2020年8月6日木曜日

 今日は広島の原爆忌ということで、まあ現実は結局北朝鮮の核開発阻止に失敗し、経済制裁では核開発を止めることができないことが証明されてしまったようなもので、そうなると核兵器禁止条約の存在意義も問われてしまうことになる。
 違反した国に対してなすすべがないなら、結局あれは紳士協定に過ぎないのか。核開発を抑止する有効な手段が見つからない限り、核には核で対抗するしかなく、もはや核のない世界に戻ることはできない。
 広島市長の挨拶でもコロナのことに触れてたが、今怖いのは日本の場合、長期戦に対する心構えができてなくて、安易に「ジリ貧なら玉砕を」になってしまう危険があることだ。
 どうせ感染を抑止することできないのなら、さっさとみんなかかっちゃええばいいじゃないかみたいな方向で、コロナに向かって万歳突撃を始めるんじゃないか、それは心配だ。
 長期戦に備えるなら、とにかく地を這って泥水を舐めても生き残らなくてはならない。そして何十年かかってでも最後に笑えればいい。日本人にはなかなかそれができなくて、すぐに一億総自決の発想になってしまう。それは気を付けなくてはならない。
 まあともかくジリ貧より玉砕を選ぼうとする人がいたら、そういう人について行ってはいけない。小斉さんの「教訓I」という歌が4月ごろカバーされて話題になっていたが、あれもそういう歌ではないかと思う。とにかくみんな、生き残ろう。
 それでは「めづらしや」の巻は終わったけど、芭蕉と曾良の旅の続きを。

 六月十二日に「めづらしや」の巻を終えると芭蕉と曾良は六月十三日には船で坂田に向かう。この日の曾良の『旅日記』は去年の七月八日にも引用したが、もう一度示しておこう。

 「一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻ヨリ曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭ヘ音信、留守ニテ、明朝逢。」

 鶴岡を出るとき羽黒山から飛脚が来て浴衣二着と、

 忘るなよ虹に蝉鳴山の雪   会覚

の発句が届く。坂田に着いたが玄順(不玉)は留守で、どこか他に宿を取ったのだろう。
 翌十四日、『旅日記』にはこうある。

 「十四日 寺島彦助亭へ被招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。」

 曾良の『俳諧書留』には「六月十五日寺島彦助亭にて」と前書きした七句が記されている。『旅日記』だと十五日には象潟へと向かうが、雨のため吹浦に足止めされてしまうことになる。『俳諧書留』の方の「十五日」の日付は記憶違いと思われる。
 ではその時の発句、

 凉しさや海に入たる最上川  芭蕉

 本当は暑かったのだけど、社交辞令で「凉しさや」とする。この頃の発句や脇はこういうちょっと取り繕った挨拶が普通だった。それだけに『猿蓑』の、

 市中は物のにほいや夏の月  凡兆
   あつしあつしと門々の聲 芭蕉

は画期的だったのだろう。
 『奥の細道』ではこの発句は、

 暑き日を海にいれたり最上川 芭蕉

に改められている。やはり本音では「あつしあつし」だったようだ。
 脇。

   凉しさや海に入たる最上川
 月をゆりなす浪のうきみる  詮道

 詮道は寺島彦助のこと。「うきみる」は浮海松で波に浮かんだ海松(みる)という海藻のこと。
 芭蕉さんを月に例え、自分たちは浪の浮海松ですとへりくだるパターンはこの頃の脇のお約束といってもいい。
 十四日は満月に近いが、海は西側なので明け方でない限り浪の方に月は出ない。実景ではなく社交のための作りといっていい。
 このあと十九日の興行でも、

   温海山や吹浦かけて夕凉
 みるかる磯にたたむ帆筵    不玉

の脇があるから、海松は坂田の特産品だったか。
 第三。

   月をゆりなす浪のうきみる
 黒がもの飛行庵の窓明て    不玉

 「黒がも」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏の五月の所にある。

 「[仙覚万葉抄]黒鴨、一名かるといふは、鴨のたぐひなり。田舎の人は黒鴨といふ。」

 カルガモのことを言う。今日でいう「クロガモ」ではない。
 「飛行」は「とびゆく」で空飛ぶ庵があったわけではない。庵が川のそばにあって月に雁ならぬ黒鴨が飛んで行く。

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