2016年9月30日金曜日

 よく、「俳句を作ったことのない人に俳句はわからない」なんてことを言う人がいる。正確には「近代俳句を作ったことのない人には近代俳句はわからない」だと思う。
 近代俳句ではなく江戸時代のいわゆる「俳諧」の難しさは、時代の変化による言語や生活習慣や生活実感の違いが主な原因で、句自体は少なくとも同時代の人の多くの共感を得られるように配慮されている。
 これに対して、近代俳句は基本的に個人の体験をつづるもので、それを理解するには作者についてある程度関心を持たなくてはならない。句会の席ではお互い顔見知りだから、それほど問題は起こらないかもしれないが、ひとたび句集という形で公にすると、その人間について何も知らない読者は、どう反応していいかわからない。まあ、お決まりのせりふで、「私は俳句のことはよくわかないので何も言えませんが、きっと見る人が見ればすばらしいもののなのでしょうね」ということになる。
 その「俳句のことをよくわからない」というのは、結局句会に参加していないため、そこでの独特な考え方や雰囲気や乗りがわからないということで、俳句のことをわかりたかったら句会に参加しなさい、ということなのだと思う。
 江戸時代の俳諧に関しては、近代俳句とまたぜんぜんルールが違うし作り方も発想も違うから、今の句会に参加していかにそうそうたる俳暦を築こうとも、はっきり言って糞の役にも立たない。昔の人の言葉に謙虚に耳を傾けるにしかない。

2016年9月29日木曜日

 葛(くず)は秋の七草の一つで、和歌にも俳諧にも詠まれてきたが、その多くは葛の葉を詠んだもので、葛の花は珍しい。桃隣編の『陸奥鵆(むつちどり)』の桃隣が芭蕉の『奥の細道』の跡をたどった「舞都遅登理」の中に見つけた。

   山路吟
 おそろしき谷を隠すか葛の花    桃隣
 焼飯に青山椒を力かな       同

 尿前(しとまえ)の関のあたりでの句か。鳴子温泉の近くだ。今の鳴子温泉の駅のあるあたりは谷間とはいえ広々としているが、そこから新庄の方へ抜けようとすると、鳴子峡という険しい山間の道になる。今では紅葉の名所になっている。
 さっきまで葛の咲いている原っぱだと思っていたら、急に険しい谷間の道に出たので、「おそろしき谷を隠すか」と詠んだのだろう。
 焼飯は今日のチャーハンとは違うようだ。兵糧や非常食にも用いられたらしいが、どのようなものかはよくわからない。焼きおにぎりかきりたんぽに近いものか、携帯のできるものであろう。青山椒でスパイシーに味付けして食べたようだ。
 葛の葉を詠むのは、

 嵐吹く真葛が原に啼く鹿は
     うらみてのみや妻を恋ふらん
                俊恵法師
 わが恋は松を時雨の染めかねて
     真葛が原に風騒ぐなり
              前大僧正慈円

といった古歌によるもので、葛が風に裏返る様を、裏を見せる=恨みと掛けて用いるのを本意とする。

 葛の葉の面見せけり今朝の霜  芭蕉

の句は、芭蕉に一度は反旗を翻していた嵐雪が頭下げて芭蕉の元に戻ってきたときの句で、秋風に翻って裏を見せていた葛の葉も、今朝は霜が下りて葛の葉がしおれて翻らなくなったという意味。

2016年9月27日火曜日

   律の調べ

 秋は空気が澄んでいるということで、音楽の季節でもあった。
 一日の仕事を追え、月のある夜は楽器を持ち寄り、雅楽の演奏を楽しむのが王朝時代で言う「遊び」だった。『源氏物語』で「あそび」という言葉が出てくると、まずこの音楽のことだった。
 英語でも楽器の演奏はplayと言うから、発想は同じなのだろう。日本人はいつから音楽を「遊」ばなくなったのだろうか。
 雅楽は西洋音楽の概念だと「ヘテロフォニック」に分類されるらしい。基本的にはみんなでおなじ一つのメロディーを奏でるのだが、ユニゾンのような単純に同じ音程で演奏するのではなく、その楽器特有の節回しや装飾音などが入るため、そのつど不協和音が生じては同じメロディーに解消されるということを繰り返す。
 そこには西洋的なハルモニアは存在しない。むしろ楽器同士の壮絶なバトルが展開される。
 竜笛や篳篥などの管楽器は主旋律を競い合い、弦楽器は管楽器の息継ぎの空白を埋めるかのように合いの手を入れてくる。太鼓も役割としては似ている。黒人系の音楽のようなビートを刻むわけではない。
 笙はまた独自の役割を担っている。それは制御されたノイズといっていい。それは今日のブラックメタルなどのギターの奏法に近い。いわば音の洪水を作り出すのがその主な役目だ。
 ノイズというのは自然界の音だ。木々のざわめき、皮の音、滝の音、波の音、雨の音、雷鳴、すべてホワイトノイズとピンクノイズのブレンドだ。
 昔見たテレビの番組で、滝の映像が流れていて、その映像が急に工場の中の映像に変わるというのがあった。ノイズを快く感じるか不快に感じるかは意味論的な問題だ。
 芭蕉の句にも、

 綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥

という句があったが、これは綿弓を琵琶に聞きなして慰めるという意味で、気持ちの持ちようでは綿弓のブンブンいう雑音も風雅な琵琶の音に聞こえるというものだ。
 笙の音色も基本的には自然界の音を模したものであろう。自然界にはよほどの偶然がない限り協和音は存在しない。熱帯の朝の様々な鳥達の声や秋の夜の虫の音はしばしば自然のオーケストラに喩えられるが、どれも定まった音程があるわけではなく、すべて不協和音だ。
 自然の持つノイズや不協和音を快いとする感性は、本来多神教文化の中に普遍的に存在していたのではないかと思われる。
 古代ギリシャのピタゴラス教団やプラトン学校が数学的秩序を神として崇拝し、それがやがてキリスト教の唯一絶対の神に結びつくことによって、西洋ではハーモニー中心の音楽が発達し、やがて近代になって平均率が確立されることによって一つの完成に至る。
 平均率に小さい頃から慣れ親しみ、絶対音感を身につけた者には、虫の音なども不快なノイズに聞こえるらしいし、西洋以外の音楽もノイズと不協和音だらけでどうにも我慢のできないものになってしまったようだ。
 明治の日本にやってきた西洋人達も、日本のきらびやかな建築や絵画を見てワンダフルを連発しても、音楽だけはどうしようもなく不快だったようだ。
 青い目の外国人に「日本のあれ、音楽ではありませーん。ただの騒音でーす。」なんて言われると、明治の西洋崇拝の文化人達は顔から火が出るほど恥ずかしくなってこの音楽をひたすら隠し、「明治より前には日本には音楽はなかった、節しかなかった。」というキャンペーンをしたのだろう。その甲斐あってか、民謡以外の伝統音楽は急速に廃れていった。
 そういうわけで、今日では伝統音楽と言うと正月に聞く琴(正しくは「筝」)の音色のイメージで、雅楽は結婚式の時に聞く「越天楽」くらいになった。その雅楽も、宮内庁雅楽寮では西洋音楽を学ぶことが義務付けられたことによって、かなり西洋化しているものと思われる。まして現代ポップスとの融合となれば、なおさらのことであろう。どっちかといえばブラックメタルやアンビエントと融合させた方が良いと思うのだが。中国のブラックメタルZuriaake(葬尸湖)を聞くと、水墨画のジャケットともあいまって、雅楽を感じさせる。
 ヘテロフォニックの音楽の大きな利点は、メンバーが揃わなくてもたまたま揃った楽器だけで十分な演奏が楽しめるということだ。しかも、競い合うように演奏するため、音合わせのために何度もリハーサルをする必要もない。楽器を持った人が何人か集ればすぐにその場で演奏が始められる。『源氏物語』でも何度となくそういう場面が描かれている。
 もちろん大きな祭などの儀式のさいの演奏は盛大で、特設舞台での舞などの伴い、そういう時は入念にリハーサルを行なったようだ。賀茂神社の臨時祭の前ともなると、宮中のあちこちからリハーサルの音が聞こえ、中にはふざけて本来殿上人の担当ではない打楽器を打ち鳴らしたり、どこか学園祭前のようなのりを感じさせる。
 大宮人にとって雅楽は決して畏まった音楽ではなく、「あそび」という言葉がふさわしいように、かなり気楽にいつでもどこでも楽しんだ、むしろ貴族達の最大の娯楽だったと言ってもいいのではないかと思う。

 ところでこの「律の調べ」という季題だが、未だに古典の作例を知らない。
 曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には、

