今日は長崎の原爆忌。核兵器、なくなるといいね。でもそう思っている人同士が争っているうちは無理かもね。鈴呂屋は平和に賛成します。
それでは本題。
人間の記憶というのは、ともすると一昨日の夕飯すら思い出せなかったりするぐらいいい加減なもので、ましてや年月が経つと、嫌なこと苦しかったことは次第に忘れ、美しい思い出ばかりが残るものだ。
ましてその人間の記憶を集めた「歴史」なるものはもっとあてにならないもので、いろんな人たちのそれぞれに思惑から、ある部分は思い切り誇張し、ある部分はなかったことにされる。
こうして歴史はこれまで何度も書き換えられ、今日に至っている。歴史は風化するのではない。ただ利用されるのみだ。そしてその歴史への過信は、また新たな争いを生み出す。
連歌というのもその何度も書き換えられた歴史の中で、さまざまにゆがめられ、さんざん罵倒されたうえ、忘却の彼方に去っていった。今や訪ねる人もまれな葎蓬茂れる里になっている。
今日取り上げてみようと思うのは、中世の連歌師で、梵灯と呼ばれている朝山小次郎師綱(もろつな)という人の記した『梵灯庵道の記』だ。庵号がそのまま呼び名になる例は梵灯と芭蕉くらいで、それほど多くない。梵灯は『長短抄』という連歌書を記したということで、この俳話にも二回ほど登場している。
梵灯は貞和五年(一三四九年)生まれで二条良基や救済が活躍した時代よりは遅く、心敬、行助の時代よりは早い、その二つの時代の中間の人だ。
『梵灯庵道の記』については金子金次郎の『連歌師と紀行』(一九九〇、桜風社)を参照する。
この紀行文が発表されたのは応永二十五年(一四一八年)で、一四〇六年生まれの心敬が十二歳の時ということになる。宗祇はまだ生まれていない。
実際に旅をしたのは明徳四年(一三九三年)に出家して行脚生活に入っていた頃で、それ以上のことはわからないようだ。
まずはその書き出し部分を見てみよう。
「其比知識と聞えし人に、佛法のをきてさこそ律儀にも侍らんとおぼえて、真の心をこそしらずとも、知識の法度をも伺はんがために、或は一夏、或は半夏逗留せしかども、ただ江湖の僧五百人千人集りて、自他の褒貶のみにて、一坐の修行をも成しがたかりしかば、一往は智識の會下を捜事も侍しかども、後にはただ足にまかせ、心の行にしたがひて、浮雲流水を観じてさまよひありきし程に、漫々たる蒼海に出ては、友なし千鳥の類に身をなし、うはのそらに歩行に、峨々たる霊崛聳たるに、松柏の枝をかはせるあり。」
「知識」というのは仏教を実際に支えている識者のことで、ウィキペディアには、
「知識(ちしき・智識)とは、仏教の信者が善業を積み重ねるために寺院や仏像の建立や維持、写経や福祉などの事業のために金品などを寄進すること。また、寄進者や寄進物を指す場合もある。」
とあるが、この場合は寄進者の意味になる。
その知識と呼ばれている人たちに仏法の掟や法度を学ぼうとして、寺院に籠って修行しようと一夏(陰暦四月十六日から七月十五日までの夏の九十日間の安居)半夏(六月十五日から始まる一週間の大摂心)などを行ってはみた。だがそこで見たのは江湖(もとは長江と洞庭湖を意味する言葉だったが、広く世間を意味する言葉として用いられていた)の僧が五百人、千人と集まり、「褒貶(ほうへん)」は褒めたり貶したりという意味だが、実際の所、派閥を作っては互いに自分たちを持ち上げ他を罵るばかりという状態だったのだろう。今のネット上のようなものだ。
そんなわけで浮雲流水の行脚をしているうちに、とあるみちのくの山寺にやってきた。そこは「峨々たる霊崛聳たるに、松柏の枝をかはせる」ところだった。
この寺が何という寺なのかは定かでない。ただ、西行法師もしばらく滞在したということであれば、
又のとしの三月に出羽国にこえて滝の山と申す山寺に侍りけるに
桜の常よりもうすくれないの色こき花にてなみたてるけるを
寺の人々も見きようじければ
たぐひなき思ひ出羽(いでわ)の桜かな
薄くれなゐの花のにほいは
西行法師
都路を思ひ出羽の瀧の山
こきくれないの花の匂ひぞ
西行法師
の歌に詠まれた瀧の山だったかもしれない。山形にある醫王瀧山寺になる。
仁寿元年(八五一年)慈覚大師によって開創されたこの寺は正嘉二年(一二五八年)に北条時頼によって閉山させられたというが、その後も何らかの形で引き継がれていたのかもしれない。江戸時代でも瀧山大権現と呼ばれていたようだが、明治の廃仏毀釈で瀧山神社となった。
芭蕉も尾花沢から立石寺までは来たが、瀧山大権現はそれよりさらに南になる。
では続きを読んでみよう。
「見上侍るにいかさま霊仏霊神の居をしめ給かと覚て、葛折なる道處々にあり。ここかしこにやすみつつ上るほどに、夕陽もかさなれる山にかくれぬ。心ぼそきやうにてたどり行に、入會のかねの近々と聞え侍にぞ、さればこそとおぼえ侍し。
