さて、夏はまだ終わらない(まだ旧暦六月二十三日)。もう少し旅を続けよう。Go To TravelならぬGo On a Journeyキャンペーンだ。
そこで、次に読むのが桃隣編『陸奥衛』五巻の「舞都遲登理」。桃隣自身の元禄九年、『奥の細道』の足跡を辿る旅を記した文章を読んでみよう。
まず前書きから。
「元禄二巳三月十七日、芭蕉翁行脚千里の羇旅に趣く。」
芭蕉の『奥の細道』への旅立ちは本文に「弥生も末の七日」とあり、三月二十七日が正しい。曾良の『旅日記』にはなぜか三月二十日とあるが、これは書き間違いであろう。
「門葉の曾良は長途の天、杖となり、松嶋・蚶泻を經て、水無月半ば湯殿に詣、北國にかかれば、九十里の荒磯・高砂子のくるしさ、親しらず子しらず・黒部四十八ヶ瀬、越中に入ありそ海、越前に汐越の松、月をたれたると讀れしは西上人、是を吟じて炎暑の勞をわすれ、敦賀より伊賀に渡り足も休めず、遷宮なりとて、蛤のふたみに別れ行秋ぞ と云捨、伊勢に残暑を凌ぎ、又湖水に立歸り、名月の夜は三井寺の門をたたき、時雨るる日は智月がみかの原をすすめ、兎角すれど爰にも尻を居へず、未の十月下旬東武に趣き、都出て神も旅寐の日數哉 と吟行して、深川の草扉を閉、ひそかに門を覗ては、初雪やかけかかりたつ橋の上 など獨ごちて、閑に送るもたのし。」
「蚶泻」は「きさかた」と読む。順番としては象潟より湯殿の方が先になる。
「敦賀より伊賀に渡り」も順序が違う。芭蕉が伊賀に戻るのは伊勢の後になる。
また名月の夜は元禄三年、四年とも木曽塚義仲寺で月見の会をしている。
「時雨るる日は智月がみかの原をすすめ」は不明。
「都出て」の句は元禄四年十月下旬、江戸へ向かう途中沼津で詠んだ句。
長月の末都を立ちて、初冬の晦日ちかきほど、
沼津に至る。旅館のあるじ所望によりて、
風流捨てがたくて筆を走らす
都出でて神も旅寝の日数哉 芭蕉(俳諧雨の日数)
神無月だから、神も今頃出雲から帰る旅をしていることだろう、という句。
「初雪や」の句は、元禄六年冬の句。
深川大橋、半かかりける頃
初雪や懸けかかりたる橋の上 芭蕉(其便)
深川の隅田川にかかる新大橋は元禄六年十二月七日に完成したが、その少し前に初雪が降ったのであろう。同じ頃の句に、
雪の松折れ口見ればなほ寒し 杉風(炭俵)
雪や散る笠の下なる頭巾まで 同(継ばし)
の句があり、橋が完成した時には、
新両国の橋かかれば
皆出でて橋を戴く霜路哉 芭蕉(泊船集書入)
の句を詠んでいる。
「然ども老たるこのかみを、心もとなくてや思はれけむ、故郷ゆかしく、又戌五月八日、此度は四國にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴ぬ人の詞も聞んなどと、遠き末をちかひ、首途せられけるを、各品川まで送り出、二時斗の余波、別るる時は互にうなづきて、聲をあげぬばかりなりけり、駕籠の内より離別とて扇を見れば、麦の穂を力につかむ別哉 行々て尾州荷兮が宅に汗を入、世を旅に代かく小田の行戻り と年来の竟界を云捨、唯一生を旅より旅にして栖定まらず、しかもむすび捨たる草菴は鄙にあり、都にあり、終に身は三津の江の芦花に隠れて、五十年の夢枯野に覺ぬ。」
「戌五月八日」は元禄七年五月八日だが、実際に出発したのは五月十一日とされている。『炭俵』には、
翁の旅行を川さきまで送りて
刈こみし麥の匂ひや宿の内 利牛
とあり、送っていった本人の証言だとしたら、こちらの方が正しいことになる。一方で品川説は路通の『芭蕉翁行状記』にもあるからどちらとも言えない。人によって品川まで送った人と川崎まで行った人がいたとしてもおかしくない。曾良は箱根まで送り、
箱根まで送りて
ふつと出て関より帰る五月雨 曾良
の句を詠んでいる。
五月二十二日に名古屋の荷兮宅に泊まる。二十四日には十吟歌仙興行が行われ、その時の発句が、
戌の夏、荷兮亭
世を旅に代掻く小田の行き戻り 芭蕉
だった。
二十五日に名古屋を発つ。『続猿蓑』には、
元禄七年の夏、はせを翁の別を見送りて
麥ぬかに餅屋の見世の別かな 荷兮
の句がある。
そして十月十二日、芭蕉はこの世を去る。桃隣は芭蕉の最後に詠んだ発句、