 「律の調:策隠曰、按ずるに律十二あり。陽六を律とす、黄鐘、太簇、姑洗、蕤賓、夷則、無射。陰六を呂とす、大呂、夾鐘、中呂、林鐘、南呂、応鐘、是也。名づけて律といふ。○貞徳曰、りちのしらべ秋也。しかれば、呂の声は春になるべき道理なれ共、其さたなければ、呂は雑とす。」(『増補 俳諧歳時記栞草(下)』岩波文庫、p.71~72)

とあるから芭蕉よりはるかに前の松永貞徳の時代には既にあったようだ。

2016年9月26日月曜日

 彼岸花の句だが、許六撰の『正風彦根躰』にもう一句あった。

 赤々と残る暑さや死人ばな   孟遠

 孟遠もまた彦根藩士で許六の弟子。
 「赤々と」というと『奥の細道』の、

 あかあかと日はつれなくも秋の風   芭蕉

の名句が思い浮かぶ。赤々と沈む夕日も、どこか人間の一生に重ねて、この世の無常を感じさせる所があるが、その赤々を彼岸花の赤にしたところがなかなかだ。彼岸花が夕日に見える。
 「残る暑さ」は「残暑」で秋の季語ではないかという人がいるかもしれないが、当時は季重なりは何の問題もない。

2016年9月25日日曜日

 彼岸が江戸時代の俳諧でほとんどテーマにならなかったように、彼岸花も俳諧にはほとんど登場しない。曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には一応「曼珠沙華」と「石蒜(しびとばな)」の二つの項目があり、季題として認識されていたが、曼珠沙華や彼岸花の句が盛んに作られるようになったのは近代に入ってからだ。
 一つには、この花の不吉なイメージを俳諧らしい笑いに転じるのが難しかったからではないかと思う。その数少ない句、

 弁柄の毒々しさよ曼珠沙華   許六

 「弁柄」は酸化第二鉄を主成分とする赤の顔料で、朱や丹ととも古くから用いられてきた。森川許六は彦根藩士で狩野安信に絵を習っているし、芭蕉にも絵を教えていたという。その関係で絵の具のことにも精通していたのであろう。曼珠沙華を描くなら朱や丹ではなく弁柄だなと思ったのだろうか。弁柄の赤は茶色がかかっていて血の色に近い。
 血の色もヘモグロビンに含まている鉄が酸素と結合することによるもので、似ているのは理由のないことではない。
 「毒々しさよ」には曼珠沙華に毒があることも踏まえられているのか。
 曼珠沙華は今ではリコリスというおしゃれな名前でも呼ばれ、色も赤だけでなく白やピンクやいろいろな色がある。ヒガンバナ属を表すlycorisはスペインカンゾウ(licorice)とまぎらわしい。

2016年9月24日土曜日

 「あるあるネタ」という言葉が使われるようになったのはわりと最近のことのように思える。80年代の漫才ブームの頃にはまだこの言葉はなかったと思う。その頃の漫才ネタでも、いわゆる「あるあるネタ」というのはそんなになかったと思う。
 1988年に嘉門達夫が出した「小市民」という曲は、明らかに今で言う「あるあるネタ」に属する。
 テツandトモの「なんでだろ〜」のネタは2003年の流行語大賞にもなっている。レギュラーのあるある探検隊はその翌年にブレイク。いつもここからの「悲しい時ー」のネタはそれよりはかなり早い。「あるあるネタ」という言葉が一般に広く認知されるようになったのもこの頃だろう。
 とはいえあるあるネタという名前こそないけど、この種のネタは日本のお笑いの伝統の中で様々な形であらわれてきた。
 蕉門の俳書『去来抄』にはこうある。

 牡年(ぼねん)曰、発句の善悪はいかに。去来曰、発句は人の尤(もっとも)と感ずるがよし。さも有るべしといふは其次也。さも有るべきやといふは又其次也。さはあらじといふは下也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,77)

 これは蕉門の行き着いた笑いの世界が、今日で言う「あるあるネタ」に極めて近いことを示している。

 応々(おうおう)といへどたたくや雪のかど   去来

の句なども、寒いときは「おうおう」と生返事するばかりでなかなか門を開けないという日常のありがちなことを句にしたもので、芭蕉の去った年の冬の句、門人の間で評価の分かれた句だという。
 この種のあるあるネタは、蕉門が確立された頃からつけ句の方では普通に見られる。
 『冬の日』の「狂句こがらしの巻」は虚栗調を脱して蕉風を確立した記念碑的な一巻とわれていて、そこでの芭蕉の最初のつけ句は、

