2020年8月28日金曜日

 安部首相辞任ということで、一つの時代が終わるんだろうな。江戸中期の田沼時代のように、後の人は安部時代と呼ぶかも。田沼時代は天明の飢饉や浅間山の噴火のあともわずかに続いたが、安部時代はコロナによって終わった。アベノミクスのもとに作られた成長戦略が、コロナによって息の根を止められ、修正や変更を迫られているなら、政権交代は必要だろう。古い政策をいつまでも引きずっていてもしょうがない。
 ただ、安倍政権は他にいないからという理由で永らえてきたところがあるから、ポスト安部といっても、その「他」の人たちなわけで。誰がなってもそんな長くは続きそうもない。コロナの難問はそのままだし、誰かが画期的な解決策を持っているというわけでもない。
 官邸はもう長いことサイレントマジョリティーの声を聞くことができなくなっている。まあ、官邸に限らず、この声を聞くことができたなら、すぐにでも選挙で大躍進して総理の座も夢じゃないだろうけど。
 聞こえてくるのは選挙区の様々な団体の声、経済界の様々な業界の声、マスコミの捏造するせいぜい十五パーセントくらいの「国民の声」。そんなもので政治が動いていれば、誰がやっても迷走するに決まっている。
 ネット上も一握りのパヨクのプロパガンダと、それよりもはるかに少数でありながらアカウントをたくさん持っているネトウヨの書き込み、パヨクやネトウヨを装った海外の工作員が紛れているかもしれないし、さらにそれらと無関係な膨大な数のクソリプに埋め尽くされて、そこから本当の声を拾い上げるのは難しい。
 まあ、政治家にあまり期待しない方がいいんだろうな。
 それでは俳諧の方を。
 さて、七月二十三日に宮の腰に遊んだ芭蕉は、翌二十四日には金沢を離れ、小松に着く。そして翌二十五日、
 「廿五日 快晴。欲小松立、所衆聞テ以北枝留。立松寺へ移ル。多田八幡ヘ詣デテ、真(実)盛が甲冑・木曾願書ヲ拝。終テ山王神主藤井(村)伊豆宅へ行。有会。 終テ此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折々降ル。」

 多太八幡宮を詣でたことは、『奥の細道』にも、

 「此所太田(ただ)の神社に詣。真盛が甲・錦の切あり。往昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらさぶらひ)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊から草のほりもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形打(くわがたうっ)たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて此社にこめられ侍るよし、樋口の次郎が使ひせし事共、まのあたり縁紀ぎみえたり。

 むざんやな甲の下のきりぎりす」

とある。
 このあと山王神主藤井(村)伊豆宅へ行き、「有会」とある。これは「有俳」と同じで、俳諧興行があったことを示す。それが、『奥の細道』だと前後逆になるが、

  「小松と云いふ所にて
 しほらしき名や小松吹ふく萩すすき」

を発句とした世吉(よよし:四十四句)興行だった。
 発句。

 しほらしき名や小松ふく萩芒  芭蕉

 この発句については面倒なので、昔書いた『奥の細道─道祖神の旅─』をコピペしておく。

 「しほらしき…」の句は小松での俳諧興行での句。小松という地名に掛けて小さな松を秋風が吹いているようでしおらしいと詠んだもの。「しほ(を)らし」は「しをる」から来た言葉で、花が萎れるように本来は悲しげなものだった。それが転じて、はかない、控えめな弱々しい美しさ表わす言葉となり、芭蕉は「さび」と並ぶ「しほり」を俳諧の一つの理想の体とした。「萩すすき」は「萩の上露、荻の下風」を思わせるもので、本来なら「しおらしき名の小松を吹く萩すすきの風」となるべきところを省略したものだ。初案は「萩すすき」ではなく「荻すすき」だった。この方が意味はわかりやすいが、萩の方が花がある。萩の露を散らし、すすきの葉を鳴らす秋風に吹かれる小さな松は、小町の面影か。

 この発句は、曾良の『俳諧書留』では「荻薄」とあることから、ここでは初案としていたが、寛政四年刊の『草のあるじ』所収の四十四句中三十七句の発句は「萩芒」となっている。興行の時既に萩芒だったとすれば、曾良の書き間違いの可能性もある。
 脇は山王神主藤井(村)伊豆(俳号皷蟾:こせん)が付ける。

   しほらしき名や小松ふく萩芒
 露を見しりて影うつす月    皷蟾

 萩といえば露なので、この興行の発句は「荻」ではなく「萩」だったのは間違いないだろう。影は光の意味もある。月の光で露がきらめいている様に、露のような私に芭蕉さんが光を照らしてくれる、という寓意を含ませている。

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