病中吟
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
の句を人生五十年の夢と解釈し、死をもってその夢から覚めたとする。
「其頃は其角おりあひて枯尾花に體を隠し、百ヶ日は美濃如行一集を綴る。」
芭蕉の死に際して、其角は『枯尾花』を編纂し、「芭蕉翁終焉記」を記した。美濃の如行は『後の旅』を編纂し、芭蕉の百ヶ日追善を行った。
「一周忌は嵐雪、夢人の裾をつかめば納豆哉 とあぢきなき一句を吐。」
嵐雪の『玄峰集』に
元禄乙亥十月十二日一周忌
夢人の裾を掴めば納豆かな 嵐雪
とある。「夢人」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙
① 夢に見た人。夢の中で会う人。
※謡曲・海人(1430頃)「今は帰らん徒波の、夜こそ契れ夢びとの、開けて悔やしき浦島が、親子の契り朝潮の」
② 夢のように、はかなく思われる人。恋しく思っている人。
※仮名草子・古活字版竹斎(1621‐23頃)上「かやうに、文をしたためて、ゆめ人さまへ参」
とある。
夢に芭蕉さんが現れて、去ってゆく裾をつかもうとしたら目が覚めて、気づくと早朝にやってきた納豆売りの着物の裾をつかんでいた。いとあぢきなし(むなしい)。
「旣今年三回忌、亡師の好む所にまかせ、元禄九子三月十七日、武江を霞に立て、關の白河は文月上旬に越ぬ。
凡七百里の行脚、是を手向草、所々の吟行、懷舊の百韻、此等は師恩を忘れず、風雅を慕のみなり。
紀行の分は奥の細道といへる物に憚り、唯名所・古跡の順路をしるし侍る。
尤見おとしたる隈々おほし。
後の人猶あらたむべし」
三回忌となる元禄九年(一六九六年、丙子)の十月十二日に先立って、この年の春三月十七日に桃隣は旅立つ。芭蕉に遠慮してかあえて紀行文にはせず、行程と名所古跡を記し、自らの発句などを交えて書いている。それだけに曾良の『旅日記』と並ぶ、当時のみちのくを知るのには貴重な資料といえよう。
旅程は芭蕉の旅とはかなり異なる。まず最初に鹿島詣でをして筑波山を経て日光に向かう。この入り方は宗祇の『白河紀行』に近い。もっとも、『白河紀行』には「つくば山の見まほしかりし望をもとげ、黑かみ山の木の下露にも契りを結び」とだけしか書かれてないが。
序文は終わり、旅に出ることになる。
「江戸より行徳まで川船、木颪へ着。爰より夜舟にて板久へ上り、一里行て十丁の舟渡、鹿嶋の華表、海邊に建、神前まで二十四丁。
華表 杉の丸木。
樓門 内外龍神六体。
本社 北向王城の鬼門を守給ふ第一也。春日 志賀一躰。
〇奉納 額にて掃くや三笠の花の塵
ひたちの帯の事 戀を祈て掛帯也。
奥院 参詣の輩、音聲高ク上ル事不叶、正しき神秘也。
御坐石 要石是也。子を祈ル者ハ此石の根を掘て、這出る虫の數によりて、吉凶など知ル。
〇長閑成御代の姿やかなめ石
御手洗 尤冷水也。此奥に末なし川。
見日の神・告の宮・御寶蔵。
高天原 神軍の跡。敵味方城有。
〇鬼の血といふ其土が躑躅哉
御物忌 伊勢ハ齋宮・加茂ハ齋院。
香取・浮洲兩所共ニ鹿嶋ヨリ三里。鹿嶋ヨリ此所ヘ陸ヲ行バ名物ノ松有。」
鹿島までの道筋はほぼ『鹿島詣』と同じ。江戸より小名木川、新川を通って行徳に出てそこから木下街道を行く。ただ、芭蕉と曾良と宗波は木下の手前の大森から左に折れて、布佐から船に乗ったが、桃隣はそのまま真っすぐ木下河岸から夜も明けぬうちに船に乗り、板久(潮来)で船を降り、そこから延方まで陸路を行き、鰐川を船で渡り鹿島神宮に着いた。ここに一の鳥居(水上鳥居)がある。
「華表 杉の丸木」というのは二の鳥居であろう。震災後平成二十六年に再建された鳥居は杉の丸太で作られている。震災で崩れたのは石の鳥居だった。
「樓門 内外龍神六体」は寛永十一年(一六三四年)建立で修復を経ながら今も残っている。龍神は鹿島神宮境内にも参道にも龍神社があって祀られていたが、今では参道の一社になっている。
「本社 北向王城の鬼門を守給ふ第一也」とあるように、拝殿・本殿は北を向いている。今日では蝦夷から守るためとされている。