   わがいほは鷺にやどかすあたりにて
 髪はやすまをしのぶ身のほど   芭蕉

だった。「鷺に宿貸す」はいかにも隠士の風情をわざとらしく大げさにいった感じがして、虚栗調の影響が見られるが、芭蕉はそれに髪が生えるまで坊主のふりをしている偽坊主を付ける。何か不始末でもしでかして、一時的に坊主になって反省した振りをしてるというわけだ。当時としては、「いるんだよなー、こういうの」といったところだっただろう。

   抱き込んで松山広き有明に
 あふ人ごとの魚くさきなり   芭蕉

の句なども、海辺の猟師町の明け方にはいかにもありそうなことだ。

 あまのやハ小海老にまじるいとど哉  芭蕉

の発句は、今で言えば、♪海人の屋あるある言いたーい、海人の屋あるある言いたーい、‥‥‥小海老にいとどが混じってるー、といったところか。
 「あるあるネタ」も実際にあったことを言っているから一種の写生なのだが、近代俳句や近代短歌の写生説がもっぱら作者個人の体験を伝えるのに対し、「あるあるネタ」は多くの人の共通体験であることを想定して提示する。そのため写生に比べて多くの人の共感を得やすくなるし、写生説で成功した句というのは少なからず「あるある」の要素があるのではないかと思う。
 芭蕉の有名な、

 古池や蛙飛び込む水の音   芭蕉

の句も、当時使われなくなった用水池や廃墟となった屋敷の池など、古池は珍しくなく、春になるとそこに飛び込む水の音を聞くことは珍しいことではなかったに違いない。この句は単なる「あるある」を越えて当時の多くの人の「原風景」の域にまで達していたのではないかと思う。

2016年9月22日木曜日

 今日はお彼岸の中日ということで、お彼岸の句を探したのだが、ネットで検索してすぐに出てくるのは次の二句だけだった。 

   老母をいざなひて物詣しけるに
 風もなき秋の彼岸の綿帽子  鬼貫
 きらきらと秋の彼岸の椿かな 木導

 後はいわゆる近代俳句だった。
 曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には2月のところに「彼岸」という季題は出てくるけど、秋のところにはない。「秋彼岸」という季語は近代にできたもので、江戸時代には「秋」という季語と組み合わせることで秋の句にしていたと思われる。昔は季重なりにはうるさくなかったし、芭蕉の句でも他の季節の季語と組み合わせていることは珍しくない。

 冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす   芭蕉
 梅恋て卯花拝ムなみだかな    芭蕉

といった句も普通にある。内容から季節が明らかに特定できる場合は、他の季節の言葉を重ねても問題はない。
 近代の俳句誌ともなると何万句という投稿された句を処理しなくてはならない関係上、足切りのために気重なりの禁を厳密にしたのではないかと思う。
 まず最初の句、

   老母をいざなひて物詣しけるに
 風もなき秋の彼岸の綿帽子  鬼貫

を見てみよう。
 暑さ寒さも彼岸までという言葉もあるように、秋の彼岸はようやく暑さが和らぐ程度で、そんなに寒くはない。今日は一日雨でちょっと冷え込んで肌寒い感じだが、それでもまだ半袖で過ごせないことはない。もっとも、地球温暖化の現代に比べれば寒冷期だった江戸時代は、今よりは寒かっただろう。
 秋風が吹かなくても、年老いた母のことだから大事を取って、防寒用の綿帽子を被っていたのだろう。綿帽子というと今では結婚式に被るものだが、江戸時代には防寒用として女性の間で広く用いられていたという。江戸時代には綿花の栽培も盛んだった。

 名月の花かと見えて綿畠   芭蕉

という句もある。月夜の綿畑だと、今では「うさぎのモフィ」だが。
 老いた母をいたわる気持ちがじわっと伝わってくるこうした句は、いかにも大阪談林という感じの句だ。からっとした笑いと冷えさびた風情が売りの蕉門に対し、大阪談林は人情ネタが多い。

 きらきらと秋の彼岸の椿かな 木導

 これは蕉門の句。李由・許六(きょりく)撰の『韻塞(いんふたぎ)』に収録されている。
 『韻塞』は十月・十一月・十二月‥‥と月別に部立てされているが、この句は八月ではなく「匀(イン)ふたぎ追加」の所に「彼岸」の句として、

