2020年8月14日金曜日

 今日も心の中は栃木県を旅している。日光から黒羽の道は歩いたこともあるので、思い出すこともある。

 「日光坊中墓所、骨堂、盤石を切抜、髪骨ヲ納。」(舞都遲登理)

 日光坊中墓所、まだ調べがついていない。わからない。

 「中禪寺、日光ヨリ三里登ル。馬返迄二里、上一里ハ難所、嶺ニ權現堂・立木觀音・牛石・神子石・不動坂・清瀧・湖水・黑髪山則此所也。三四月にも雪降。
    〇花はさけ湖水に魚は住ずとも
    〇鶯は雨にして鳴みぞれ哉
    〇雪なだれ黑髪山の腰は何」(舞都遲登理)

 中禅寺湖まで三里。馬返しは今の第一いろは坂の途中にある大谷川と般若瀧・方等瀧から来る川との分岐点の先にある、女人堂のあたりだという。ここまでは馬で来れたのだろう。月山でいう合清水のような場所だったのだろう。ここまでが二里。ここから先は山道になり一里といっても険しい急な坂で難所だった。
 立木観音は中禅寺湖の東岸にある中禅寺の御本尊十一面千手観世音菩薩で、勝道上人が桂の立木に彫ったという。「嶺ニ權現堂」は不明。
 牛石は中禅寺湖の北岸にある二荒山神社中宮祠にあり、女人禁制の禁を犯した巫女(神子)は巫女石(神子石)に牛は牛石になったといわれている。馬はだめでも牛は登れたのか。
 不動坂は馬返しの先にかつて中の茶屋があり、ここから先を不動坂という。
 清瀧は憾満ガ淵の先で大谷川を渡ったところにあり、清瀧神社と清瀧寺がある。湖水は中禅寺湖のことか。黒髪山は今の男体山のこと。この辺りは三月、四月でも雪が降るという。
 さて発句の方だが、

 花はさけ湖水に魚は住ずとも   桃隣

 中禅寺湖は火山でできた湖で、華厳の滝が魚の遡上を阻んだため、魚のいない湖と言われていた。明治以降さまざまな魚が放流されている。「花はさけ」というからまだここでは桜は咲いてなかったのだろう。それともまさか魚はいなくても「花は鮭」という駄洒落?

 鶯は雨にして鳴みぞれ哉     桃隣

 三四月に雪が降ると言っていたが、この日はみぞれだったのだろう。雨なら鶯が鳴いただろうに残念ということか。

 雪なだれ黑髪山の腰は何     桃隣

 謎かけみたいな句だが、男体山という別名から、腰の何かを想像させようというものか。

 「寂光寺、日光ヨリ一里。本尊辨財天、外ニ権現堂、左の方に瀧有。
    〇千年の瀧水苔の色青し」(舞都遲登理)

 寂光寺は清瀧まで戻った後、田母沢川を登っていったところにある。弘仁十一年(八二〇年)弘法大師の開基。明治の廃仏毀釈で今は若子神社になっている。若光の滝がある。

 千年の瀧水苔の色青し      桃隣

 これは特に言うことはないだろう。

 「此所から半里戻り、又奥山へ分入。日光四十八瀧十八瀧の中第一の瀧あり。遙に山を登て、岩上を見渡せば、十丈余碧潭に落。幅ハ二丈に過たり。窟に攀入て、瀧のうらを見る。仍うらみの瀧とはいへり。水の音左右に樹神して、氣色猶凄し。
    〇雲水や霞まぬ瀧のうらおもて」(舞都遲登理)

 裏見の滝は芭蕉も訪れ、

 暫時(しばらく)は滝に籠るや夏の初 芭蕉

の句を詠んでいる。
 ウィキペディアには落差十九メートル、幅二メートルとある。十丈だと三十メートル、幅二丈は六メートルだから、やはりさばを読んでいる。十間(十八メートル)、二間(三・六メートル)ならまだわかる。幅は水量によって変化する。まあ、正確に測ったわけでないからこんなもんなのだろう。
 なお、芭蕉は『奥の細道』に「百尺、千岩の碧潭に落たり。」と記している。百尺=十丈だし、「碧潭に落」の文言が一致しているから、ぱく…ではなく引用した?『奥の細道』素龍本は元禄七年に完成しているから、読んだ可能性はあるし、読んだからこうして足跡を巡っているのだろう。
 ここで日光についての記述は終わるわけだが、ついに華厳の滝は出てこなかった。宗長の『東路の津登』にも出てこない。勝道上人が発見したと言われているから、その存在が知られてなかったわけではないのだろう。ただ、周囲の山が険しいために幻の滝になっていたのかもしれない。そうなると『梵灯庵道の記』に出てきた滝も華厳の滝の可能性は低い。
 さて、発句。

