2020年8月15日土曜日

 今日は終戦記念日だが、相変わらず歴史がどうのこうのとやかましい。
 歴史は過去の資料から想像を楽しむもので、政治利用はご免こうむりたい。
 過去と今とは状況が違うのだから、過去の事例は今の世の中の参考程度にしかならないし、むしろ今後についてのいろいろな可能性を想定するうえで役立てるべきだと思う。
 歴史を忘れた民族に未来はないというのは、歴史は未来に様々な可能性を与えてくれるからで、過去にこだわることではない。
 過去は既に無く、未来は未だ無い。その「無い」ものを思い描く能力が人間の想像力だ。過去を豊かに想像できるその能力は未来をも豊かにする。歴史はみんながああだこうだと自由に議論できる場でなくてはならないし、たった一つの正解なんてものは存在しない。たった一つの過去しか思い描けない民族は未来も一つしか描けない。その一つが挫折したらどん詰まりだ。
 神話だってさまざまな異聞があるように、歴史も一つではない。「諸説あり」が最も自然な状態だ。
 連歌や俳諧も過去の遺物だと言われればそれまでだが、想像をたくましくして行けば、未来の可能性が何かしら開けるのではないかと思う。
 それでは「舞都遲登理」の続き。

 芭蕉の『奥の細道』の旅には曾良が同行したが、当時は一人旅は避けるのが普通なので桃隣にも同行者がいたと思われる。
 『陸奥衛』巻二「むつちどり」に仙台杉山氏興行の四十四(よよし)が収録されているが、ここで第三を詠んでいる助叟の名があるが、伊達郡桑折田村氏の所での歌仙興行でも第三を詠んでいる。
 また、巻四「無津千鳥」でも、

   一とせ芭蕉、須ヶ川に宿して驛の
   勞れを養ひ、田植歌の風流をのこ
   す。予其跡を慕ひ、關越ルより例
   の相樂氏をたづね侍り。
 踏込て清水に耻つ旅衣      桃隣
   章哥とはれてあぐむ早乙女  等躬
 鑓持のはねたる尻や笑ふらん   助叟

   白河の關を越る
 卯花に黑みやうつす影法師    助叟
   けふは扇の入天氣にて    桃隣
 業平を思ふか鄙の都鳥      等躬

   對兩雅
 折に來て手足よこすな蔣草    等躬
   道筋聞ケば鳧の飛方     助叟
 夏の月亭の四隅の戸を明て    桃隣

の句が記されている。
 奥の田植歌を聞こうとついつい清水を濁してしまった旅人に、田植歌の歌詞を聞かれて戸惑う早乙女は「何このおっさん」って感じか。それとは場面を変え大名行列に転じて、鑓持ちが鑓を勇ましく振り立てる時に尻が丸出しになるのを笑う早乙女とする。
 白河の関では芭蕉の「早苗にも我色黒き日数哉」の句を踏まえ、白い卯の花にも自分の黒くなった姿が影法師のように映ると発句する。
 巻四「武津致東利」には、芭蕉の「秣負ふ」の巻の次に、

  「けふは那須の篠原まで、送り出んと約諾し
   て、竹筒など認けるに、未明より卯花くだ
   し外も覗かれず、をのづからの滞留、をの
   をのめでくつがへり餞別をなしぬ。
 剛力に成て行ばや湯殿山     桃賀
   布子袷の跡は帷子      桃隣
 芝屋根も南東を引請て      翅輪
   いやといふまで朝茶汲出す  助叟
 今の間に霧の晴たる峯一ッ    桃水
   星の備へを崩す有明     桃雫

を表六句とする歌仙が収められている。これは黒羽を発つときの餞別で、

   留別
 山蜂の跡覺束な白牡丹      桃隣

はその返事だったのだろう。
 ここには芭蕉の「秣負ふ」の巻にも参加した翅輪の名前がある。「此所に芭蕉門人有て尋入」が翅輪だった可能性もある。翠桃も蕉門ではあるが、嵐雪を介してのつながりだったという。
 後の参加者はみんな桃がつくことから翠桃・桃雪のつながりであろう。桃隣としては桃つながりで嬉しいかもしれないが。
 ところでこの巻四「武津致東利」に収録された「秣負ふ」の巻だが、曾良の『俳諧書留』とくらべるとあちこち直されている。最後の五句は全く別物になっていて二寸の句が消滅していて翅輪の句が一句増えている。この辺はいつか詳しく見てみたい。