 百姓の娘の出たつひがんかな   許六
 くぐ立の花うちこぼす彼岸哉   支考
 きらきらと秋の彼岸の椿かな  木導

と並べられている。「彼岸」は春秋両方あるため通常の季題とは別枠にくくられていたようだ。
 「きらきら」というのは「きらきらし」という古語から来ているもので、絹の衣などのつやつやしている様子を表す言葉だった。
 椿は春の季題だがここでは秋なので椿の葉のことであろう。秋になると空気が澄んで光の反射がまぶしく感じられる。近代的な「写生」という意識ではないものの、蕉門の得意とした「あるあるネタ」は時折写生句かと見まごうものがある。
 江戸時代の人の感覚からすると、「きらきらと」という言葉は俳言で「のっと日の出る」だとか「かっくりと抜けそむる歯」の延長だったと思われるし、「そういうてみれば確かに秋の椿の葉ってきらきらやな」という声が聞こえてきそうな句だ。

2016年9月20日火曜日

 今日は台風が近づいているので、夕方頃から大分雨が激しくなっている。風はそれほどではない。
 台風は「野分」だと秋の季語になるが、単純に「嵐」と表現すれば無季になる。この季節だと芭蕉の『野ざらし紀行』の伊勢での句、

 三十日月なし千年の杉を抱あらし   芭蕉

が思い浮かぶ。今日はまだ三十日ではないが、名月は既に過ぎている。
 今日の空を見上げた思ったことだが、台風が来ているのにっていうか、台風が来ているときだからなのか、空がかなり明るい。昔なら考えられないことだが、今は地上の灯りが強いため、雲が低くて分厚い台風の時など、かえって町の灯りを反射しやすくて空が明るくなる。
 芭蕉の「三十日月なし」の句で嵐が千歳の杉を抱くと解釈する人がいるが、確かに今の明るい空なら野分の風に大きく揺れる杉の巨木をイメージできるかもしれない。しかし、昔の真っ暗な空では杉の姿はよくわからなかったはずだ。真っ暗で頼りなく心細いから、伊勢を訪れた旅人が千歳の杉の下に身を寄せ杉の木を抱きしめると読むほうが自然だ。
 この句については鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)の『野ざらし紀行─異界への旅─』の「八、神風(かむかぜ)の伊勢」の所で詳しく書いているのでよろしく。
 野分というと、宗祇・肖柏・宗長の三人の連歌師による湯山三吟(ゆのやまさんぎん)の三十三句目に、

    野分せし日の霧のあはれさ
 しづかなる鐘に月待つ里みへて    宗祇

という句がある。
 台風が来ていれば昼間でも当然薄暗く、そんな日に霧に包まれたまま夜が来れば漆黒の闇に覆われる。霧が晴れて月が出るのを心待ちにする里の人たちの不安な心情が伝わってくる。
 野分と言えば、

 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな   芭蕉

の句は有名だ。確か学校の教科書でも読んだ記憶がある。
 この句も、外は漆黒の闇に包まれて、部屋の中も真っ暗かせいぜい行灯の灯りくらいだっただろう。「芭蕉野分」は破れた芭蕉の葉が風に煽られて音を立てる様をいうのだろう。そして部屋の中では雨漏りの水が盥に音を立てて落ちてくる。この句はそういった聴覚的な句だ。「芭蕉野分」─それは一つの音楽だ。