「春日 志賀一躰」とあるのは鹿島神宮と奈良の春日大社と福岡の志賀島大明神が一体だということ。志賀島(しかのしま)、鹿島、確かに似ている。
額にて掃くや三笠の花の塵 桃隣
句の意味はよくわからないが、額の上に乗せた笠と春日の三笠山とを掛けて、その上に散った桜の花びらが乗って、それを祓うことで掃き清めるということか。
「ひたち帯」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「昔、正月14日、常陸国鹿島神宮の祭礼で行われた結婚を占う神事。意中の人の名を帯に書いて神前に供え、神主がそれを結び合わせて占った。神功皇后による腹帯の献納が起源とされる。帯占。鹿島の帯。」
とある。
「御坐石 要石是也」の要石は今日でもあるが、この占いのことは知らなかった。掘っていいんだ。
長閑成御代の姿やかなめ石 桃隣
要石は地下のナマズを抑えていて地震を防いでいてくれる。一見何の変哲もない石だが、何事もないのが長閑で平和の御代ということ。
「御手洗 尤冷水也。此奥に末なし川。」とあるように、奥院のさらに奥に御手洗池がある。末なし川は、鹿島神宮の東方にって水の流れが地中にもぐってしまい末がわからないという謎の川だという。
「高天原 神軍の跡」は鹿島神宮の東側の丘でそこに鬼塚がある。元は古墳だというが、武甕槌神の神が成敗した鬼の塚だという伝承がある。
鬼の血といふ其土が躑躅哉 桃隣
この塚に躑躅の花が咲いていたのだろう。躑躅という字づらが何となく髑髏を連想させてしまうが、よく見ると蜀しか共通するところはない。
「御物忌 伊勢ハ齋宮・加茂ハ齋院。」というのは、鹿島神宮には「物忌(モノイミ)」という神に奉仕する女性がいて、これが伊勢の斎宮・加茂ハ斎院に相当する。
「香取・浮洲兩所共ニ鹿嶋ヨリ三里。鹿嶋ヨリ此所ヘ陸ヲ行バ名物ノ松有。」の浮洲は息栖神社(いきすじんじゃ)のことであろう。三つ合わせて東国三社と呼ばれている。名物の松は不明。松飾りに使う鹿島松が栽培されているということか。
「鹿嶋ヨリ舟ニテ玉造ヘ出、小川ヘ通ル。此間ニ霞山・霞の浦アリ。是ヨリ筑波へ順よし。
筑波麓 十一面観音。門外ニ不動ノ濡佛。
みなの川 此所峯ヨリ流れ落る。
禪定 兩山男躰・女躰、此外小社廿八社。」
玉造は北浦ではなく霞ケ浦の東岸で今は行方市になる。船は一度鰐川を下ってから霞ケ浦の入ったのだろう。霞山はよくわからない。養神台公園のあたりか。常陸國風土記が書かれた時代には香澄の郷と呼ばれていたと行方市のホームページにある。
小川は今は小美玉市の一部になった旧小川町であろう。霞ケ浦の北で国道355線が通っている。このまま行くと石岡へ出る。
筑波麓の十一面観音は石岡市のホームページに、
「田島の金剛院の本尊である十一面観音坐像は,江戸時代の記録「府中雑記」によると,もとは近くの田島台にあった三面寺の本尊であると伝えている。
運慶・快慶に代表される,いわゆる慶派仏師の典型的な作例であり,制作年代は13世紀中頃と考えられる。平成18年に県の有形文化財(彫刻)に指定された。」
とある。
みなの川は男女川と書く。石岡とは反対側の今のケーブルカー乗り場の下の方にあった川で、今は田んぼになって失われているようだ。
筑波嶺の峰より落つるみなの川
恋ぞつもりて淵となりける
陽成院(後撰集)
の歌で知られている。
「禪定」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、
①〘仏〙 〔禅と定。「定」を 梵 samādhi の訳語「三昧(さんまい)」とする説と,梵 dhyāna の訳語とする説がある〕 精神をある対象に集中させ,宗教的な精神状態に入ること。また,その精神状態。
②富士山・白山・立山などの霊山に登り,行者が修行すること。 「立山-申さばやと存じ候/謡曲・善知鳥」
③〔霊山の山頂で修行したことから〕 山の頂上。絶頂。 「この山の西の方より黒雲のにはかに-へ切れて/義経記 4」
とある。この場合は②の意味で、男体山女体山、それに二十八の神社で入山修行ができるという意味。
0 件のコメント:
コメントを投稿