 雲水や霞まぬ瀧のうらおもて   桃隣

 雲水はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①飛び行く雲と流れる水。行雲流水。水雲。
  ②〔空行く雲や流れる水の行方が定まらないように諸国を巡るところから〕 行脚(あんぎゃ)僧。雲衲(うんのう)。水雲。 〔特に、禅宗の僧についていう〕
  (雲や水のように)ゆくえが定まらないこと。うんすい。 「上り下るや-の身は定めなき習ひかな/謡曲・船弁慶」

とある。芭蕉の『鹿島詣』では宗波のことを「ひとりは水雲の僧」と紹介している。水雲もweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に「雲水(うんすい)に同じ。」とある。
 こうやって行方もない旅をしている身には、滝の裏も表も霞むことはない、澄み切った心になることができる、とやや自賛気味の句だ。

 「日光ヨリ今市ヘ出、太田原へかかりて、那須の黒羽に出る。
 此所に芭蕉門人有て尋入。
      卯月朔日雨
    〇物臭き合羽やけふの更衣
      はてしなき野にかかりて
    〇草に臥枕に痛し木瓜の棘
      道より便をうかがひて
    〇黒羽の尋る方や青簾
 行々て、館近、浄坊寺桃雪子に宿ス。
      翌日興行
    〇幾とせの槻あやかれ蝸牛」(舞都遲登理)

 日光から今市を経由して大渡(おおわたり)へ行き、ここで鬼怒川を渡り、船生(ふにゅう・)玉生(たまにゅう)・矢板・大田原を経て黒羽に行くのが本来の道だったのだろう。芭蕉と曾良は今市を通らず、仏五右衛門の案内で大谷川の北側へと渡り、瀬尾、川室を経て大渡に出る近道を通っている。あるいは旧大谷川を船で下ったのかもしれない。
 さて、黒羽では芭蕉の門人に会う。誰かはわからない。浄坊寺桃雪子は浄法寺図書高勝(鹿子畑高勝)で、『奥の細道』の旅の時には秋鴉の号で「秣おふ」の巻で三十五句目の花の句だけ呼んでいる。
 浄法寺は『奥の細道』に「黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る」とあるから桃隣もそれを読んで「浄坊寺桃雪子」と書き誤ったのだろう。
 この興行では弟の翠桃が中心になり、脇も詠んでいる。山梨のサイトでは元禄五年に亡くなったとあるが、大田原市のホームページでは鹿子畑翠桃(寛文2年から享保13年・1662から1728)とある。存命だったなら「芭蕉門人有て尋入」は翠桃のことで、兄の桃雪を紹介してもらったのだろう。
 桃隣、桃雪、翠桃、みんな芭蕉庵桃青の「桃」の字を受け継いでいる。(黒羽にはもう一人桃里がいる。)
 さて、発句の方を見てみよう。

   卯月朔日雨
 物臭き合羽やけふの更衣     桃隣

 衣替えで新しい服を着るものの、あいにくの雨で合羽は元のまんま。

   はてしなき野にかかりて
 草に臥枕に痛し木瓜の棘     桃隣

 これは那須野を歩いた印象だろう。ここで野宿したりすると木瓜の棘が痛いだろうな。

   道より便をうかがひて
 黒羽の尋る方や青簾       桃隣

 青簾(あおすだれ)は新しい簾。新しい畳が青いのと同じ。衣替えで簾まで新しくする立派な家柄の人なのだろうな。

   翌日興行
 幾とせの槻あやかれ蝸牛     桃隣

 浄法寺図書高勝亭での興行。庭に大きな欅の木があったのだろう。そんな立派な庭にやってきた自分はカタツムリのようなものだとへりくだって言う。

 「與市宗高氏神、八幡宮ハ館ヨリ程近し。宗高祈誓して扇的を射たると聞ば、誠感應彌增て尊かりき。
    〇叩首や扇を開き目を閉」(舞都遲登理)

 那須の与一はウィキペディアに「改名 宗隆(初名)→資隆、別名宗高」とある。
 あの有名な屋島合戦の場面は、『平家物語』に、

 「与一、目をふさいで南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須のゆぜんの大明神、願わくはあの扇の真ん中射させてたばせ給え。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二たび面を向かうべからず。今一度本国へ向かえんと思し召さば、この矢外させ給うなと心のうちに祈念して、目を見開ひたれば、風もすこし吹き弱り、扇も射よげにぞなったりける。」

とある。
 発句の方もそのまんまだ。

 叩首や扇を開き目を閉      桃隣

 「叩首」は「ぬかづく」と読む。「額突く」と書く方が一般的で、額を地面に擦り付けてお祈りすることをいう。
 浄法寺図書高勝亭は今の芭蕉公園にあり、そこから那須与一ゆかりの金丸八幡宮は一里あるかないかで、そう遠くない。余瀬の翠桃亭からだとその半分以下の距離になる。明治六年に那須神社に改称され、今では道の駅があり那須与一伝承館が建っている。余談だが那須与一伝承館へ行くと、しきりにロボット人形劇を見るように勧めてくる。相当金かけたのだろうな。

