。そして霓裳羽衣の曲を舞うと、「何事も、夢まぼろしの戯れや。あはれ胡蝶の、舞ならん」と述懐する。
初裏。
七句目。
銘を胡蝶と付しさかづき
山端のきえかへり行帆かけ舟 露丸
別れの盃として、遠くへ去ってゆく舟を付ける。
八句目。
山端のきえかへり行帆かけ舟
蘩無里は心とまらず 曾良
「蘩」はここでは「よもぎ」と読むようだ。蓬生の里は『源氏物語』にも登場し、そこで末摘花を見つけて二条院に連れてくるが、蓬すらない里はただ通り過ぎるのみ。
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