 それでは巻五「舞都遲登理」本文に戻る。

 「此所山を越白河に出、宗祇戻しへ掛り、加嶋・櫻ヶ岡・なつかし山・二形山・何も順道也。是より關山へ登ル。峯ニ聖觀音・聖武帝勅願所・成就山・滿願寺・坊の書院よりの見渡し白河第一の景勝也。
    〇奥の花や四月に咲を關の山
 此所往昔の關所と也。本道二十丁下りて、城下へ出、關を越る。
    〇氣散じや手形もいらず郭公」(舞都遲登理)

 このルートだと奥州街道に戻ったのではなく、那須温泉神社から最短コースで今の新白河の方に出る道があったのではないかと思われる。奥州街道を行ったなら境の明神(関明神)の記述があってもよさそうだ。白河に入ると一気に今の白河市旭町にある宗祇戻しにまで飛んでいる。
 そこから桃隣は東へ向かう。加嶋は阿武隈川渡ったところにある鹿嶋神社、櫻ヶ岡は不明、なつかし山は阿武隈川を下って行ったところに左右に小高い山があり、南側は新地山羽黒神社がある。これが「わすれず山」で、北川が「なつかし山」になる。二つ合わせて二方の山と言うので「二形山」は二方の山のことだろう。ここまでは阿武隈川に沿って道なりに行けばよかったのだろう。
 このあたりのことは曾良の『旅日記』にも見られる。

 「〇忘ず山ハ今ハ新地山ト云。但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行。阿武隈河ノハタ。
  〇二方ノ山、今ハ二子塚村ト云。右ノ所ヨリアブクマ河ヲ渡リテ行。二所共ニ関山ヨリ白河ノ方、昔道也。二方ノ山、古歌有由。
    みちのくの阿武隈川のわたり江に人(妹トモ)忘れずの山は有けり
  〇うたたねの森、白河ノ近所、鹿島の社ノ近所。今ハ木一、二本有。
    かしま成うたたねの森橋たえていなをふせどりも通はざりけり(八雲ニ有由)
  〇宗祇もどし橋、白河ノ町より右(石山より入口)、かしまへ行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしまにて連歌有時、難句有之。いづれも三日付事不成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被聞之て、其所ヘ被趣時、四十計ノ女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方へ」と問。右ノ由尓々。女「それハ先に付侍りし」と答てうせぬ。
   月日の下に独りこそすめ
 付句
 かきおくる文のをくには名をとめて
と申ければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝 。」

 芭蕉と曾良は奥州街道境の明神(関明神)の先から右へ折れて、今の白河神社のある白河関跡を訪ね、そこから関山に向かっている。忘れず山の方を通ったかどうかはわからない。聞いた話を記す場合もある。
 これに対し桃隣は先に忘れず山の方へ行き、そこから南へ折れて関山の南側に出たのではないかと思う。
 山頂からの眺めは良い。成就山・滿願寺は成就山滿願寺で成就山という山があるのではない。昔は峯ニ聖觀音・聖武帝勅願所・坊の書院などもあって栄えていたのだろう。今の外にある石の観音像がいつのものかはよくわからない。

 奥の花や四月に咲を關の山    桃隣

 みちのくの桜は遅く旧暦卯月にまだ咲いていたようだ。筆者もニ〇一三年四月二十八日に白河へ行ったが、桜が所々まだ残っていた。
 桃隣はここが白河の関だと思ったのだろう。関山を越えるとそのまま白河の城下に戻った。

 氣散じや手形もいらず郭公    桃隣

 「気散じ」は気楽ということ。現役の関ではないので手形はいらない。

 「阿武隈川は白河町の末、流れは奥の海へ落る。板橋百間余、半ニ馬除アリ。橋世に替りて見所有。影沼、白河と須ヶ川の間、道端也。須ヶ川ヨリ二十七丁白河の方也。」(舞都遲登理)