2016年9月18日日曜日

 名月は明月とも書くように、本来明るさが命だった。
 電気のなかった時代、夜は真っ暗で寝る時間だった。闇を照らすものといえば胡麻や菜種や油桐などの油に燈芯を挿して火を灯す程度で、外を照らすとなれば紙に油を染みさせた紙燭がある程度だった。
 月のある夜はこうした人工の光より遥かに明るかった。そのため、夕暮れに月が出ると、そこで初めて一日の仕事の後に酒を酌み交わし、楽器の演奏をし、舞を舞ったり、余暇を楽しむ時間が生まれた。
 特に、暑すぎず寒すぎず、青天率の高い中秋の頃の月は、遊ぶにはうってつけだった。
 春の宵も値千金と言われるくらい遊ぶのにはちょうど良かったが、空は曇りがちで月は朧で、暗くなればせっかくの花も香りだけになる。だから陽の長い頃の夕暮れのまだ真っ暗にならないうちに急いで楽しまなくてはならなかった。それ故に「春宵一刻値千金」だった。
 夏も涼しくて悪くはないが、榎本其角が言うには「蚊を疵にして五百両」だった。冬はさすがに寒い。「寒月」という言葉もある。月があっても遊ぶための月ではない。
 お月見といっても、昔の人は別に静かに月を眺めていただけではなかった。月の頃は本来むしろ夜を徹して宴会を楽しむものだった。
 十五夜に限らず、三日月の頃は宵の口を楽しみ、半月、十三夜と月が太るにつれ宴は夜遅くまで盛り上がり、十五夜で頂点に至る。そして、その後も月が出るのを立って待ち(立待月)、座って待ち(居待月)、寝て待ち(寝待月)、月が昇ったら宴の始まりだった。
 また、月のある明るい夜は、恋の季節でもあった。いにしえの大宮人にとって、月の夜は粗末な狩衣に着替えて、こっそり女の元を尋ねて、そこで歌を詠み交わし楽器の演奏を楽しみ、そして「語りあう」のだった。
 そんないにしえの都人にとって、名月は華やかな宮廷生活の象徴でもあった。だから、そんな人たちがひとたび失脚して隠棲を強いられたり、あるいは出家せざるを得なくなったりすると、やまがつの住む山奥や海人の藻塩焼く小屋のある海辺で、初めて一人寂しく月を眺めるという経験し、都の華やかな記憶との落差に涙する。ここに悲しくもあり、わびしくも有り、淋しくもある、そんなもう一つの名月がやがて一つの伝統として定着して行く。
 月はもちろん宴会場だけを照らすのではない。海の山の雄大な景色を照らし、昼間見るのとは違う幻想的な世界を生み出す。そんな美しさを発見したのも、都を追われた侘び人たちだった。
 姨捨山の田毎の月は、本当にたくさんの月の姿が一度に田に映るわけではない。そんなことは光学的にありえない。本来は田植え前の水を張った田んぼの風もなく静止した水面に月で明るくなった空が移り、ちょうどたくさんの窓に明かりが灯ったような夜景を生み出していたことによるものだ。今日では街頭の光にかき消されてしまうような微かな明るさでも、当時の人を感動させるには十分だった。
 芭蕉の『奥の細道』の旅の動機の一つでもあった松島の月も、月明かりに光る水面に島々の姿が浮かび上がる景色を、昔の人は他では見られない貴重なものと考えていたからだ。事実、東に向って開かれたリアス地形は珍しい。象潟だと西を向いているため、明け方の月でなくてはならない。
 月の光が真っ暗な中にほのかに自然の風景を浮かび上がらせる様を美とするようになったのは、宮廷をほとんど動かない平安貴族ではなく、もっと時代が下ってからの江戸時代の俳諧師の発見だったのかもしれない。

 岩鼻やここにも一人月の客    去来

 この句も月そのものを見るというよりは、岩鼻に登ったときに見晴らせる夜景の美しさが重要だったと思われる。そんな隠れた絶景ポイントを探し出すのを「風狂」としたのは、地方赴任のためでも興行のためでもなく、純粋に旅を楽しむようになった江戸時代の俳諧師の特権だったのかもしれない。
 昔の人が月そのものの美しさというよりも月の明るさを賛美していたのは、古来和歌にも俳諧にも満天の星空の美しさを詠んだ作品がほとんどないことからも想像できる。
 「星月夜」という言葉は江戸時代の俳諧にも見られるが、

   打れて帰る中の戸の御簾(みす)
 柊(ひいらぎ)に目をさす程の星月夜     曾良

   おきて火を吹くかねつきがつま
 行かへりまよひごよばる星月夜    嵐蘭

といったもので、月のない夜の闇で柊が目に刺さったり迷子になったり、闇のほうに重点が置かれていた。
 星空の美しさは、おそらく当時の人にはあまりに当たり前すぎることと、闇を畏怖する感情から、むしろ星空をカント的な意味での「崇高なもの」の次元で捉えていたからであろう。
 戦後の急速なエレクトリゼーションの中で、闇はすっかりこの国から駆逐されていった。かなり山奥に行っても、遠くの町の灯が昔よりも遥かに空を明るくしてしまっている。今では北朝鮮にでも行かないことには、昔ながらの闇と月の有り難さを実感することは難しいのかもしれない。
 そんな中で、お月見は日頃空を眺めることの少なくなった現代人にあらためて空を見上げる機会を提供する「天体ショー」となった。
 あたりが明るいのは当たり前で、ただ純粋に月の姿を鑑賞するのが今日のお月見だ。
 そんな現代人に昔の人がしばしばじっと月を見つめることを忌むべきことだと考えていたことなど、想像もつかないことなのかもしれない。
 中世連歌の最高峰と言われる「湯山三吟」には、

