暑い日が続くけど、木槿が咲いているのを見ると秋も近いのかなと思う。
木槿といえば韓国魂。しぶとくて下から上へと花を付け、無限に子々孫々栄えてゆく無窮花(ムグンファ)。最近韓国の方でディスられていると聞くが、何かの間違いだろう。
それでは「めづらしや」の巻の続き。
二十五句目。
所々に友をうたせて
千日の庵を結ぶ小松原 重行
千葉県の小松原は日蓮上人が小松原法難を受けた場所で、二人の弟子が殺害された。
ただ、ここでは日蓮上人の本説とはせず、比叡山や大峰山で行われる究極の荒行、千日回峰行のための庵を構えるとする。達成する人もまれな荒行と法難で仏道を極めることの過酷さを語る。
二十六句目。
千日の庵を結ぶ小松原
蝸牛のからを踏つぶす音 露丸
千日の行のために庵を結んではいても、カタツムリの殻を知らずに踏んでしまい、殺生の罪を犯す。
二十七句目。
蝸牛のからを踏つぶす音
身は蟻のあなうと夢や覚すらん 芭蕉
「うとし」はわずらわしい、うとましい、といった今日の「うざい」に近い意味もある。口語では形容詞の活用語尾は省略されるので。「あなうと」となる。今なら「ああうざっ」というところか。
「あなうと」を導き出すのに「身は蟻の」と序詞を用い、カタツムリの殻を踏み潰す音に夢から覚める、となる。
夢に愛しい人が訪ねてくるのを見たのだろう。でもカタツムリを踏んづけた所で目が覚める。何か少女漫画みたいだ。
二十八句目。
身は蟻のあなうと夢や覚すらん
こけて露けきをみなへし花 重行
をみなえし(女郎花)といえば、『古今集』の俳諧歌、
名にめでて折れるばかりぞ女郎花
我おちにきと人にかたるな
僧正遍照
が思い浮かぶ。馬上で居眠りしていたら落馬して、女郎花の露まみれになったのだろう。意味は違うが「我おちにきと人にかたるな」となる。
もちろん、裏に恋の意味を隠したとみてもいいだろう。ついつい出来心で女郎と遊んでしまったが、それが人に知れてしまって夢から覚めるような思いだ。穴があったら入りたい。
二十九句目。
こけて露けきをみなへし花
明はつる月を行脚の空に見て 曾良
こけたのは行脚の僧だった。
三十句目。
明はつる月を行脚の空に見て
温泉かぞふる陸奥の秋風 芭蕉
行脚を今まさにやっている『奥の細道』の旅のこととする。幾つ温泉(いでゆ)に入っただろうか。那須にも行っているし飯塚の湯はディスってるし、ついこの間は羽黒山や湯殿山の湯に入ったし。
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