 阿武隈川は北へ流れて仙台と相馬の間の岩沼市のあたりで太平洋にそそぐ。
 「板橋百間余」というのは仙台道の阿武隈川を渡るところに長さ百八十メートルの長い橋がかけられていたということか。今の田町大橋のあたりだろう。
 影沼は鏡沼のことだという。『奥の細道』に「かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。」とある。今の鏡石の先左側で、今は田んぼになっている。ここらか須賀川まで二十七丁(三キロ)もうすぐだ。

 「須ヶ川此所一里脇、石川の瀧アリ。幅百間余、高さ三丈に近し。無双ノ川瀧、遙に川下ヨリ見れば、丹州あまのはしだてにひとし。
    〇比も夏瀧に飛込こころ哉」(舞都遲登理)

 石川の滝は乙字ケ滝のことで、桃隣は須賀川の等躬の所の所に顔を出して桃隣、助叟、等躬の三人で三つ物を三つ詠んだあと、ここに向かったのだろう。等躬の所には、このあと東北を一巡りした後再び立ち寄っている。
 この滝は『奥の細道』には描かれてない。曾良の『旅日記』には、

 「廿九日 快晴。巳中尅、発足。石河滝見ニ行(此間、ささ川ト云宿ヨリあさか郡)。須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。 歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハバ百二、三十間も有之。滝ハ筋かヘ二百五六十間も可有。高サ二丈、壱丈五六尺、所ニヨリ壱丈計ノ所も有之。」

とある。芭蕉と曾良も石川の滝は(乙字ケ滝)見ていると思われる。ところが、同じ曾良の『俳諧書留』には、

   須か川の駅より東二里ばかりに、
   石河の滝といふあるよし。行きて
   見ん事をおもひ催し侍れば、此比
   の雨にみかさ増りて、川を越す事
   かなはずといいて止ければ
 さみだれは滝降りうづむみかさ哉 芭蕉

という句が記されている。
 芭蕉と曾良は四月二十一日に白河関跡のある旗宿を出て関山を越え、白河を過ぎて矢吹に泊まる。翌二十二日に影沼を通り須賀川に入る。この日に「廿二日 須か川、乍単斎宿、俳有。」とあり、「風流のはじめや奥の田植うた 芭蕉」を発句とする興行がなされる。
 二日後の四月二十四日、「一 廿四日 主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。会席、そば切、祐碩賞之。雷雨、暮方止。」とあり、「隠家やめにたたぬ花を軒の栗 芭蕉」を発句とする興行をしている。
 石河の滝の句は『俳諧書留』ではこの後に記され、そのあとに、

   この日や田植の日也と、めなれぬことぶ
   きなど有て、まうけせられけるに
 旅衣早苗に包食乞ん       ソラ

の句が記されている。二十四日に「主ノ田植」とあり、石河の滝を断念したのが「この日」だとすれば、「かくれ家や」の興行の後行く予定で雷雨で中止したのではなかったかと思われる。可伸庵は今の須賀川市本町にあり、滝までは「壱里半計」だから日の長い夏だったら興行が四時くらいに終われば行って帰ってこれただろう。雷もあるし、田植の祝いなどが重なり会の時間が押してしまったこともあるかもしれない。
 ともあれ芭蕉も二十九日にようやく石川の滝を見ることができた。
 石川の滝(乙字が滝)はウィキペディアには「落差六メートル、幅百メートル。」とある。桃隣は「幅百間余、高さ三丈(幅百八十メートル、高さ九メートル)」とほぼ五割増し、曾良は「川ハバ百二、三十間も有之。滝ハ筋かヘ二百五六十間も可有。高サ二丈、壱丈五六尺、所ニヨリ壱丈計ノ所も有」と細かいが、高さは大体今の知識と一致するものの幅は桃隣よりも長い。乙の字の形に曲がっているから、曲線として測れば合っているのかもしれない。
 ここで桃隣の一句。