    打ちながむるもあぢきなの世や
 更くるまで身のうき月をいみかねて  宗長

という句があり、そこには、

 「月をいむと云ふ事有り。月をさのみ執すれば、いむ事なり。然れどもかねて月をうちながむると付くる也。」

という古註がつけられている。

2016年9月17日土曜日

 昨日の日記は12時を過ぎてしまったために今日の日付になっている。
 それはともかく、今日のテーマは、

 名月をとってくれろと泣く子かな    一茶

 子供の頃学校で習った記憶のある句で、一茶の句のいいところは子どもにもわかりやすいという所かもしれない。
 ただ、実の所これまで一茶については何も調べてこなかったんで、この句がいつ頃どういう状況で読まれたかはまったく知らない。ウィキペディアでわかったことは、これが『おらが春』に収められたもので、

 「『おらが春』(- はる)は、俳人小林一茶の俳諧俳文集で、彼が北信濃の柏原(長野県上水内郡信濃町柏原)で過ごした1819年(文政2年)、一茶57歳の一年間の折々の出来事に寄せて読んだ俳句・俳文を、没後25年になる1852年(嘉永5年)に白井一之(いっし)が、自家本として刊行したものである。」

とウィキペディアに書かれている。
 この句と良く似ているものに、仙厓義梵の『指月布袋図』の賛で、

 あの月が落ちたら誰にやろふかひ

という句がある。
 絵は布袋さんが二人の子どもを引き連れて、斜め上の方を指差す構図で、同じような絵柄で「お月様幾つ、十三、七つ」という賛の書かれたものがあり、むしろこっちの方が有名だ。小林一茶は宝暦13年(1763年)生まれの文政10年(1828年)没。仙厓は寛延3年(1750年)4月生まれの天保8年(1837年)没。仙厓の方がやや先輩だが、仙厓の方が長生きしていて、ほぼ同時代を生きたといってもいい。相互に影響があったかどうかは不明。
 果たして本当に名月を取ってくれといって泣いた子どもがどれだけいるのかは知らない。あまり聞いたことがないからいわゆる「あるあるネタ」ではなさそうだ。
 赤ちゃんの距離の認識は10ヶ月から11ヶ月くらいでできるようになるらしいが、完成するのが6歳から9歳というから、ひょっとしたら月の距離感がわからずに手を伸ばせば届く所にあると思う時期もあるのかもしれないが、自分自身振り返ってもあまり記憶がない。
 月は一般的にはむしろ手の届かないものの例えとされることが多い。東アジアの伝統絵画では『猿猴捉月』という画題があり、この題でたくさんの絵が描かれている。いわば定番ともいえる画題だ。多くは水面に手を伸ばし、水に映る月を捉えようとするものだ。日光東照宮の有名な三猿のところにも、月を見上げる猿と月を取ろうとする猿が彫られている。
 この画題は一般的には身の程を知れという教訓の意味に解されているが、身の程というと古代ギリシャのデルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた格言も思い起こされるが、この言葉は単なる処世訓を越えて、人間の能力の限界を知れという意味にもなる。
 月は仏者の間ではしばしば真如の月として万物のあるがままの真理、古代ギリシャで言えばアレーテイアに近い永遠の真理の省庁として用いられる。
 人間は永遠の真理に見せられ、様々な思索や修行や瞑想を行うが、それはいつでも見果てぬ夢に終わる。
 また、人は様々な高遠な理想を語り、この世界を平和で豊かな理想郷にしようと試みるが、未だにそれは実現を見ない。(現代の先進諸国は昔に比べればかなりそれに近づいてはいるが。)
 真理を体得したと思っても、それを言葉に表すと、言葉や論理は必ず矛盾に陥る。ある主張があれば必ず反対の主張も可能であるというのは、古代ギリシャの時代に既に知られていたことで、そこから今の原告被告それぞれの弁論を行うという裁判のスタイルが生まれたとも言われる。
 理性が矛盾に陥ることは西洋哲学の歴史ではカントによって再発見され、それを弁証法によって乗り越えようとヘーゲルは試みるが、絶対知はあくまで沈黙を続ける。そしてフッサールが現象学によって再びこの問題に挑んだものの、「厳密な学としての哲学」は失敗に終わり、のちにデリダがそれを『幾何学の起源』の中で太陽に向かって飛び立ったイカロスに例えている。昔の日本人だったら月を捉えようとした猿に例えるだろう。
 人間の永遠の理想、永遠の憧れは、東洋では月、西洋では太陽の違いはあるにしても、その満たされない思いは万国共通だ。韓国ではこれを「恨(ハン)」という言葉で表す。決して単なる恨みつらみのことではなく、永遠の夢への満たされなかった思いが心の底に雪のように積もっていくさまを表す。
 そう考えてみると、

