2016年9月20日火曜日

 今日は台風が近づいているので、夕方頃から大分雨が激しくなっている。風はそれほどではない。
 台風は「野分」だと秋の季語になるが、単純に「嵐」と表現すれば無季になる。この季節だと芭蕉の『野ざらし紀行』の伊勢での句、

 三十日月なし千年の杉を抱あらし   芭蕉

が思い浮かぶ。今日はまだ三十日ではないが、名月は既に過ぎている。
 今日の空を見上げた思ったことだが、台風が来ているのにっていうか、台風が来ているときだからなのか、空がかなり明るい。昔なら考えられないことだが、今は地上の灯りが強いため、雲が低くて分厚い台風の時など、かえって町の灯りを反射しやすくて空が明るくなる。
 芭蕉の「三十日月なし」の句で嵐が千歳の杉を抱くと解釈する人がいるが、確かに今の明るい空なら野分の風に大きく揺れる杉の巨木をイメージできるかもしれない。しかし、昔の真っ暗な空では杉の姿はよくわからなかったはずだ。真っ暗で頼りなく心細いから、伊勢を訪れた旅人が千歳の杉の下に身を寄せ杉の木を抱きしめると読むほうが自然だ。
 この句については鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)の『野ざらし紀行─異界への旅─』の「八、神風(かむかぜ)の伊勢」の所で詳しく書いているのでよろしく。
 野分というと、宗祇・肖柏・宗長の三人の連歌師による湯山三吟(ゆのやまさんぎん)の三十三句目に、

    野分せし日の霧のあはれさ
 しづかなる鐘に月待つ里みへて    宗祇

という句がある。
 台風が来ていれば昼間でも当然薄暗く、そんな日に霧に包まれたまま夜が来れば漆黒の闇に覆われる。霧が晴れて月が出るのを心待ちにする里の人たちの不安な心情が伝わってくる。
 野分と言えば、

 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな   芭蕉

の句は有名だ。確か学校の教科書でも読んだ記憶がある。
 この句も、外は漆黒の闇に包まれて、部屋の中も真っ暗かせいぜい行灯の灯りくらいだっただろう。「芭蕉野分」は破れた芭蕉の葉が風に煽られて音を立てる様をいうのだろう。そして部屋の中では雨漏りの水が盥に音を立てて落ちてくる。この句はそういった聴覚的な句だ。「芭蕉野分」─それは一つの音楽だ。

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