佛菩薩はかかる清浄の地に住給んとてこそ、寄特をも人にみせしめ、衆生をも利益し給なれ、由来うちやりざまの事にあらず、よくぞくれぐれ上り侍ける。」
「瀧の山」だったにしても、かつての大伽藍はすでに失われ、寂しげな山路だったのだろう。日も傾いたころに登るあたりは、『奥の細道』の立石寺のくだりにも似たところがある。一応芭蕉の文章も比較のために掲げておこう。
「山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸(崖)をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
閑さや岩にしみ入蝉の声」
曾良の『旅日記』には「未ノ下剋ニ着」とあり、申の刻より少し前だが四時近かったであろう。時刻が遅いので、筆者はこの蝉の声はヒグラシだったのではないかと思っている。
さて、『梵灯庵道の記』の方に戻る。
「ただ足にまかせたる中にも、かかる寄特ありけりとおぼゆ。森々たる谷の深き水の流に付て尋入に、奥はいよいよ常盤木の木ぐらくて、心のままなる石どもの苔滑にて、踏ならす人もなかりけりとみゆ。
ただ水のながれをしるべにてたどり行に、川上は猶水の音もかまびすしく、落葉ながれをせきて行なやむ處も侍り。名もしらぬ鳥のおどろおどろしき聲にて、はるかの梢に飛かふばかりぞかすかに聞えし。」
落葉が流れて関に引っかかったたりするあたり、晩秋か初冬だろうか。
山川に風のかけたるしがらみは
流れもあへぬ紅葉なりけり
春道列樹(はるみちのつらき)、古今集
を思わせる。鳥はよくわからないがツグミ、シロハラ、ジョウビタキなどだろうか。
「あらぬ谷に大河あり、峯より雲を分て漲落る瀧あり、李白が三千尺も猶かぎりありとぞ覚る。」
この滝の描写から、蔵王ではなく日光ではないかとする説もある。金子金次郎氏も宗長の『東路の津登』の日光の場面との類似を指摘している。そこにはこうある。
「坂本の人家は数もかわず続つづきて福地とみゆ。京鎌倉の町ありて市のごとし。爰よりつづら折なる岩を伝ひてうちのぼれば、寺の様哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原のね幾重ともなし。左右の谷より大なる河流出たり。落あふ所の岩の崎より橋有。長さ四十丈にも余たるらん。中をそらして柱をも立ず見へたる。」
つづら折りの道と大河は一致するが、『梵灯庵道の記』には京か鎌倉かというような街は登場しないし、『東路の津登』は橋の立派さが強調されているが滝の描写はなく、「中善寺とて四十里上に湖ありとかや。」と人づての話としているところから、華厳の滝までは行かなかったと思われる。
つづら折りの道は山に行けばどこにでもあるし、途中で大河に出くわすこともそんな珍しいことでないなら、これは偶然の一致であろう。
蔵王山だとすると、山形側なら不動滝だが高さ十五メートルは「峯より雲を分て漲落る瀧」というほどの感じはしない。宮城県側だと高さ九十七メートルの不帰の滝があるが、山を越えてそこまで行ったか。
『梵灯庵道の記』はこの後伽藍についての記述になる。
「やうやう薄雪杉の梢にむらむらみえて、寒嵐衣をふく、楼門を見つけてたづね入に、奥に僧坊あり。本堂の燈ほのかにかかげつつ閼伽盤・花籠など持たる法師の中に、いづくより詣来る人にかと問に、只此伽藍を拝し奉らん心ざし計なりと答て、今夜ハ此礼堂に通夜し侍らんゆるし給てんやと問に、何の子細か侍べきといふ。此寺の草創いつの比にかなど尋侍る次に、むかし西行上人も暫おはしけるとなんかたり侍き。」
この西行が立ち寄ったが真実だとすれば、やはり「瀧の山」だったということになるだろう。あるいはこの文章が旅の後かなりの時間が経過してから綴られたもので、「瀧の山」の記憶に華厳の滝の記憶が混ざってしまったのかもしれない。
「やうやう深行ままに、正面の柱によりかかりて眠居たるに、鈴の響谷々に聞えて物すごきに、暁のかね懺法の聲にたぐひて、何となく所がらにや身にしみて聞ゆるにぞ、佛法の尊さも一際ある心地せし。さて次の日佛を礼たてまつるに、内陣の柱に西行法師と書たる筆の跡あり。是をみるに、
山たかみ岩ねをしむる柴の庵に
しばしもさらば世をのがればや
かやうの霊所には、元より縁に任たる事なれば、しばらく逗留せし事も侍し。其年は白地なる様にて冬をも過し、正月のすゑつかたに出侍しやらん。」
とこの山寺の場面は締めくくられる。
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