 名月をとってくれろと泣く子かな    一茶

の句は意外と深い。多分これは一茶自身の泣き声だったのだろう。
 昨日はあのあと10時ごろに空を見たら月が見えていた。雲間の月というのか、薄い雲がつきに照らし出され、月を隠すことなく流れていた。
 こういうときに思い浮かぶのは古典ではなく、中学の頃よく唄っていた井上揚水の「神無月にかこまれて」の「♪雲は月を隠さぬ様にやさしく流れ」のフレーズだったりする。古典では雲間の月を描写するのではなく、月を真如の月に見立て、雲を煩悩に例えることが多いように思える。
 それとは別に、中世のいわゆる幽玄の美というのは、物をあらわに描くのではなく、一部を提示して想像させるということを良しとする。水盤に散らした一枚の花びらに満開の花を想像させるようなのがそれで、月も雲の間からチラッと見えるのを良しとする。

 敷島の大和心はチラリズム   会田誠

ではないが、こういうものは日本人の今の美意識にも深く根ざしている。
 いわゆる「萌え」というのも、性的な魅力をあからさまに表現するのではなく、かすかな兆しに求める所から来るもので、満開の花よりも一、二輪咲き始めの花を良しとするように、幼い子どもにもその萌芽を見たり、豊かなボディーはスク水で隠し、美人にはあえてダサいメガネをかけさせたりする。
 『禅鳳雑談』の村田珠光の言葉、「月も雲間のなきは嫌にて候」というのも、そういうものなのかもしれない。ただ、絵に描くときは月だけボンと書くのは何か寂しいし、やはり空に雲をたなびかせたり、枝に一部を遮られたり、薄の合い間に見えたりするほうが絵になる。月を引き立てる「あしらい」が必要だ。
 『正徹物語』には、

 「花はさかりに月はくまなきをのみみるものかはと、兼好が書たるやるなるこころねをもちたるものは、世間にただ一人ならではなき也。此こころは生得にて有也。」

とあり、この種の美学は別に吉田兼好が考えただとか、日本独自の幽玄の美などではなく、人類普遍のものと見たほうがいいのかもしれない。正岡子規が古池の句を論じる時に引用したスペンサーのマイナーイメージというのも、これに類するものだろう。

2016年9月15日木曜日

 どうも、かつて「ゆきゆき亭」というホームページをやっていた鈴呂屋こやんAKAゆきゆき亭こやんです。
 「ゆきゆき亭」という名前はかつて我が家にいた猫の名前「ゆき」と、『奥の細道』の、

 行き行きて倒れ伏すとも萩の原  曾良

の句にちなんだものです。たとえ行き倒れになっても、そこが美しい萩の原であったなら、きっと誰かが来て見つけてくれる、という意味の句です。
 そのゆきちゃんも2005年11月21日に亡くなり、そのあと2006年5月9日に我が家に来た「すず」という猫の名前から「鈴呂屋」と改めた次第です。
 かつてのホームページ「ゆきゆき亭」はdionのADSLの契約が切れた時に、不注意にも消してしまい、そのコンテンツの一部は現在「鈴呂屋書庫」http://suzuroyasyoko.jimdo.com/というホームページでひっそりと公開しています。
 このブログでは、基本的には俳諧を中心に、昔の日本人の心を現代に蘇らせることを考えていきたいと思います。
 俳諧は俳句ではありません。「俳句」という言葉は明治時代に正岡子規などの広めた言葉で、ここではそれ以前の西洋化以前の本来の日本の心を尊重する意味でも、あえて「俳諧」という言葉を使いたいと思います。
 今日は折りしも十五夜。あいにくの曇り空。

 ひのもとのつきの心よ今は雲