 「玉藻の社・稲荷宮、此所那須の篠原、犬追ものの跡有、館より一里計行。
    〇法樂 木の下やくらがり照す山椿
      黒羽八景の中
    〇鵜匠ともつかふて見せよ前田川
    〇夏の月胸に物なし飯縄山
    〇笠松や先白雨の迯所
    〇籠らばや八塩の里に夏三月
      行者堂に詣
    〇手に足に玉巻葛や九折
      留別
    〇山蜂の跡覺束な白牡丹」(舞都遲登理)

 玉藻の社・稲荷宮は今は玉藻稲荷神社になっている。このあたりはかつては篠原だったか。今は田んぼの中だが。
 犬追ものの跡はそれよりも近い。ここも今は田んぼの中にある。ともに芭蕉と曾良が訪れて、『奥の細道』に、「犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。」と記されている。
 それでは発句だが、「法楽」は神仏を楽しませるために芸能などをささげることで、ここでは神となった玉藻前に捧げるということか。

 木の下やくらがり照す山椿    桃隣

 「山椿」は山に自生する椿。玉藻前の塚のあたりに鬱蒼と木が茂っていて、そこに山椿が咲いていたのだろう。
 黒羽八景は瀟湘八景になぞらえて作られたものだろう。

 鵜匠ともつかふて見せよ前田川  桃隣

 これは平沙落雁であろう。前田川は今の松葉川か。

 夏の月胸に物なし飯縄山     桃隣

 これは洞庭秋月であろう。飯縄山神社は黒羽城から見て松葉川の対岸にある。

 笠松や先白雨の迯所       桃隣

 これは瀟湘夜雨であろう。笠松は笠のような形に横に枝を広げた松のこと。黒羽のどこにあったのかは不明。

 籠らばや八塩の里に夏三月    桃隣

 八塩は松葉川と那珂川の合流する辺りの東岸の山が迫る辺り。今はゴルフ場がある。山市晴嵐か。あるいは瑞巌寺の鐘の音が聞こえるということで煙寺晩鐘か。

   行者堂に詣
 手に足に玉巻葛や九折      桃隣

 行者堂は修験光明寺にあった。翠桃亭のすぐそばで、『奥の細道』にも「修験光明寺と云ふ有り。そこにまねかれて行者堂を拝す。」とある。
 発句の方は蔦の絡まった仏像でもあったのか。つづら折りの山道のように霊山に連れて行ってくれると詠む。

   留別
 山蜂の跡覺束な白牡丹      桃隣

 留別は餞別の反対で旅立つ方が贈る物。
 自らを山蜂に例え白牡丹のもとを飛び立ってゆく。

 「那須温泉 黒羽ヨリ六里余、湯壷五ッ、四町ノ間ニアリ。權現八幡一社ニ籠ル。麓に聖觀音。
  八幡寶物 宗高扇・流鏑・蟇目・乞矢・九岐ノ鹿角・(温泉アリト人ニ告タル鹿也。)守護ヨリ奉納ノ笙、他に縁起アリ。
  殺生石  此山割レ殘りたるを見るに、凡七尺四方、高サ四尺余、色赤黒し。鳥獣虫行懸り度々死ス。知死期ニ至りては、行達人も損ず。然る上、十間四方ニ圍て、諸人不入。邊の草木不育、毒氣いまだつよし。
    〇哀さや石を枕に夏の虫
    〇汗と湯の香をふり分る明衣哉」(舞都遲登理)

 那須温泉は那須温泉(ゆぜん)神社周辺の温泉で、曾良の『旅日記』には、

 「宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、温也ノ由、所ノ云也。」

とある。「不出」とあるのを除けば五つになる。
 権現八幡一社は温泉神社が誉田別命を祀っているところから温泉神社は権現八幡とも呼ばれていたのではないかと思う。
 麓の聖観音は不明。聖観音は多面多臂などの超人間的な姿ではない一面二臂の観音像で、今では那須三十三所観音霊が行われていて、聖観音を本尊とするお寺がたくさんあるが、芭蕉や桃隣の時代がどうだったかはわからない。
 八幡宝物は曾良の『旅日記』にも、

 「神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的躬残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。」

とある。
 「宗高扇」が「与一扇ノ的躬残ノカブラ壱本」、「蟇目」が「蟇目ノカブラ壱本」、「乞矢」が「征矢十本」、「他に縁起」が「正一位ノ宣旨・縁起」とある程度は一致する。たくさんあった中の記憶に残ったものであろう。今は公開されてないようだ。
 殺生石は今も公開されている。注連縄をつけて岩がありすぐ近くには寄れないが散策路がある。

 哀さや石を枕に夏の虫      桃隣

 実際に虫が死んでいるのを見たのではなく、伝説でそう作ったのだろう。芭蕉はここで、

   殺生石
 石の香や夏草赤く露あつし    芭蕉

の句を詠んでいる。曾良の『旅日記』の方にある句で、これは見たものをそのまま詠んだと思われる。当時はまだ地面が熱を持っていて、ガスも濃く、箱根大涌谷のような感じだったのか。

0 件のコメント:

コメントを投稿