 比も夏瀧に飛込こころ哉     桃隣

 まあ夏だし、涼しそうだし、飛び込んでみたくなるのもわかる。
 ここから桃隣は意外な方向に向かう。

 「爰より石川の郡へ入て、一郡誹士アリ。少時滞留、岩城へ山越ニ通ル。此道筋難所と云、萬不自由、馬不借、宿不借、立寄べき辻堂もなし。一夜は洞に寐て、明れば小名濱へたどりつく。岩城平領也。所は東海を請て、出崎々の氣色、沖は獵船、磯は鹽を焼、陸は人家滿て、繁花の市、牛馬に道をせばむ。
    〇初鰹さぞな所は小名の濱」(舞都遲登理)

 滝の名前も「石川の滝」だったし、これより東は水郡線の磐城石川駅のある方やあぶくま高原道路の石川母畑インターのある辺りを含めて、広く石川郡だったのだろう。ここを南東に行けば小名浜に出る。
 街道筋から外れるので馬もなければ宿屋もなく、洞穴で一夜を過ごした。
 石川郡の一郡誹士(俳士)を訪ねるのも一つの目的だったのだろう。『陸奥衛』春部に「奥州石川等盛」「仝等般」の名が見える。等がつくから等躬の流れだろうか。
 とはいえ小名浜は人口も多く活気あふれる街だったようだ。

 初鰹さぞな所は小名の濱     桃隣

 鹿島神宮以来ずっと内陸部の旅だっただけに、ここで食う初鰹はまたひとしおだったに違いない。

 「此所少行て、緒絶橋・野田玉川・玉の石。いづれも同あたり也。古人の歌を引合て思へば、海邊といひ、けしきさある事にて感を催す。
    〇橋に来て踏みふまずみ蝸牛
    〇茂れ茂れ名も玉川の玉柳」

 「緒絶(おだえ)橋」は『奥の細道』に、松島を見た後

 「十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝ききつたへて、人跡稀に、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往ゆきかふ道、そこともわかず、終に路たがえて、石の巻という湊に出いづ。」

とある。

 みちのくの緒絶の橋やこれならん
     ふみみふまずみ心まどはす
             左京大夫道雅(後拾遺集)

の歌に詠まれた歌枕だが、どうして小名浜に、というところだ。桃隣の句の「踏みふまずみ」もこの歌から取っている。
 「野田玉川」も『奥の細道』に壺の碑のあと、末の松山へ向かう途中、

 「それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て末松山(まつしょうざん)といふ。」

とある。これも、

 ゆふされは汐風越て陸奥の
     野田の玉河千鳥なくなり
             能因法師(新古今集)

の歌に詠まれた歌枕だ。それがどうして小名浜に。
 答えが「歌枕いわき版 - 鄙の香り」というブログにあった。コピペは避けたいが、それによると桃隣も「岩城平領」と書いていたが、その磐城平の殿様、内藤家二代忠興三代義概は風流が好きで奥州の歌枕を自分の領内に置き換えて作ってみたらしい。まあ、何とか銀座は日本中にあるし、何とか八景も至る所にあるように、この小名浜にも野田の玉川や緒絶の橋があってもいいじゃないか、ということなのだろう。
 そういうわけで、ここにあるのは小名浜の野田玉川、小名浜の緒絶橋だったわけだ。他にも「勿来の関」も作ったため、オリジナルの方がよくわからず(ウィキペディアによれば宮城県宮城郡利府町森郷字名古曽という説がある)こちらの方が有名になり、今でも観光地になっている。
 この件には宗因も絡んでいるらしい。
 そういうわけで桃隣も確信犯でそれぞれ一句詠む。このあと宮城に行ったとき、オリジナルの方も訪ねている。

 橋に来て踏みふまずみ蝸牛    桃隣

 左京大夫道雅の歌を踏まえながらも、踏むか踏まないか迷ってたのがカタツムリがいたからだと落ちにする。

 茂れ茂れ名も玉川の玉柳     桃隣

 春の柳の繊細な糸ではなく、あえて茂れ茂れと言う。
 ちなみに、小名浜の緒絶橋、野田玉川は藤原川を遡っていったところ、常磐線の泉と湯本の中間あたりで、玉川という地名は今も残っている。

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